お知らせ

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東京教区ニュース第5号

1973年08月01日

目次

  • 明日をになう青年信者
    必要な信仰の強化
    非人間社会をなくす努力
  • 社会問題などで討論
    松原で合同青年会
  • 欲しい暖かい理解
    成長の過程を見つめる
  • ひろば
    若者とキリスト教
  • 生きた典礼めざし
    カテドラルで集い
  • あした葉
  • 立派な工員に成長
    体の不自由乗り越えて
  • 酒乱で、金を無心
    妻と別居中の元大学教授
  • 何のための労働か
    連帯をはばむ能率主義
  • ブロック便り
  • お知らせ

明日をになう青年信者
必要な信仰の強化
非人間社会をなくす努力

 明日の教会をになうのは青年信者。ところが最近「いまの青年は昔ほど教会活動に積極的でない」という批判の声がある。しかし一方では「数は少ないが感心すべき活動をしている」との意見も聞かれる。また「青年が最近教会にあまり関心を示さないのは、青年だけに問題があるのではなく、日本という社会全体の変化のためだ」と説く人もいる。そこで今回は教会の青年を取りまく問題について浜尾文郎司教ら3人から意見を寄せてもらった。浜尾司教からは、青年信者全体について、関根英雄師からは東京教区内の青年会について、大原猛師からは働く青年信者についてそれぞれ問題提起してもらった。

青少年の問題といった時、人それぞれの頭には、色々な考えが浮かぶと思う。青少年が、この頃は権利ばかり主張し、義務を果たさないとか、彼等の考えは分からないなどと青少年を問題とする人々の考えもある。また教会の中で右と同じような考えの人の他に、この頃、教会に青年が来ない、青年会は弱体である。いかにしたらもっと青年を集めることが出来るだろうか等と考える人も多いと思う。

しかし、青少年を問題とするのでなく、青少年の問題を考え、そして実行していくことが、常に大切であると思う。

先ず第1に、明日の社会のにない手は、正に今の青少年達であることは、自明のことである。そして特に教会というものが、常に過渡期であり、旅をしているということは、今日、現在の教会のすべてのメンバーで、明日の教会に向かって活動し、物を考えることが今日現在の我々にとってのことを考えるのではなく、明日我々の仲間となる数多くのキリストを知らない人達のためであることを思うと正に青少年の中にこそ、明日の社会が内在していることを見逃してはならない。

一言で青少年といっても、その構成は多様である。少年少女、中学生、高校生、大学生、中、高卒勤労者、学卒勤労者、と一応分けることが出来る。

指導者の研修が必要

1)幼児洗礼によって育って来ている少年男女の教育は家庭と学校とで、彼等の信仰が育っていくと考えることははなはだ困難である。教会の土曜、日曜学校を通じて、今後もっとその指導者の研修や、配慮が必要ではなかろうか。当教区内でも「教えの手帖」の編集者が、この小冊子の発行ばかりでなく、年1回の夏の研修会を開催している。これへの参加、協力が必要であろう。

2)中学生についてもミッションスクールでの宗教教育以外に、ミッションスクールに通ってない子供達の信仰を育てる場合は、教会でしかない。家庭との協力の下にブロック等で現在計画されている合同の研修会や、指導研究会が大切であろう。

連盟の企画促進を

3)高校生についても、全国的なレベルの中でも、「日本カトリック高校生連盟」の「カトリックと高校生」という小冊子の活動の外に、当教区内でも数名の司祭、修道女、信徒リーダーの活動がある。一小教区の範囲内で出来ないものを、あるいはブロック単位であるいは右の連盟の企画の下に、促進されることが望ましい。川村師、古川(弘)師を中心とした活動が少しでも広く知られ、協力があるように。

4)大学生の場は、ことに東京という特殊な状況の中で、非常に重大である。カトリック系の大学もいくつかあるが、特色は、他の一般大学内のサークルの一つとなっている「カトリック研究会」である。現在、ネーラン師が、東京の総指導司祭であるが、彼の下で山口師、佐伯氏等が中心に、真生会館を拠点に、多くの指導司祭と共に活動がなされている。「カト研」というものは教会の出先機関ではなく、大学固有の学生のための、学生によるサークルであり、普通1、2名の信者が中心に、人生論、宗教論を交わしながら、キリストを捕らえる、外国にも例を見ない宣教の場である。信者の大学生はむろん、これら「カト研」を通じて自らの信念と信仰が鍛えられ、真理を求める大学生にとって、キリストを知る重要な場である。「カト研」に参加する、しないにかかわらず、小教区の青年会の重要なメンバーにも数多くの大学生がいる。

彼等の信仰を強め、青年同志の連帯感を深めるためにも、各小教区、ブロック、地区合同等のレベルで、研究会が設され、特に大切なのは、活動すべき仕事が彼等自身が見出し、実行することを他の者が協力することであろう。彼等のために働く関根師の仕事が、更に多くの協力を得て実りあるものとなることを期待する。友人との友好的なつどいは、正に、運動のための場であり、活動そのものではない。

千葉地区においては教区大会と併行して千葉地区合同青年会の名称のもとに、数年前から、定期的に黙想会、研修会、キャンプ等が行われている。

5)勤労青年については、数が少ないというはずのものでないにもかかわらず教会の中で、青年会のメンバーとしても、中々その場が見いだせないという現状から、教会の体質の反省が必要に思われる。現在の高度成長化した経済、産業機構の中で、特に中・高卒勤労者の生活は、ただ低賃金、過重労働、企業体内の低位置という問題だけでなく経済成長、企業発展第一主義的に犯された環境で、全く経済的配慮と、盲目的労働への参加と化しつつある彼等青年の心にキリストの光と力が意味を持つよう働きかける教会の姿勢がますます重要であろう。この社会機構のため、今後教会の関心と参与が要求される。

小教区内においてはもちろん、特に青年勤労者の連帯を強めるJOCのような団体の強化が必要であろう。全国レベルの指導司祭小川師、東京での大倉師を中心に、江東地区での吉田師、大原師等の活躍に期待する教会が青年に与えられるものは何といっても信仰の成長であるし、又それ以外のものを教会に求めることは、二義的なことと思う。友達を、仲間を求める者は多いと思われるが、信仰を深めることに無関係ではあり得ない。司祭、修道者は特に、青少年の心に、強い、たくましい信仰の成長がもたらされるべく全力をつくすべきであり、利己主義、能力主義、合理主義、能率第一主義が、もたらしたこの非人間的社会に、キリストの心を心とする人物が、活躍することに教会が少しでも貢献していきたい。青年層にのみとどまらず、超小教区的に、又超教区的に催される種々の錬成会研修会(クルシリヨ、キリスト共同体錬成会、CLC等)又社会に積極的に関わる使徒職団体(ヴィンセンシオ会、より新しくなる運動等)への参加を通じて、鍛えられていく場のあることを再確認し、その大いなる活用と又参加を呼びかけたい。

これら諸運動に活動しているリバス師、杉田師を初め他の数名の他教区の司祭達が音頭をとって開催した「青年指導助祭研修会」が今後も開催される教区、修道会をとわず多くの司祭が、それに参与し、青年の問題をよりよく知る機会に恵まれることだろう。

青少年の信仰が育てられ、強化されるように積極的な司牧促進が行われるよう、日本司教団でも昨年の司教総会の際、安田、糸永両司教とともに、私も「青少年司教委員会」のメンバーとなり、全教会の青少年へ注ぐ力の何らかの支えとなれればさいわいと思っている。(浜尾文郎司教)

社会問題などで討論
松原で合同青年会

 第6回 教区合同青年会は、去る7月8日午後1時半より、松原教会において、各協会の青年会の有志約30名の出席によって開かれた。初めに、準備委員会よりの経過報告があり、つづいてこれからの合同青年会のあり方、他教区への報告事項について説明があった。

次いで各分科会に別れ、「教会における青年の立場」「社会と教会」等についての話し合いが行われ、各テーマ別の代表者による発表があった。

「幼児洗礼をうけた青年が教会に来なくなるとか、新しく教会を訪れた青年が教会の敷居の高さを感ずるのは教会側が本当に若者に対してオープンになっていないからではないか」との声が多く、これについては神父側にも責任があることが指摘された。

欲しい暖かい理解
成長の過程を見つめる

「江戸殉」を契機として生まれたといわれる合同青年会が、青年達のイニシァティブによって継続している。停滞しているといわれている教会の青年活動の中でたのもしい現象だと思う。中心メンバーの青年達は、たびたび会合を開いて、合同青年会の性格、目的活動方法などについて研究している。一方では2ヶ月に1回各教会の青年会に呼びかけて青年の集会を開いている。基本ラインは、各小教区青年会間の情報交換と、小教区青年会を充実させるための支援活動を目的とし、小教区青年会の統合ではない。教区レベルで各協会の青年の場を充実しようということである。

合同青年会という名称は、仮称であり、参加も自由である。参加することによって、自分の小教区の青年会の力が弱くなると心配する場合は参加しない方がよいかも知れない。一方では、青年会の存在しない教会、あっても人数の少ない教会も多い。そのような教会の青年たちが手を合わせることも必要である。また青年たちが自分の小教区だけに片よらず、広い眼で全教会の中で、信仰の達成を受けることも必要なことである。

この合同青年会は近い将来、発展的に解消するかどうかはっきりすると思う。現在の状況とイニシァティブをとっている青年の動きからみると、将来は明るい。そのためには、彼らの的確な状況判断とニードの把握が条件であるが、私はそれは可能と信じ、手をかすつもりである。存続が危ぶまれるとすれば、小教区のセンスで青年の信仰を育て、達成することは不可能となろう(小教区という概念の変化も生じてくると思う。例えば小教区の脱地域化現象)。早まった組織化や、教区の正式機関としてでの活動でなければ協力できないという動きは早まった批判といえよう。確かに青年の活動は多様化している。多様性の中にはある面からみれば許せない動きもあるかも知れない。しかし、青年にはいつも期待して欲しい。「変わる」「成長」の可能性が潜んでいるのである。明日をになう青年の活動を一時点に停止してみるのではなく、成長のプロセスの中で見て頂きたい。

青年の信仰は、特に将来の教会のリーダーとなる青年の信仰は、福音の個人理解(私と神との関係で私の救いを強調する)より共同体的理解にもとづく信仰であって欲しい。そのためには、青年会という名称にとらわれず、キリストの名によって集まる青年グループの育成が重要である。青年が教会の中に「場」をもち、そこで活動できるように協力しよう。 東京教区青年指導司祭 関根英雄

ひろば
若者とキリスト教

 当今若者の中には、キリスト教の話に心を抱く者が少なくない。ただし、それは単に教養としてキリスト教について知りたいとか、あるいはまた、直ちに洗礼を受けてキリスト信者になりたいとかいうのではない。正直なところ、現代の科学技術文明や高度経済成長に失望し物の背後に隠れている本当のものを求めているからである。『星の王子さま』がいう「本当のことは目に見えないんだよ」ということに本当に気づいてきているようである。上智大の学生やかつらぎ会の若者たちと話しあっていて、最近そのことをいつも感じる。以下は、若者の2、3のことばである。いずれもキリスト信者ではない。

「神を信じるということはよくわからないが、本当のことを知るには、まず信じるということが大切なんだなあということがわかりました」

「実際に、たとえば座禅をしてみたり、正坐し、手を合わせて祈りの文句を唱えてみなければわからないね」

「日本の企業や商社などの貪欲なまでの経済的富追求を抑制するには、精神面を考えさせるキリスト教などの浸透がどうしても必要ですね」

「愛の勝利とその永遠性を信じるのでなければ、現代の人間不信や無関心の世の中で生きていけないんです」

これらは、氷山の一角に過ぎない。生きたキリストの福音に飢え渇いている人たちが無数にいることを私たちは知らなければならない。

「宗教に生きる」とは、どういうことですかと問われて、私は、「永遠のいのちの豊かさを、今の一刹那に感じとることです」と答えたことがある。しかし、これは宗教体験であって理屈ではない。それにはどうしたらいいですか、と聞かれたので、貧しくなければならない、と答えた。

人は、神と交わる内面的ないのちの豊かさをもって、はじめて貪欲心から解放される。また反面、自然や物を粗末にしないで、それを尊ぶとき、はじめて内面的な豊かさを味わうことができる。現代の宣教者もこの辺を自覚しなくては、と自戒するものである。

(越前喜六)

生きた典礼めざし
カテドラルで集い

 典礼委員会では教区民に役立つようにと、9月30日から3回にわたってカテドラルで典礼音楽研究会の協力のもとに、ミサやディスカッションを行う。

あした葉

 現在わが国の住宅事情を端的に示す言葉に「方」「荘」「号」「字」というのがある。独身の時には素人下宿に間借り、当分XX「方」である。結婚してしばらくは一つランクが上がって民間経営のアパートXX「荘」。子供もふえ、もう一部屋と夢にまで見た公共住宅に、落選十数回のすえ入居、待望の団地X「号」と変る。さてその次は小さいながらもマイホーム、郊外に土地でも買って、それが無理ならせめて建売りで土の香とともに「字」XXとゆきたいところだが庶民の大半にとってはしょせん絵に描いたぼた餅。そこで大ていはゴー(号)ストップということになる。

▼これを信仰生活にあてはめて見よう。信仰が型にはまって死んでいるとか、型だけで中身がないとか、こんなふうにいわれる場合、型はあまりよい意味で使われていないようだ。「型」(方)の状態である。次にこれではいけない、なんとかしなければと反省し、自分なりに構想をねるとか、前むきの発想を得たとか、とにかくやる気を出した時点とでもいおうか即ち「想」(荘)の過程がやってくる。更に一歩前進するためには当然それを行動(仕業)として実践に移さねばならない。「業」(号)の段階とでもいうべきか。

▼さてここまではなんとかこじつけてきたが残った「字」だけがどうもうまくゆかない。「あざ」にこだわるから駄目なので「じ」と読んでみたら「慈」というのに思いついた。つまり神の慈しみなのである。本当の信仰というものは神からの慈しみ(恩恵)という動力で成り立つ。そしてこれは人間の側からあたかも権利でもあるかのようにねだったり、つくり出したりするわけにはゆかない。人間に出来ることはせいぜい神の慈しみに呼応する素地を消極的にととのえる「業」でストップなのである。「想」や「業」が、実は既に慈しみのもとになし得たものであったとしても、それに必要な最初の慈しみに対して、我々の側から手の届かないことに変わりがない。 (S・A)

立派な工員に成長
体の不自由乗り越えて

 教会と福祉問題について前号では「Rちゃんのケース」についての原稿をのせたが、今回も具体的に第一線で福祉問題と取り組んでいる実例を2つ紹介してみる。一つは、身障者の社会復帰の手伝いをしているF・M氏の話。もう一つは、酒乱の人を回復させようというカリタスの家の話で、それぞれ、実際にたずさわっている人のみが知る苦労話である。

わたしの会社のB君は新車を運転しながら、しみじみとこう述懐した。「5年前の自分と比べてみると、まるで夢みたいだ」車の中には彼の可愛い子供が2人。ちょこんと坐っている。そして、いつもとは逆にわたしが乗せて貰っている。実はB君はかなり重度の身体障害者なのである。彼の両手、両足とも神経が冒され、片手は小児のように小さく、指も思うようにはきかない。そんな彼がわたしの前に現れたのは5年前のことだった。体が不自由だけれど、根が器用で写真が好きだから、施設を出て写真関係で働きたいということだった。早速知り合いに照会したがどこも駄目で、結局わたしのところに来てもらうことになった。それまで、私のところには足の不自由な人や、脊髄の悪い人が数人いたが、彼のような人は初めてだったので、一抹の不安があったが、早速自分の手に合わせてドライバーを改造し正常の人と劣らずラジオの調整をこなしていた。彼が来てから1年目、会社ぐるみプラスチック成型に転業した。ここでも彼は巧みに仕事をしていった。彼の工夫した道具は手の良い人までもが便利だといって競って真似していた。2年目、かねてから交際していた人とささやかな結婚式を挙げた。つぎつぎと子供が生まれる。市営団地があたる。彼の生活はこの5年間に目まぐるしく変わっていった。そして今、免許を取り車に乗る彼は、もう満員電車で靴づれのでき易い不自由な足をかばう必要もなく、もっとエネルギーを仕事の方に打ちこむことができるだろう。もはや、そこには世間知らずの身体障害者の姿はなく、タフに生き抜いている現代人に変身したB君がいるのみである。わたしがB君のような人たちと知り合い、その社会復帰に微力ながらもお手伝いするようになったのは、主任神父さんの口添えがあったからだ。はじめ、何の設備もない零細企業ゆえ、神父さんの提言を受け入れるにあたっては考えもした。しかし、彼らの意欲にほだされて、施設と社会の間の緩衝地帯となろうと決めたのであった。

B君のほかにも数人、彼らもまたわたしの所で、いくばくかの処世の術を身につけて華麗なる転身を遂げたのであった。独立して花屋や印刷業を営んでいる人、いいお嫁さんを見つけ、地方の工場の職長になった人、その人たちの成功した姿を見るにつけ、彼らを単に身体障害者としてではなく、正常人にも劣らぬものとして社会復帰せしめることに協力できたことに、わたしは一つの生きがいを感じるのである。

酒乱で、金を無心
妻と別居中の元大学教授

 カリタスの家に突然「Mという者ですが・・・」と電話がかかってきた。Mさんは友人のYさんのことについて心配し、電話してきたのだった。Yさん(65)は大学教授さえ勤めた人だが、今は浮浪者同様で、住所不定、酒に酔っては無心にくる最近衰弱して歩行も困難なようすなので、行きだおれにならぬうちに、何とか方法はないだろうかという内容であった。

MさんはYさんの奥様Hさん(60)の住所を知っていたので、ワーカーはHさんに会うことができた。

Hさんは御主人と別居して20数年、某社に勤めて、母子3人の生活を支えてきた。彼女は持病のため、たえず両足をふるわせながら、心労に耐えぬいた人の静かさをもって淡々と話した。

Y氏とHさんは、両親が友人だった関係で36年前見合結婚した。Y氏の両親は離婚し、氏は親戚に養子として引きとられたがそのあと義父母には数人の実子が生まれた。氏は幼児から激しやすい面があり、義母は非常に心配していた。結婚後も些細なことで、危険になり、職も続かず、生活費もないので、Hさんは遂に2児を連れて家出、身をかくした。離婚も考えたが、Y氏が応ぜず、決まらぬまま、今日に至った。別居後のY氏の行動は不明だが、数年前、突然Hさんの勤務先に浮浪者状態で現われ、最近では1日おき位に訪ねてきては金を無心する、困惑しながらも棄ておきならず、小金を渡す。渡したあと、酒屋で飲んでいる氏の姿を車中から見つけたこともある。人の出入りの多い、忙しい職場にこられると困惑するばかり。といって今さら共に生活することは自分も子どもらも考えられないし、本人も考えていないようだという。

ワーカーは、HさんがY氏について経済的援助はできないが公的扶助受給の手続き上、妻として責任をとる意志があることを確認した。そしてY氏がHさんに暴力をふるわないよう配慮しながら、Y氏の生活安定のためにHさんの仲介でY氏と会う段取りを打合わせた。

数日後、Hさんからの電話連絡で、ワーカーが出向くと、昔信仰熱心でアシジの聖フランシスコに傾倒していたというY氏は、いたっておだやかに、むしろ人なつっこくワーカーを迎えた。

「高校は結核で卒業も危なかったが大学では主席だった。仕事を転々としたのは体が弱かったから。この頃は足が痛くて歩けない。今はゆっくり寝たいというのが何よりの望み。生活保護制度のことは全く知らなかった。教会の老人ホームか病院に入りたい。信仰のふんいんきの中では安心できる」という。

異様な臭気、垢とほこりで黒光りする服、黒いうろこのように垢がこびりついた首や耳。そしてにこにこと昔のことを話すのが何ともわびしかった。

夜はS駅の腰掛でねるとのことだったので、駅前派出所に問い合わせる。「よく知っています。時に大声でどなるが、悪事はしない。近頃大分弱っているので、何とかならないかと私たちもいい合っているのですが」との返事だった。

カリタスの家顧問のA精神科医に引き合わせる。診断は性格異常。なお精神病の疑いがあるから、当分入院させて観察の必要があるとのこと。

Hさんと相談して福祉事務所と連絡、担当ワーカーは、事情を了解して、早速生活保護の給付、まもなく、Hさんと娘さんの付添いでC精神病院に入院とスムーズに運んでくれた。

後日ワーカーが見舞に行ったらY氏はすっかりきれいになり、にこにこして「ここはどこ?御飯はうまくないが、よく眠れる。家内が下着をもってきてくれたが、他にだれもこないのでさびしい。本がほしい」といった。このまま落着いた状態が続くなら、老人ホームに移ることもできるだろう。ワーカーは管轄教会に連絡して、司祭あるいは信徒の訪問を依頼した。

Hさんから礼状がきて、「身内では却って手が出せなくて困っていたが、ほっとしました。思えばあの人も気の毒な人です。今はせめてもの幸せでしょう」あった。(カリタスの家)

何のための労働か
連帯をはばむ能率主義

 「俺の家は農業です。農業をやっても現金収入は少なく、生活は貧しかった。だから、中学を卒業したらすぐに働きに出た。郷里の仲間もほとんど出てゆく。『人から使われるような人間は駄目だ。人を使うようになれ』と田舎を出るときオヤジから言われた。今、俺はタンカーや溶鉱炉を作っているある造船会社の下請工として働いている。毎日戦争みたいに忙しい。最近、会社の創立記念日があった。社長は『利益は2000万円突破して念願がかなった』と言っていたが、俺たちにまわってくる分はちょっとだけ。一テレ、二ゴロ、三パチ。こんな言葉があるのを知っているだろうか。テレビ、ごろ寝、パチンコ、これが俺の職場のみんなの生活だ。でもこんな生活は嫌だ!世界一のタンカーも、溶鉱炉も俺たちが作ったんだ。世界一のタンカーみたいに生活もデッカクなりたい。これは俺だけではなく働いているみんなの望みなんだ。だからみんなと一緒にガンバッテゆきたいと思っている」

この冒頭にあげた文章はJOC夏期青年集会のビラに載せられたある青年労働者の声である。この短い舌足らずの文章の中に、労働者の置かれている状況を垣間見ることができる。

最近、外国企業に影響されて、日本の企業も週5日制を取り入れるようになってきた。週5日制で実働時間は週40時間というと、聞こえは良いが、この中に労働密度が濃くなっていることも、残業も含まれていない。週5日制が取り入れられたのは、労働者の健康を考えたり、より文化的な生活を過ごすことができるために取り入れられたのではない。それは、外国資本の攻撃に対する日本企業の防御手段の一環として取り入れられたと言った方が正しい。名目上、5日制になってはいても、絶えず会社の都合によって土曜出勤を半強制的に強いられたり、5日制にするかわりに毎日の勤務時間を30分延長させられているのも珍しくはない。例えば、私の接している青年の勤めている自動車の警報器を製造している会社は、先日隔週5日制に踏み切ったが、会社側は5日制にする条件として毎日の勤務時間を30分延長すること、20%の生産率をアップすることを出した。その結果ラインに流れてくる製品の数が2000個から3000個にはねあがっている。これは明らかに労働強化である。

このような長時間労働や労働強化だけではなく、労働者は、合理化、労災、労務管理など劣悪な条件下の中で人間性を押しつぶされている。

企業は労働者を劣悪な条件で待遇するだけではなく、労務管理を徹底化させ、企業のためになる人間を創り出そうとしている。能率給制度やボーナス制度は会社に対する貢献度(残業や休日出勤)によって査定し、労働者の真の連帯や団結を崩すばかりでなく、個人主義、競争、差別を生み出している。企業に貢献するということは労働者が人間である必要はない。むしろ有能な企業の歯車であり機械でありさえすれば充分である。このような状況の中で青年が自分の能力と人格を発展させる可能性がどこにあるといえるだろうか。同じ職場で働き、同じ仕事をしていながらも、労働者は常にバラバラにされている。上述した青年の声の中にある一テレ、二ゴロ、三パチという話しはうなづけるような気がする。疲れ果てて考える余裕もないだろうし企業も社会も彼等の人格や能力を発展させる何ものをも提供していないのだから。ある大企業の自動車会社でフライを扱っている青年は次のように言っている。「あせらされたり、すかされたり、あきらめさせられたり、ケツをたたかれたりで、つくづく全てが嫌になりました」と。

現代世界憲章が「今日においても、働く者がある意味で自分の仕事に隷属させられるようなことがしばしば起こる。このことは、いわゆる経済法則によって、けっして正当化されるものではない」と指摘しているように、企業の利潤追求や発展のために、神の創造の御業に参与する労働の価値を破壊したり、物質的、社会的、文化的精神的な生活を破壊したり、ないがしろにすることは許されるべきことではない。しかし、実際今日の労働者は企業の手によって、利潤追求の手段、道具として扱われ人間の尊厳を限りなく無視されている。労働者の日常生活は神の望まれている神の子としての生活ではない。社会問題に関する教書は「貧しき者、不正に苦しむ者の味方としての教会は、現代の騒乱と不安の中にあって特別な使命をおびている」と教えている。このような状況の中で苦しむ労働者の解放のために働き、労働者に福音をもたらすのは他ならぬキリスト者である労働者自身である。

JOCは今年運動テーマとして”教育”ということに取り組んでいる。これはいわゆる学校教育という面でとらえられるべきではなく、我々の望みや考え方に影響を与え、育もうとしている社会のあらゆる状況に目を向けている。子供の頃から弱肉強食の考え方を植えつけられたり、競争することが当然のことのように教えられたり企業の望む通り黙々として働くことが、男の甲斐性だと考えたり、一テレ、二ゴロ、三パチのように貧しい方法でしか余暇を過ごすことができないこと自体、好むと好まざるとにかかわらず、我々の受けている影響である。このようなことが神が望まれた神の子としての我々の生き方なのだろうか。

JOCのメンバーたちは、必ずしも大きな力ある活動を展開している訳ではないが、いくつかの事に気付き始めながら活動している。

まず子供の頃から今に至るまで一貫して受けている影響が能力主義であったり、自分一人の幸せを求める個人主義であったり、差別を助長する競争意識であることを微々たるものであっても気付き始めている。そしてこれらの全てが資本主義というシステムと密接につながれているということにも目を向けている。

このような状況は神の望まれた生き方ではないことを知るだけではなく、そこからの解放を求めて、歩き始めている。

7月の下旬にJOC主催で各地に青年集会が開かれた。この青年集会は二つの大きな意味を持っている。一つは、我々の受けている影響そのものを能力がないからとか、甲斐性がないといった個人的なものに還元されがちであるが、それがけっして個人的なものではないことを全国的な広がりの中で示すことあり、第二には、この集会の参加メンバーが半数以上未信者であることの事実に示されているのは、JOCが青年たちと共に歩む運動であるということである。 JOC東京地連指導司祭 大原 猛

ブロック便り

 中学生錬成会を計画

【多摩】青少年にも魅力ある教会に-東京ばかりでなく、カトリック全体が抱えている大きな問題だが、この動きに呼応して多摩ブロックで、夏休みに中学生を対象とした大作戦の準備が進行している。

去る3月31日夜、約90名が参加して行われた八王子城山縦走に次ぐ、同ブロックの青少年対策第2弾は、8月13日から17日までの4泊5日、青梅市御岳山頂で行う中学生合同錬成会である。

標高1000メートルの山頂で共同生活しながら、各学年ごとに決めた大テーマを中心に、教会と個人、科学、文化などとの関わり合いについて考えるという、従来では見られなかった組織的で画期的な行事といえよう。

この合同錬成会の立案者、キャップである寺西神父(多摩)らスタッフは、トソ気分の抜けぬ正月末からこの大作戦にとりかかり、すでに各校教師、司祭、修道女らリーダー陣も決定、学習のカリキュラム作りも進んでいるBS運動とも違う青少年運動の一つとしてその結果が注目されるが、同ブロックでは、毎年、将来は全国的な規模にもとの声も出ている。

友のために祈ろう

【城北】城北ブロック・志村教会は昨年11月8日、設立5周年を迎えたが、それを契機として”兄弟達のために祈る”運動を始めた。ここまでは方々の教会でやっていることであるが、勤労者の聖ヨゼフの聖画の裏の祈りの文面に特徴がある。

「以前私達と一緒に主のみ前に集うていましたが、何の理由でか、今は私達の仲間から離れてしまった兄弟達のために祈ります」

「その前に、私達自身があの兄弟達の疎遠の原因ではなかったかと反省致します。もし、そうであったなら、先ず主と兄弟達に深くお詫び致します」

これ程はっきりと”自己批判”を打出しているのは殆んど見たことがない。そしてその祈りの文面は「私達もよく注意して、二度とこのようなことが起こらないよう努力致します」と続く。

今や、東京教区は財政確立、財政自立を叫んでいるが、離れて行った兄弟達の問題を優先させるべきであるとは言わないが、この問題も併行して考えるべきではないだろうか。

布教の協力確立へ

【城西】当ブロックでは全体会議を6回重ねた。いま継続審議になっているものが3つある。その一つは「布教の協力態勢について」で、具体的には愛の証の態勢がつくられることと、隣接教会の相互の協力を実現することで家庭会のような小さい共同体をつくることがあげられた。その二はブロック全信徒の参力する共同ミサ開催についてであるが、準備の段階ではなんの問題もなく運ばれるように思われたものが、いざ全体会議の場では障害の続出でまとまらなく次回審議ということになった。

11月に共同墓参

【城南】城南ブロックではことし秋、初の試みとして府中墓地への共同墓参を計画している。このほど開かれたブロック会議で碑文谷教会から提案があり、賛成されたもの。墓参はこれまで各教会ごとにバスを借りると費用もかさむ。そこで共同で行うことによって費用を節約させるとともに、ブロック各教会の親ぼくもはかるのがねらい。日取りは11月11日で、レクリエーションをかねたものにする予定。各教会からの積極的な参加を呼びかけているが、連絡先は碑文谷教会の赤沼(電話712-4644)、大井(714-3869)両氏へ。

お知らせ

【布司協議事要旨】

◇第6回(5月24日)

各ブロックの現状報告のあと、議長と教区運営委の選挙が行われ、正式な議長団と教区運営委員会が発足した。

【議長団】岡田啓一(家庭会)、後藤正司(関口)

【教区運営委員】福川正三(麻布)、徳川泰国(志村)、目良純(目黒)、永島洋三(高円寺)、津賀佑元(豊島)、小林章雄(船橋)、小林畿久子(汚れなきマリア会)、江良綾子(カトリック看護協会)

◇第7回(6月24日)

各小委員会及び財政、典礼両委員会の報告ののち、仮称、宣教総合センター設立の初段階に関する件(布教小委代表、杉田委提案)の審議で可決された第四部会の四議題を実行に移す最初のステップでA、宣教的信徒の養成をめざす錬成会、研修会の責任者の会、B信徒使徒職団体のリーダーの会、C、要理教育研究者の会、D、教会一致運動の推進者の会、の四つの会議を定期的に開催するようにとするもので、質疑応答の結果全員賛成、早速その活動に着手することになった。