聖木曜日・主の晩餐の夕べのミサ説教

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    2005年3月24日、浅草教会にて 

     

    わたしたちは今晩、いわば最初のミサである「主の晩餐の夕べのミサ」、最後の晩餐の記念を行います。主イエスは過ぎ越しの食事を行いながら、ご聖体の秘跡をお定めになりました。わたしたち司祭は主イエス・キリストのことばに従ってミサを捧げるたびに、パンとぶどう酒の上に手を差し伸べて按手の祈りをささげ、聖別の言葉、コンセクレーション(consecration)の言葉を唱えます。すなわち司祭は「皆、これを取って食べなさい。これはあなたがたのために渡されるわたしの体である」。「皆、これを受けて飲みなさい。これはわたしの血の杯、あなたがたと多くの人のために流されて罪の赦しとなる新しい契約の血である。これをわたしの記念として行ないなさい」といいます。按手と聖別の祈りによって、パンとぶどう酒はキリストの体と血であるご聖体となります。このことをカトリック教会は固く信じてきました。この信仰が問題とされたこともありますが、教会はこの教えを守ってきました。これは不思議なことです。ご聖体といっても物理的・化学的に変化が起こっているわけではありません。それでもわたしたちはそこに復活されたキリストが真におられると信じています。どうしてこのように信じることができたのでしょうか。 

    これはわたくしの考えですが、イエスが自分の言葉どおりに生きたからだと思います。といいますのは、イエスは「あなたがたのために渡されるわたしの体」と言われ、実際ご自分をそのようになさったからです。自分を苦しめ、ののしる者たちに自分のすべてを引き渡されました。また、イエスは「わたしの血の杯、あなたがたと多くの人のために流されて罪の赦しとなる新しい契約の血」と言われました。そして実際に十字架にかかられ、血を流していのちを捧げられたのです。イエスは自分の言葉どおりに生き、自分の言葉を実行しました。だから、人々はイエスの言葉を信じ、ご聖体であると信じることができたのだと思うのです。逆に、そんなことはありえないことでしたが、イエスは受難を恐れて逃亡してしまったとしたら、最後の晩餐のときのこの言葉、つまり聖体制定の言葉は単なる言葉であり、パフォーマンスに過ぎないことになってしまったことでしょう。イエスがわたしたちの罪のために実際に十字架にかかってくださったという事実が、聖体の秘跡を信じさせるためのいわば「裏づけ」であります。 

    教皇様は今年を「聖体の年」と定められました。聖体の秘跡に示された神の深い愛を黙想し、その愛に応えるよう努めましょう。