大司教

2022年復活の主日@東京カテドラル

2022年04月20日

皆様、主の復活おめでとうございます。

この数日は肌寒い雨模様が続きましたが、復活の主日の今日は、少しばかりの曇り空ですが晴れ上がり、暖かな春の日となりました。復活祭と言うこともあり大勢の信徒の方がミサに参加されました。聖マリア大聖堂は、堂内の人数制限をしているため、今日は正面扉を開放して、その外にも、ミサに与る人が互いの距離を取りながら、祈りをささげておられました。

今日のミサで、これから異動となる神父様方も多数おられると思います。関口教会でも、助任のホルヘ神父様が、来週から高幡教会で働かれることになります。ミサの最後に、関口教会からお祝いとホルヘ神父様の趣味でもある盆栽が贈られました。新しい任地で、新しい責務を負われるホルヘ神父様に、聖霊の導きを祈ります。

新しい主任司祭や助任司祭を迎える教会共同体にあっては、どうか司祭のためにお祈りください。新しい任地へ向かう司祭のため、そして新たに皆さんの共同体に赴任される司祭のため、どうか祈りをお願いします。わたしたちは、祈りの力を信じています。祈りを忘れたとき、人間の力に頼らざるを得なくなり、それが生み出す結果は神様の望まれる道とは異なる方向を向いてしまう可能性すらあります。

洗礼を受けられた皆さん、おめでとうございます。これからキリストの身体の一部分として、共同体の大切なメンバーとして、ともに歩んで参りましょう。

以下、17日午前10時の、関口教会でのミサの説教原稿です。

復活の主日
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2022年4月17日

主の復活おめでとうございます。

昨晩の復活徹夜祭で洗礼を受けられた方々には、心からお祝い申し上げます。

洗礼を受けられたことで、皆さんはキリストの身体を構成する一部分となりました。そのことを目に見える形で象徴するように、共同体の一員としても迎え入れられることになります。教会は共同体です。お一人お一人にそれぞれの人生の歩みがあることでしょうから、共同体への関わりの道も様々です。具体的な活動に加わることもできますし、祈りのうちに結ばれることもできます。重要なのは、信仰はパートタイムではなくてフルタイムであって、どこにいても常に、わたしたちキリスト者は霊的な絆で共同体に、そしてキリストの身体に結ばれていることを心に留めておくことだと思います。わたしたちから神に背を向けて離れていくことはいくらでもできますが、神は自分の身体の一部であるわたしたちを離しません。洗礼の恵みによって、さらには聖体と堅信の恵みによって、わたしたちは霊的にキリストに結び合わされ、その結びつきをわたしたちが切り離すことはできません。どうか、これからもご自分の信仰生活を深められ、できる範囲で構いませんので、教会共同体の大切な一員として、それぞれに可能な範囲で貢献をしていただくことを期待しています。

主の復活を祝うこの日は、わたしたちの信仰の中心にある喜びの日です。十字架の苦しみと死に打ち勝って、新たないのちへと復活されたイエスの勝利がなければ、今日の使徒言行録に記されているようなペトロの力強い宣言はなかったのです。ヨハネ福音に記されたペトロと、使徒言行録に記されたペトロは、同じ人物ですが、そこには大きな違いがあります。

あの晩、三度にわたってイエスを知らないと宣言し、恐れのあまり逃げ隠れしていたペトロは、主の復活を理解できません。ヨハネ福音には復活された主は登場してきません。語られているのは、空になった墓であり、その事実を見てもまだ理解できずにまだまだ困惑しているペトロや弟子たちの姿です。

しかしそのペトロは、使徒言行録で、力強くイエスについて宣言するペトロになりました。その異なるペトロの姿の間には、復活された主ご自身との出会いがあります。

教皇ベネディクト16世は、回勅「神は愛」にこう記しておられます。
「人をキリスト信者とするのは、倫理的な選択や高邁な思想ではなく、ある出来事との出会い、ある人格との出会いです。この出会いが、人生に新しい展望と決定的な方向付けを与えるからです(1)」

こう記した教皇は、繰り返し、わたしたちの信仰は、イエスとの個人的な出会いの体験によって生み出されると強調されました。イエスとの出会いは、ペトロやパウロがそうであったように、いのちを生きる希望を生み出します。

その上で教皇ベネディクト16世は、「福音は、あることを伝達して、知らせるだけではありません。福音は、あることを引き起こし、生活を変えるような伝達行為なのです。・・・希望を持つ人は、生き方が変わります(回勅「希望による救い」2 )」とも指摘されています。

洗礼によってわたしたちは、古い自分に死に、新しい自分として生まれ変わりました。その間には、復活された主との個人的な出会いがあります。主との出会いはいのちを生きる希望を生み出します。その希望を心に受けた者は、それを力強くあかしする人生を歩み始めます。なぜならば、わたしたちが受けた福音は、単なる知識や情報ではなくて、何かを引き起こし、生活を変えるような力を持っているはずだからであります。

いま、たぶんわたしは、理想を述べています。現実はそう簡単にはいかないことを、わたしたちはこの四旬節の間、目の当たりにしてきました。そもそもこの二年間以上、感染症の影響で、希望のない暗闇の中を彷徨ってきました。彷徨い続けているにもかかわらず、多くの人が暴力的にいのちを奪われうるような戦争状態が発生し、世界中が希望を見失ってしまいました。喜びの季節であるはずなのに、心のどこかに不安が根を張っています。

教会は霊的な絆に結びあわされた共同体であるにもかかわらず、実際に集まることができない状態が長く続く中で、その状態にとどまり続けるのは容易なことではありません。どこからか甘い言葉がささやかれると、思わず飛びつきたくなる心持ちです。でも甘い言葉には、真理と平和はありません。

なんとわたしたちの信仰の弱いことかと、思い知らされ続ける二年間でありました。これまで当たり前だと思っていた、日曜日に教会へ行ってミサに与ること、それが難しくなったとき、初めてわたしたちは、集まること自体が喜びを生み出していたことを心で感じました。わたしたち、と言って、皆さんのことを私が判断することはできませんから、少なくともわたし自身は、人間の心の弱さを、この二年間、つくづく思い知らされています。そして他者のいのちを暴力的に奪ってでも、政治的野望を成し遂げようとする人間の心の醜さを目の当たりにして、ただただ、主よ助けてください、と叫び続けるしかありません。

このような時代に生きているからこそ、わたしたちは福音の基本に立ち返り、現実社会の中で教会がどうあるべきなのか、わたしたちがどのように生きるべきなのかを、思い起こしたいと思います。

わたしたちの信仰を支える教会共同体には、三つの本質的務めがあると、教皇ベネディクト16世は指摘されていました。

回勅「神は愛」に、「教会の本質はその三つの務めによって表されます。すなわち、神の言葉を告げ知らせること(宣教とあかし)、秘跡を祝うこと(典礼)、そして愛の奉仕を行うこと(奉仕)です。これらの三つの務めは、それぞれが互いの前提となり、また互いに切り離すことのできないものです(25)」と記されています。

教会は、福音をあかしする存在です。教会は祈りを深め神を礼拝する存在です。教会は愛の奉仕を行う存在です。どれかが大切なのではなくて、この三つの務めは互いを前提としているので、それぞれのが十分になされていなければなりません。

これに基づいて東京教区では、全体の方向性を示す「宣教司牧方針」を、定めています。宣教司牧方針の柱は三つあり、①宣教する共同体、②交わりの共同体、③すべてのいのちを大切にする共同体を育てていくことを目指しています。それによって先ほどの三つの本質的務めを十全に果たしていく共同体になりたいと思います。

三つの務めや三つの柱は、共同体の効率化だとか、そういったことを求めて定めてあるのではありません。それは、教会共同体が主ご自身との個人的な出会いを生み出す場となるためであり、主との出会いによる喜びに満たされている場となるためであり、社会に対してその喜びを宣言し希望を生み出すものとなるためであります。

皆さん、歩みを共にしながら、「宣教する共同体」、「交わりの共同体」、「すべてのいのちを大切にする共同体」をつくり育んでまいりましょう。喜びと希望を生み出す、教会共同体でありましょう。