2006年 平和旬間「平和を願うミサ」説教

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    2006年8月6日、東京カテドラル聖マリア大聖堂にて

     

    聖書朗読
    イザヤの預言2:1-5
    マタイによる福音5:1-10

     

    マタイによる福音書の5章の「山上の説教」の9節で、「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」とイエスは言われました。平和の実現のために働くことは人類全員の使命であり、とくにわたしたちキリスト者のもっとも大切な使命であります。今日ここに集うわたしたちは、国境が違っても、民族、文化、歴史が相違していても、共に神の子として平和のために力を尽くしたいと心から願っています。

     

    本日の第一朗読のイザヤの預言では次のように言われています。

      「彼らは剣を打ち直して鋤とし

       槍を打ち直して鎌とする。

       国は国に向かって剣を上げず

       もはや戦うことを学ばない」(2:4)

     

    戦争、軍備、武器のためにどんなにか多くの軍事費が使われていることでしょう。剣を鋤に、槍を鎌に打ち直すということは、武装を解除し、武器を平和と幸福のための道具に転換するということです。これが人類の理想です。現実はこの理想から程遠いのですが、この理想に向かって歩んでいかなければなりません。 

    武器を放棄するということには心の武装解除が伴わなければなりません。心の武装解除とは、わたしたちの間での信頼と友情、尊敬を生み出し育てること、信頼と友情、尊敬の醸成であります。イエス・キリストの十字架は民族の間の隔ての壁を打ち壊しました。わたしたちは同じ神の子として、共に祈り、共に学びます。そのためにもまずわたしたちは異文化の人々、異なる文化を生きる人々が互いに「触れ合い、助け合い、理解し合う」(「1995年の司教団メッセージ『平和への決意』より」よう努めなければなりません。 

    同じ東アジアに生きる日本、中国、韓国の三国の歴史には共通の部分があります。しかし、その歴史認識にはかなり大きな隔たりがあります。歴史教育の在り方にも相違があることをわたくしは実感しています。この度、2006年の平和旬間にあたり、歴史教育の権威、李元淳先生にわざわざお越しいただいたのは、歴史認識の問題についてお話しいただき、東アジアの平和のために何をすることができるか、共に考え、学び、祈るためであります。

    ここで少し個人的経験を話すことをお許し下さい。わたくしは、今からおよそ30年前、ローマで勉強しておりましたが、同じ宿舎(コレッジオ)に韓国の司祭がおりました。いろいろな機会に話し合い、日韓の歴史には深刻な問題・課題があることを知りました。また、司教として、日韓司教懇談会の担当者となり、10年以上の交流の機会に恵まれました。そして、歴史の問題を分かち合う必要を痛感しました。 

    故ヨハネ・パウロ2世教皇は、2000年の大聖年を迎えるに際して、次のように言われました。 

    「教会は、過去の誤りと不信仰、一貫性のなさ、必要な行動を起こすときの緩慢さなどを悔い改めて自らを清めるよう、その子らに勧めることなくして、新しい千年期の敷居をまたぐことはできません」(33項)。 

    平和のために働くことは日常の祈りと行為の積み重ねです。キリストに倣い、互いに痛みと苦しみ、喜びと希望を担い合い、分かち合って歩んでまいりましょう。それがキリスト者の平和への道であると信じます。