着座10周年記念ミサ説教

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    2010年9月5日 東京カテドラル聖マリア大聖堂にて

     

    第1朗読 知恵の書9・13-18

    第2朗読 使徒パウロのフィレモンへの手紙9b-10,12-17

    福音朗読 ルカによる福音14・25-33

     

    今日の福音の中でイエズスさまはおっしゃっています。

    「自分の父、母、妻、子供、兄弟、姉妹、さらに自分の命であろうともこれを憎まないならわたしの弟子ではありえない。」

    大変厳しいお言葉であります。この「憎む」という言葉であります。

    神様はわたくしたちをお創りになりました。旧約の知恵の書の中に次のような言葉があります。

    「あなたは存在するものすべてを愛し、お造りになったもの何一つ嫌われない。」(11・24)わたくしは本当に必要とされているだろうか、神様はわたくしをどう思ってくださっているのだろうか。人間にとって非常に大切な問題であります。神様はわたくしをお創りになり、わたくしを慈しんでくださるのです。

    「命を愛される主よ、すべてはあなたのもの、あなたはすべてをいとおしまれる」(11・26)とも言われています。

    神様はわたくしを、そしてすべての人を、この世界を大切に思い、慈しんでくださっている。このような知恵の書の言葉でありますのに、「自分の命でもこれを憎まないとわたしの弟子にはなれない」とはどうしたことでしょうか?

    「憎む」という言葉ですが、日本語の憎むとはちょっと違い、原文では「より少なく愛する]という意味だと説明されます。「少なく愛する」なんて日本語では言いません。「軽視する。大事にしない。退ける」、聖書のギリシャ語の辞書を引くとそういう風に書いてあります。神 さまのみ旨を優先する、第1にする、という意味だと思います。

    わたしたちは神さまの言葉を聴き、そして神さまの言葉によって日々生かされて生きなければならない、そういう存在であります。天の父はイエズス・キリストをお遣わしになり、イエズス・キリストは「わたしは道であり、真理であり、いのちである。わたしによらなければ誰も主のもとに行くことはできない」と言われました。わたくしたちはイエズス・キリストに従うものであります。イエズス・キリストを中心にして日々生きるものであります。

    人生は日々決断であり、選択であります。どんなにすばらしいものであっても、どんなに美しいものであっても、どんなに好ましいものであっても、それを断念しなければならない場合があります。いや、地上に存在するものは本来大変善いものであり、美しいものであります。しかしそれを自分の楽しみのために、自分を満足させるためだけに用いてはならない。神のみ旨を行なうときに、他のどんなによいものでも放棄しなければなりません。わたしたちが日々唱える主の祈り、まず何を願っているかと申しますと、天の御父の御心が行われますようにと祈ります。その後、わたくしたちに必要なものをお与えくださるようにと願います。わたくしたちはキリストを中心にし、キリストに従って生きるものであります。キリストに従うということは場合によって痛みを伴うことであります。犠牲をささげることであります。

    関口教会の共同体は日曜日のミサの始まるときに「東京カテドラルと教区のための祈り」を捧げてくださっています。感謝申し上げます。この中に次のような言葉がございます。

    「どうか私たち東京教区に現代の荒れ野において悩み苦しむ多くの人々の癒し、慰め、励まし、希望となって歩む恵みをお与えください。何よりまず、わたくしたち自身の間で互いに癒しと助け、励ましを分かち合うことができますよう導いてください。」

    東京教区の中心であるカテドラル関口教会は、現代の荒れ野におけるオアシス、泉でなければならない。泉となりたい。そのことをいつも考えお願いして参りました。そのためにはわたしたちは自分の痛みをささげなければならないと 思います。

    わたくし、東京大司教になって10周年を迎えております。この10年の歩みは着座式の説教で申し上げたことを実行する10年でありました。「弱い立場におかれている人々、圧迫されている貧しい人々にとって、やすらぎ、慰め、励まし、力、希望、救いとなる共同体として成長するよう力を尽くしたい」、そのように申し上げました。

    わたくしたちの真の牧者はイエズス・キリストです。司教、司祭はイエズス・キリストに倣う、不完全な牧者にすぎません。司教、司祭の務めとは、イエズス・キリストを中心にして、イエズスさまのおっしゃることによく耳を傾け、そしてイエズスさまのように生きていくことである、と思います。自分のしたいように、自分がこうであればいいと思うように導くのではなくて、イエズス・キリストがなさるようにする。そのためによく人々の声に耳を傾けなければならない。

    人間悲しいものでなかなか本当に人が思い感じていることがわからない。すぐ傍にいる人が苦しんでいるのに、そのことがわからない。そういうことがありはしないでしょうか。東京カテドラルである関口教会において、本当に現代の荒れ野を旅するわたくしたちがそこに本当の慰め、励ましを見出すことができるようでありたい。そのためにはわたくしたちは自分の思い、自分の望みというものをイエズスさまにお預けしなければならないと思います。

    わたくしも自分の思いは捨てて、イエズス・キリストの思いを選び、そして実行することができるように、そしてきちんと責任を取って歩むことができますように願っておりますので皆様の支え祈りを切にお願いする次第であります。