諸宗教対話集会における発題「調和と平和」

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    2010年5月30日 清泉女子大学にて

     

    日本ヴェーダーンタ協会創立50周年にあたりお招きを受けましたカトリックの岡田です。

    Cyril Valiath(シリル・ヴェリヤト)神父様より、日本ヴェーダーンタ協会設立50周年記念集会において短い話をするよう依頼されました。主題は「調和と平和」です。神父様と皆さんのご期待に添える話しはできないと思いますが、「何でもいいです」という神父様のおことばがあり、対話のきっかけになりそうな話をしたいと思います。

    インドは日本から遠い国です。インドと日本のつながりといえば、何といってもお釈迦様(ゴータマ・シッダルタ)と仏教です。仏教は中国、韓国を経由して日本へ伝えられました。今の日本の文化・社会の形成に大きな影響を与えたのが釈迦であり仏教です。

    またインドといえば、現代の日本人にとってすぐに思い浮かべる人物は、マザー・テレサです。日本人は誰でも彼女を知っています。また聖フランシスコ・ザビエルがインド経由で日本へ来て、キリスト教を伝えたことも日本人は多分誰でも知っております。

    またインドといえば、ガンジー、ネール首相などを思い浮かべます。

    しかし、インドについて日本人が知ることは少ないだろうと思います。インドの民族宗教はヒンズー教であると思いますがヒンズー教について知ることは少なく、たとえ知っていてもその理解が実は誤解かもしれないと危惧しています。カトリックの作家で有名な遠藤周作氏は晩年、インドの風土とヒンズー教に深い関心を寄せました。

    インドは亜大陸(大陸の中で地理的に独立した広い一部分)といってもよい広大な領域を占め、旧い文明をもち、多数の民族・言語の存在する巨大な多民族国家だ、という印象を持っています。

    さて、多数の民族が長い歴史を持って並存し存続し、同時に同じ「インド」と同一性Identityの意識を持続してきました。それはどうして可能だったのでしょうか?

    また、最近インドは経済成長が目覚しく、世界の高額所得者に数えられる大富豪が増えていると聞きます。しかしわたしたちには、インドには貧しい人が多い、という認識があり、また階級社会だ、という先入観があります。これは間違った考えかもしれませんが、どうでしょうか?

    今の日本の社会の大きな問題は何かといえば、自死者(自殺者)が多いということです。連続12年間毎年3万人が自死を遂げています。これは非常に大きな数であり、恐ろしい現象です。第2次大戦前の貧しい日本の時代、自死者は今よりずっと少ない人数でした。農村人口が多く、家族のつながりが強く、子どもの数の多かったのです。第2次大戦後に育ったわたしの時代においても、子どもの数は多く、学校から帰ると、子どもたちは外で日が暮れるまで遊んでいました。今、子どもの姿が見えません。子どもは勉強やクラブ活動で忙しいようです。敗戦後日本は経済成長を目指し、教育に力を入れ、人口は都市に集中し、家庭は核家族化し、子どもの人数は非常に減りました。所得は増えたのですが、勉強と仕事にために時間とエネルギーが取られてしまい、人間が健全に生きるために非常に大切な家庭が荒廃し、家族の絆が極めて脆弱になってしまいました。少なからぬ人々が孤独になり、生きがいを失い、生きる力を殺がれています。

    今のインドではそのような現象はないと思います。

    宗教の使命は人々に生きる意味を教え、人生の指針を与え、人々を一つにつなぐということではないでしょうか。今宗教者は死に急ぐ人々へ生きる意味と力を与えるという役割を果たさなければなりません。

    日本には非常に多くの宗教があります。新宗教、あるいは新・新宗教とよばれる新しい宗教の団体もあり、かなり多くの信者を獲得していると報じられています。他方、仏教、神道の伝統宗教も、現代の荒れ野で悩み迷う人々へアピールするために自己刷新の努力をするよう求められています。

    さて、「調和と平和」というテーマをいただきましたが、思いますに、調和と平和は強いつながりを持っています。調和があることが平和である、ということではないでしょうか。

    キリスト教では天地万物は主である神によって創造されたのであり、神の作品であるこの世界と人間は「極めてよい」とされています。しかし、現実に、この世界と人間には不調和と秩序の乱れが存在しています。これを「悪」とよんでいいのではないでしょうか。何故不調和が存在するのか、キリスト教では原罪という思想で説明していますが、なかなか難しい問題です。

    また、人間の性は本来善か悪かという議論があり、中国では、孟子により性善説、荀子により性悪説が唱えられたといわれています。

    キリスト教では人間は神の似姿、神の像とされていますが、同時に罪人であり、自己の中に矛盾と対立を孕んでいる存在とされています。

    現代人は自分のつくりだした非人間的構造の社会の中で、自分の人間としての尊厳が見えなくなったり、あるいはひどく傷つけられていたりします。

    人間が自己の尊厳に目覚め、自分の中に神の姿を見出し、平和と誇りの内に生きていくために、諸宗教は互いに学びあい助け合うことが必要ではないか、と考えます。

    この原稿を用意している5月の連休中のこと、カトリック長崎大司教、髙見三明師は「被爆のマリア像」を携えて国連を訪問し、核廃絶へ勇気ある一歩を踏み出すよう世界の指導者たちに訴えました。世界平和のためには働くことこそすべての宗教者の本質的使命であると考えます。

    仏教では四苦八苦という考えがありますが、インドの他の宗教、思想では、人間の苦しみ、世界の悪、戦争、紛争、飢餓、貧困などの悪についてどのように考え教えているのか、知りたいと思います。

    まとまりのない話でしたが、参考にしていただけると幸いです。