アレルヤ会 「クリスマスの集い」ミサ説教

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    2010年12月26日 東京カテドラル構内ケルンホールにて

     

    第一朗読 シラ書(シラ3・2-6,12-14)

    第ニ朗読 使徒パウロのコロサイの教会への手紙(コロサイ3・12-21)

    福音朗読 マタイによる福音(マタイ2・13-15,19-23)

     

    今日26日は、聖家族の日となりました。今日の新聞に目を通しておりましたところ、歌人の河野裕子さんのご主人で、永田和宏さんという方の記事が目に留まりました。

    永田さんは自分の妻である河野裕子さんを看取っておられますが、河野裕子さんは最期まで歌を作っていたそうです。亡くなる少し前に残された歌を自分で書く力がないので口述筆記されたそうです。

    「ご飯を炊く 誰かのために死ぬ日まで ご飯を炊けるわたしでいたい」

    こういう歌だそうです。夫と妻のつながりを大切にして、最後まで妻の役割を果たすようにし、また母の役割を大切にした方だそうです。二人のお子さんも歌人になっているそうです。

     

    最近、わたしは、いろいろな機会に「無縁社会」ということにふれております。一昨日の24日の主のご降誕の夜半のミサの説教で「無縁死」ということを申し上げました。「無縁仏」という言葉がありますけれども、「無縁死」はNHKで評判になった番組に出てきた言葉です。その番組が本になったそうです。

    従来の日本の社会は三つの縁でつながっています。「地縁」土地の縁ですね。「血縁」血の繋がりです。「社縁」は会社の縁であります。これらの三つの縁がゆるくなり壊れてしまっているのが今の社会です。

    社縁というのは、わたしの印象では、日本人にとって会社は自分の家のようなもので、会社は大きな家族で、終身雇用がふつうであり、死ぬまで面倒をみてもらう、つまり最小限の生活は会社がみてくれるというものでしたが、でも今はそういうことは言えません。

    地縁というのも地方と都市では違うと思いますが、地方でも隣近所との付き合い方が変わってきているのではないでしょうか。昔なら近所に住んでいる人々の様子がお互い分かっていました。そういう時代、そういう環境だったのかもしれません。今は隣にどんな人が住んでいて、どんな気持ちで生きているのかも分からない。分かろうとするといろいろ煩わしいことになるということです。

    そして言うまでもなく血縁、これは大変難しい状況にあります。1人で亡くなっていく方が多い。『無縁社会-無縁死三万二千人の衝撃』という本があります。身元不明の自殺や行き倒れ、餓死や凍死、全国の市町村での調査の結果こうした無縁死が年間32,000人に上ることが明らかになって、ごく当たり前の生活をしていた人がひとつ、またひとつと社会とのつながりを失い、一人孤独に生きて、亡くなっていく。こういうことが言われております。

     

    聖家族の日、マリア様が天使のお告げを受けてみ言葉の通り、そのようになりますようにと仰ったのでイエス様が私たちのところに来て人間となられたという信仰、「そうなりますように」ラテン語で“FIAT、フィアット”イタリアの車の名前と同じFIATフィアットです。(さすがイタリア人は信心深いなあと思ったのですが、これは関係ないですね。)

    このマリア様を受け入れて夫婦になった方がヨセフという人です。自分の許婚が妊娠したという紛れもない事実に対して大きな不安と戸惑いを覚えたわけですが、夢の中で、天使のお告げを受けてマリア様に宿っている子は、聖霊によるものだと言われてこれを信じて受け入れました。聖霊によって妊娠したというのは、考えようによっては、全員が聖霊によって妊娠したともいえます。すべての命は神様の御旨によって授けられるのですから。でもこの場合は、男を知らないのに妊娠したということでありますので、何もやましいことがありませんと弁解しても誰が信じてくれるだろう、そういう非常に難しい危険な状況だったわけです。そのマリアを受け入れて、ヨセフは家庭をつくり、イエスという子どもを育てました。

    今日のマタイの福音では、エジプトに逃げて行く日が綴られていますが、やはりこの時も、主の天使が夢でヨセフにあらわれ、今度は、ヘロデが死ぬとまた天使がヨセフに夢であらわれて、イスラエルに帰りなさい。またその次も夢でお告げがあって、ナザレの町に行く。ヨセフの生涯は、夢で言われてそれを信じてその通りにするということから成り立っていました。重要なことについて、人の生死について夢の中のお告げを根拠にするというのはどういうことでしょうか?強い信仰が必要ですね。

    ヨセフは神様の導きと信じ、マリアとイエスを見守って育てて、その役割が終わりますと静かに退場しました。

    福音書でヨセフが最後に登場するのはイエスが12歳の時のエルサレム詣での話です。「どうしてあなたはこんなことしたのですか。わたしもお父様もあなたのことをこんなに心配しているのに」とマリア様がイエス様に仰ったときのことです。

     

    今、この三つの縁、地縁・血縁・社縁というものが脆くなった時に、わたしたちは教会としてどうしたらいいのだろうか、どうしなければならないのでしょうか。

    1993年のことで、17年前になりますが、日本の司教たちは、第二回の福音宣教推進全国会議を開き、家庭が非常に危ない、家庭をもっとしっかりしたものにするためにどうしたらよいかを話し合いましょう、と全国集会を開きました。必ずしも家族全員が信者でない、むしろ家族全員が信者である家庭が非常に少ないのです。教会はキリスト者が所属している家庭です。一人ひとりが孤立している状況の中で、もう一度、教会という大きな家族をつくりなおして、信仰においてつながりながら毎日のいろいろな問題に対応してゆこうということを目指しました。わたしたちの毎日は本当にいろいろなことで織りなされているわけです。

    父や母を敬いなさいということ。わたくしは個人としてやっと最近になって、自分は父や母を敬いなさいという戒めを疎かにしてしまったと思っております。今はわたくしの置かれている立場、教会の中でわたくしより先に司祭に召されていまは高齢となられて司祭方のお世話をさせていただいております。それも自分で直接できないので、どうしたらいいのか、みんなで相談しながらいろいろなことをし始めたにすぎません。皆様はもっと切実にこの問題を感じていらっしゃることと思います。老老介護なんて言葉は、珍しくなくなったことのようです。

    そして「妻たちよ、主を信じる者にふさわしく夫につかえなさい。夫たちよ、妻を愛しなさい。つらくあたってはならない。」こういう表現には抵抗があるかもしれませんが、司祭になると、夫と妻の在り方について、それぞれからの話を聞くことがあります。永い生涯にわたり、共に喜びとご苦労を共にされているご夫婦の様子を傍でみさせていただいています。夫婦としての生き方を全うするのがどんなにか大変なことかと感じています。やりきることは大変な事業だと思います。どうぞ皆さん頑張って下さい。

    次に親子の関係ですが、「子どもたちどんなことについても両親に従いなさい。それは主に喜ばれることです。」親子の関係も大切で、また難しいと思います。わたしも自分の親のことが分かりませんでした。もう今頃になっては遅いのですけれど、人間関係の基本は親子であります。自分の親、そして子どもとの関わりを自分はどうしたらよいか考える時期があると思います。

     

    「聖家族の日」この無縁社会に教会が大きな家族としてお互いに支え合い助け合う、そのためにもっと具体的にきめ細かくわたしたちのつながりをつくっていく、強くしていく必要があると感じる今日この頃です。

    孤独に死んでゆく人、あるいは自死する人々。自死を遂げる人が毎年30,000人もいるということです。この社会の中で人間は、ちょっとした周りの人とのつながり、これは言葉であったり、あるいは笑顔であったり明日はこれを一緒にやるというようなささやかなことであっても、それによって明日への力を受け、そして勇気をいただいて歩んでいくことができると思うのです。

    大きなことをいっぺんにやろうとしてもできませんが、自分ができる小さなことをやってゆきたい。

    ラインホールド・ニーバーという人が残した有名な言葉があります。

    「神さま、わたしにお与えください。変えられないものを受け入れる心の静けさを、変えられるものを変える勇気を、そしてその二つを見分ける知恵を。」

    世の終わりまで、いま自分ができること、自分にしかできないこと、他の人には代わっていただけないこともあります。それぞれの人によって違うわけであります。皆さんにとって何でしょうか。他の人には代わっていただけないことは? 

    互いにそれをつなげていくと、神の国の到来のしるしになっていくのではないかという気がします。