お知らせ

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東京教区ニュース第112号

1994年05月01日

第9回東京教区総会開催 テーマ 「神のみ旨に基づく家庭を育てるために-プロジェクト作り-」

昨年10月長崎で開催された第2回福音宣教推進全国会議(以下、NICE・2)を受けて、東京教区第9回総会が3月21日、千代田区6番町の雙葉小学校で、「神のみ旨に基づく家庭を育てるために-プロジェクト作り-」をテーマに開催された。

まず、白柳大司教があいさつ、「NICE・2は、家庭を取り巻く現実を取り上げた私たちの共同体は、この『家庭』に何ができるか探ろうとしている。家庭が福音化されらば、社会も福音化される」と述べられた。

続いて、NICE・2参加者報告、森一弘司教からプロジェクトの原案説明があった。参加者297名は、その後13のグループに分かれ、プロジェクト作りを目指して、4つの柱「祈る」「学ぶ」「分かち合う」「助け合う」について熱心に討議した。

NICE・2参加者報告

塚本岩伊和男司(拡大事務局)

塚本氏は、「NICE・2には、16教会をはじめとして、オブザーバーを含め、300名弱が出席した。

全国会議は、会議ではなく、日本の教会の刷新運動であると確認できた。したがって長崎は通過点であり、祈りが大切にされたのも特徴である。

各教区の準備段階にばらつきや格差が認められ、全体会、分団会でも議論がかみ合わないことがあった。

『展望』は、準備段階で作成しないという申し合わせであったが、不完全ながら提案できた。

信徒・司祭・修道者・司教が同じテーブルで話し合えたこと、『家庭』の問題に対して教会共同体が立ち遅れ、無力であったことを知りえたことが一番の収穫であった。日本の教会の刷新運動はこれからも続く」と述べた。

稲留敦子氏(高円寺教会)

続いて稲留さんは「NICE・2で祈りと生活の一致を体験できた。会議では、教区間の準備、ばらつきを感じた。東京では、教区総会でも、分かち合いをしたので幸せだと感じた。

分団会であは、青年の悩み、素朴な疑問から端を発し、活発な意見交換の後、『教会共同体の刷新』を第1の柱にする提言をした。ナイス青年ネットワークも発足したり、自分の小教区でも徐々にナイスの実りが見えてきている」と語った。

森司教プロジェクト原案説明

森示教は、テーマ「神のみ旨に基づく家庭を育てるために」東京教区として、どういうプロジェクトができるかを、4つの柱「祈る」「学ぶ」「分かち合う」「助け合う」を、教区、ブロック、小教区、小グループのレベルで具体的に考えてほしいと述べ、午前中は、各自の関心のあることを話し合い、午後からは4つの柱を総合的にまとめていくようにと、説明した。

新司祭紹介

つづいて白柳大司教から、3月6日、東京カテドラル聖マリア大聖堂で司祭に叙階された猪熊太郎、油谷弘幸神父が紹介された。

なお、猪熊師は、高円寺教会、油谷師は洗足教会に赴任する。

ひと昔小話〜カトリック中央協議会事務局の10年〜

「神父さま、小教区を離れる可能性について話したいので……」と、白柳大司教さまよりの電話。この声は、私にとっては待ちに待っていたものでした。サバティカル(研修休暇)をお願いしてから数年経っていたのですから。それに、シルクロードあるいはアフリカ大陸を車で巡ろうと考え、ランクル(トヨタ製四輪駆動貨物車「ランドクルーザー」の略称)まで仕入れており、条件はかなりそろっていたのです。

「神父さま、中央協議会事務局で働いてみませんか…」そう、この大司教さまのひと言が、シルクロードの終わりであり、小教区を離れる発端だったのです。1984年3月のことでした。

折りも折り、日本の司教団は、その使命である福音宣教にカトリック信者が、一丸となってまい進すべく、まず、その中央機構の役割を果たすカトリック中央協議会のリストラと充実に取り組み始めた時期でもありました。

イッキに言い切ってしまいましたが、同年5月1日からの10年は、……ま、言わぬが花といたしておきましょう。

「神父さんは、教会というグラウンドで今まで右バッターだったけど、今度からは、左バッターになるって感じでいいんじゃない?任務終了のときには、スイッチ・ヒッターになっているわけだし…」と言って励ましてくれた人。「およそ事務職には似合わない神父」と表現してくれた某カトリック新聞。

「3年任期だから、すぐに戻れるヨ」とアテない慰めのことば。

そうそう、昨年司祭月例集会に出席した際、向いに座った」ハ0歳代の神父サマが、私にむかって「昔ねぇ、東京教区にはねぇ、岩橋っていう神父がさぁ、いたんだよ……」ですって。

日本カトリック司教協議会組織からくる教会的職務。カトリック中央協議会組織からくる法人的職務。その整合化。

言ってしまえば、それまでよという仕事ですが、それがまた・・・。

最新型の飛行機を飛ばしたい、と決定されれば、滑走路作りから始めるという現状も多く、結構汗を流しました。涙かな?

それはそれとして、「ありがとう!」「ごめんなさい!」「おはようございます!」「また、あした!」などと心から声をかけられる仲間たちがいたということそのものが何よりもうれしく、どんなにか心が熱く燃えたか筆舌に難いものがあります。

どこにいようと、人とのかかわりの中に身を置きたいわけで、それなしの人生など考えられませんし、心の成長もないと感じているのです。

「カトリック中央協議会事務局長」という役職から、多くの関係者方と出会えたわけですが、退職に伴い、役職上の交際は終ります。でも、中には「事務局長」としてよりも「岩橋」としておつき合いしてくださった方々も少なからずおられ、今後の私の人生にとって大きな力となってくれるものと喜んでおります。

再び東京教区司祭として奉仕させて頂くことになりますが、やっと念願のサバティカルを頂戴できました。満を持していたランクルも満13歳を迎え、シルクロードどころではなくなったかな?どうやら、シルバーロードでも駆けることになりそう……。1994年4月13日をもって中央協議会事務局を退職。

まずは良きご無沙汰のお詫びかたがた、復帰のご挨拶をさせて頂きました。

(いわはしジュンいち神父)

ずーむあっぷ ザビエルの足跡をたどって50年 キリスト・イエズスの宣教会

東京教区内に本部を置く修道会は多いが、その中でも修道会創立から100年未満という会はごくわずかである。

そのうちの一つ、流山市に本部を置くキリスト・イエズスの宣教会が3月14日、創立50周年を迎えた。同月20日には麹町教会で森一弘司教司式による記念ミサがささげられ、同会の50周年を祝う人々で、大聖望はあふれた。

同会は、フランシスコ・ザビエルの故郷、スペインのナバラ地方で誕生。創立者はマードレ・カミノと親しまれていたマリア・カミノ・サンス・オリヨ他2人。 ザビエルの精神に倣い、世界各地の宣教を志し、ザビエルの宣教地・インドから1951年来日。現在、スペイン人、日本人、ボリビア人計34人が、流山市の神愛幼稚園、杉並、江東をはじめ、山口県の防府市、小野田市で宣教活動に励んでいる。

現在、世界8カ国で、温かい共同生活での模範を示しながら、派遣された国の要請に応じた宣教を繰り広げている。

金祝・銀祝おめでとうございます

金祝

アルベルト・カルペンティール師 (ドミニコ会・ベルトラント)
ベルナルデイン・シュナイダー師 (フランシスコ会・聖書研究所)
ローレンス・クルエル師(イエズス会・ロヨラハウス)
ロレンソ・ラウレス師(イエズス会・ロヨラハウス)
秋元保夫師(サレジオ会・育英修道院)

銀祝

水野克彦師(フランシスコ会・聖ヨゼフ修道院)
ダニエル・コリンズ師(イエズス会・SJハウス)
高柳俊一師(イエズス会・SJハウス)
ジュオフロイ・マルシャン師(パリミッション・小岩教会)
深堀英二師(マリア会・暁星修道院)

NICE・2答申に対する司教団文書 家庭と宣教 -家庭を支え福音を生きる、教会共同体の実現を目指して

キリストにおいて兄弟姉妹である皆さん

「家庭の現実から福音宣教のあり方を探る-神のみ旨に基づく家庭を育てるために-」を主題として開かれた第2回福音宣教推進全国会議(以下、第2回全国会議と略します)は、日本におけるカトリック教会の、一つの記念すべき集まりでした。

この集まりにおいてわたしたち信者一同は、それぞれ違う場所に住み、異なる問題に直面していても、同じ神の子、同じキリストにおける兄弟姉妹であることを確かめ合うことができました。また、日本の教会が、さまざまな人間の弱さと限界をもちながらも、聖霊の導きのもと、ともに一つの仲間として同じ歩みを続けている、という喜びを確認しました。参加者は、それぞれそのことを体験し、その喜びを自分の教区へもちかえることができたと思います。

1、家庭の現実から

教会の使命は福立日宣教です。第1回福音宣教推進全国会議(以下、第1回全国会議と略します)に際し、日本のカトリック教会は、福音宣教のあり方を考えるにあたって、生活の現実から出発する方向を選びました。第2回全国会議は、第1回全国会議にならい、人々の生活の中心である家庭の現実に焦点を当てることから出発して、この使命に取り組むことにしました。

現代の家庭をみてまず気づくことば、社会のあり方が家庭に大きな影響を与えているということです。今の社会では、経済価値が過度に優先され、人よりも物を大切にする傾向が目立ちます。この社会のあり方は、その基本的構成単位である家庭の人間関係に深刻なゆがみをもたらしています(注1)。

また、最近の人々の性や結婚についての考え方のなかには、人間の尊厳に反する点が含まれています。本来、男女の性は、結婚によって夫婦の共同体をつくり、新しいいのち、子どもを生み育てることに向けられていますが、最近、この点について、人々の考え方は変わってきました。性のもつ意義と役割、さらに倫理についての意識も大きく変わりつつあります。新しいいのちの誕生についての配慮にも多くの問題が見られます。

このような現象の背景には、社会の重圧に苦しむ人間の弱さがあり、他方、一人ひとりの人間のエゴイズムという問題があります。

しかし反面、人間と家庭の正しいあり方を模索する動きもみられます。「こころの時代」といわれてから久しくなりますが、多くの人々は、経済価値が人間にとって第一の価値ではないことにあらためて気づき、家族の交わりを大切にするようになっています。人々の間で、高齢者への配慮、女性の人権、そしていのちの尊厳に対する意識も高くなりました。さらに、家庭という枠組みを越えて、病者や障害者の介護に献身し、幼いいのちの尊さを訴え、また子どもの人権を擁護する人々の声もしばしば聞かれます。

このように、現代の家庭には、人間らしく生きたいという切なる飢え渇きがあり、また、一人ひとりの人格の尊厳を大切にする動きもあり、それを「福音の芽生え」とよぶことができます。

この現実をみるとき、今の家庭こそ救いを必要としている、といえます。この救いを求める叫びは、たとえ人々が意識していないとしても、救い主キリストへの飢え渇き、キリストを求める叫びであるといっても間違いではありません。この叫びにこたえることが、今のわたしたち日本のカトリック教会の務めではないでしょうか。

2、愛の共同体である家庭

この現実を前提として、あらためて、教会の教える家庭とその使命について考えたいと思います。

教皇ヨハネ・パウロ2世は、「家庭は、人間共同体すなわち夫と妻、親と子、親戚からなる共同体です」(注2)と述べています。また、家庭は次の4つの使命をもっていると教えています。

(1)愛の共同体をつくること。
(2)生命に仕えること。
(3)社会の進歩発展に参加すること。
(4)教会の生命と使命に参加すること(注3)

この使命を生きることは決して容易なことではありません。しかし、この理想に向かって歩むようわたしたち一人ひとりを励まし助ける神の愛、神の力をわたしたちは受けることができます。家庭は何よりもまず愛の共同体です。愛があってこそわたしたちは、家庭の使命に参加し、家庭の使命を生きることができるのです。

そこでわたしたちが、愛の共同体である家庭を築いていくためには、まずわたしたち一人ひとりが、神の愛をしっかりと受け止めることが必要です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛されました」(ヨハネ3・16)。どんな家庭も、いかなる状況におかれていても、この神の愛から切り離されてはいません。信仰を通して神の愛を深く知れば知るはど、わたしたちには神の愛にこたえる力が与えられることでしょう。なぜなら、「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」(ローマ5・5)。

イエスは、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしのおきてである」(ヨハネ15・12)といわれました。わたしたちはまず、イエスが、どんなに深くわたしたちを愛してくださっているのかを知らなければなりません。そうすれば、わたしたちも互いに愛し合うようになるでしょう。またイエスは、「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしのおきてを守る」(ヨハネ14・15)といわれました。イエスがわたしたちに与えられたのは愛のおきてです。愛のおきては、自由を束縛するものではありません。それは、わたしたちが日々の生活のなかで神の愛にこたえていくよう、促し駆り立てる聖霊の働きです。この機会に、おきてということを具体的に神の愛にこたえる道として、あらためて教会共同体のなかで再確認したいと思います。

3、家庭を支える教会

家庭と教会

神に対する愛は隣人に対する愛によって表現され、実行されます。隣人愛はまず家庭において実践されるべきです。ところで、日本の教会の信者のなかには、家族全員が信者ではない家庭に属している人が少なくありません。教会生活を送ることについても、具体的な生き方の点でも、家族の考え方や意識の違いに苦しんでいる人も少なくないと思います。この点において、まさに家庭は、教会と社会の接点であるといえます。この現実の中でキリスト者としてあかしをすることは、言うは易く行うは難し、といえるでしょう。

「家庭は教会の生命と使命にあずかり、歴史のなかで神の国の建設に奉仕しています」(注4)。家庭も教会も、ともに愛の共同体であり、いのちを生み育てる共同体です。実際、カトリック教会の伝統のなかに「家庭の教会」という表現があります。それは、家庭とは本来、教会の生命と使命に参加するものであることを端的に表しています。現在の日本の現実は、この理想から離れていますが、いつの日か、すべての人が神の家族となる日を待ち望みながら、ともに手をたずさえて歩んでいきたいと切望しています。

共感・共有を通して

教会共同体の務めは、信者が日々家庭において、神の愛にこたえて「家庭の教会」を築いていくよう、支え助けることにあります。司教、司祭、修道者、カテキスタなども、そのためにそれぞれの責任を果たすよう招かれています。 ところで、この務めを果たすにあたって、わたしたち一人ひとりの信者は、「共感・共有」ということを大切にしたいものです。わたしたちがイエス・キリストにならい、日々出会う人々、とくに弱い立場におかれた人々の苦しみや痛みに共感し、それを担い、それを信者の交わりのなかで、キリストの十字架とともに神にささげながら、ことばと生活によってキリストの生き方を宣言するとき、わたしたちは、愛のおきてを実行しているといえるでしょう。そのような地味で目立たない日々の努力の積み重ねのなかに、新しい福音宣教のあり方があるのではないでしょうか。

典礼を通して

教会共同体が、家庭を支え、家庭を通して福音宣教を推進していくためには、一人ひとりの信者の信仰生活をより空かなものとすることが不可欠です。そのための一つの大きな源泉は典礼です。というのは、典礼、とくにミサこそ、神と人、そしてキリストにおける人と人の交わりと一致の頂点を示すものだからです。

第1回全国会議の提案にもすでにみられるように、典礼と家庭生活の関係をより緊密なものとすることは日本の教会共同体の大きな課題となっています。

ところで、第2バチカン公会議の典礼刷新は、日本の教会にも、かなりの工夫と創意の可能性を開いてくれました。ですからまず、現行の典礼の精神と法規を学ぶことはたいへん有益です。また、すでに全国で行われているさまざまな試みの分かち合いを行うことも大いに勧められます。

それぞれの共同体で、日本文化のなかに福音が開花し、典礼が人々の心の琴線に触れ、生活の力、光、導きとなるように、努力を続けましょう。

若者の信仰と活動

若者への配慮は、第1回全国会議以来の重要な課題です。第2回全国会議は、若い人々の信仰を深めるよい刺激と励ましの契機となりました。若者は固有、独自の使命をもつ存在です。若者たちや少年少女がともに集まり、学びながら、祈りと信仰を深めることのできる場が教会共同体のなかにあることが必要です。

若い時代はエネルギーにあふれている時代です。その力が教会と社会のなかでキリストをあかしする活動に向けられるように期待しています。この活動の体験は人生の喜びとなり宝となると信じていま
す。

なお、この課題には、教会共同体とともに家庭自体の努力も大きな要素を占めているということをあらためて思い起こしたいものです。とくに、家庭における「分かち合い」や家庭の祈りなどの努力と工夫が求められています。

4、分かち合いを通して

愛の共同体である教会と家庭を支え育てていくために、『ともに喜びをもって生きよう-第1回福音宣教推進全国会議にこたえて-』で述べた「ともに」の精神、そしてすでに述べたその趣旨をいかす「共感・共有」が大切です。この精神と趣旨を育てる一つの道として、第2回全国会議・答申『展望-福音宣教する日本の教会の刷新のために-』(以下、『展望』と略します)で提案されている「分かち合い」の意義を考察してみたいと思います。

「ことばによる分かち合いにとどまらず、物や時間やお金などを含めて自分自身の痛みをも伴う生き」力を分かち合う、このような生き方が福音宣教の重要な柱として定着していくことが大切であり、さらに『福音宣教』と『分かち合い』との関係をより明確にしていくことが求められています」と、『展望』は述べています。

「分かち合い」には、貧しい人々、苦しんでいる人々とともに苦しみ、自分が受けたたまものをその人々とともに分かち合うことも、本質的な要素として含まれます。

「分かち合い」にはまず、同じ人間としての深い共感と共有がなければなりません。その模範を示したのは、人となられた神であるイエス・キリストご自身です。わたしたちはこのキリスト、生活の現場でそれぞれ真剣に生きようと努力している人、とくに困難な状況のなかでキリストに従おうと努力している人とともにおられ、声をかけてくださっていると信じます。

わたしたちが、キリストを中心にして集まり、心を開いて語り合うとき、キリストの声はより力強く響きます。そうすれば、自分自身の状況を正しくわきまえるだけではなく、兄弟姉妹の立場にも正しい理解を示すことができるよう変えられることでしょう。このようにして、わたしたちはともに重荷を担いながら、『展望』のいう「現実を識別して(見分けて)生きる信仰者」として成長することができると思います。「分かち合い」は教会共同体全体の課題であり、わたしたち一人ひとりの課題です。「分かち合い」が福音宣教とつながるものであってほしいと願っています。そのためには、「分かち合い」の神学的意義をさらに探究することが必要です。福音宣教とは何か、そして、いかに福音宣教すべ

きかの基準は、イエス・キリストご自身の生き方とその福音宣教にあります。日々の祈りと体験、そして、聖書と教会の教えの学習を通して、この課題を追求していくことが、一人ひとりに切に求められます(注5)。

終わりに

わたしたち司教団は、今後も全国の皆さんの声に耳を傾けながら、皆さんと手をたずさえて、福音宣教しようとする日本の教会の刷新運動を継続させ発展させていく決意です。現実のなかで理想を求めて努力するには多くの困難を伴いますが、それを一つひとつ克服して前進していくことこそキリスト者の道であり、そこにこそ大きな喜びがあります。キリストを見つめつつ、聖霊に導かれ、真心こめて、神の恵みにこたえてともに歩んでまいりましょう。

教会の母である聖母マリアの取り次ぎによって、皆さん一人ひとりのうえに父と子と聖霊による慰め、光、導き、力を願いながら。

1994年3月24日
目本カトリック司教団

今後のNICE関連業務にかかわる司教団の担当責任者として岡田武夫司教が選出された。

(1)「NICE・2における濱尾文郎司教の基調考察-家庭を取り巻く社会の現実」(『カトリック新聞』1993年11月14日号、11月21日号、11月28日号)参照。
(2)教皇ヨハネ・パウロ2世使徒的勧告『家庭-愛といのちのきずな-(Familiaris condortio)』18。教皇や司教は、教会の指導者としてキリストの教えを伝えたり説明したりする、教導権の責任をもっています。公会議や教皇の教えは、今この世界のなかで、キリストがお望みになることを示すものですから、信者はこれを真剣に学ぶことによって、そこから多くの光を得ることができます。なお、家庭を取り巻く社会の構造に関する問題については、教皇ヨハネ・パウロ2世回勅『真の開発とは-人間不在の開発から人間尊重の発展へ-(Solicitudorei socialis)』をはじめとする数々の社会回勅の学習が有益です。
(3)同17参照。
(4)同49。
(5)福音宣教についての教会の教えを学ぶことが大切です。とくに次の2つの公文書、教皇パウロ6世使徒的勧告『福吉宣教(Evangelii nuntiandi)』教皇ヨハネ・パウロ2世回勅『救い主の使命(Redemptoris missio)』を学習するようお勧めします。

NICE・2についての提言

1、指導理念の模索

NICE・2の神学的根拠を学習するためのハンドブックとしての[教会は「家庭」をどう見てきたか]を見ても、「聖書には家庭の教えは少ない」し、教会史、教会法などの視野から、現在のこの国の家庭の事情にあう理念的処方箋を取り出すことは至難に思われる。ヨーロッパの歴史を顧みても、「家庭が、貞潔・独身を求める修道生活・戒津の大きな抵抗を通りぬけ、その紐帯である結婚を「召命」だと認めさせるにいたる迄に長い道程を要した。その屈折の歩みは「社会の現実」からの大きな遅れのとりもどしの過程とも言える。しかし、これとても、あくまで「キリスト教的環境」のもとでの同心円的変革(求心にせよ、遠心にせよ)を前提とした流れにすぎず、円の外の、非キリスト数的環境とは、極めて希薄な照応(たとえば、『知られざる神を探し求めている他の人々』とか『無名のキリスト者』とか)しか示されなかった。いわんや、8259万人の善男善女(平成4年警察庁調べ)が初詣で(神社仏閣をとわず)するこの国の汎神風土での「家庭」のいとなみをとりあげる場合、この「神の民の域外」のマジョリティーと、0・4%足らずの教会共同体との実体的なかかわりをどういう理念で結びつけるか、それは神学的に明快な答えが出せても、一般的な認識としては、質、量の類比、または、円心内と外との対応という二重のアポリアを克服しなければならない。この点での充分な討議が欠けていたように思われる。

2、実際の対応の姿勢

こうして「テーマの核になるものが何かという詰めか曖昧なまま」(森司教・東京教区ニュース108号)準備が進められたが、出発点において、「家庭の現状把握のための有識者の協力による分析といった学問的なアプローチを敢えて取らず、」(小出武彦師カトリック新聞93/2/7)司教団を終点とする「聴き、吸い上げ、活かす」方式がとられた。この方法自体は誤った指導理念を掲げて従う弊害よりはよかったと思われる。

さて実際の運用の結果を福音宣教94年2月特集号を中心に見ると、問題点として、

(1)個別的事例(あらかじめ研究した教区もある)に対する恣意的(カズイステッィック)な臨床対応-当然ながら教区による力点の相違が見られる。

(2)プライバシーを他人の前で分かち合う場としての教会共同体の適否があげられる。オブザーバーとして参加された神学者岩島忠彦師の、答申案に対する意見にして理念を欠く現実主義、あるいは具体性を欠く抽象的紋切型という批判が出ているのは(福音宣教94年2月)、過程の痛み、叫び、うめきが感じられないといった教区ニュース108号での感想とあいまって今回の対応姿勢への適切な批判といえよう。

(3)さらにこの批判を敷衍すると、現実に対応する「眼」としての、伝来の、抜きがたい神学哲学優先の反実証精神がはび請っていること。すなわち心奥の現象は本来科学的ピックアップの対象にならないという態度がついてまわるを見落としてはならない。ジャック。マリタンが強調してきた「人間存在の2次元的把握の中に占める、質量的制約性の圧倒的優位の承認」が社会科学的実証の出発点であると再認識しなければならぬはずである。ことに「家庭」の中に潜む位格性と質量性の現実の場における相克を「あるべきもの」ではなく、「あるもの」として冷静に学問的に捉えること。これが教会共同体の一番底辺にあってプライバシーの告解室内入りを防ぐ地味な作業なのだという認識の欠乏・・・。

以上のような対応の結果として、提案から「家庭」を総括しきれずに埋没させてしまい、「共同体の刷新」という原点への堂々巡りに立ち返らせたものと思える。

3、これからの対応策への提言

NICEの組織/運営及び施策についてはここで触れる資格はないと考える。

ただ、ことしが国際家族年ゆえに、東京教区で再び「家庭」のテーマを前進されるのであれば以下の示唆を申し上げたい。

1、視座の再構築

「神の民」という儀礼的遮断(木田献一氏)をは、そとの大海の中に再分解し、そのなかに棹さし、「種をまく」のではなくその中から「刈り入れる」態度で、中に汲みいれ、そのあとで「吸い上げる」といった第2段階のアジョルメナントが必要だと思われる。

「かれら」が、われわれ自身がその中に含まれる大きな領域の部分である。「未信者」は差別用語。「家庭」の悩みはこの姿勢で初めて「われわれ」が教会共同体の中に包み込むことができる。なお、これは、決して日本的キリスト教の唱道ではないことを注意されたい。

1、実証精神を持てということ

質量性の完全支配を前提とする唯物論的実証と紙一重ながら異なる、位格性に終極的に依りつつも質量性の圧倒的優位を承認するカトリック的実証態度があってしかるべきである。あまりに早く「かくあるべし」という当為を優先しないように最後までWERTFREIであるように!

もり司教が「家族計画、離婚、再婚のことに関する歴代教皇の指針を、日本の教会がどう理解し、以下に日本社会に伝えるか」の課題を考えていられるようだか、大変結構であると思う一方、外から日本に「当てはめる」といった方向性に十分留意していただきたい。
(松原教会信徒 松原昌二)

司祭は何人でも必要 一粒会総会開催

4月10日、午後2時から東京カテドラル聖マリア大聖堂地下聖堂で、高円寺教会前川氏の司会で開催された。

森一弘司教は、「東京カトリック神学院長が交代し、東京教区の寺西英夫師が就任した。モデラトールとして、東京教区から幸田和生師、小宇佐敬二師(ガリラヤの家担当)。

今年度の新入生は1人、荒川博行さん。来年受験準備を2人がしている。 最近の司祭の仕事は、多様なニーズがあり、何人でも司祭が必要である。また、神学生は小教区で育つもの(養成指針)」と述べ、一粒会の活動を励ました。

前年度活動報告の後、一粒会担当司祭、内山賢次郎師から、今年度の活動方針が発表された。

(1)神学校紹介パンフレットの作成
(2)一粒会たよりの発刊(年2回)
(3)召命祈願の日、宣教会、修道会合同ミサ

93年度決算、94年度予算案が承認された後、市川嘉男師が「司祭がいなければ」というテーマで、司祭とに何か、司祭の働きはどういうものかを小心に述べた。

参加者から、「例年行っていた神学院祭は、神学院のPRにとてもよいのではないか」という意見もだされ、参加者の関心の高さを現していた。

ロラたちに正義の回復を 〜フィリピン元「従軍慰安婦」の証言を聞く会〜

去る1月22日(土)午後1時半よりカトリック調布教会で、フィリピン元「従軍慰安婦」ロシータ・パルカド・ナシーノさんの証言を聞く集会が行われた。この集いに白柳大司教も参加され、ロシータさんに謝罪の言葉を述、へられた。さらに参加者一同に何らかの行動を起こすよう呼びかけられた。以下はその時の報告である。

まず調布教会の主任司祭スーハン神父が集会を機に集まった人々が社会問題に積極的に関わりをもち、調布教会が社会に開かれた場になることを希望するという開会の挨拶で始まった。ついで原告弁護団の高木健一、横田雄二両弁護士が報告を行った。高木弁護士は「細川首相は言葉では、日本の侵略を認め、謝罪を述べているが、具体的な補償行為については何ら取り組みを示していない。最近の朝日新聞の調査では51%の人が何らかの補償をすべきだと答えている。この立場をとる人は20代30代の若い世代の人たちが多い。逆に補償の必要性を認めない人たちの多くは戦争体験のある60代以上の人々である。今、弘たちは過去の責任を直視して、勇気をもって補償問題と取り組んでいこう」と語った。

横田弁護士は「フィリピンでは、高齢の女性を尊敬の念をもって呼ぶときロラといます。このロラたちの話を聞くとき、彼女たちは監禁・強姦されていた2ケ月、3ケ月のときだけ苦しんでいたのではない。私たちは戦後50年間、まるで生ける屍のように生きてこなければならなかった彼女たちの苦しみに留意しなければならないと思う。そして彼女たちは自分の恥を捨てて名乗り出た。ロラたちが立ち上がった以上、私たちも最後までロラたちと連帯して、彼女たちの正義が回復されるまで頑張りたい。ロラたちの正義が回復されるなら私自身が新しい人間になっていけるような気がする。そのよぅな新しい人間が続々日本に生まれてくれば、この日本は人間的な薫りが豊かな国なる。人間的な薫りの具体的な基準は何かというと、フィリピンなどアジアから日本に来る女性の人権が充分に保障されているような社会であることです」と締めくくった。

ついでナシーノさんが自分の体験を涙を流しながら語られた。「私はイロイロ州のバダッドで生まれました。1944年の7月、私が16歳のとき、祖母の家に帰る途中主人の日本兵に捕まり、彼らが駐屯所としていた製氷工場に連行されました。私は小さな部屋に入れられ、「タカハシ」という重曹に銃剣で太股を突き刺され、強姦されました。この駐屯所には日本兵が泊まっていて、フィリピンの若い女性たちが15人くらい部屋に入れられていました。彼女たちは交代で兵隊の食事作りの手伝いや、服の洗濯、部屋の掃除などをさせられました。当番でない女性のところに兵隊たちは朝からやってきて強姦を続けたのです。そのうちアメリカ軍がきて爆撃を始めたため、日本兵は逃げ出し、私たちは解放されました。私が監禁・強姦された1ヶ月の出来事は今も決して忘れることは出来ません。テレビでロサさんが名乗り出るように呼びかけているのを見て自分も名乗り出る決意をしたのです」。そして会場から「今、あなたを強姦した日本兵に会ったらどうしますか」と質問されると「個人的に訴えようとは思いません。私は信仰によって赦すことを知っています。しかし、謝って欲しいと思います。謝ってくれたらそこで、初めて被害者と加害者が共に戦争はいけないと言えるのです。」と答えられた。

最後に、110名の参加者の前で白柳大司教はナシーノさんに「ロラ・ナシーノさん、あなたは思い出したくないことを思い出し、しかも、あなたを犯した日本人、その前で体験を話さなければならなかった。本当に辛かったと思います。私は申し訳なかったと心からお詫びいたします」と頭を下げられた。そしてNHKテレビ「青年の主張」から日本人と結婚したフィリピン女性と姑の謝罪と赦し合いの感動的な逸話を話された。大司教は「私たちは罪の赦しを神に求めるときに『思い、行い、怠り』をお赦し下さいと祈ります。謝罪するだけでは不充分で、償いが求められます。私たちは日本の文化の良いところだけを引き継ぐのではなく先輩たちが犯した悪い行いの責任も引き継がなければなりません。戦後それを怠ってきたのは、私たちの非であり私たち一人ひとりに戦後責任があるのです」とお話しになった。

参加した人たちは調布教会の信徒だけでなく、教会周辺の市民や遠く岩手からきた人もいた。さらに裁判支援の呼びかけ人である大司教が参加されたことは、主催者であるフィリピン元「従軍慰安婦裁判を支える会のメンバーたちに大きな喜びを与えた。そして、一人でも多くの人が人の問題に関心を深めることみし期待しつ集会を終えた

教会・修道院巡り(32)『カルメル会』

東京女子カルメル会三位一体修道院は、シャンボン大司教が邦人司祭の養成と日本人の救いのために、日夜祈る人々を望み、フランスのショレのカルメル会に、日本における創立を要請し、1933年、7人のシスターがモンセニョール・ギガと共に来日した時に始まる。

麹町の仮修道院を出発に、2年を経て、上石神井の東京カトリック神学院の隣接地に本修道院を建築した。戦争による疎開、他の地域への創立などを経て、調布の現修道院に移転したのは1959年である。

調布は広い緑地に恵まれ、修道院は深大寺のちょっとした高台に位置している。調布小教区はサレジオ会担当の教会で、サレジオ会修道院と修練院が近い。また扶助者聖母会の修練院や、他の女子修道院が数ヶ所あって、自然と共にカトリック的環境に恵まれている。

日曜日や祭日にはサレジオ会のチマッチ神父の遺骸がある聖堂、資料館を見学する人が多く、カルメル会の聖堂もその途中に訪問されている。

カルメル会の聖堂は、育英工専の校長ヘンドリック神父が10数年前に祭壇と至聖所の内装を行い、その評判が東京の各所に伝わり、当時は聖堂を参観する人が多かった。

修道院の日課は、5時15分に起床、朝の祈りと3時課をする。6時50分ミサ(日曜日は7時)。その後1時間の念祷。9時ごろから11時まで仕事。11時に6時課と午前中の糾明をし、昼食。昼食後は、一同休憩室に集まって、日曜・祭日以外は手仕事をしながら談笑したり、歌ったりして休憩時問を過ごす。1時に聖体訪問。その後2時までは休息。2時に9時課と聖母の霊的読書をし、3時から5時まで仕事。5時に晩の祈りをし、続いて念祷。その後夕食。夕食後7時15分から8時まで休憩時間(黙想会、聖週間には休憩時問は無い)。8時に寝る前の祈り、あとは自由時間で、9時15分から読書課。祭日の前夜には徹夜の祈りが続く。平常、終身は10時半頃で、消灯は10時45分。

修道院の仕事しては、創立以来、ホスチアとローソクの製造をしている。また建物の敷地内に、農園と果樹園を持ち、シスターたちは農作に精を出し、その実りは生活を支える。

創立者アビラの聖テレジアは「私は教会の娘です」と言っているが、カルメル会修道女の召命は教会への奉仕に向けられているのである。

〒182調布市深大寺元町3-27-1
TEL0424-82-4446

教会委員研修会行われる「教会委員会規約」作成を目指して小教区共同体のビジョンを探る

去る2月5日、3月19日の2回にわたって、潮見のカトリック会館において、教区生涯養成委員会主催による教会委員を対象とした研修会が行われた。

2月5日には『〝教会委員会のあり方″をめぐってとことん5時まで討論会』という副題のもと、参加した委員たちは、腹蔵なく、日頃自分たちが感じている問題点のすべてを出し合った。その結果、当初、スタッフたちが目指していた、できるだけ早急に共通の教会委員会規約を作るということが難しいということを確認することになってしまった。

実に、通称「教会委員会」という呼び名も、教会によっては「運営委員会」「連絡委員会」「司牧評議会」などとさまざまであるということからはじまって、主任司祭との関係、教会における役割、権限、選出方法、任期など、教会によって大変異なるということが明らかになったのである。

生涯養成委員会のスタッフたちは、この後、合宿を行って、小教区の歴史、信仰や教会共同体のあり方に対する理解の違いが現実にあるということを再確認し、すぐに教会委員会の規約に向かうことは無理であるということ、それよりも、第1回、第2回ナイスが目指そうとしている小教区共同体がどのようなものであるか、委員たちの間で共通理解を求めることの方が先であり、それをもとに「教会委員会の規約」に向かう方が賢明であると判断し、3月19日の研修会を行った。

冒頭、スタッフの一人である春宮氏は、小教区共同体の管理、維持、運営、宣教司牧の型に3つのタイプがあると発題した。

司祭、委員、信徒が家父長的な形で結ばれているAタイプ。信頼と家族的な温もりが感じられ、プラス面もあるが、一度間違えると主任司祭が絶対化されてしまう危険があると指摘。次に組織としての「委員会」が存在しているBタイプ。しかし、主任司祭と委員会の権限、委員の選出方法や任期など、明確にしなければならないさまざまな問題がそこにあるとも指摘。そして最後に、司祭、信徒、修道者が同じテーブルを囲み共同責任の自覚のもとにあるCタイプの小教区共同体。ナイスが目指そうとしているものはこれではないかと指摘。

こうした春宮氏の発題のもとに、60名近くの参加者たちは、東京教区の小教区共同体がこれから目指さなければならないものはどのような共同体なのか、熱心に討議した結果、ようやく次のような共通認識に達した。

共通認識確認文

1 小教区共同体は、キリストが教会に委ねた使命を果していくために、共同責任において運営され、信徒、司祭、修道者はともに責任を分担する存在である。

2 しかし、これを実現するためには、現実にはさまざまな混乱と妨げがあり、求められる教会への意識改革が必要である。

3 共同責任を実現する場として、私たちは「教会運営委員会」を理解する。

4 そのためには、委員は、共同体所属メンバーから選ばれる必要がある。具体的には選出方法、任期など、<1>に表明された共同体にふさわしい規約が必要である。

編集部から

今月は、「VIVID」をお休みしました。

次号掲載分の締切りは、5月15日(日)、担当司祭の異動のため、情報の送り先が変わりましたので、ご注意ください。

〒166 東京都杉並区高円寺南2-33-32 カトリック高円寺教会 猪熊太郎神父宛
TEL03-3314-5688
FAX03-3314-8954

桜の花とともに、入園、入学のお子さんの緊張した顔が見受けられ、教会でも初聖体を迎えた子どもとその家族の顔の輝きに皆が幸せを感じる今日この頃です。

教区ニュースのスタッフに、この4月から余語久則神父が加わりました。猪熊師とともに、30代の同師が加わることによって、平均年齢が下がるだけでなく、若々しい躍動感にあふれた感性が紙面に反映することを願っています。

NICE・2の答申に対する司教団の文書が発表されました。東京教区の今後のプロジェクト作りについても、きめ細かくお伝えしていくつもりです。

「広報の日」のご案内を各小教区の広報担当者の方にもお送り致しましたが、よりよい広報活動ができますように、皆さまの生のご意見を私たちスタッフは心待ちにしています。どうぞお誘いあわせのうえ、ご参加くださり、忌蝉のないご意見をお聞かせいただければと願っております。