イエズス会司祭叙階式説教

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    2012年9月22日 麹町教会にて

     

    受階者

    マキシミリアノ・コルベ 小暮 康久

    アルン・ブラカシュ・デソ-ザ

     

    第一朗読 コロサイ3・12-17

    福音朗読 ルカ4・16-21

     

    (福音本文) 

    イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。 預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。

     「主の霊がわたしの上におられる。

      貧しい人に福音を告げ知らせるために

      主がわたしに油を注がれたからである。

      主がわたしを遣わされたのは、

      捕らわれている人に解放を、

      目の見えない人に視力の回復を告げ、

      圧迫されている人を自由にし、

      主の恵みの年を告げるためである。」

    イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。

    そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。

     

    聖霊に満たされて故郷ナザレにもどられたイエスはナザレの会堂においてイザヤの預言を引用しながら、父である神から遣わされたご自分の使命の開始を力強く宣言しました。

    「主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」(ルカ4・18-19)

    そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(ルカ4・21)と話し始められました。

    イエスは、ご自身が父から派遣された者であり、父のみ旨を行う者である、という強い自覚をもっていました。イエスが父から受けた使命は、福音宣教・福音化であり、父の愛を告げ知らせ行うということでありました。

    父の愛の心をまっすぐに生きるイエスの言動はしばしば当時のユダヤ教の指導者と摩擦と衝突を引き起こしました。イエスは次第に排斥され抹殺される方向へ追いやられます。

    しかしイエスはわが身に起こる受難を避けようとはしません。それが父のくださる杯であれば飲み干そうとします。

    「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」(マルコ14・36)

    イエスは十字架の刑に処せられ、大声で叫ばれました。

    「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」(マルコ15・34)

    父である神から見捨てられるような悲痛な思いを抱きながらそれでも父への信頼を保って生涯を全うしたのでした。

    10月11日には「信仰年」が始まります。

    ヘブライ書には、イエスは「信仰の創始者また完成者」(ヘブライ12・2)であると言われています。

    わたしたちは、ナザレのイエスは、神からの神、光よりの光、まことの神よりのまことの神であると信じていますが、他方、人間としてのナザレのイエスは、父である神のみ旨を行い、父への信頼を全うした方であり、信仰する者の最高の模範であります。

    「信仰年」に当たりまずわたしたちは、「信仰の創始者また完成者」であるイエスの信仰の生涯に学ばなければならないと思います。

    さて教皇ベネディクト十六世が「信仰年」をお定めになった背景には、現代の信仰の危機、という問題があります。わたしたちは著しく世俗化がすすんだ消費社会の只中に置かれています。この社会では、目に見えない霊的な世界への思いが鈍くなり、超自然の存在を畏れ敬う心が衰えています。

    わたしたち教会もその影響をこうむっているといえましょう。それは、召命と受洗者の減少、司祭・信徒の高齢化、青少年の教会離れ、ミサ・秘跡への参加者数減少、祈りの衰退等の現象と結びついています。

    「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。」(ヘブライ13・8)

    キリストは永遠に変わることのない方です。そのキリストによって教会は建てられました。しかし教会は罪を背負った者の集まりであり、常に新しくされなければなりません。

    実にいまわたしたちは、いかにキリストに忠実に生きているか否か、が問われているのです。問題打開の鍵は、わたしたち教会がいかに、イエス・キリストの信仰を生き抜き、キリストの愛に生きるのか、ということだと思います。

    わたしたちの周りには、病んでいる人、心身の健康の問題に悩む人、孤独に苦しむ人、差別され圧迫されている人が多数おられます。世界規模で見れば、実に多くの人々が貧困、飢餓、生命の危機に瀕しています。わたしたちはこの人々の苦しみ、痛みをどのように受け止めているでしょうか。

    今日の聖書朗読で使徒パウロは、キリストに倣う生き方の例を挙げています。

    「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。」(コロサイ3・13)

    「愛を身に着けなさい。」(3・14)

    「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。」(3・15)

    「いつも感謝していなさい。」(3・15)

    生きること、そして信じることが難しいといわれている時代です。

    ヴァチカンでは10月7日より「新しい福音宣教」を主題とする代表司教会議(シノドス)が開催されます。この会議では、聖霊の導きを祈りながら、「新しい表現、新しい方法、新しい熱意」による「新しい福音宣教・福音化」を求めて、熱心な論議が行われる予定です。

    信仰年の2012年に司祭に叙階されるお二人は、16世紀(1543年)、聖イグナチオ・デ・ロヨラたちによって創立されたイエズス会の会員です。

    イエズス会は当時、危機的状況にあったカトリック教会を建て直し刷新するために創立されました。日本の宣教は聖イグナチオと一緒に列聖された同じイエズス会の会員、聖フランシスコ・ザビエルによって始められました。

    いま同じイエズス会の会員として司祭に叙階されるお二人は、本日聞いたルカの福音とパウロの言葉を深く心に刻み、全身全霊をあげて、この日本の地において、主イエスを宣(の)べ伝え、指し示し、証し、新しい日本の福音化のために尽力してください。

    わたくしはお二人にそのように切に願い、そのために祈ってやみません。