徳田教会聖ヴィンセンシオ祭・堅信式ミサ説教

    image_pdfimage_print

    2013年9月29日 徳田教会にて

    [聖書朗読箇所]

    説教

    今日の福音はラザロと金持ちの話です。

    「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。」(ルカ16・19-21)

    やがて二人は死に、ラザロはアブラハムのそばの宴席に上がられて慰めをうけましたが、金持ちは陰府(よみ)に落とされ、火で焼かれもだえ苦しみます。

    五人の兄弟を救いたいという金持ちの願いに答えてアブラハムは金持ちに言いました。「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。」(ルカ16・29)

    神はモーセを通してイスラエルの民に律法とおきてを授け、またたびたび預言者を遣わして民を教え諭しました。モーセと預言者とは、神がイスラエルの民に示した教えであり、日々守るべき掟でありました。旧約聖書全体を通して神は常に、「貧しい人々に心をとめ、弱い立場におかれた人々を大切にすること」をイスラエルの民に命じています。

    しかしこの金持ちはモーセの教えに心を留めず、預言者の言葉も無視して、日々快楽にふける生活をしていました。この生活は、第一朗読・アモスの預言に出てくる、「象牙の寝台に横たわる人々」(アモス6・4)の贅沢な生活と全く同じです。

    金持ちは自分のすぐそばにいる「ラザロというできものだらけの貧しい人」の存在に目を留めず、まったく無関心でした。彼は自分の隣人の苦しみ、悲しみ、辛さということに心を向けませんでした。

    しかし、わたしたちはこの金持ちを非難できるでしょうか。確かにわたしたちはこの金持ちのような贅沢な生活をしてはおりません。

    でもわたしたちは自分の生活、自分の仕事のことで心が一杯で、他の人に心を寄せる余裕を失っています。自分の側にいる人の苦しみ悲しみ、生きるつらさ、切なさということに心を向ける余裕がないのです。自己中心に生きているという点では、わたしたちもこの金持ちと同じです。わたしたちは「自分のラザロ」に心を寄せなければならないのです。

    それでは、自分にとってラザロは誰なのでしょうか。

    わたしたちは、自分のこと、自分の抱えている問題を他の人に分かってほしいと、切に願ったことがあります。しかしそれはなかなか叶えられないことでした。考えてみれば、同じつらい思いをすぐそばに居る他の人も持っているのかもしれません。誰しも自分のことを分かって欲しいと願いながら、他方、他の人に心を寄せることは怠りがちです。

    実は、この金持ちは自分のことであり、ラザロは自分のすぐそばにいるだれそれさんのことであるかもしれません。

    さらにまた考えてみれば、金持ちとラザロの話は個人の問題だけでなく、社会の中で、国際社会のなかでもあてはめて考えるべき課題です。

    先日、教皇フランシスコは全世界の信者と諸宗教の信者に向かって、平和のアッピールを行いました。それは超大国によるシリアへの軍事介入の危機が迫っていたときでした。教皇は、シリアの平和のために、9月7日に断食と祈りをささげるようにと呼びかけられました。

    人々の犠牲と祈りのおかげでしょうか、ひとまず軍事介入の危機は去ったようですが、まだ真の平和の実現には至っておりません。

    使徒パウロは愛する子、テモテに手紙を送って言いました。

    「神の人よ、あなたは、正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。・・・わたしたちの主イエス・キリストが再び来られるときまで、おちどなく、非難されないように、この掟を守りなさい。」(一テモテ6・11,14)

    今日堅信を受けられる皆さん、キリスト者とは、絶えず神のことばを心に留め、復活したキリストから光を受けて、日々の生活において隣人を大切にしながら、平和の実現を目指して、このパウロの言葉を実行するよう、努める人のことです。

    聖パウロのこの言葉に励まされて歩むことができますように、祈りましょう。