復活徹夜祭説教

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    2013年3月30日 関口教会にて

     

    聖書朗読

      創世記:22・1-18 (本文は説教の後に添付)

      出エジプト記:14・15-15・1a

      エゼキエル:36・16-28

      ローマ:6・3-11

    福音朗読 

      ルカ24・1-12

     

    (福音本文)

    そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。

    見ると、石が墓のわきに転がしてあり、中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。

    そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」

    そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。

    婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。

    しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。

     

    今日わたしたちは、新しい教皇フランシスコが就任してはじめての復活徹夜祭を祝います。

    復活徹夜祭の典礼は一年中で最も豊かな内容を示しています。今年は本日読まれる聖書の中から特に二つの朗読に注目して、神の救いの計画を深く味わいたいと思います。

    まず創世記22章のアブラハムの犠牲の物語です。

    聖書によれば、アブラハムは信仰の模範とされています。アブラハムの生涯は数々の試練の連続でした。なかでも本日朗読されたイサクの犠牲の話は非常に辛く苦しい信仰の試練の物語であります。

    神は、長い間子どもに恵まれなかったアブラハムに、イサクというかけがえのない一人息子をお与えになりました。さらに神は、イサクから生まれるアブラハムの子孫は空の星のように増えるだろうと、約束されたのです。

    それにもかかわらず、そのイサクを焼き尽くすいけにえとして神にささげるよう命じたのでした。その命令は、要するに独り息子を殺しなさい、ということです。なんと残酷な命令でしょうか。

    それでもアブラハムは黙々と神の命に従い、翌朝早く、いけにえをささげる場所として指定されたモリヤの山へ向かいます。三日目までの道中、父と子の会話は何も記されておりません。息子イサクは何歳だったのでしょうか。イサクは自分を燃やすための薪を背負わされたのです。アブラハムがまさに刃物を取って息子イサクを屠ろうとしたときに、天の見使いの声がしました。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」(創世記22・12)

    このような展開となり、危うくイサクの命は助かったのでした。非常に分かりにくい話です。この話をわたしたちはどのように受け止めることができるでしょうか?

    従順に父に従うイサクの姿は、十字架にかけられたイエスを想起させます。愛する独り子を神にささげる苦悩を体験したアブラハムは、愛する独り子イエスが十字架の上で殺されるにまかせた天の父を思い起こさせます。アブラハムも苦しみ、イサクも苦しんだのに違いないのです。

    わたくしは、この物語は、父である神と十字架のイエスの死をあらかじめ指し示すものではないか、と考えます。父である神はご自分のもっとも大切な人イエスを犠牲にしてまでわたしたち人間の救いを望まれました。おん子の苦しみは父である神の苦しみであります。そして父の苦しみは同時にそれでも人類を救おうとされる神の強い意志、神の愛の表明であります。

    実に、「神は、その独り子をお与えになるほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3・16)のです。

    神はイエスの死の犠牲によってわたしたちを永遠の命へ導きます。

    今日行われる洗礼は、わたしたちイエス・キリストの死と復活の神秘に与らせ、永遠の命へと導く神の恵みを示しています。それは、本日の朗読ローマの教会への手紙(6・3-11参照)が説明しているとおりです。

    洗礼の秘跡の教えはすでに本日の朗読、旧約聖書のエゼキエルの預言において述べられておりました。「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。」(エゼキエル36・26-27)

    「新しい心」とは「悔い改め罪の赦しを受け清められた心」であり、「新しい霊」とはイエスが弟子たちに注ぐ神の霊・聖霊を指しています。「石の心」とは神の言葉を受け入れないで自分の判断に固執する頑な心です。「肉の心」とは、神の霊の勧めに素直に従う柔軟で従順な心であります。

    モーセが受けた十戒は石の板に刻まれていたました。新しい契約の掟は聖霊によって心の中に刻まれます。それは預言者エレミヤが言っている通りです。「わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心に記す。」(エレミヤ31・33) 

    聖木曜日には洗足式が行われました。教皇フランシスコはローマの少年院で12人の足を洗ったそうです。イエスは自ら、弟子たちの足を洗い「互いに助け合い仕え合いなさい」という愛の教えを実行し、模範を残されました。わたしたちも愛である聖霊に導かれ互いに励まし合い仕え合いながら、貧しい人、病気の人、心身の不自由に悩む人、孤独に苦しむ人、人間の尊厳を無視されあるいは蔑ろにされている人々に、神の愛を伝えることができますよう、聖霊の助けを祈りましょう。

     

     


    創世記 22・1-18(本文)

    これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、 神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」

    次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。三日目になって、アブラハムが目を凝らすと、遠くにその場所が見えたので、アブラハムは若者に言った。「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。」

    アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いて行った。

    イサクは父アブラハムに、「わたしのお父さん」と呼びかけた。彼が、「ここにいる。わたしの子よ」と答えると、イサクは言った。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」アブラハムは答えた。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」二人は一緒に歩いて行った。

    神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。

    そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、 御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」アブラハムは目を凝らして見回した。

    すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。アブラハムはその場所を「主は、備えてくださる(イルエ)」と名付けた。

    そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。主の御使いは、再び天からアブラハムに呼びかけた。御使いは言った。「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」