大司教

受難の主日・枝の主日@東京カテドラル

2020年04月06日

厳しい状況の中で、聖週間がはじまりました。

受難の主日のミサを、東京カテドラル聖マリア大聖堂から中継配信しました。

広い大聖堂内は、先日ベンチの間隔を1.8メートルあけるように配置し直してあります。十数名のシスター方に、広い大聖堂内に広がって座っていただき、聖歌と朗読をお願いしました。正面と横の扉も開放しているので、風通しは良いのですが、まだまだ寒い大聖堂です。

以下、本日の説教の原稿です。
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受難の主日
東京カテドラル聖マリア大聖堂(配信ミサ)
2020年4月5日

教会の扉が閉じられたままで、聖週間がはじまりました。感染症が拡大する中で、先行きの見えない不安に苛まれながら、わたしたちは、先ほどの受難の朗読にあったとおり、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と声をあげてしまいたくなります。

大勢の群衆の歓声の中、エルサレムに迎え入れられたイエスは、同じ群衆から「十字架に付けろ」とののしられ、死へ至る苦しみへと追いやられていきます。十字架上の苦しみの中で主イエスは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですが」と叫び声を上げられました。裏切られ、見捨てられ、孤独の内に、人生のすべてを、そして究極的にはいのちでさえ奪われていく悲しさ。むなしさ。苦しみ。

しかしその悲しみ、むなしさ、苦しみがあったからこそ、「神はキリストを高く上げ、あらゆるものにまさる名をお与えになった」とパウロは指摘します。

「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順」であった。だからこそすべての舌が「イエス・キリストは主である」と公に宣べるようになる。それも、苦しみ抜いた本人を褒め称えるためではなくて、父である神をたたえるためなのだと、使徒は書いています。

行動を共にしてきた弟子からも裏切られ、歓声を持って迎え入れた群衆からも見捨てられ、孤独の内にいのちの危機に直面されたイエスは、まさしくわたしたち多くが体験する苦しみのなかでも究極の苦しみを、自らご自分のものとされました。

わたしたちが生きている社会には、経済的な要因から、政治的な要因から、また地域の不安定な治安状況や紛争のために、さらには災害のために、いのちの危機に直面する人たちが多数存在してきました。国際的なレベルでも、国内的なレベルでも、いのちの危機に直面する人たちは常に存在します。その中には、どこからも助けの手が差し伸べられずに、孤独の内に苦しんでおられる方も少なからずいることを、わたしたちはニュースなどで耳にしてきました。

「出向いていく教会であれ」と言うメッセージと、「教会は野戦病院であれ」と言うメッセージは、教皇フランシスコが、教会のあるべき姿として、たびたび繰り返してこられたメッセージです。

ベネディクト十六世が回勅「神は愛」の中で指摘されたように、教会の本質は、「神の言葉を告げ知らせること(宣教とあかし)、秘跡を祝うこと(典礼)、そして愛の奉仕を行うこと(ディアコニア)」であります。ですから長年にわたって教会は、社会にあって「愛の奉仕」を具体化しようと、様々な活動に取り組んできました。

それは第二バチカン公会議にあっても、例えば現代世界憲章の冒頭に、「現代の人々の喜びと希望、苦悩と不安、特に貧しい人々とすべての苦しんでいる人々のものは、キリストの弟子たちの喜びと希望、苦悩と不安でもある」と記すことで、教会が何を大切にして歴史の中で歩みを進めるべきかを明確にしてきました。

東京ドームのミサで教皇フランシスコは、わたしたちに次のように呼びかけられました。
「いのちの福音を告げるということは、共同体としてわたしたちを駆り立て、わたしたちに強く求めます。それは、傷のいやしと、和解とゆるしの道を、つねに差し出す準備のある、野戦病院となることです」

でも考えてみると、これらの言葉はすべてわたしたちに、与えるものになりなさい、手を差し伸べるものになりなさいと呼びかける言葉です。もちろんそれは良いことであります。

しかし、2020年の初めからいまに至るまで、わたしたちが体験していることは何か。それは、わたしたち一人ひとりが、この目に見えないウイルスとの戦いの中で、いつでもいのちの危機に瀕する可能性を持っている弱いものであることを自覚させる体験であります。

どれほどわたしたち一人ひとりが、弱い存在であるかを自覚させる体験であります。
誰かに助けてもらいたい、手を差し伸べてもらいたいと懇願する体験であります。
大げさに言えばわたしたち人類はいま、すべての人が助けを必要としながら、孤独の中に取り残されて、いのちの危機に直面しています。

いまわたしたちは、取り残さないでくれと懇願しています。

人生からすべてを奪い取らないでくれと懇願しています。

暗闇の中に見捨てないでくれと懇願しています。

教皇フランシスコは3 月27 日の夕方に、今回の事態の終息を祈りながら、聖体降福式をもってローマと世界に向けた教皇祝福「ウルビ・エト・オルビ」を与えられました。

その中で、マルコ福音書に記された嵐を鎮めるイエスの物語を引用されて、こう述べています。
「わたしたちは恐れおののき、途方に暮れています。福音の中の弟子たちのように、思いもよらない激しい突風に不意を突かれたのです。わたしたちは自分たちが同じ船に乗っていることに気づきました。」
その上で、そのように気がついたわたしたちはいま、「『わたしたちが溺れ死んで』しまうと不安げに一斉に叫んだあの弟子たちのように、わたしたちも、一人で勝手に進むことはできず、皆が一つになってはじめて前進できることを知ったのです」と指摘されています。

すなわち、わたしたちはこの嵐の中で、ひとり孤独の内に取り残されているのではなくて、同じ船に乗っている仲間がそこには存在していることに気がつかさせられている。いまするべきことは、ひとりで道を切り開こうとすることではなくて、船に乗っている仲間たちの存在に心をとめ、一緒になって前進しようと連帯することです。

教皇フランシスコが3月28日のお告げの祈りで、「あらゆる形の武力的対立を止め、人道支援回廊の構築を促し、外交に開き、最も弱い立場にある人々に配慮するよう」に世界のリーダーに求められたのは、まさしくいま人類は歴史の新しいステージに立っていることを自覚せよと呼びかけるためであります。

いまわたしたちは歴史の転換点に立っています。この感染症の危機が過ぎ去った後の世界は、これまでとは異なる世界になると主張する声も聞かれます。これまでの常識が通用しない世界なのかも知れません。どのような世界が感染症の後に展開するのか。その行方は、いま危機の中にあるわたしたちがどのような言動をするのかにかかっています。その世界を神の善が支配する世界とするためには、いま、連帯の道を選び、互いに助け合いながら、嵐に翻弄される船に乗り合わせた仲間として、一つになって前進することが大切です。

十字架の苦しみの先に復活の栄光があったのは、イエスがすべてを無にして、神にすべてをゆだねたからでした。困難の中にあるいま神の計らいにすべてをゆだね、兄弟姉妹と一致しながら歩む道を選択しなくてはなりません。対立や排除ではなく、神がその愛を持って包み込まれるすべての人と、心を繋いで立ち上がる。

神からの賜物である命を守るために、互いに連帯し、理解を深め、助け合い、支えあって行く道を求めましょう。