お知らせ

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東京教区ニュース第132号

1996年05月01日

第11回東京教区総会「意識改革」について話し合う 参加者約400人

3月29日、四谷の雙葉小学校で第11回東京教区総会が、400人近い信徒、修道者、司祭が出席して開催された。

テーマは、「意識改革〜これからの小教区共同体と信徒の役割」が「なぜ、今意識改革なのか」テーマならびに経緯の説明、滝島恵一郎氏(赤堤教会)が「これからの小教区共同体と信徒の役割」具体案の検討・提案に向けて説明を行い、12の分科会に分かれて次のような課題で話し合った。

(イ)第2バチカン公会議の理念、光による意識改革のために
(ロ)教会共同体としての意識改革のために
(ハ)「社会」との関わりにおける共同体の意識改革のために
(ニ)「青年」との関わりにおける共同体の意識改革のために

森司教あいさつ

意識を高め合うために

染しみもしわも汚れもない輝く教会共同体の確立を求めて

これまでの流れ

「これからの小教区共同体と信徒の役割」という課題が教区長である白柳枢機卿さまより宣教司牧評議会に諮問されたのは、2年も前のことになります。宣教司牧評議会は、地道に答申をまとめていくために努力を続けてまいりました。一昨年の秋には、信徒を対象としたアンケート調査も実施いたしました。そして、その分析から、この課題の実現のためには、何よりも「意識改革」が必要であると多くの方々が考えていることが明らかになりました。

昨年4月にメンバーを新たにした宣教司牧評議会は、具体的な提言をまとめるよりも、「意識改革」に絞って検討を続けることを決定いたしました。形だけ新しくしても、意識がともなわなければ、それを受け入れることが出来る人、出来ない人が現れ、共同体のメンバーの間に分裂が起こるのではないかという危惧や、魂がともなわなければ、たとえ形だけ新しくなっても、すぐさま形骸化する恐れがあるのではないか、という思いからでありました。

検討を続けていく中で、宣教司牧評議会は、「これからの小教区共同体」を考えていくために求められる「意識改革」の原点というか基点が、第2バチカン公会議にあるということで、共通の認識を持ちました。それは、現代の教会が、そのすべてにおいて、この公会議から決定的な影響、決定的な方向性、指針を与えられている、これからもその線にそって歩んでいかなければならない、という確信からでした。

第2バチカン公会議の光のもとに

皆さまご存知のように、第2バチカン公会議は、1962年10月11日、「染みもしわも汚れもない教会共同体」にしようという、ヨハネ23世の呼びかけによって召集したものです。教皇は、その前の年の12月に出された使徒回章フマーネ・サルーティスの中で、この公会議の開催目的・意図を次のように明らかにしております。

「人類社会が危機に直面しており、大きく変動しているという状況認識のもとに、そのような状況の中にある現代社会に貢献することは、教会の使命である、そのために教会の生命力をあらたにし、信者の聖化に努め、宣教の推進をはかり、教会の諸機構を整備刷新することが必要である」と。そして、その中で「刷新(アジョルナメント)」がキーワードとなっておりました。この言葉は、日本語では「刷新」ですが、イタリア語では、「日に日に新たにしていく」という意味です。

「人類社会が危機に直面しており、大きく変動している。そのような状況の中にいる現代社会に貢献できる教会となること」と、開催にあたって教皇が明らかにした公会議の目的は、私たち日本の教会にも、今もなお有効であります。1987年に開催された第1回福音宣教推進全国会議が掲げたテーマは「社会に開かれた教会づくり」であり、実に日本の教会も公会議が打ち出した方向性の中で歩んできたといえるのであります。

全国会議が、次のような言葉で、人となられたキリストをこれからの教会共同体のモデルとして指摘していることは、黙想すべき重要なポイントであると思われます。「ともすると内向きにとざされがちであった私たちの姿勢を反省し、神であるにもかかわらず、兄弟の一人となられたキリストにならい、すべての人に開かれ、すべての人の憩い、力、希望となる信仰共同体を育てるよう勧めたいと思います。」(全国会議宣言文)つまり、「教会の刷新」が、企業や一般社会の共同体の刷新やリストラと異なるところは、実に、人々を限りなく愛され、人々の労苦と重荷を背負い、その救いのために十字架につけられたキリストが、現存し、活かし、導く共同体、そしてキリストを証しする共同体となることを目指すものだということです。

さて、第2バチカン公会議のキーワードは「刷新」でしたが、全国会議のそれは「転換」であります。「内向きから、外の社会への転換」、「会員制クラブのような信者を中心とした共同体から、地域社会に開かれた共同体への転換」、硬直した「教義、掟を中心にした信仰生活から喜びをもって生きることを中心とした信仰生活への転換」というような表現から、全国会議が、何を目指しているのか、見えてきます。

また全国会議が、その実現を目指す教会共同体では、信徒、司祭、修道者、司教が、それぞれの立場で責任をもたねばならないということを、強調していることも見落としてはならない。それぞれの立場、それぞれの召命、それぞれの経験を尊重し、活かしつつ、どのように責任を分担し合って、現代社会に貢献できる教会共同体を育てられるか、これからの重要な課題であります。

信徒、司祭、修道者、司教のバランスある協力、協同作業があって、初めて現代社会に貢献できる魅力ある教会共同体が育っていくのではないかと思います。

意識を高め合うために

現代社会は、これから目指すべき教会の方向性を明らかにしましたが、私たちの現実はどうでしょうか。「意識改革」が何よりも先に必要であるというアンケート調査の結果は、多くの人々の思いの中に、第2バチカン公会議や全国会議が目指そうとした理念・指針・方向性が、司教を初めとして司祭・信徒・修道者の間に十分浸透していないのではないか、それどころかその前に風化してしまっているのではないか、という認識があったのではないでしょうか。

こうして宣教司牧評議会は、「意識」がどれほど浸透しているか、現実はどうなのか、4つのポイント(イ)〜(ニ)に絞って「意識のあり方」について点検を試みることにしたのです。今日の総会はそのためのものです。この4つのポイントの中で、恐れずに私たちの現実を直視し、いたらない点については反省し合い、さまざまなところで行われてきた種々の試みは評価しながら、公会議や全国会議の理念に対する認識を新たに深めていくために具体的にどのような手を打ったらよいのか、互いに知恵を出し合ってみよう、ということなのです。

今日ここにお集まりになられた方々は、教会を限りなく愛されておられる方々です。皆様のお気持ちは、「染みもしわも汚れもない輝く教会共同体」を育てていきたい、「第2バチカン公会議」や「全国会議」が求めた世界に開かれ、社会に貢献できる教会共同体を育てていきたい、という思いにおいては一つだと信じます。今日ここでこうした善意を互いに信じ、古い、新しいと互いに裁くのではなく、じっくりと互いの発言に耳を傾けながら、救いに飢え渇く現代社会に少しでも貢献できる教会を育てていくための道を探っていただければ幸いです。

分科会で出た意見の一部

・現代社会に即した第2バチカン公会議の公文書をブロック単位で学んで、実践してはどうか

・司祭と信徒の相互関係のなかで共同責任を明確にしていく必要があると思う。・一般信徒向けに第2バチカン公会議の目的、内容、教会憲章の公文書を解説したものが、研修会だけでなく必要だ。

・教会共同体の維持費についてのガイドラインを固めていきたい。あわせて女性の委員長を選んで共同体の活性化を諮っているとところもあった。

・青少年に教会で働く場を与えてやってほしい。

・青少年の教会離れの大きな理由は、青年にあるのではなくむしろ親の意識改革、大人や、社会全体の問題と考えることが必要なのではないか。

・青少年の教会の中での役割と担ってもらうのに、青少年自身で企画をし、中心となった活動を任せることが大切だ。

・小教区を越えた青少年の活動も必要。

・信徒の受洗御のケアが必要。

・教会維持費の納入について年金生活者への配慮をしてもらえないか。

・信徒同士本音で話し合える場がほしい。

・社会へ向けて、もっと福祉活動を活発にしていく。子供の学童保育の受け皿に教会がなっていっては。

・教会活動が社会の現状を把握してるかどうか。キリストの光をこの世にともすことが私たちの使命だ。
・カテキスタの養成が必要。

・意識改革のためには原点に戻って、第2バチカン公会議の公文書の研修、祈り、活動しながら社会へどうつなげていくかを考えていく。どのためのネットワーク作り、ブロック単位での活動等も必要だと思う。

・各小教区で共通の年間テーマを決めてはなし合い、お互いに交流してはどうだろうか。・青少年が教会運営に関われるようにする。

・カトリックもインターネットを積極的に利用すべき。

・教区総会に教区司祭が大勢参加してほしい。

・青年の問題は大人の問題であり教会自身の体質の問題である。青年の集まりが成功するのは、のびのびとして、しかられなくて、任されたグループだ。

・この問題を考えるプロジェクトチームを作って継続的に検討していってほしい。

・本当の意味の共同体が日本には無いのではないか。真の共同体を作るための基本的、長期的ビジョンを考えよう。

叙階は恵み 助祭に叙階されたパウロ・三木 稲川圭三さん

出身教会の本所教会で3月24日、助祭に叙階された。この教会からはたくさんの司祭が輩出しているが、稲川さんが18番目予備軍とか。前主任の下山師は病床にあって式に参列できなかったが、3月に叙階された浦野師を始め本所出身の司祭が顔をそろえ、助祭の門出を祝った。

稲川さんは、1959年江東区石島生まれ。5人兄弟の4番目だが3男なので圭三。 神学校に入る前は小学校の先生を9年間やってた。教師も司祭も人間相手だから、やっぱり人と関わっていたいんですよねって聞いたら、そうじゃないんですよ、と意外なお答え。そもそも子供が好きとか先生になりたいとか強く思った訳じゃないらしい。

「ぼくは基本的に引っ込み思案な性格。ひとりでいるのが苦にならないというのかな」

ええっ、今の稲川さんからは想像できないなあ。だって顔の表情がとても豊かで、人なつっこくて、みんなと関わってるのがとても楽しい、そんな感じなんだけどなあ。

「子供たちに変えられたんです」。それまで自分の気にいるやり方で生きてきたけど、子供と向き合うようになって、それが通らないと分かった。「最初は悩んだ。でも、自分が自分がのうちは自分にアイデンティティがないのに気がついた。自分を離れて相手に目を向けたときに、その中で自分がどうあるべきか見えてきたというのかな」

先生になって3年目のこの頃から、「親が行くからではなくて、自分の意志で教会に行くようになった。下山神父も、初めはいい嫁さんもらえ、次がいい先生になれ、そして委員会で働けですからね」

そうは言っても、1クラス40人すら耐えきれないのに、子供からお年寄りまで面倒をみる神父なんて、自分には考えられなかった。「それに、キリスト者の基本は、自分の立っている場で、自分が持っている方法で、今の時を恵みとして生きること。だから、いい先生になるのが使命だと思った」

「でも、最終的にいいことだったらすべきだと思った。そして呼ばれていないんだったら、早くわからせて下さいと祈っていた」と振り返る。

今の心境を「叙階は恵みなんだな、助祭になったことで、教会の中で働くものとして少しは使われやすいものになったんじゃないかな」と語る。

「行く先々で自分が変わっていたい気がする」と語る稲川さん、1年後の司祭叙階式にどんな姿を見せてくれるか、今から楽しみだ。

趣味はスキーとギターとか。

白柳枢機卿 WCRP日本委員会理事長に就任

3月21日、東京教区関口会館ケルンホールで、(財)世界宗教者平和会議(WCRP)日本委員会(庭野日敬理事長 以下WCRP)が理事長会・評議委員会を開催し、庭野理事長の名誉理事長、白柳枢機卿の理事長就任を満場一致で決定した。

白柳枢機卿は理事長就任にあたった次のようにあいさつした。

「大変戸惑っています。日本では、伝統的な仏教、神道から代表が出てほしいと思っております。ふさわしい方が出るまでしばらくの気持ちで勤めさせていただきます。

長い間ご苦労された庭野先生に感謝したいと思います。」

なお、白柳理事長の任期は、96年4月1日から99年3月31日まで。

就任に伴い、3月27日、京都・三条カトリック教会で記者会見、4月12日、立正佼成会で記者懇談会を行った。

財団法人 世界宗教者平和会議日本委員 World Conferece on Religion and Peace (WCRP) は、1970年、新日本宗教連合会(新宗連)の中心教団である立正佼成会の庭野煮日敬師が新宗連を基盤として組織し、日本の代表的な宗教教団のほとんどが参加している。

教会学校はなにするところ? 教会学校委員会によるアンケート(1995年5月実施)

アンケート結果の集計(東京教区教会学校委員会)

(1)a. 教会学校は何をするところだと思いますか。

A 信仰教育をするところ 41%
B 社会(学校)とは違う人間関係によって結ばれるところ 29%
C 神様と出会うところ、心を育てるところ 16%
D その他 14%

(1)b. 教会学校と一般の学校の違いは何だと思いますか。

A 信仰教育の場、神中心の教育、キリストの福音に基ずいた人間教育をめざす場 37%
B 社会と異なった価値観を持っていること(成績、能力で人を評価しない、一人ひとりの個性と存在が大切にされる、管理社会ではない、知識を教え込む場ではない、など) 29%
C キリストを中心として、子供とリーダーが共に学び交わる場(互いの人間形成の場、平等であること、家族的である、など) 17%
D こどもの自発性、自由、意見が出される場 9%
E その他 8%

(2)子供の信仰は誰が育てるのがふさわしいとおもいますか。

A 親(家族) 40%
B 司祭・修道者 21%
C リーダー 16%
D 教会共同体 11%
E すべての人 8%
F 自分自身 2%
G こどもどうし 1%
H 神様 1%

(3)教会学校はどのようなことを教えるのがよいと思いますか。

A キリストの障害とカトリックの教え 48%
B 実生活の中においてキリストを知る 23%
C 神の愛と生き方 22%
D その他 7%

(4)教会学校と自分自身のかかわりをどのように考えていますか。

A 自分の使命と考えている(福音宣教・信仰伝達者) 28%
B 子供のかかわりのなかで信仰を深め、共に学んでいく場 24%
C 自分自身が教えられてきたことへの感謝から、子供たちへに伝えていきたい 18%
D 自分自身を磨き、活性化する場 12%
E 自分自身を見直す場 6%
F よくわからない 2%
G その他 10%

(5)教会学校のリーダーに求められることはどんなことだと思いますか。

A 子供が好きであること(子供を大切にする、子供と一緒に遊ぶことが出来る、子供の考え方や立場にたって行動できる、イエス様のように子供を愛すること) 34%
B 神様が好き(信仰がある、よく祈ること) 30%
C 模範的(先生、子供に教えること、カトリックについての知識をもつこと)9%
D 思いやり、やさしさ 8%
E 協力、チームワーク 2%
F その他 17%

(6)あなたはリーダーをするとき、何を一番大切にしていますか。

A 「こどもとともに」あるという姿勢(子供の立場になって、子供の気持ちになって聞く、見る、話す、考える) 40%
B リーダーとしてのふさわしいあり方(子供との信頼関係、聞く姿勢、暖かさ、学ぶ姿勢、神の道具) 18%
C 伝える内容(信仰、福音、神の愛、神の心、にんげんの心、やさしさ、など) 16%
D 教会学校の雰囲気、楽しさ、喜びを感じさせること、遊びを通して学ばせることの大切さ) 13%
E リーダーと子供とのコミュニケーション、交わり 9%
F 子供に向かう前の準備としての祈り 4%

(7)あなたはリーダーとして成長していく為にどのようなことをまなびたいですか。

A 子供たちとの関わり方 30%
B 知的なもの(聖書、カトリックの教え、典礼など) 28%
C 霊的なもの(祈り、信仰や霊性を深める、など) 24%
D 子ども自身を知る 9%
E 他の教会学校、リーダーとの分かち合い 7%
F その他 2%

(8)リーダーとなったあなたは、どんなことをやってみたいですか。

A 子供たちとのかかわりを大切にしたい 35%
B 行事、課外活動に力を入れたい 14%
C 信仰、福音、神様のことを伝えたい 13%
D 教えるための方法、技術を習得したい 12%
E 教会の外、社会へ目を向けたい 17%
F 研修会、黙想会、セミナー 5%
G 他の小教区との交流 5%
H その他 9%

(9)リーダーをしていて、一番困難を感じるのはなんですか。

A リーダー間の不一致 16%
B クラスをうまくまとめられない 16%
C 伝えたいことが子供に伝わっているのか 16%
D リーダーの自身の知識賀が足りない 12%
E 子供の数が少ない 9%
F リーダー自身が忙しい 12%
J クラスのあり方 5%
H 子ども自身が教会学校に興味を持ってない 5%
I 家庭の信仰教育の不足 5%
J リーダー不足 4%
K その他 4%

(10)教会学校のリーダーをしていて、子供たちに教えられたことがありますか。また、喜びを感じることがありますか。それはどのようなことですか。

1. 子供たちに教えられたこと

A リーダーとしてのありよう 40%
B 子供の目を通した接し方、考え方 33%
C その他 19%

2. リーダーをしていて喜びを感じること

A リーダーとしての役割(リーダーをしていることそのもの) 21%
B スキンシップ、交わり 18%
C 子供の成長(身体的・精神的・霊的) 16%
D 生きる喜びを味わう 16%
E こどもらしさ、素直さ 11%
F 子供の表情に神の働きを見る 7%
G 集まること、集まり 3%
H その他 8%

 

解説

(1)b

リーダーたち自身も体験してきた「現代の教育」、それによって形づくられている今の日本の社会への批判が浮き彫りになっている。つまり、他との比較による競争や成績だけで人間を評価する社会、一方的な教え込み、知識偏重の教育のあり方に対して、教会学校への期待と理想があらわれている。

教会においてリーダーもこどもも平等であり、お互いの交わりの中で、人間としての全人格的な成長(自発性、自由さ、心の豊かさ、神の子としての成長)をめざしているが、その土台は福音、信仰であることを確認しているようである。この土台から社会とは異なった価値観が生じていることを意識している。

(3)
キリストの生涯とカトリックの教えという回答がもっとも多かった。具体的には、秘跡や祈り、典礼について教えていくことが望まれているようである。また、知識としての信仰だけではなく、日常生活の中で神さまやキリストの愛を感じたり、地域とのかかわり、身近なところで愛を実践していく必要性をリーダーたちは感じている。それは、リーダー自身の生き方が問われていることでもある。こどもたちとのかかわりの中で、リーダーがどれだけ福音を生きているか、人とのかかわりを大切にしているか、ということでもある。

(9)
教会学校を運営していくうえで、リーダーが抱えている悩みが大きいことがうかがえる。まず、リーダー自身が忙しいために、自分自身で学んだり、準備の時間が十分でなく、そのために知識不足を感じたり、こどもに伝わっているのかどうかの疑問やもどかしさを感じているようだ。また、リーダーどうしのコミュニケーションが不足しているために、信頼関係がうまくできていないところもあるようだ。リーダーがまとまっていないなら、こどもにも決していい影響は与えない。

こどもの数が少ない、家庭での信仰教育の問題、リーダー不足はどの教会も抱えている問題である。教会学校だけの問題と考えずに、教会全体として対応していくことが求められている。

(11)
ありのままのこどもの姿に接して、自分自身のおとなとしての、リーダーとしての反省や活力を迫られたという答えが多かった。こどもの持つ素晴らしさ(素直さ、純粋さ、おとなの気づかない発想や発見)に触れて感動することができるのは、リーダーをしている者の特権だろう。このこどもたちが投げかける疑問や視点に立って教える必要性は、リーダー自身が肌で感じているようだ。

リーダーたちはこどもとのふれあいや交わりに喜びを感じている。こどもがさまざまな人間関係を体験する中から「教会」(教え、祈り、聖書、信仰共同体)を感じていくものとリーダー自身もとらえている。教会学校は「信仰教育をするところ」という一定のとらえ方があるにもかかわらず、実際にはかなり能動的にとらえ、実践しているともいえる。

CTIC通信(東京国際センター) 最近の日誌から

相談センターは今日も忙しい。電話がどんどんかかってくる。ラテンアメリカ系の人々からの相談が多い。スペイン人のシスターが受話器を握りっぱなしである。

郵便物がいろいろ届く。NGOグループからの通信、新聞、協力関係者からの手紙など。相談の手紙、お礼の手紙もある。

病院に通訳のため出かけていたスタッフが戻ってきた。しばらくするとセンターのドアのむこうから女性の小さな声がした。日系ペルーの女性が現れる。さっきまで病院で通訳の世話になった方であった。シスターが相談の続きにのって下さる。FAXの着信音が鳴り始める。部屋のすみの電子レンジが鳴った。出動するスタッフが早目の食事を用意しているからだ。木曜日のボランティアのシスターが到着して継続中のケースの報告がなされる。

江東区のリサイクルセンターに電話をいれる。5人の小さな子供を育てているフィリピン人のお母さんが2段ベッドを必要としていたので、CTICがくじ引きで申し込んでいた。くじで当たったかどうか尋ねてみると残念ながらはずれていることがわかった。「祈りが足りなかったんじゃないの」、と誰かが言ってみんなでにが笑い。

最近の日誌から少しひろい読みしてみよう。

・フィリピン男性、賃金未払い。労政事務所の相談員を紹介、会うようにすすめた。
・フィリピン女性、酒乱の夫のこと、家裁調停のこと、ビザの延期のこと。
・ある特別養護老人ホームからCTICに寄付の申し出。
・バングラデシュ男性、友人の労災について。クビになりそうで悩み、恐れている。
・信徒の方より電話で4人のフィリピン人の未払いのこと。その市の労基署を紹介した。
・右手指2本を切断してしまい、労災保険を受けていたフィリピン女性。傷口が痛くてたまらないとの訴え、再診療を受けるようにルート整備。
・スペイン人女性よりノイローゼのことで。本人の夫、近隣の司祭、修道院がチームで対応するよう配慮。
・チリの日系2世男性より。日本語修得について相談。
・ペルー日系2世女性より。国民保険の内容で質問。
・コロンビア男性、逮捕され判決4年。面会を望んでいる。
・東京の施設に精薄児の子供をあずけているフィリピン女性より。ビザ変更、離婚等合わせて相談。施設職員来訪。
・江東ユニオン(労組)より連絡。ボランティアネットの件。材木会社でおきた19名の外国人の未払いの件。
・警察署内で脳内出血で倒れ意識不明の人の件。病院、労基署と連絡して救援対策。
・不登校の子供のこと、父親は酒乱。母親と交渉。
・コロンビアより国際電話。日本でつかまっている息子のことで母親からの依頼。
・ペルーより国際電話。つかまった人たちへの面会要求。
・ペルーより国際電話。ペルーへ強制送還された人より。日本に残した銀行預金を送金して欲しい。
・フィリピン女性、アパート探して。本人問題山積み。
・フィリピン人向け雑誌の取材、CTIC載る。
・集団未払いの件、総額約1000万円。方策検討する。
・入管へ付き添い、ビザ更新のこと。入管と相当もめた。
・パキスタン男性、学費ローンの相談。学校と交渉必要。
・全身やけどを負ったフィリピン女性の母親より手紙で連絡あり。文面タガログ語。
・東京拘置所へ面会に行く。
・離婚裁判の件で弁護士事務所へ行く。非常に難航する。
・来訪予定者、約束すっぽかして現れず。音信不通となる。
・ペルー男性より。交通事故死した兄弟のことで。

これらはほんの1部の記載である。プライバシー保護のため、メモ程度の内容にとどめた。なおCTIC運営委員会は教区に提言するための外国人司牧草案を作成する。

迷惑駐車はやめましょう! 教会駐車場事情

町田教会 立正佼成会の善意に支えられて

私どもの町田教会は、町田駅から歩いて10分程の距離にあります。最近は、車社会で教会に車で来られる方が相当に増えて参りました。駐車スペースは教会の庭には25台がギリギリです。

町田教会は、町田市、川崎市、横浜市、相模原市、座間市、大和市、多摩市からと多方面からの信者さんがおります。(私も住所は相模原市ですが、町田教会が歩いて30分で一番近い場所です。)

町田教会は、毎日曜日に駐車のお世話をして下さる当番が2人1組になって決まっています。当番は9時半からの「ミサ」と祝日の時だけですが、当日は早くから教会に来てお世話をして下さいます。予定の台数が一杯になると「ミサ」間近かに来られる信者さんは、近くの駐車場を探します。時々路上に停める不心得の方もおりますが、近隣からは、日曜ミサの時間の路上駐車は、カトリック信者と決めてかかり、すぐ注意の声か、電話が教会にとどきます。このような町田教会の駐車状況ですが、祝日の時は、台数もふえるので、以前は近くの都税事務所の駐車場をお借り出来たのですが、責任者の交代を期に、一切、断られてしまうようになってしまいました。

その後近隣の立正佼成会にご相談したところ立正佼成会の行事と重ならない限り「どうぞ」とおっしゃって下さり、以後はお借りすることが出来るようになり、助かっております。お借り出来た時は、教会の駐車当番の人数をふやして、立正佼成会に迷惑のかからないようにと、気を使います。特に私どもでは(イ)クリスマス (ロ)復活祭 (ハ)バザーの日(2年に一度)に限ってお願いをしております。

立正佼成会は、いつも気持良く、時には先方の信者さんたちの場所を無理してもお貸し下さるので申し訳なく思う時もあります。料金は受けとられず、時々お礼にお菓子をお届けしているだけです。

立正佼成会の庭野会長がヨーロッパに出かけられる時は、必ずバチカンを訪問され、教皇さまにご挨拶されるそうですが、いつもやさしく迎えて下さるので、よろこんでおられ、特にカトリック教会には親しみを感じて下さっておられるとの話しをお聞きしたことがあります。

以上が町田カトリック教会の駐車の状況ですが、お年寄りや、お身体の具合の悪い方には、なかなか酷なことになりますが、「ノーカーデー」の日曜日があってもいいのではないかと、前もって「ノーカーデー」の日は信者さんにお知らせをして、テスト的に実行をしたこともあります。この結果、とくに信者さんたちからの不評の声は入りませんでした。

主任神父さまのお考えもありますが、町田教会の周辺も徐々に都市化されてき、いわゆる郊外型から都市型に変ぼうしつつある昨今は、教会へはバス・電車等の公共交通へ切り換えるべき時代に来ているのではないか、との考えもあり、今後しばらくは、信徒間での討議の的となると思われます。いずれにせよ車社会の良し悪しが「駐車」という形で、いま町田教会に問われていることは確かです。
(新納春雄)

西千葉教会 ミサとモータリゼーション

我がカトリック西千葉教会は駐車場の狭隘さでは、東京教区ではワースト5に入るとか、あまり光栄でもないレッテルを頂戴しているそうな。教区ニュースの編集部からその実態を文字化せよとの要請に従い、筆(カーソル)をとっている。

我が教会の実態は所属信者数1400名、300世帯を公称する。人数にして千葉市民のおおよそ0・3%である。市内には千葉寺教会と都賀集会所を擁しているので、日本における信者比率0・3%にほぼ近い数字なのかもしれない。千葉は日本の盲腸と言われ、関東一都6県の一つではあるが、決して首都東京の延長線上にはないと言われている。武蔵野の面影色濃い3鷹市と県都千葉市を結ぶJR線の黄色い電車が走り、一都2県を股にかけて走るJR横須賀-総武快速線があって、一見都会風のそれであるが、一歩市内に入ると、田園のあぜ道を舗装したような狭隘な道、そこを走る公共交通機関の主体は時間的にも最も正確性に欠ける民間各社のバスである。

わが教会の最大の悩みは正に駐車場問題であるといって過言ではない。これを見事見抜かれた編集部の慧眼には素直に脱帽したい。駐車場と正式に名乗れる場所は一切ない。主任の小型車、助任のライトバンをかろうじて置ける駐車場ならざる車寄せ的な場所が公道に面して2台分が存在するだけである。

従って、隣接して幼稚園経営を行う「宮崎カリタス修道女会西千葉修道院」の園庭を拝借することになるが、日曜日(終日)と土曜日(夕方)に限られ、駐車台数は18台がマキシマムであろう。これでは足りないので教会近くにビルを構える出版系の民間G社のご厚意でミサ時のみ拝借している。駐車台数15台がマキシマムであろう。合計すると「33台」、これが駐車台数の全てである。

総務担当者は過去に駐車場を求めてホッツキ歩いた経験を有するが、何しろ千葉市有数の住宅街のド真ん中に位置し、たとえあっても主日のみ、しかも宗教法人に使用権を与えて下さる民間企業はG社を除き皆無である。

主日のミサ出席者の大まかな数といえば、土曜日17:30に50〜70名、日曜日7:30には70〜100名、9:30には120〜150名、第1日曜12:00英語ミサには100〜150名の外国人がミサに参加される。総務担当者がこれら時間帯に教会周辺の公道上に駐車しているミサ参加者の車とおぼしき車両をチェックすると、その数おおよそ上述駐車場内の車両数をはるかに上回るのは必然である。因みに、千葉県警が所轄する市内の合法的な路上駐車可能場所(有料を含む)は皆無に近い。

通常の主日は路上駐車にも気を遣って下さる常連の方が殆どであるが、大祝日(クリスマス、イースター、聖母被昇天)、バザール、幼稚園運動会ともなれば近隣の場所はご遠慮いただく事になる。

しかし、信者数人口の0・3%の我が国で、「ミサは電車・バスで来てください」と言う勇気は持ち合わせていない。ご主人が未信者の場合、ミサが終わって昼ご飯を作るために急いで車で帰宅される方に「タクシーでお帰りになったら」と言う勇気も持ち合わせていない。

船橋教会 駐車のため息物語

*船橋教会ではいま、2000年完成を目途に聖堂の全面建て替えを計画している。

その理由は(1)建物の狭隘化、(2)老朽化、(3)典礼上の不備などがあげられるが、もう1つの(最大の?)理由は、(駐車場の確保)である。

*普通の日曜日のミサ参加者は、300人から400人。自家用車は少なく見も50台だが、現在は構内の駐車スペースはゼロである。50台は教会の前と地悪にある路上に15台、離れた路上に25台、公立中学校の空き地に10台、無断駐車なので、心の中で手を合わせて、そっと置いてくる。

*手を合わせても、ご近所からのクレーム、直接の苦情電話、警察への電話通報・・・。しばしばミサ中にナンバーで車の持ち主の呼び出しも・・・。

*こうしたトラブルを少しでも防ごうと、毎日曜日、『教会関係者は駐車禁止、カトリック教会』という立て札を、早朝に数箇所出してミサ後に片付けるなどの努力はしてるが、根本的な解決策ではない。以前は、クリスマス、復活祭、バザーの時など、教会の近くの空き地や学校を訪ねては、地主さんに、1日だけと臨時の駐車をお願いしていたが、年々それも難しくなっているのが実状。

*立て札の出し入れ、空き地探し、何より苦情(時には罵声)への対応が、主任司祭や教会委員会の重要な仕事になっている。とにかく、「こんな近所迷惑を、教会たるものがしていいのかよ!」といういわれ方が一番身にこたえる。

*『自動車での来場禁止、全員電車とバスで集合』とできれば、問題ないわけだが・・・。東西役30キロ、南北約15キロ、JR山手線の数倍の広い地域から、お年寄りや身体の不自由な方が現に通っておられること、交通費が以外に馬鹿にならないこと、場所によって他の乗り物では時間が大変かかること、等々を考えあわせると、それは出来ない相談。教会も、船橋のような典型的な”郊外の教会”では、自動車は贅沢品ではなく、当たり前の生活必需品になってきている。駅前型も必要だが、場所によってはファミリーレストランのような”駐車場たっぷりな郊外型”も、これからは視野に入れていかなければならないのであろう。

*”地域社会に開かれた教会作り”とともに、”地域社会から車でも怒られない教会作り”も必要なんだよな!と、路上の車の列を見ては、心を痛め、ため息をついているのある。
(小林章雄)

神田教会 駐車場の現状

・主日のマイカー使用台数・・・15台前後
・駐車場所・・・教会周辺路上
・管理・・・自主管理、時間が長引く場合、自主的に移動
・周辺地域との関係・・・あまり問題はない、とこにはクレームがあるが各人で解決。有料駐車場、車庫付近、出入り口、横断歩道も注意している。また近くに後楽園、学校等があり、駐車できる場所が急に減る場合があり、警察の線引き時間管理も時々あるが個人で注意して対応している。
・最近のクレーム例・・・駐車場所について同じ相手から2週連続のクレームがあり、オーム真理教と同類とのいやみの言も。連続でもあり委員が改めて挨拶することで収まった。
(木田英也)

以上の通り、全くのお手上げ状態が実態である。ヨーロッパにおける教会数を羨むのも、アメリカ合衆国の広大な国土(車を停める所が駐車場)に涎を流しても何の解決にもならない。山国で平地が少ない国土に1億2000万人がひしめき合って生活しているのである。しかもくり返しになるが0・3%なのである。小教区のリストラと駐車場確保は21世紀における小教区存続の必要条件なのかも知れない。チャペル規模の教会でも最低百台を収容出来る駐車場が必要ではないだろうか。聖体奉仕者の養成もさる事ながら、ワースト5の汚名は当分ぬぐえそうにもない。新たなる試練の時の到来と言えるのだろう。
(山極順二)

ニコラス師講演 司祭とのかかわりにおける信徒に意識改革について(1)

はじめに

私はなぜこの講演を引き受けたのかを自問しています。

このテーマについては、私より皆さんのほうが体験しているし、その中に含まれている課題をご存じだと思いますが、自分なりの経験と勉強と聞いた話から何かヒントになるいくつかのポイントをご紹介しようと思います。

このテーマは、簡単であるからこそ難しいともいえます。多分、私の話があたりまえ、今教会のなかでは常識になっているはずと、皆さんがお考えになれば幸いですが、残念ながら、まだ常識になっていない過度期の緊張感の中にあります。

「意識改革」という言葉はとてもよい言葉です。知っていても自分の意識の深いところまで入っているかどうかということは、私たちの課題だろうと思います。

第2バチカン公会議あるいはNICE(福音宣教推進全国会議)の集まりとか、新しいことは全部そうですが、合理化された教育の現代では、大事なことが昔と違って身体から入らずに、頭から入るから心まで行かないで、頭のなかで遊んでいる事が多いのです。頭のなかで私たちは知っていても、身体まで行かないというのが現代のプロセスのひとつの限界です。

私はこのテーマについて、司祭に話すことが多く、信徒に直接話すのは今日で3回目です。

「意識改革」に際しては、司祭と信徒が同時にしないと、教会にはいろいろずれが出てきてしまいます。司祭と信徒が一緒にこのテーマについて、いつも話すほうがよいと思います。

それでは、このテーマを、次の4つにわけて考えてみたいと思います。

(A)バチカン公会議の後、とても画期的な時期がありました。今まで続いているところもあります。いろいろなセミナー、研究会、イニシアティブが出てきました。
(B)いつの間にか、そのなかにあいまいさが出てきました。
(C)その結果として、私たちは不安とフラストレーションを味わうようになりました。
(D)したがって、私たちはより効果的になにをしたらよいでしょうか。

画期的な意識はどこから出現したか?

a、神のイメージが変化しました。

神のイメージが「遠い神」になりました。遠くから私たちを見ている神とか、聖なる神として私たちが罪人-教理が大きくなりすぎると、自分が神との接触が難しくなり、自然に仲介者を多くする誘惑にかられます。

これは、旧約聖書にもあるし、ほかの宗教にもあります。自分が神と接触するのは、危ないか、難しいか、どうすればよいかわからないから、どなたかが間に入ってくれればと考えます。仲介者は、神父たちであり、修道者であり、特に白い制服を着たシスターなら清い方としてピンときます。

神に近い方として私たちのために祈って下さる、自分の物足りなさが清められて、祈りの形として神にいくから助かるという誘惑です。

これらによって、私たちは自分の信仰や生活において消極的になります。

新約聖書では、「仲介者」はいらない、仲介者はキリストだけです。キリストは私たちの兄弟、私たちと同じように苦しんで、同じような身体で歩んで、食べて、寝て、疲れて、すべてを捧げて神への道をもう一度あけて下さいました。直接の道が開かれたということが新約聖書の大事なポイントです。

今私たちが思い起こす神はいろいろな名前があります。全能の神、ヤーヴェ、エルシャダイ……。新約聖書ではイエスの降誕の時、エンマヌエル―私たちとともにいる神、そばにいる神です。

NICEの歩みのひとつのキーワードは、「ともに」でした。―ともに喜ぶ、ともに歩む……。

私たちがともに歩める神(エンマヌエル)です。仲介者はいりません。司祭は仲介者ではありません。キリストは仲介者です。司祭もともに歩む信者です。教皇さまも、大司教さまも、司祭も信者も皆同じように神の民のなかで、役割は違っても、神とともに歩む方です。

だから、私たちは受け身ではなくて、司祭とシスターがしっかりしていれば教会は元気だということは、成り立たないのです。

よって、私たちが教会のなかで、皆神とつながって、神のもとに生きるということがひとつの「意識変革」です。

b、洗礼・堅信・ご聖体を新たに考え直す時代がありました。(信徒使徒職と洗礼の再確認)

洗礼の意味は、幼児洗礼ではなくて、「大人の洗礼」の意味です。キリストの友として、キリストの恵みに与かることです。

-私たちの使命は、司祭からではなく、聖霊から恵みを頂いているのです。その恵みは教会のためです。

司祭もその恵みを頂いて、ともに歩むとき、教会をまとめていく役割を担うのです。(後述)

私たちの生きる恵み、奉仕する恵み、証しする恵みは全部聖霊からです。聖霊は自由に恵みを与えます。私たちは、キリストとともに洗礼をうけ、キリストとともに聖霊にみたされ、キリストとともに私たちの生活全体を深めていきます。

信者は皆、キリストの祭司職にあずかっているのです。私たちの生き方全体は、祭司的な生き方であり、そのすべてを私たちの賜物として、ミサの時に捧げています。

第2バチカン公会議のおかげで、このような意識が教会に戻ったとき、一時的にしばらくの間、画期的に「信徒の時代」ということがあちこちで、論文のなかでも教会のいろいろな活動のなかでもよく言われました。

ここから出る結論は、「教会とは私たち皆である」ということです。「信徒の尊厳」の時代とも言っていいと思います。

信徒であるという意識の復活がそこにあると思います。

これは、私たちに私たち自身の個人的な尊厳や価値の新しい意味をもたらします。私たちは、社会と家庭におけるのと同じ方法で、最終的には教会における自分の位置づけをはっきりさせる必要があります。

洗礼によって受け入れられ、聖霊の恵みを受け、自分の生活のなかで意識し、責任を持ち、積極的な関わり方が当たり前になっているはずです。

今のカトリック教会の常識はこれだと思います。日本の司教団が、NICEを考えた背景にはこれがあると思います。 (次号に続く)

教区委員会紹介(2)「一粒会」

一粒会の正式名称は「東京大司教区一粒会」といいます。

名称の歴史を振り返って見ますと、昔、長崎の貧しい信徒たちが、毎日ひとつぶのお米を出し合って神学生の食料にしたということからきえます。

昔、東京教区でも、毎日1円ずつ寄付するという一粒会がありました。小さな力を出し合い神学生のために援助をするという趣旨でした。

1982年、司祭・修道者の召命の為、教区民の意識を高め、精神的・物理的援助の協同責任を培うことを目的として、新しい一粒会が発足しました。

会則5条には、会長には東京大司教があたり、会員は教区民全員とする、とあります。ですから、私たち一人ひとり、すべての信徒が司祭・修道者の召命のために、祈り、犠牲を分かち合うということなのです。

一粒会の運営は各ブロックより選出された2名ずつの委員と、その他運営委員が必要と認めた者によって運営委員会が構成され、現在3人の担当司祭のもと、毎月運営委員会を開催しております。

運営委員会では、この目的に従って、継続的な仕事として「一粒会だより」の発行をはじめ、オルガンコンサートを隔年開催し、既に5回、10年が過ぎました。またコンサートの無い年は、教区・修道会・宣教会の在京新神学生と共に「召命のためのミサ」の集いを行い、懇談会では、神学生と語り、懇談会を深めてきました。

今年も第3回の「召命のためのミサ」を11月17日(日)に開催します。

さらに一粒会として、貧しかった時代、修道会・宣教会・修道女会などの援助により神学生を助けていただいたことを感謝し、毎年の余剰金をプールし、1億円になったらそれを基金とし、その利子を修道会・宣教会の神学生の養成のお手伝いをさせて頂きたいと、名がえんん頑張ってきました。今年その目標を達成することが出来ました。本当にありがとうございました。

尚3月3日の叙階式で、東京教区に2名のししが誕生しました。そして、今年1名の神学生が入学し、現在7名です。

これからも一粒会はっての為ご協力、ご支援をお願いいたします。
(梅田文夫)

31名中21名が奉仕中 集会司式者・聖体奉仕者にアンケート

95年4月30日付で、教区長・白柳誠一枢機卿から、1年の期限付きで集会司式者・聖体奉仕者に任命された32名の信徒たちの任期が、この4月末で切れる。編集部では、この人たちがどのように奉仕活動と行ってきたかをアンケート調査をした。

回答者が今、感じていることをいくつか紹介する。

(1)奉仕をしている人の感想

聖体を取り扱うことは、司祭の固有のものとの考えがまだまだありますから、「小教区の信徒の役割」のテーマのなかで、粘り強く奉仕していこうと思っています。仕事の関係で平日の奉仕は出来ないので、ご病人への奉仕は2〜3年先になろうかと考えています。この春、関口で開催される講座に女性の参加を期待し呼びかけています。
(54才・男)

2度の奉仕をさせていただいて感じましたことは、やはりこんな神聖な事を、繁雑な家事をしている私が担当してよいものか疑問を感じました。
(53才・女)

女性で年ですので、教会の信者の方が受け入れて下さるか、とても不安でしたが、何のこだわりもなくご降誕祭におん血のカリスを奉持することができ、より深く感謝し、信仰を強める毎日です。
(67才・女)

(2)奉仕をしていない人の感想

奉仕される側の方々の理解というより感情的なものが一番問題です。特に、女性が女性の奉仕者に対しての一種の反感はなかなか解決しにくいように思えます。今までの聖職者中心、男性中心の教会のあり方の後遺症でしょうか。
(56才・女)

私たちの教会では、5人認定して頂き、ごミサの時順番に聖体奉仕をしています。申しわけないと思いながら、私は病気の方への奉仕をと思っていましたので、まだごミサでの奉仕の決心がつかず逃げている状態です。私は自分が女性であることに自分でこだわり、皆に受け入れられるかどうかが怖かったのです。自分が教会の女性の奉仕をおおいに望んでいながら、自分が逃げたことを反省し、今年は受けさせていただきたいと思っています。
(52才・女)

私たちの教会は、今まで4人の神父様がおられましたので信者の奉仕の必要がありませんでした。今後は2人になりますし、少しずつ役に立てたらいいなと思います。
(56才・女)

奉仕者は絶対に、ほんのわずかでも奉仕することで司祭もどきの「権威」を求めてはならず、また受ける者は、奉仕者がそれを求めていないということを信じられることが必要です。信仰の成熟が切に求められると思います。
(61才・女)

回答者の内訳

性別
男 12
女 19

年令
40代 4
50代 10
60代 14
70代 2
無記入 1

所属教会
東京地区 8
千葉地区 23

編集部から

桜の花が街をピンク色に染めあげると、日本中の人々の心がソワソワウキウキ、春の到来に歓呼の声をあげるけど、今年は桜の満開と復活祭がぴったり重なって二重に歓呼の声をあげた人も多かったのでは!?ウチの教会でも、復活徹夜祭を祝ったあと、「さあ、花見だ!」と酒ビン片手に繰り出して、夜を徹して飲みあかし。「これぞ本当の徹夜祭だ」とか言って、次の日曜日に赤ら顔で教会に来てたけど、皆さんのトコもやつぱりそうだった!?

教会の駐車場についてはどの教会も深刻な問題を抱えていることが原稿をお寄せ下さった方々の記事でよくわかります。ヒヤヒヤドキドキしながらも、車をとめてミサにあずかっている方もおいででしょう。東京教区の中で、一緒に考えていかなければならない問題の一つですね。皆さまの中で「教区ニュース」で、”こういう問題をとりあげてほしい”というテーマがございましたら編集部までどしどしお寄せ下さい。またご意見も是非お寄せ下さい。

集会司式者・聖体奉仕者の方々へのアンケートに対して時間が短かったにもかかわらず、32名中31名の方が回答して下さいました。社会における女性の現状と同じで、女性の奉仕を冷たい態度で受けるのは女性だという声がお一人ならず何人も……。ここでも意識改革が必要なのでは。

4月21日に行われたインターナショナルデーは、久しぶりにカテドラル全構内をフルに使え、バザール、アトラクションなど最大の規模となりました。次号で特集を組み、当日の様子をお伝えします。どうぞ、お楽しみに。