本郷教会ミサ説教

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    2010年10月3日 年間第27主日 本郷教会にて

     

    おはようございます。

    本日わたくしが皆さんの教会を訪問したのは、皆さんの新しい主任司祭山本量太郎神父様を紹介し、12年余り皆さんの主任司祭を務めてくださった井手雄太郎神父様に感謝するためでございます。

     

    今日の福音について一言申し上げます。

     

    人生は困難なものです。仏教でも四苦八苦といいます。四苦とは生・病・老・死です。このほかにさらに4つの苦しみが挙げられています。

    わたしたちの人生では、わたしたちの期待と人生での現実の間には大きな隔たりがあります。こうであって欲しい、当然こうなるはずだ、と思っても現実はそうではありません。人はそれゆえ失望し、落胆し、落ち込み、あるいは怒りをいだきます。

    怒りは「期待と現実の不一致」から生じる感情である、といわれます。

    人生は苦難の連続、精一杯の努力をしています。自分の苦労、努力を誰かに評価して欲しい、という気持を誰しも持っているのではないでしょうか。

    人は一人では生きて生けません。他の方とのつながりのなかで生きています。人間関係の基本は感謝、お詫び、お願い、ということだと思います。わたしたちがほかに人になすべきことはこの3つにまとめられるのではないでしょうか。感謝とはその人のしてくれた行為を有り難いこととして評価することであり、お詫びとは自分がその人になすべきことにおいて間違いや不足があることを認めることであり、お願いは、自分の無力を認めてその人の好意におすがりすることです。これが常識であると思うのです。

    ところでわたしたちはこの人間関係において、自分が期待する感謝、謝罪、信頼が得られないとき、不快を覚え怒りさえ感じます。

     

    ところで、今お話した「常識」からみれば、今日の「取るに足りない僕(しもべ)」の話は少々受け入れにくい面がないでしょうか?主人は「有難う」の一言くらい言ってもいいのではないでしょうか?イエズス様の、この分かりにくい点が大切だと思うのです。

    実は、主人とは神様のこと、僕とはわたしたち人間のことだと言います。この話は神様と人間の関係を言っています。

    わたしたちは神様に一生懸命仕えています。ですから神様から「よくやった」と言ってもらってもいいのではないか、という気持がします。

    それどころか、現実の人生では報われることが少ないです。人生は不条理で、不公平だという気持を持たないほうが難しくはないでしょうか?これは、おかしいではないか、何故こんな目に会わなければならないのか、と神様に文句を言いたくなります。

    ところがイエズス様は、敵を愛しなさい、と教え、またお返しを期待しないで貸しなさい、とも教えています。

    わたしたちの心には、神様からの当然の報い、という考えがあり、この世ではそれがない、足りないと思って、不満や怒りを覚えるのです。

    人生において神様からの報いがなくとも、

    「わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」

    と言えるためには深い信仰が必要です。人生の不条理を感じても、神様への信頼を保つためには深い信仰がなければなりません。

    主よ、わたしたちの信仰を増してください、と心から祈りましょう。

     

    ところで、神様とわたしたちの関係はこのようでなければならないのですが、わたしたちと他の人との関係はそうはいません。

    今日わたくしのなすべきことは、お二人の神父様に感謝することです。

    本日は本郷教会にとって特別な日です。主任司祭の交代と任命のためにわたしは来ています。

    井手雄太郎神父様、長い年月にわたる東京教区での司祭として奉仕に厚く感謝申し上げます。とく本郷教会においては、ご高齢にもかかわらず12年間にわたり主任司祭を務めていただきました。

    また山本量太郎神父様にも感謝申し上げます。宣教協力体の精神に従って、関口教会主任と本郷教会主任の兼任をお引き受けくださいました。感謝のほかありません。

    どうか本郷教会の皆さん、新しい主任司祭への協力ご支援をよろしくお願いします。