使徒ヨハネ澤田和夫神父司祭叙階60周年記念ミサ説教

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    2011年11月3日 高円寺教会にて

     

    第一朗読 一コリント9・16-19,22-23

    福音朗読 ヨハネ15・9-17

     

    今日は澤田和夫神父様司祭叙階60周年をお祝いするためにわたしたちは集まっています。

    神言会のウマンス神父様もことし司祭叙階60周年を迎えられ、今日のミサに参加してくださいましたのでご一緒にお祝いいたします。

    今日の、司祭叙階ダイヤモンド祝のミサのために選ばれた福音の箇所は、ヨハネの福音15章のぶどうの木のたとえの箇所であります。

    「わたしがあなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハネ15・12,13)

    イエスはこの言葉どおりに生き、この言葉どおりの最期をとげました。

     

    澤田神父様は「愛する」と言う言葉を「大切にする」と言い換えておられます。確かに今のわたしたちにとっては、「愛する」よりは「大切にする」のほうがイエスの言葉を伝えるために相応しいと思われます。

    イエスは「わたしがあなた方を愛したように」と言われました。イエスがどのように人々を愛したのかは、聖書、特に福音書がわたしたちに語っているところです。

    イエスの弟子たちはイエスの死後、イエスの生涯を思い起こし、イエスの言葉を思い出して人々に告げ知らせました。ヨハネが福音書でイエスの言葉を述べているのはもちろん、イエスの受難と復活の体験の後のことです。

    このイエスの愛には、イエスがご自分の命を十字架上でささげられたこと、イエスが自分を十字架につける人のために赦しを願って祈ったこと、イエスを裏切ってしまった弟子たちが復活したイエスから赦しをいただいたことなど、がすべて含まれています。

     

    ここでわたくしと澤田神父様との出会いについて少しお話しすることをおゆるしください。

    わたくしが洗礼を受けたのは1960年です。

    人は何処から来て何処に行くのか?人は何のために生きるのか?どうしてこのような不条理がこの世界に存在するのか?

    このような疑問のために若いわたしは煩悶いたしました。高校生のときにキリスト教と聖書に出会い、大学生のときにキリスト教に入信いたしました。しかし自由意志と恩寵という難しい問題に出会い、また煩悶。カトリックの教えを知り、カトリック教会へ移籍しました。そして大学のカトリック研究会に入会し、そこで大変お世話になった司祭が澤田和夫神父様です。わたくしは神父様にお会いするために当時神父様が司牧しておられた川口(埼玉県)の教会に神父様をお訪ねいたしました。その日は教会に泊めていただき、翌朝ミサに与りました。そのときのことですが、神父様はご聖体の前で祈ることを教えてくださいました。ご聖体の前に跪く神父様の姿が今でもわたくしの脳裏に残っています。

    それ以来約50年、公私にわたりわたくしは神父様のご指導を受けてまいりました。わたしは2000年に大司教になりましたので、神父様はいつもはらはらして心配され、「岡田大丈夫か」、とずっとお祈りくださってきたことと思います。

    50年前の20才のわたしは、まじめに人生の問題、抽象的な問題で煩悶しました。半世紀たったいまは、非常に現実的・具体的なことで煩悶しています。50年前に澤田神父様を川口の教会に訪ねたときの真摯な自分を思い起こし、初心に帰って、自分の任務を果たしていきたいと考えております。

     

    先日10月29日、麹町教会で『宗教者の使命』と題するシンポジウムがありました。いわゆる「自死」をめぐって諸宗教の間で意見を交換し、協力してこの問題に取り組もうという趣旨で開催されたものです。

    現代は生きにくい時代です。わたしは、宗教者の使命とは、人々に生きる意味、動機、希望を指し示すことであると思います。そしてそれはお互いに相手を「大切にする」ということに深いかかわりがあると思います。

    宗教者のこの使命をよく果たすことができますよう、今日もご一緒に祈りたいと思います。

    澤田神父様には司祭としての60年のお働きに司教として心から感謝申し上げます。神父様のご健康をお祈りし、またわたしたちのためにさらに祈り、ご指導くださるようお願いいたします。

    またこの機会をお借りして、澤田神父様に協力し、また澤田神父様を助けてくださっている皆さんに心から御礼申し上げます。