千葉中央宣教協力体合同堅信式説教

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    2010年9月12日 年間第24主日、茂原教会で

     

    神は愛です。ヨハネは繰り返し「神は愛である」と言っています。教皇ベネディクト16世の最初の回勅は『神は愛』でした。

    神の愛は罪人を赦す愛です。今日の第2朗読、使徒パウロのテモテへの手紙(一1・12-17)でパウロは、自分のことを「罪人の中の最たる者」であるが神の憐れみを受けた者である、と言っています。

    神の愛は罪を赦す愛です。

    旧約聖書ではしばしば神の怒りが語られています。今日の第1朗読、出エジプト記(32・7-11,13-14)でも、神との約束を守らず、背信と裏切りを繰り返すイスラエルの民に対する激しい神の怒りが述べられています。モーセはこの神の怒りをなだめ、神はひとまずイスラエルを滅ぼすことを思い留まります。神は怒りながらも罰することをやめるのです。

    人間にとって、深いかかわりのある人の過ち、背信を赦すことは辛く痛みを伴なうのですが、どうも神様にとってもそうであるようです。

    わたしはホセアの預言の言葉を思い起こします。

    「ああ、エフライムよ

    お前を見捨てることができようか。

    イスラエルよ

    お前を引き渡すことができようか。

    アドマのようにお前を見捨て

    ツェボイムのようにすることができようか。

    わたしは激しく心を動かされ

    憐れみに胸を焼かれる。

    わたしは、もはや怒りに燃えることなく

    エフライムを再び滅ぼすことはしない。

    わたしは神であり、人間ではない。

    お前たちのうちにあって聖なる者。

    怒りをもって臨みはしない。」(11・8-9)

    このホセアの箇所は教皇様が『神は愛』の中でも引用しています。

    神は存在するものすべてを愛され、何一つ嫌われません。神様のお望みによってわたしたちは存在するのです。(知恵の書11・23-26参照)

    今日の福音ルカの15章はこの神の愛を伝える三つのたとえが語られています。

    失われた一匹の羊の話、無くした銀貨を探し求める女性の話、そして放蕩息子の話です。それぞれ、罪人であるわたしたちは、一人ひとりかけがえのない存在として愛してくださることを述べていると思います。

    わたくしは従来、この話はわたしたちの「かけがえのない存在への神の愛」を現している話である、と受け止めてきました。今日もそのことに変わりはありません。しかし、罪人を赦す神の痛みについても考えてみたいと思います。イエスは徴税人や罪人と一緒に食事をしていたために、罪人の仲間とみなされました。ということは、罪人と同じように、排斥され軽蔑される存在になったということです。人を赦すということは、赦される人の蒙っている排斥・侮蔑を自分のものとすることでもあります。

    神は赦す愛です。そのために御ひとり子が十字架のかかるのを厭われませんでした。わたしたちへの愛は神の苦しみでもあったと思います。

    その苦しみをわたしたちも自分のものとしておささげしなければならないと思います。