大司教

2020年平和旬間「平和を願うミサ」@東京カテドラル

2020年08月08日

8月に入り、東京はやっと梅雨も明け、一気に真夏となりました。新型コロナによる感染症の状況は終息せず、今年の平和旬間は、あらゆる行事を中止としました。毎年の恒例行事となっていただけに残念である反面、平和は一年の一時期だけ考え祈れば実現するものではなく、いつでも思い祈り行動しなくてはならない課題であることを考えるとき、平和への取り組みを振り返り、今後の取り組みを考えてみる機会を与えられたようにも思います。

国際関係における政治や経済の様々な利害が複雑に絡み合い、そこに自然現象の変化も加わり、加えて歴史の歩みの中での様々な積み重ねがいまにのしかかり、簡単に世界の平和は実現しそうにありません。だからこそ、常に平和について考え祈り行動することは、ますます持って重要ですし、そもそもわたしたちは「平和」と言って何を目指しているのかを、信仰の立場からはっきりと自覚することも大切であると思います。

教皇様は、8月6日の広島の原爆忌にメッセージを寄せ、昨年広島と長崎を「平和の巡礼者」として訪問したことを思い起こしながら、「わたくしは、平和を強く希求し、平和のために自らを捧げようとする、今日の人々、特に若い人々の熱望を、今も心にとどめ続けています」と述べて、平和を祈り求め行動する人たちとの連帯を示されました。

その上で、教皇様はあらためて核兵器の廃絶を訴え、世界の人々に向かって、「原子力の戦争目的の使用は、倫理に反します。核兵器の保有は、それ自体が倫理に反しています」と、昨年広島から世界に向けて発信したメッセージを繰り返されます。

さらに、「広島と長崎の被爆者の方々の預言的な声が、わたしたちと未来の世代への警鐘であり続けますように」と述べてメッセージを締めくくることで、広島と長崎から世界に向けて発信される核兵器廃絶と平和への願いにご自分も連帯して、自らの声を加えて世界に発信されることを誓われています。

さて、感染症の状況は流動的ですが、東京教区内においては、現在の感染症対策を緩めることなく守りながら、限定した形での活動を継続します。8月9日から16日までの一週間、現在の対応をこのまま継続いたします。感染症対策だけではなく、熱中症にも十分にご配慮ください。

以下、本日8月8日夕方に行われた、今年の平和旬間の「平和を願うミサ」での、説教の原稿です。
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 東京大司教区「平和を願うミサ」
2020年平和旬間
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2020年8月8日

 

「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」

主ご自身の、この言葉から励ましと勇気をいただき、わたしたちは平和の実現を目指しています。とりわけ、今年、2020年の夏は、1945年に広島と長崎で核兵器が使用され、多くの人命が奪われた悲劇と、それに続く太平洋戦争の終結をもって、第二次世界大戦が終わりを迎えてから75年という節目の年でもあります。

「過去をふり返ることは、将来に対する責任を担うことです」と、教皇ヨハネ・パウロ二世は、1981年に広島で述べています。

この75年の間、戦争の悲惨な現実が繰り返し多くの人によって語られてきたのは、戦争が自然災害のように避けることのできない自然現象なのではなく、まさしく教皇ヨハネ・パウロ二世が広島で指摘されたように、「戦争は人間のしわざ」であり、「人類は、自己破壊という運命のもとにあるものでは」ないからこそ、その悲劇を人間は自らの力で避けることが可能であるからに他なりません。

教会はこの節目の年の平和旬間にあたり、教皇フランシスコの昨年の広島における言葉を引用して、こう主張します。

「戦争のために原子力を使用することは、……これまで以上に犯罪とされます。人類とその尊厳に反するだけでなく、わたしたちの共通の家の未来におけるあらゆる可能性に反する犯罪です。原子力の戦争目的の使用は、倫理に反します。核兵器の所有は、それ自体が倫理に反しています」

教皇ヨハネ23世は、回勅「地上の平和」を、次の言葉で始め、教会が考える「平和」の意味を明らかにしています。

「すべての時代にわたり人々が絶え間なく切望してきた地上の平和は、神の定めた秩序が全面的に尊重されなければ、達成されることも保障されることもありません」

教会が語る「平和」とは、神の定めた秩序が実現している世界、すなわち神が望まれる被造物の状態が達成されている世界を意味しています。

教皇ヨハネ23世は「地上の平和」において、自然法に基づく人間の権利と義務について触れ、その権利がすべからく実現していることこそ、神の望まれる世界の実現であると説きます。

教皇が指摘する人間の権利とは、「生存と尊厳ある生活水準への権利、倫理的および文化的価値に与る権利、良心に従って神を礼拝する権利、生き方を自由に選択する権利、経済における権利、集会と結社の権利、移住および移民の権利、政治に関連する権利」であります。そして教皇は、わたしたちには、他者の権利を尊重し互いにそれを実現していく義務があるのだと説かれます。すなわち、そうした様々な権利が実現していない限り、神の定めた秩序はこの世界に実現していないのであり、「平和」はもたらされていません。

今年の初めから、わたしたちは経験したことのない事態のただ中におります。新型コロナウイルスの感染拡大のため、日常生活や仕事にも大きな影響が出る中、教会も今年の平和旬間行事を含め、その活動を中止せざるを得なくなりました。

感染症は一つの国に留まらず、いまや世界中を巻き込んで拡大し、各地に多大な影響を与えています。多くの方が大切ないのちをなくされた国も多数存在し、今この時点でも、いのちの危機に直面している人は少なくありません。いのちを守るために努力を続ける医療関係者に、敬意を表したいと思います。

世界を巻き込んで発生したいのちの危機は、その解決のためにも、世界全体の視点から連帯が必要であることを明確にしています。しかし残念なことに、世界的規模の連帯は、この事態にあっても実現せず、かえって、多くの国が自国の安全と利益だけを優先する事態にもなっています。資金的にも医療資源でも乏しい、いわゆる途上国の多くは取り残されようとしています。

教皇フランシスコの指示を受けて、この危機に総合的に対処するために、教皇庁には特別な委員会が設置されました。その責任者であるタークソン枢機卿は、7月7日に会見を開き、次のように述べておられます。

「現在の互いに関連した危機は、世界が互いに結びあわされている事実を反映して、連帯のグローバル化が緊急に必要であることを示している。わたしたちの世界には、一致のきずなを回復し、誰かをスケープゴートにせず、互いの批判合戦を止め、卑劣な国家主義を否定し、孤立化を否定し、そのほかの利己主義を否定するようなリーダーが必要だ」

その上で、枢機卿は今回の感染症といういのちの危機は、教皇フランシスコが強調する、共通の家を守る必要性にあらためて気づかせるとして、こう述べています。

「(人類は)第二次世界大戦以降最大の人道的危機に直面している。現在、これまでにないような金額が軍事目的で支出されているもかかわらず、病人、貧困者、排除された人、紛争の犠牲者が、比較にならないほど現在の危機の影響を受けている。現在、健康、社会経済、環境において互いに関連した危機が、富める者と貧しい者の間だけでなく、平和、富、環境正義を享受している地域と、紛争、貧困、環境破壊に直面している地域の格差も広げ続けている」

教皇フランシスコは、回勅「ラウダート・シ」で、「あらゆるものは密接に関係し合っており、今日の諸問題は、地球規模の危機のあらゆる側面を考慮することのできる展望を求めています」(137)と指摘し、総合的エコロジーへの取り組みを提唱します。

総合的エコロジーは、単に環境問題への配慮だけではなく、貧困の解決、健康の確保、基本的人権の確立、武器の放棄、紛争の停止を包摂した概念であり、すなわち平和構築を目指す道の、別の名前に他なりません。

すべては、わたしたちの共通の家の未来をどのように描き、それをわたしたちがどのように実現しようとするかにかかっています。平和の問題は、複雑に絡み合った人間の生の営みと、被造物との関係、そして創造主である神との関係を、一つ一つ解きほぐして、神が望まれる有り様に紡ぎ直していく、途方もない作業であります。たまものであるいのちに関わるすべての課題は、密接につながっており、複雑に絡み合っています。解決のための近道はありません。地道な取り組みが必要です。

「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」

わたしたちは、あらためて主のこの言葉に励まされ、平和を実現するために、様々な課題に地道に取り組んでいく決意を、今日、戦後75年の平和旬間にあたり、新たにしたいと思います。