「王であるキリスト」の祭日・説教

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    2012年11月25日 小平教会にて

     

    第一朗読 ダニエル7・13-14

    第二朗読 黙示録1・5-8

    福音朗読 ヨハネ18・33b-37

     

    (福音本文)

    〔そのとき、ピラトはイエスに、〕「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。

    イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」

    ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」

    イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」

    そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」

     

    今日は年間最後の主日で、「王であるキリスト」の祭日です。イエスは「わたしの国はこの世に属していない」(ヨハネ18・36)といわれました。これはどんな意味でしょうか?今日はこのイエスの言葉を深く味わってみたいと思います。

    旧約聖書には多くの王が登場します。最初の王はサムエル記に登場するサウルでした。サウルの次の王が有名なダビデ王、その次がソロモン、ソロモンの後、統一王国は南北に分裂してしまいます。南王国ユダの王はレハベアム、北王国の王はヤロブアムとなりました。以降それぞれ王位が受け継がれていきます。

    「列王記」上下は歴代の王の事跡を伝え、そしてそれぞれの王についての評価を記しています。いわば勤務評定のようなものです。

    王の事跡の評価は二つに分かれます。

    落第点をつけられた王は「主の目に悪とされることを行った」とされています。及第点をもらった王は「主の目にかなう正しいことを行った」王です。

    どちらが多いかといえば圧倒的に前者、すなわち「主の目に悪とされることを行った」王たちであります。ほとんどの王が「主の目に悪とされることを行った」王でした。

    イスラエル王国、そしてユダ王国もやがて滅亡し、王は姿を消してしまいます。バビロンで捕囚になったころ、民の間には、理想の王ダビデに勝る王である救い主・メシアの登場への待望が生まれ、その望みは益々強くなっていきました。

    マタイの福音の冒頭の系図はメシア=キリストが生まれるまでの系図です。イエスは、キリスト・油注がれた王として登場しました。

    イエスの洗礼のときに天から声がし、イエスは「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マルコ1・11)とされたのです。

    旧約のエゼキエル預言者は災いである牧者についてのべています。「災いだ。自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群れを養うべきではないか。」(エゼキエル34・2)

    よい牧者は羊のために自分の命を捨てます。実際、イエスは自分の羊のために命を捨てました。「よい羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ10・11)のです。イエスは羊である人類のために十字架上で命をささげたのです。

     

    「わたしの国はこの世に属していない。」(ヨハネ18・36) イエスが言う「この世界」とは何を意味しているのでしょうか?何が支配する世界なのでしょうか?

    それは、軍事力・武力、政治権力、財力の支配する世界、名誉・地位、知識と体力などの支配する世界のことではないでしょうか?

    本日のミサの叙唱のなかで司祭はとなえます。王であるキリストの王国とは「真理と生命の国、聖性と恩恵の国、正義と愛と平和の国」です。使徒パウロも言っています。「神の国は、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。」(ロマ14・17)

    イエスは十字架による屈辱的な死を通して復活の主へあげられました。イエスが王であるというのは十字架と復活の神秘によります。十字架上の死によってもたらされた復活によって、イエスは宇宙万物を支配する王となられました。

    イエスは十字架の死を通して王となられました。

    このイエスの生き方に倣うようわたしたちも召されています。わたしたちも日々小さな死をささげることにより主の復活にあずかることができると思います。

    死から命への神秘を祈る、よい祈りを最近みつけましたのでそれを紹介して説教の結びとします。

     

    イエスよ、わたしを解放してください。

    評価されたいという思いから、

    わたしを解放してください。

    イエスよ、

    重んじられたいという思いから、

    ほめられたいという思いから、

    好まれたいという思いから、

    相談されたいという思いから、

    認められたいという思いから、

    わたしを解放してください。

    アーメン。(マザー・テレサの祈り)*

     

    *祈りの全文と英語の原文は以下のとおりです。

    イエスよ、わたしを解放してください。

    愛されたいという思いから、評価されたいという思いから、

    重んじられたいという思いから、ほめられたいという思いから、

    好まれたいという思いから、相談されたいという思いから、

    認められたいという思いから、有名になりたいという思いから、

    侮辱されることへの恐れから、見下されることへの恐れから、

    非難される苦しみへの恐れから、中傷されることへの恐れから、

    忘れられることへの恐れから、誤解されることへの恐れから、

    からかわれることへの恐れから、疑われることへの恐れから。

     

    MOTHER TERESA’S PRAYER

    Deliver me O Jesus from the desire of being esteemed.

    Deliver me O Jesus from the desire of being loved.

    Deliver me O Jesus from the desire of being honored, and being praised, and being preferred to others.

    Deliver me O Jesus from the desire of being consulted.

    Deliver me O Jesus from the desire of being approved and popular.

    Deliver me O Jesus from the fear of being humiliated, from the fear of being despised, from the fear of being rebuked.

    Deliver me O Jesus from the fear of being slandered, from the fear of being forgotten, and the fear of being wronged.

    Deliver me O Jesus from the fear of being ridiculed and suspected.

    Amen.