教区の歴史
高円寺教会堅信式説教
2010年07月18日
2010年7月18日 年間第16主日 高円寺教会にて
第一朗読 創世記18・1-10a
第二朗読 コロサイ1・24-28
福音朗読 ルカ10・38-42
年間第16主日の今日の福音は、有名なベタニアのマリアとマルタの姉妹の話です。このベタニアというのは、エルサレムから2.7キロ東の所にあるそうです。「ベタニア」という言葉の意味は、「悩む者の家」、「貧しい者の家」ということです。イエスはしばしばこのベタニアのマリアとマルタの家を訪問し、暖かい歓迎を受け、しばしの休息をとり、安らぎと祈りのときを過ごしていたのではないでしょうか。
ところで、マルタがイエスに言いました。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」有名な話であります。マルタに対してイエスはお答えになりました。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」今日は、このイエスの言葉をしっかりと受け止めたいと思います。
様々なことに思い悩み、そして、心を乱している人、それは誰かと言うと、このわたし自身のことではないかなあという気がいたします。今日、この説教をするにあたって、自分自身のことを振り返ってみますと、実に多くのいろいろな問題、課題のことで思い悩み、心を乱している、そういう自分がおります。今日、このいろいろな問題、課題、神父様たちの健康のこと、司祭の人事のこと、今行っているカテドラルの構内での建築のこと、あるいは、日本のカトリック教会と教皇庁との連絡、調整などの問題、更に、自分自身の健康のこととか、いろいろな人の健康の問題、いろいろな人のいろいろなことを考えたらきりがないわけです。皆様はいかがでしょうか。おそらく、皆様もそれぞれ、いろいろなことで悩み苦しんでいることがおありかもしれないと思います。まさに現代の荒れ野を旅するわたしたちは、様々なことで疲れ、そして迷い、もう力が出てこないというような状態に置かれることもそう珍しいことではないでしょう。わたくしのことはさておきまして、東京教区で働く多くの司祭、皆さん一生懸命良い牧者として働いておられますが、中には大変疲れてしまう方もおられます。
「司祭年」というのがありました。6月11日、イエスのみ心の日が司祭年の終わりの日でありました。その日に、わたくしは皆様宛にお手紙を差し上げました。「司祭の休養、霊的生活の刷新」というタイトルであります。そして、「この大都会で働く司祭は、しばしば大きなストレスを抱え、そして疲れて、場合によっては危機的な状態に陥ることもあるのだ。是非、司祭にしっかりと休暇、休養を取らせたい。取っていただきたい。このことについて、皆様のご理解をお願いしたい」ということを申し上げました。何人かの方からは「良かった、賛成です」と言っていただきましたが、中には「そんな必要があるんでしょうか」という声もあります。わたしは「これは、東京教区の司教としてのわたしの実感であります」と述べたのですけども、「わたしの実感は違う」という人がいます。でも、これは「わたしの実感」なんですから仕方がありません。ただ、どういうふうに休養するか、休暇をとるかが大切であります。また、司教、司祭は自分の霊的生活を振り返る必要があると思います。
ところで、イエスは言われました。「必要なことはただ一つである。」それはいったい何でありましょうか。あれもしなければならないし、これもしなければならない。そのようにしてわたくしたちの心が乱れています。他方、わたしたちは毎日祈ります。「み心が行われますように。」今、自分がしなければならないこと、優先的にしなければならないことは何でしょうか。それぞれの人にとって、それはかなり違うことであるかもしれません。そこで、わたしはあるお祈りを思い出します。セレニティー・プレーヤー(Serenity Prayer)という英語のお祈りです。たぶん、皆様どこかで聞いたことがあるでしょう。アメリカの神学者でラインホールド・ニーバーという方がおられまして、第二次世界大戦中に作ったお祈りであるということであります。3つのことを神に願っております。「どうか、神さま、わたしが変えることのできないことを受けとめる心の静けさをください。どうか、神さま、わたしが変えることのできることを行う、変えてゆく勇気をください。そして、そのどちらであるのかを見分ける知恵をください。」というお祈りです。聞いたことがありますよね? 心の静けさ、勇気、そして知恵。大変良いお祈りだなあと思います。
この「知恵」ということばですが、今日これから行う堅信式の中で、7つの聖霊の賜物が授けられます。その7つの賜物の中の一つ、一番最初に出てくる言葉が「知恵」であります。そして、この「知恵」は、昔は「上智」と言っておりました。あの四谷にある大学と同じ名前であります。「上智」であります。神のみ旨を知り、それを行うことが、私たちキリスト者の霊的生活であります。神さまがお望みになっていることを知る恵み。その第一が「上智」。そして、それを行う力が勇気。昔の言葉で言えば「剛気」でございます。
今日堅信を受けられる皆さん、そして既に堅信を受けられている皆さんも同じように、改めて神からいただく恵み、上智、そして勇気の恵みを祈り求めたいと思います。わたしたちができることは何でしょうか。この世界を変えたいと願っています。この教会をもっと良くしたいと思っています。なかなかうまくいかない、進まない。何を変えることができるでしょうか。人に変わってもらいたければ、自分自身が変わらなければならない。自分は自分の主人である。しかし、自分を変えることもなかなか大変なことであると実感いたします。「どうか、主なる神よ、わたしたち一人ひとり、自分を変え、そしてあなたのお望みになることを力強く行うことができますよう、あなたの聖霊を豊かに注いでください。」そのように祈りましょう。