キリストの聖体の主日・堅信式説教

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    2012年6月10日、吉祥寺教会にて

     

    第一朗読 出エジプト24・3-8

    第二朗読 ヘブライ9・11-15

    福音朗読 マルコ14・12-16,22-26

     

    (福音書本文)

    除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日、弟子たちがイエスに、「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と言った。そこで、イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。」弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。

    一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」 一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。

     

    今日は「キリストの聖体」の主日です。ミサ中30名の方々が堅信の恵みをお受けになります。堅信の秘跡とは、洗礼を受けたキリスト信者を聖霊降臨の恵みに与らせるとともに、勇敢に信仰をのべ伝える福音宣教者の務めに任じる秘跡であります。

    今日は、「多くの人のために流されるわたしの血」という、今朗読されたマルコ福音のイエスのことばに注目してみましょう。

     

    そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」(マルコ14・24)

    まず、「多くの人のために」という表現ですが、マタイの平行箇所も、「多くの人のために」とあります。しかしルカ福音とパウロによれば「あなたがたのために」となっています。

    そこでミサにおいて司祭が唱える聖別のことばは、日本語では、両者を合わせた言い方になっています。すなわち

    「あなたがたと多くの人のために流されて」

    となっています。

    ところがこの聖別のことばが「あなたがたとすべての人のために」と訳されていた場合がありました。(英語、ドイツ語など)

    そこで「イエスはすべての人のために死んだのではなかったのですか?イエスはすべての人の罪のあがないとなって十字架上で血を流したのではないですか?」という議論が生じます。

    確かにイエスはすべての人のために十字架にかかったのでした。使徒パウロは何度もそのように証言しています。

    ではなぜ「多くの人」となっているのでしょうか?

    イエスはマルコとマタイでは「多くの人のため」と言っています。ミサの聖別の言葉はイエスの言葉の忠実な再現でなければなりません。それに対して「すべての人」はイエスの言葉の解釈です。

    翻訳と解釈は別なことです。文字通りの翻訳が奇妙に聞こえたりわかりにくかったりしても、できうる限り忠実に現代の言語に移さなければなりません。

    イエスはなぜ「多くの人のために」と言って「すべての人のために」と言わなかったのか、という疑問が提出されています。

    それはおそらく、イエスがイザヤ書53章の主の僕の歌を念頭に置き、自分自身をこの主の僕の上に重ねてみていたからだろう、と思われます。

    彼は自らの苦しみの実りを見

    それを知って満足する。

    わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために

    彼らの罪を自ら負った。

    それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし

    彼は戦利品としておびただしい人を受ける。

    彼が自らをなげうち、死んで

    罪人のひとりに数えられたからだ。

    多くの人の過ちを担い

    背いた者のために執り成しをしたのは

    この人であった。

     (イザヤ53・11-12)

    イエスの弟子たちは、イエスは自分たちの罪の赦しのためのあがないになった、と信じました。そしてさらに、自分たちだけでなく、自分たち以外の多くの人のために死んだのだ、と理解しました。その理解はさらに発展し、イエスはすべての人のために死んだ、と理解しました。パウロはそのように明言しました。

    しかしキリスト教信者以外の人はそうは受け取っていません。日本では、キリスト教信者は人口の1パーセントに過ぎません。99パーセントの人々に、イエスはあなた方の救いのために死んだ、というメッセージを伝え、信じるよう導くことがわたしたち日本の信者の任務です。

    実際イエスはすべての人のために死んだのですが、そのことを認め、信じて、初めてイエスの死はすべての人のあがないとしての実りをもたらすのだ、と思います。

    イエスはあなたのために十字架にかかったのだ、というメッセージを伝えていくことが今日、堅信の秘跡を受けた方々の務めであります、堅信の秘跡はその務めを果たすことができるような恵みを授ける秘跡であります。