お知らせ

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東京教区ニュース第15号

1975年12月01日

目次

喜び基礎に再出発を 聖年のおわりに大司教書簡

刷新と和解をテーマとした1975年の聖年をとじるにあたり、白柳大司教はこのほど書簡をだし、この1年に培われた内的刷新と、味わった喜びを基礎として新たに出直すことを訴えた。聖年のしめくくりとして行なわれた教区レベルでの集いは、ミサがその中心であったが、福祉施設の援助を目的としたバザーや、一場に会した教区民が互いに心をわかちあうための各種催しなど多彩のうちにも、参列者一人一人に教区の一致の力強さを印象づけた。10月26日は教区にとって、新しい門出の日となった。

明日の花を咲かそう

「刷新と和解」のテーマのもとに全教会の内的刷新を目指した聖なる年もいよいよ終わりに近づいてまいりました。顧みますと聖年は実に恵みゆたかな年でした。

ものを大切に

聖年にあたって私共には特に反省の機会が与えられ、神と私共との基本的関係、私共と隣人との間にあるべき関係、私共をとりまく自然界との関係などについて深い洞察を重ねることができました。そして神のみ前にあって私共は神にゆるしを乞いつつ、神のあわれみに応えるべくそのご意志にそった生活を営んでゆかなければならないこと、私共の隣人の中にかみのに姿を見いだして尊敬しあい、愛しあって真の平和をうちたててゆかなければならないこと、神から全人類の真の発展のために与えられた自然界の意味を再認識し、ものを大切にすることなどを深く悟りました。

神への旅路!

また聖年の伝統的巡礼も教区内、国内、ローマ、聖地巡礼などと幅広く行なわれ、集団的行動を通して信仰を深め、共同的意識を高めることができました。同時に、巡礼は人生が神のふところ、すなわち己が祖国への旅路であり、その旅路において人は多くの困難、苦しみに出会い、悲しむが、その悲しみはやがてとりさることの出来ない喜びに代わるであろうことを味わわせてくれました。

10月26日の教区聖年の集いには、万難を排して多数の方がカテドラルに参集し、ともに神を賛えることができましたが、これは同時に神の民がひとつの心、ひとつの体に結ばれていることを肌を通して感じさせるものであり、大きな喜びをもたらして、これからの励みとなりました。

眠りから覚めよ

さて聖なる年の終わり、それはとりもなおさず聖年の間に培われた内的刷新、聖年の間に味わった喜びを基礎として新たに出直すべき時を意味します。「兄弟たちよ、今は眠りからめざめる時である。やみの業をすてて、光のよろいを来よう、主イエスを着よ。」という聖パウロの言葉が今こそ強く響いてくるのを感じます。

私共が神にたちかえり、さらに深く神と結ばれる時、すなわち私共の神に対する愛が徹底してくる時、それはおのずと隣人に対する惜しみない愛、おもいやりの花を咲かせます。なぜなら私共の愛の対象は「ご自身として愛される神」「隣人において愛される神」であって、神への愛と隣人への愛は本質的に1つであるからです。従って神と深く結ばれ、神を愛すれば愛するほど、隣人をますます愛するようになるのです。そしてこの隣人に対する愛は特に人々の超自然的善を目指すものであり、人々の魂の救いに対する奮発心となってあらわれてきます。

救いの道具に

「神はキリストの死と復活によってもたらされた救いの恵みを、ご自分で直接全人類に伝達することもおできになりました。しかし実際には、神の民である教会を通して救いが実現されることを望まれたのです。神のみ言葉は苦しみと責め苦とによって人々をあがなうために私たちの人間性を用いることをお望みになったと同様に、お始めになった救いのわざを世々に継続するために教会をお使いになるのです。」(回勅ミスティチ・コルポリス)。「確かにこれは恐るべき奥義です。多くの霊魂の救いが、神秘体の肢体の祈りと自発的苦行、牧者と信者が救い主にささげるべき協力にかかっている」(同上)のですから。私共は神が私共を世の救いの道具として特に選んでくださったことに感謝をささげつつ、自分の才能と時間を喜んでこのためにも用いるようにしたいものです。

主の光に生く

ところで隣人に対する愛は神の救霊の計画に協力することを頂点としていますが、隣人の可視的善に対する配慮も忘れてはなりません。何故ならば、神の救いの業は霊魂と肉体を備えた人間全体に向けられたものであり、社会をキリストの光によって変革してゆくはたらきは、福音の教えの1つの大切な要素だからです。

キリストの降誕祭を目前にひかえた私共の心は、今キリストの新しい来臨への熱望と、肉となられたみことばの奥義を祝い崇める喜びに充ちております。私共はキリストの再臨への希望を深め、キリストとますます深く一致して新しい時を迎えたいものです。

終りに、教皇様の呼びかけに心から応えられて聖なる年を真剣に送られた皆様に神の豊な祝福をお祈りいたします。

6,000人の信仰宣言

一喜一憂の天候も全く嘘のように晴れあがった秋空に、鐘楼がクッキリそびえたっている。11時、響きわたる鐘と東京教区民の12パーセント、6,000人の「シオンよ、喜べ」の入祭の歌に120人余りの共同司式司祭の行列が静々と祭壇に向かう。

進行係佐久間神父、聖歌指揮関戸神父による「刷新と和解」のミサが雲1つない秋晴れの大空に上っていく。「神はキリストによってわたしたちをご自分と和解させて下さる」と言う聖パウロのコリント人への手紙の朗読後、「新しい歌を主に」を歌い、アレルヤ唱を歌って、「皆が1つになるように」とのキリストのみことばを白柳大司教自らが朗読した。

「神との和解、人との和解、自然との和解」を述べ、しかもこの和解は「個人的なものでなく、共同体として行なうべきものである」と力説し、次の聖年までのわれわれの歩むべき道を示した。

ルルドの洞窟とカテドラルにこだまする6,000人の力強い信仰宣言につづいて各ブロックからの代表司祭、修道女、壮年男子、主婦、男女青年、男女児童による共同祈願がささげられ、聖体の祭儀へと進んで行った。

各教会からのパンの奉納行列はルルドの聖母像の前から延々と続き「私たちは神の民」を実感をもって味わった。奉納の献金も各ブロックから6名ずつの会場係りによって集められた。

120名もの共同司式ミサは重々しく、一致の秘跡の力強さをひしひしと感じさせ、教区の一致を一人一人に感じさせていた。つづいて「われらが人にゆるすごとく」と主の祈りを全員で唱え、和解の決心を新たにした。

聖体拝領は聖体容器を捧じて司祭達が会衆の中に降り立って行なった。ルルドの広場に一杯の会衆の中に白い服の司祭が点々と動く姿は平和そのものであった。

聖体拝領後、東京カテドラル・聖マリア大聖堂の名に相応しく、「マリアさまのこころ」を斉唱した。幼稚園児も歌えるこの歌は更に大きな歌の輪となって舞い上がっていった。

「平和の働き手となることが出来ますように」祈り、白柳大司教の祝福をうけ聖年のミサは新たな感激のうちに滞りなく修了した。

そして「ほめよたたえよ」の大合唱の中を司教・司祭の行列はカテドラルの彼方へ消えて行った。

バザーも空前の盛況

カリタスの家、しおん会、司祭老後の施設建設の支援を目的に開かれたバザーは空前の盛況を見せた。ミサ終了と同時に人々は会場へと移りはじめ、普段では考えられないような雑踏となった。雨が降った場合はと幾分控え目に用意された食べ物はまたたく間に品切れとなり、その他の売店もかなりの人だかりだった。

当日抽選箱に入れられたラッフルの半券は6万枚のうち約4万7千枚であったが、半券を返納しなかった人の数も入れると実質的な売行きはこれを上回るものと思われる。出展販売では板橋教会の餅つきをはじめ、古切手、アクセサリなど10数団体で、そのほか婦人同志会の食べ物店、カリタスの家の中古品などが目立った。

芝生や木陰には椅子やテーブルが持ち込まれ、旧交を深めるひとびとの姿が見られた。また鐘楼のそばには子供達の遊び場もつくられ輪投げなどに興ずる幼い歓声があたりを賑わしていた。

抽選箱がこわれたり、浜尾司教がそのなかに司教指輪を落とすなど小さなハプニングもあったが、すべてはなごやかさをます材料。抽選は100等から1等へとひとびとの気をたかぶらせていった。当選番号が公表されるたびに溜息、軽い憤りがもれていた。特賞のいすずジェミニには浜まこと氏が見事当選し、夫人が大司教から大きな鍵を与えられた。

夕日がルルドの彼方に沈むころにはバザー会場の後片付けも終り、だだっぴろいテントが風に吹かれて何ともいえない郷愁を漂わせていた。朝からの仕事でミサに与っていなかった人々のため、徳川・三好両師が5時に地下聖堂でミサをささげ、60人近い婦人が今日のよき日を神に感謝した。

当日のミサの献金は724,701円で、これは教区活動のためにつかわれる。なおバザーの収益は14,180,000円で、カリタスの家としおん会に4,254,000ずつ、司祭の老後施設建設のために5,672,000円をそれぞれ配分した。

信徒の寄付、協力などによって予期以上の成果をあげることができたことについて実行委員長の浜尾司教はそれぞれの団体に代わって教区民に心からの謝意を表わしたいとしている。

信仰のふところ 蟻の町の枝川

枝川教会というと知らない人が多い。しかし蟻の町といえば大抵の人は知っている。全信徒50人たらず、毎日曜のミサは20人位でささげられている。ミサの始まりを待つ間、終わってから、互に生活にかかわる雑談がかわされる。都心から車で20分位のところにあるのに、まさに田舎の教会の雰囲気が漂っている。

教会のはじまりは、小説「蟻の街のマリア」に感激的に記されているように浅草墨田公園のバタヤ部落の中央に十字架がたてられたことによる。それは昭和26年聖霊降臨の日。そのためには、蟻の街のマリア、北原怜子さんの証しとゼノ修士、松井桃楼氏、小沢蟻の会々長の尽力におうところが多い。

 しかし東京都から立退きが要求されたので替地獲得のために北原さんは死をかけて祈った。その結果、フリングス枢機卿、土井大司教の御配慮で、昭和35年、ゴミの島、8号埋立地、現在の潮見町に洗足教会の古材で聖堂が建てられ、蟻の町の人々と共に移転して、枝川教会として、新たに発足した。

現在社会福祉の一翼をになう蟻の会と歩調を合わせて、北原さんの仕事の延長として、ありんこ保育園が援助修道会のシスター等の献身的な働きによってつづけられている。また、JOC(カトリック青年労働者連盟)の集会が行なわれて、働く若者にキリストの光がかかげられ、さらにACO(カトリック労働者運動)の例会の場として労働者の中に働くキリスト、或いは婦人の地域活動の中に生きているキリストが、分かちあわれている。

ひろば

戸塚聖母の園での中央ブロック青年錬成会を、大きな意義のあったものとしてあらためて見なおしたい。

その第1は、青年たちが教会の刷新の流れを踏まえて自発的に立ちあがったということである。準備は「何故青年は教会にこないのか」という問題提起にはじまったが、やがてこれは青年である自分達がみずから解決してゆくべきことであると知った。

 まず教会の主任司祭や教会委員の手にすべておぶさっている現状からの脱皮が必要だと気付いた。教会の体制の批判者ではなく自分達みずからが教会をつくってゆく当事者となることが出発点であるとわかった。更にその当事者となるという意識は小教区の中で教会を考えるのではなく、教会のうちで小教区を考えるということが前提とならねばともわかった「青年は小教区で何をすべきか」という副題は、青年会を活発にしようとか、教会行事にそっぽをむかないで、とかの従来的な発想によるものではなかった。

企画にあたった委員たちは手分けして各母体をめぐり、一緒にやろうと呼びかけて歩いたが、何か所かで門前払いもくったと聞く。この会の準備をすすめてゆく過程においてすでに青年たちは各人がどう生きているかを知り、学びあい、そして自分の生きかたを見直そう、あるいは変え、確認しようとがんばった。そして大会の当日聖母の園は若者の息に溢れた。

第2には、教区の中でも指折り教えられる大きな歴史ある小教区がいくつもある中央ブロックで、ブロック・レベルの青年の錬成会ができたということである。この大会によって青年たちはブロック内での青年の連帯が可能であることを見た。

このようにして中央ブロックの青年達が立ち上がったということを、教区の特に青年信徒の方がたに知っていただきたい。いつか教区レベルでの連帯も望んで。 (教区事務局 金井神父)

あした葉

自民党の単独強行裁決によって通過した「私立学校法等一部を改正する法律案」によって、学校法人立以外の幼稚園に新たな問題が生じてきた。それは一口でいえば学校法人立によるもの以外の幼稚園がその教育事業を継続してゆくことができなくなる。のしは大変困難になるということである。 *東京教区には現在67のカトリック幼稚園があるが、そのうち学校法人立は24園、他の法人立及び個人立は6園であり、それ以外の37園は宗教邦人立であって全体に対して占める割合は55パーセントにおよんでいるのが実情である。このうち19園は東京教区立となっている。この問題は諸宗教に大変大きな影響を与えるものであって、そのなりゆきを注目すると同時に、宗法律のままでいき続いて幼児と対する教育活動を行なってゆくことができるように働きかけねばなるまい。 *東京カトリック幼稚園・保育園連盟では宗法立幼稚園の園長などによる、この問題に対する研修会をひらいたりNCC教育部と連絡したりして対処している。ある関係者は、この問題は教育権に対する国家権力の介入であり、また更にはこれまで宗教法人がもっていた法律的に認められていた活動範囲が狭められる結果になると話している。 *さきの教育勅語問題といい、天皇の靖国神社公式参拝への動きといい、国民を思想統制にみちびくあらゆるてだてが、まわたで首をしめるように、しかも着実に進められているようだ。最近右翼の運動が活発になってきたことは新聞でも報じられているが、こうした面の動きは昭和の初期とそっくりであるという。あきらかにいつか来た道を再び辿っているのではなかろうか。 *教区の事務局に社会部が新設されようとしていると聞く。ややおそきの感がないでもないが教区中央にこのような部門がおかれることは信仰を個人の殻の中にとじこめておいて満足する時代は明らかに去ったという1つの証しであろう。正義と平和をむしばむあらゆる策謀に、力強く対決していってほしい。 (S・A)

信仰を社会に還元せよ 靖国の政治問題をめぐって

ヤスクニ反対は教区の活動方針の1つでもあるが、最近、ヤスクニ問題実行委員会側からは、運動がうまく進まない、教区民に浸透していないのではないか、また信徒の側からは、政治の問題に積極的に触れていいのかどうか正直いってまだ本当によくわからないという声をきく。広報部では、多くの信者の考えを代弁しやすい立場にある主任司祭と実行委員が一度この問題について話し合うことが必要だと考え、特に靖国問題をめぐって「信仰と政治はいかにかかかわるか」とのテーマで座談会を計画、11月10日、カトリック・センターに集まってもらった。

まず問われる危機感

司会者 では初めに一般的な事情について、それから徐々にヤスクニノ本題に。靖国問題は私たちも、まず信仰の自由が犯されるのではないかとの観点から反対しているわけですが、まず信仰の自由というものをカトリックでは、特に若い多くの人達は政治的な意味で考えたことがないのではないかと思われますが。

青山師 私の教会では、明治、大正から信仰を守ってきた人が3分の1くらいいるわけで、苦労した経験があるので無関心ではないようですが、戦後に信仰をもった人びとは実感として何も出ていないようです。

政治と密接な福音

関根師 若い人達は信仰だけでなく、社会のいろいろな部分で楽しんで生きていて、政治的なものに危機感を感じないようです。

青山師 信仰の自由ということでも、自分たちが信仰を失わない限り、世の中が変わってゆくことは余り考えない。

司会者 信仰を個人のものと考えている方が多いですね。共同体という面を考えれば政治の問題が入ってくると思いますが。

関根師 聖書研究会などでも個人の救いについて有難い話を聞けばそれでいいとする考えが多い。

河部氏 信仰のあり方を本当の意味で問うのなら、ヤスクニなどに代表される政治的なものと信仰生活とは密接に関係していることに気づくはずです。信仰を単に心の問題に置きかえるむきがある。

金沢氏 今のキリスト信者には現在が信仰に恵まれているせいか靖国法案や表敬法案ができたらどうなるかという危機感がない。

司会者 これらの点について神父様がたのお考えを。

青山師 結果として確かにそういう表われかたをしていますね。日本のカトリック信者には、自分たちは、悪い世の中でがんばらなければならない少数派だと考える体質がある。がんばるといっても信仰を保つというような受身の態勢で、世の中の多数派になるということはあまり考えていない。

世を変える情熱

金沢氏 それでは世の中を変えていこうというファイトが全然ないということになるのではないか。

都賀氏 一人一人が命の救いを求めるということは基本的のことで今も昔もかわらない。しかし共同体の中で永遠の命を求めてゆく姿勢や、社会の福音化を問う課題は従来教会を通じて余り教えられなかった。第2バチカン公会議の精神も観念的にしかとらえられず表層にとどまっている。永い教会の体質がそうさせたという、教会側の責任もあるので信者ばかり責められない。信者も教会も双方が努力しなければならないことで時間がかかる。

寺西師 信仰の個人的側面と社会的側面の問題があると思う。洗礼をうけるということは個人の救いにとどまらずキリストの証人になるということだが、個人的な愛の証人だけでは、この政治の時代にはすまされなくなってきている。

しかしたとえば社会の構造への批判というような型の証人になるということがいわれてきたのは最近ではないか。かっては習わなかったし、日本人はギラギラした形で証人になることを好まぬ傾向にもある。

司会者 そろそろ本題に入ってゆきたいが、今の人はどのように靖国神社を見ているでしょうか。

行動する少数派

水谷師 戦中と戦後では神道の意味が違ったのですね。戦後は全部宗教でしょ。それで靖国が変わったのかどうか。変わってないと思う。

浜崎師 法案を作成した人の気持ちを聞くと、反対している人の考えと違った考えをもっているように見える。どこが信仰の自由に反し、どこが政教分離の原則に反するのか充分説明されていない。

都賀氏 どんなに明確に説明されても依然として政治活動に乗り気になれないものが多い。はっきりわかれば行動するという人はむしろ少数です。政治行動になじまないということが問題だ。

砕いて語れ牧者

阿部氏 人を愛するということを信仰の一番大切なこととみるならば、政治に目をつぶって信仰が守られるかという一番根本的なことをとらえるべきだ。

関根師 キリストの問題を単なる宗教の問題としてとらえるのか福音としてとらえるのか追求すべきだ。

寺西師 個人対個人ならば他の人にはひびかないが、教会として団体に対して反対してゆくとなると、利害関係のある人にはそうはゆかなくなる。政治的行動は自発的グループがやるならいいが教会としてやられると困るという人も出てくるのではないか。

山本師 利害関係のほかに、もっと単純に、お国のために死んだ筈だから国で祀ったていいじゃないかと考える人は、教会が反対することになると困ってしまう。司牧者はそういう困った人たちに噛んで砕いてわからせようとしない限りいつまでたっても駄目だと思う。(つづく)

<出席者> 青木師(広報部長)。 水谷(築地)、青山(八王子)、山本(麹町)、関根(松原)、浜崎(本所)の各師。 靖国問題実行委員の寺西師、津賀、金沢、阿部の各氏。司会・後藤氏。

3月20日代議員会

1976年教区代議員会は3月20日(土)開かれる。会場は未定。活動方針や予算案などは運営委員会、布教司牧協議会で認められたあと、教区ニュースで全教区民に知らされる。

代議員選出の方法など追って通知されるが、案件が発表されたあとでの修正意見や別提案の提出などもあるので、各母体、ブロックでもそろそろ準備に入ってほしいと事務局では望んでいる。

なお、代議員会そのものの在り方についても現在、布教司牧協議会で審議中。

教会は判断せず

最近、話題になった東北は秋田の聖母マリアのご像に起ったといわれる血と汗と涙の「奇跡」について、個人ではいろいろな考えをもっているものもあるが、神学者たちの中にも別な見解をもっているものがあり、今後も種々の調査を必要としている。従って教会はこの件について今のところ何の判断もくだしていない。

司祭団が研修(富士・緑の休暇村で)

東京教区司祭協議会企画による司祭研修会が11月17日から3日間、山梨県富士緑の休暇村において白柳大司教、浜尾司教をはじめとして教区司祭、修道会司祭、宣教会司祭等35名の参加のもとに行なわれた。

研修テーマは「神の国と教会」。内容はペトロ・ネメシェギ師が、「父と子と聖霊が今日望んでいる教会の姿」三好迪師が「貧しきものと小さきもの」と題する講義をして後、分科会と討論会を行うというものであった。

研修終了後、沢田和夫氏による講話があり一同静修のときをもち、それぞれの場における宣教と司牧の活動のため、こころをそなえた。

このような司祭研修会は本年で3回目であるが、これは特に神学的諸説の多い現代において、互に啓発しあい福音の真髄に触れることを願って行なわれているようなものである。

聖年行事反省会

「聖なる年」行事実行委員会は大会終了の数日後委員会をひらきつつがなく、しかも予想をはるかにうわまわる大規模のものとなってこの行事の終わったことをよろこびあった。

当日のミサ参加者は約6,000人にのぼり、年令層別にみても偏りがなく、千葉県の教会や遠い教会からも多くの参加者のあったこと、家族連れの方々の多かったこと等からみて、聖なる年のミサにふさわしいものであったと評価した。

またあるブロック会議で、共同司式の司教数が120名を超え力強かった。そして参加者の歌声も大きく、みなが集ったことに喜びをおぼえたとの声があったことも報告された。

更に教区典礼委員会から、このような教区レベルの集まりが定期的に行なわれることが望ましいと提案されたことも報告された。

バザーとその会場については、たべものの店の位置に問題があったこと、今後このような集まりを行う際によく考えたいと話された。

当日用意された弁当、おでん等たべものの数量は約4,000人分、その用意にあたった人は約120人に及んだこと、そして70歳の老婦人が夜中12時からおにぎりのためご飯をたき始めたとの裏ばなしの報告もあり、準備をされた方々の努力に感謝した。

教区財政確立に提案

福音を証ししようとする私たちの前途には、あまりにも多くの、そしていろいろのやるべきことがある。神の民がこぞって新しい分野に向かって手をさしのべてゆこうとするとき、信仰と熱意だけでなく組織も、またこれらの運動のために財政的裏付けが必要となってくる。

勿論私たちの宣教は聖霊の業であって、私たちはその道具なのであるから、金さえあれば何でもできるという次元のものではない。しかし金銭は具体的な活動にはどうしても必要な手段であるから財政の面に全く無関心であってよいというわけではない。ここで私たちは財政の問題を神の民一人一人の使命から少し考えなおして見たいと思う。

教会の掟の1つに信者は各自、教会維持費と負担すべきであるというのがあるがこの「維持費」という名のためか、宗教団体として果たして金銭的貢献が義務なのか理解しにくかったり、自分の教会の維持さえ果たせばよいという考えが大きかったようだ。あるいは教会は外国からの援助で豊かにやっているからという第三者的な見方もある。たしかに外国人宣教師たちは、福音をのみ充分にとらえてほしいという親心で私たちにあまり経済的負担をかけないよう助けてくれたが、それになれてしまったのではないだろうか。

外国からの援助にばかり頼っている教会は、まだ一人前ではないし、独自の教会を造る資格もない私たちは、教区のすべての神の民が財政的にも外国からの援助なしに独立してゆく積極性をもつべきである。しかも所属教会の維持ということだけではなく、超小教区的とか全国的とか、近年とみに多角化し、拡大化した教会活動の費用をも私たちの手で造りあげてゆかなければならない。

以上のべたような財政確立の具体化として、私たちは皆さんに次のような提案をしたい。すなわち各小教区から毎年本部に届けられる分担金は、今まで年収の10パーセントであった。昨年度からあるところは15パーセントとしたが、これは本来一律であるべきところから来年度よりすべての小教区の分担金を15パーセントとする。そして財政的に困難なところに対してはいくらかの援助金を出すようになる。

教区資産運用相互協力制度も、まさに自分の小教区のみのためでなく、必要、緊急を要する他の教会の援助のための積みたてであるわけだが、これも教区協力態勢の具体化のひとつである。このように、教区共同体として助けあい成長していくことこそ信仰の具体的表現とはいえないだろうか。 (財政委員会)

召命は役割として必要

韓国、ベトナムに比べて、日本のカトリック信徒に対する司祭、修道者の数は、想像以上に高い値を示している。アジア諸国の間ばかりでなく、全世界の中でも信徒に対するこの比率は、多分最も高いのではなかろうか。しかし教会が社会の中で、地の塩、世の光となっていくという点から見るならば、110,000,000人の人口に対する司祭、修道者信徒の数は1パーセントにも達しない。社会の第一戦に行き、福音の光に照らされつつ、その地域職場を福音的なものに変えてゆく業が教会の氏名であると考える時、その当事者はまず信徒である。しかしそのために、信徒に福音の力を伝え、勇気づけ、方向を示し、私たちと共に働く神の力をあたえる秘跡をさずける司祭は不可欠の存在である。

教会は神の民の集まりであるが、そこには信徒、修道者、司祭、司教のそれぞれの役割がある。従って司祭の固有の仕事を手伝いあるいはその代行にまで積極的な姿勢であると見ることは誤りである。また信徒固有の、社会福音化にのりだす司祭こそ、進歩的であり話のわかる司祭であると見るのも誤りである。むしろ、司教、司祭、修道者、信徒それぞれが固有の役割を忠実に果たしてこそ真の共同体となるであろう。混ぜ合うことがよいのではなく、明確な役割分担があってはじめて互に協力できる姿勢も生まれよう。他の言葉でいえば、各人それぞれプロ意識に徹底することであろう。司牧の責任のある羊のために祈り、み言葉を解し、ミサを捧げ、信仰告白ともいえる説教によって羊を導く善き牧者である司祭が、修道者にも信徒にも必要なのである。

それぞれが固有の役割の重責にめざめ邁進するとき、共同責任をとる態勢が生み出される。その共同責任は神の民が一人一人異なる役割、職業、才能、欠点をもちながら、宣教する共同体として1つにつながってゆくのである。互いに顔を向き合わせるのではなく、皆がキリストと共に日本の社会のひとびとに目を向けようと進むとき、それは開かれた、そして生き生きとした共同体となるであろう。共同体は、皆が同じ性格や趣味をもったり、同じタイプとなっていくことではなく、互いに異なる立場、性格であっても同一の目標に向かったとき生まれてくるものではないであろうか。そうしてこそ人類が共同体となることを目ざす神の国の証しとなってゆけるのである。

共同責任である限り、明日のよき司祭を造り、育てるのは今の信徒であり、明日信徒となってゆく人達である。何処かから司祭を目指す若者が自然と生ずるものではない。教会全体が、より積極的に宣教する教会となっていくとき、私たちは福音の精神に徹した司祭や修道者を必要とする。現在の私たちに、その数がもっと増えればよいと考えるだけでなく、次の時代の神の民にとっていっそう必要であると考えなければならない。今日、名も顔も知らない人が、明日の教会の仲間となっていくはずである。そのひとびとのために司祭、修道者の召命を常に祈り求めざるを得ない。

典礼法規・教会法メモ 3

(1)ミサにおいて司祭の担当する部分は、感謝の祈り(奉献文)諸祈願(集会祈願、奉納祈願、拝領祈願)である。司祭はこれらを聖なる民全体と会衆一同の名によって神に献げる。

(2)司祭はこの集まり(ミサ)の司会者として、感謝の祈り、諸祈願を明確に大きな声でのべ、一同はこれを注意深くきく必要がある。従って、感謝の祈りを会衆が司祭といっしょにとなえることは認められない。

(3)ミサは共同的性格をもつもので、司祭と会衆の応答、回心の祈り、信仰宣言、共同祈願、とうしょう詩篇、感謝の賛歌、記念唱、拝領後の歌さらには入祭の歌、奉納の歌、平和の賛歌などは、会衆全員が唱えるものである。

ブロック便り

聖母の園で錬成会

<中央>中央ブロックは何もやっていないというそこはかとない非難をうちやぶるものとして、同時にまわりの社会の影響をうけながら、青年はどうつながりをもつかまたもちうるか、こういう問いかけに対する1つの答を示すものとして、ブロックの各グループに属する青年の合同錬成会が10月4・5両日、戸塚の聖母の園で行われた。そして結果はこういう型で青年同士のつながりをもつことは可能であるとわかった。参加者70人、青年3名の問題提起と年長信者1名のポイント提起を叩き台として、あとは分科会において参加者自身による工夫にまかせられた。「(1)私は今、まわりの人、まわりのこととどういうかかわりをもっているか。(2)何かをするためには私はどういうかかわり方をしなければならないか。(3)具体的に誰とつながりをもつことからはじめるか。」によって示された。そしてこの3段階を貫くものは、真の教師はキリストただ1人であり、各人のなかにその道しるべが与えられているという自覚にあるとわかった。明日の教会は青年自身の手によってつくりあげていかねばならないという結論は、この錬成会の参加者自身の課題として今後にひきつがれよう。また中央ブロックにとどまらず教区全体にひろがっていく端緒になればと願う。

中学生ヤーイ!

<城東>会議に先立ち講演をきくという新しい試みとして、まず斎藤いつ子女史の「教会に中学生がいない?」が印象的。

ブロック会議の場を、単に運動方針の討論の場とするにとどめず、会議員の啓発に役立てたらどうかという意見がとりあげられ霊的講話を聞く集いという形で実現したもの。

中学生問題の発端は、どうやら幼年期少年期の家庭教育のあり方に根ざしている面が大きそうで、親たちには耳の痛い話であった。

この問題は毎回のように白熱の議論を巻き起こしているが、対策案は容易にまとまらないようだ。

山積の決定事項

<城西>ブロック単位での聖年の行事が否決されたいきさつから、当会議の低調さを憂い、いかにして有意義な活発な会にするか率直な話し合いを進めている。

司祭をはじめとして会議員の積極的な出席を求める、運営委員会を強化するため人員の補強をも行う。過去に於いて決定採決したことを順次実行してゆくなどが、話題の中心。発足以来、数年間に決議されながら実行されていない事項が山積みされており、これをときほぐすため、さしあたって児童教育について討議している。

ミサに参加500名

<城北>連絡事項を迅速徹底させるため母体間の連絡網が決まる。杉並井草のサレジオ会育英高専校庭で行われた「ブロック聖なる年共同ミサ」が盛大であった。参加信者500名は、それぞれ立札で示された所定の場所で祭壇を囲み、白柳大司教を中心としたブロック内各母体所属の、10数名の司祭団による共同司式ミサであった。

聖歌、侍者、朗読者、共同祈願などはすべて共同に役割を分担し各母体とも積極的参加の姿勢を示した。

ミサ終了後、下井草教会の信徒によるバザーが行われ、おでん、焼き鳥、ビールなど模擬店を囲んで楽しい時を過した。

家庭教育を聞く

<武蔵野>高円寺教会で開かれたブロック主催の「聖なる年のつどい」には、折からの雨にも負けず70余人が参加、「和解と刷新」をテーマとした沢田氏の講演、各グループ毎に分かれての話し合いに有意義なひと時を過ごした。のちブロック内司祭団の共同司式ミサで締めくくり。