お知らせ

お知らせ

教会学校リーダーの皆さんへ「東京教区こどものミサのお知らせ」

2017年09月01日

2017.8.15
東京教区教会学校委員会

2017年度東京教区「こどものミサ」

【日  時】  2017年 10月8日(日)午後2時~5時
【場  所】  東京カテドラル関口教会「聖マリア大聖堂」&前庭 
【テーマ】  「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」(ルカ13・23)
                    -今日 愛と優しさをもって-

 

kyokaigakko2017-1 今年も東京教区主催の「こどものミサ」が、10月8日(日)午後2時から、東京カテドラルにて、岡田大司教様の主司式でおこなわれます。「こどものミサ」では、毎年参加される小教区ごとに、テーマに基づいた奉納物を準備していただき、当日のミサで奉納するという形をとっています。
そこで、今年のテーマについて、テーマに関するカテケージス(教え)、奉納物など、教会学校リーダーの皆さんに、当日までに子どもたちと共に準備していただきたい事についてお知らせします。

 

お知らせの内容

1.テーマについて
テーマとなっている聖書の箇所についての説明です。子どもたちとより豊かな準備が出来る様に、リーダーの皆さんもテーマとなっている聖書の箇所を深く味わってみてください。

2.当日までに行なっていただきたいカテケージス(教え)
「1.テーマについて」および「2.当日までに行なっていただきたいカテケージス(教え)」を参考にしながら、当日までに子どもたちにカテケージス(教え)を行ってください。

3.当日持参していただきたいもの(奉納物の製作)の説明
製作していただく奉納物についての説明と注意点、製作時のヒントなどをまとめました。製作した奉納物は、こどものミサ当日に持参してください。 ミサ中に奉納して頂きます。

4.ミサで歌う曲・申し込みハガキの控え


1.テーマについて

「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」(ルカ13・23)
-今日 愛と優しさをもって-

西暦2000年・大聖年に始まった、東京教区「こどものミサ」は今年で18回目になります。毎年テーマを設定してミサに臨んでおりますが、2010年からは、弟子たちの言葉をテーマの文言として選んで来ました。実のところ、弟子たちの言葉の中には本当の答えがなく、お答えになるイエスさまの言葉の中にいのちがあります。しかし、弟子たちの言葉はわたくしたちの感覚により身近なので、導入としてテーマの文言に選んできました。
今年は弟子たちの言葉の中から、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」(ルカ13・23)〈サブテーマ〉-今日 愛と優しさをもって-、という問いかけをテーマとして選びました。わたしたちも一緒に問いかけながら、イエスさまからのお言葉に耳を傾けたいと思います。そして、その言葉に従って歩めますように、今年のこどものミサに向けて、ご一緒に準備をしていきたいと思います。
まず、ルカ13章22節~30節を一度お読みいただきたいと思います。

そのときイエスは、町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられました。すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいました。イエスは一同に言われました。
「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言い出すだろう。しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。
あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」(ルカ13章22~30節参照)

ここでは福音書の言葉に解説を加えながら、テーマについて説明していきたいと思います。

《福音書の言葉の解説》
「そのときイエスは、町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた」
ルカによる福音書では、9章51節から19章44節までが、「エルサレムに向かう旅」の段落となっています。今年の福音はこの旅の途中の出来事になります。
「エルサレムに向かう旅」全体を通して示されていることは、イエスというお方の歩む道が、「受難と死と復活を通して、栄光に入る道」なのだということです。今年の箇所でも、イエスさまは町や村を巡って、そのことをお教えになられたのでしょう。

すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。
ユダヤ教ではたびたび「救われる人の数」についての議論があったようです。「イスラエルの民全体は、後の世にいのちを受ける」、という説もあれば、「ごくわずかな人々しか救われない」、という説などがあったようです。

イエスは一同に言われた。「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。」
イエスさまは、この質問に答えることを通して、「救い」とは一体どういうことであるのかを教えておられます。
イエスさまは「救い」について、あたかも最初から結果が決まっているかのような「受け身」のことなのでなく、自分が入るように努める、「能動的」なことなのだと言っておられるようです。自分の「救い」について、「救われる者が少ないのかどうか」という、歩留りを尋ねる「相手任せ」ではなく、たとえ「入ろうとしても入れない人が多い」にしても、自分が入るように努めるべき、「自分の努め」なのだと教えておられるのです。

「家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『ご主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。」
イエスさまは更に、「救い」についての教えを続けられます。「戸」の内側では、神の国の宴会が開かれていました。神の国の宴会とは、救いの象徴です。その家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、外に立って戸をたたいても、「お前たちがどこの者か知らない」という答えが返ってくるだけだと教えられています。
「お前たちがどこの者か知らない」という言葉は、もともとユダヤ教社会からの「破門宣言」に用いられた用語だそうです。つまり、家の主人が立ち上がって戸を閉めてしまってからでは、いくら外から戸をたたいても、戸が開くことはなく、神の国の宴会と無関係になってしまうということです。
「家の主人が立ち上がって戸を閉める」ということばが何を指しているのか、世の終わりの時のことなのか、自分の命の終わりの時のことなのか、明らかではありません。しかし、いずれにしてもそれがいつの日のことなのか、わたくしたちには分かりません。
でも、ここでひとつわたしたちに「分かっていること」があります。それは、いつ戸が閉められるのか分からないから、いつ戸が閉められてもよいように、「今、戸から中に入っていなければならない」ということです。これはわたしたちに分かっていることです。「今日、戸から(神の国の宴会の)中に入っていること」。これが、今年の福音のイエスさまのメッセージの中心でもあります。

「そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言い出すだろう。しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。」
「一緒に食べたり飲んだりすること」や、「わたしたちの広場で教えを受けること」が、「戸の(神の国の宴会の)中に入っていること」と、イコールではないようです。再び主人から、「お前たちがどこの者か知らない」という答えが返って来ていることから分かります。

「あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。そこでは後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」
アブラハム、イサク、ヤコブと共に神の国に入っている「すべての預言者たち」は、皆、同胞であるユダヤ人から迫害され、殺された人々です。そして、迫害したユダヤ人たちは、戸の外にいた人々と言えるでしょう。
「泣きわめいて歯ぎしりする」というのは、終末において裁きを受けた人々の苦しみの表現です。「東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く」のは異邦人のことです。
先に神の国の招きを受けたのはユダヤ人。後から招きを受けたのは異邦人です。しかし、多くのユダヤ人はイエスを拒み続け、多くの異邦人がイエスを受け入れました。そのことを「後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」と表しているようです。

《福音とテーマについてのまとめ》
今日の福音は、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と質問する弟子に対するイエスさまの答えです。イエスさまはその質問に答えながら、その人が持っていた「救い」についての根本的な「勘違い」を正しておられるようです。
その一つは、「救い」があたかも最初から結果が決まっているかのような「受け身」のことではないということです。「入ろうとしても、入れない人が多い」にしても、「自分が狭い戸口から入るように努める」という、「能動的」なことなのだということです。
「努めなさい」と訳されている元の言葉は、ギリシャ語の「アゴーニゾマイ」です。「アゴーン」は競技場のことで、競技場の意味から派生した言葉だそうです。つまり、競技者が勝利を得るためにするような努力で、「狭い戸口から入るように『努めなさい』」と言われているということです。
もう一つは「救い」が、いつの日か時が来たら与る、というようなものではなく、「今日、入っていなければならない」ものなのだということです。家の主人が戸を閉めてしまってからでは、「外」にいたらもう入れません。だから、「今日、入っていなければならない」ものなのだと教えておられます。

今年のイエスさまのメッセージをまとめると、
「今日、狭い戸口から(救いに)入っているように、努めなさい」
ということになります。

さて、「狭い戸口から入る」とは、どういうことなのでしょうか。その理解の助けとなることばを、他の福音書から探してみました。

「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入るものが多い。しかし命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」(マタイ7・13~14)

「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる」(ヨハネ10・9)

この二つのメッセージから見えてくることは、「狭い戸口」とは、イエスさまのことだということです。すると、今日のメッセージは、
「今日、イエスさまから(救いに)入っているように努めなさい」
と言うことになります。

「救い」とは、神さまがすべての人と共におられるという真実に出会って、その真実に結ばれて生きることだと思います。わたしたちにはそのことができません。しかし、そのことがお出来になる方がイエスさまです。イエスさまは地上で既に「救い」を生きておられました。
そして、イエスさまは「受難と死と復活を通して、栄光に入られ」ました。栄光に入るとは神との完全な一致、つまり、すべての人間と共におられる神の真実の中に、イエスさまが復活されたということです。わたしたち一人ひとりの内に神が共におられ、その真実の中にイエスさまが復活してくださっているので、ご自分が生きておられた「救い」にわたしたちを与らせることがお出来になります。それゆえ、イエスさまは「救い主」なのです。

すべての人の内に神がおられ、その中にイエス・キリストが復活しておられます。その真実に出会わせていただいて、聖霊の交わりの中で、キリストと一緒の向きで生きる者がキリスト者です。今日、自分の内に復活してくださっているキリストと一緒に生きるなら、出会う人の中に、神が共におられる真実を認めて祈り、そこにキリストが復活しておられることを認めて祈る者になります。それが「今日、イエスさまから(救いに)入っている」ということだと思います。

「努めなさい」と言われるのは、わたしたちの回りには、「神さまが共におられる」とは思えない状況がたくさんあるからです。でも、たとえわたしたちにはそう思えなくても、そう感じられなくても、理解できなくても、競技者の努力で、「神さまがあなたと共におられます」と認め、祈ること、「キリストが復活しておられます」と認め、祈ること、それが「努めなさい」といわれる教えの具体的な中身ではないかと思います。
さて、今年の福音のメッセージを、こどもに分かる言葉の行動目標に置き換えてみました。

「今日 愛と優しさをもって人と接すること」

「救われる人が多いか、少ないかよりも大切なことは、あなたが今日、愛と優しさをもって人と接することなのだよ」とイエスさまがおっしゃっているのだと、こどもたちに伝えることが出来たらよいのではないかと考えました。愛と優しさをもって人と接することこそ、その人の中に神さまが共におられることを認め、キリストの復活を認めることだからです。


2.当日までに行なっていただきたいカテケージス(教え)

今年のテーマ「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」(ルカ13・23)を受けて、当日のミサの福音の箇所はルカ13・22~30としました。事前に福音の内容に親しんでおいていただくために、リーダーの皆さんに子どもたちといっしょにやっていただきたいことがあります。簡単に以下のようにまとめてみました。

1.当日の福音 ルカ13・22~30を子どもたちに読んで聞かせる。
リーダーのみなさんが、一度子どもたちの前で声を出して、読んで聞かせてほしいと思います。
その際、次のように問いかけながら、少しずつ区切って読んでいただいたらどうでしょうか。
①導入として ルカ「13章23節」をクイズの形で提示する
「聖書を読みますが、まずみなさんにクイズを出します。ある人がイエスさまの所に来て、『主よ、救われる者は少ないのでしょうか』と言いました。イエスさまは、何とお答えになったでしょうか?」
*「多い」「少ない」「救いって何?」・・・等々
◇「救いって何?」という質問については、説明が難しいので、とりあえず、「天国に入ることかな」とまとめておかれたらよいと思います。
②「22~25節」を読み、「救われる者は少ないのか」という尋ねに対するイエスの答えを伝える
22.イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。23.すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。
24.「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。
25.家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『ご主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返って来るだけである」
③子どもたちに質問する(補助質問)
「イエスさまは、救われる者は、多いと言っておられるの?少ないと言っておられるの?」
*「多いとも、少ないとも言っていない」「少ない?」「分からない」・・・等々
④リーダーが一旦まとめる
「イエスさまは、多いとも、少ないともおっしゃっていません。どうも、多いか少ないかよりも大事なことがあるのだとおっしゃっているようですね」
「多いか少ないかより大切なこととは、
1.『狭い戸口から入るように努力すること』。そして
2.(戸が閉まるのは何時か分からないから)『今、戸口から中に入っていること』
です。」
⑤続きの「26節~30節」を読む
「イエスさまは、そのことが大事だと教えるために、続けてお話ししておられます。続きを聞いてください」
26.「そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言い出すだろう。27.しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。28.あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。29.そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。30.そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」

言葉の説明 (カテケジスの中で、必要に応じて、必要なタイミングでお伝えください)
「イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた」

→イエスさまは、エルサレムに向かって旅をされました。それは十字架に上げられる道。「受難と死と復活を通して、栄光に入る道」でした。
「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」
→「救い」は子どもには難しい概念ですね。「主よ、天国に入れる人は少ないのでしょうか」と言い換えてみてもよいと思います。
「狭い戸口から入るように努めなさい。」
→「狭い戸口」とは、イエスさまのこと。「テーマについて」の5ページを参照ください。
「家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは・・・」
→「世の終わりのこと」かもしれません。また、「わたしたちが死ぬ時のこと」かもしれません。
「あなたがたが外に立って戸をたたき、『ご主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返って来るだけである」
→戸が閉まる前に、「戸の中」にいなくてはいけないということですね。
「そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言い出すだろう。しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。」
→「戸の中に入っていること」とは、ただ「一緒に食べたり飲んだりすること」でもなく、「広場で教えを受けること」でもないようです。
「自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする」
→戸の外は、泣きわめいて歯ぎしりするようなところだから、「今、戸の中に入っているように」と教えておられるのです。

2.こどもたちに質問する。
イエスさまは、救われる者が多いか、少ないかより大切なことがあるとおっしゃっています。そしてその「大切なこと」とは
1.『狭い戸口から入るように努力すること』
2.(戸が閉まるのは何時か分からないから)『今、戸口から中に入っていること』
でした。

「皆さん、狭い戸口って何のことだと思う?」(補助質問)
→わからない
こどもたちには、難しい質問です。何かこどもから答えが出されたら、リーダーは「そうだねえ、そうかもしれないね」と、答を出してくれたことを、大切にしてくださったらよいと思います。

「あのねえ、『狭い戸口』というのは、実はイエスさまのことです」(リーダーが教える)

◇もし「どうして」と聞かれたら、「イエスさまは、『狭い門から入りなさい』『わたしは門である』、とおっしゃっているのですよ」(3ページ参照)と教えてあげたらよいと思います。

そして更に問いかけていただきたいと思います。
「『イエスさまから入るように努力する』って、どういうことだろうか」(補助質問)

→イエスさまと仲良くなる。
→人に親切にする。
→人に優しくする。
→わからない

すぐ、上のような答えをするかもしれませんし、全くわからない・・かもしれません。
いつものことですが、無理に答えを出そうとしなくてよいと思います。
まず、どんな意見も「そうかもしれないね」と、答えてくれたことを大切していただいたらいいと思います。
「イエスさまから入る」ということが、
◇イエスさまの仲間になる、イエスさまと親しくなる、イエスさまの教えを守る、イエスさまと
一緒に生きる・・・、そういうことなのかな、と気付けたらよいのだと思います。

3.リーダーが子どもたちに、教える・伝える・一緒に考える
最後に、子どもたちに次のようなことを話していただければ幸いです。
「ある人が、イエスさまに『救われる人は少ないのでしょうか』と尋ねました。するとイエスさまは、救われる人が多いか少ないかよりも、大切なことがあるといわれました。大切なこととは、
今日、イエスさまと一緒に生きることです。」

「イエスさまは、復活してすべての人と一緒にいてくださいます。だから、今日、一緒にいてくださるイエスさまと、一緒に生きることが大切だと言われているのだと思います。」

「イエスさまは、すべての人を神さまの子どもとして、愛しました。そして、すべての人を神さまの子どもとして優しく接しました。」

「そのイエスさまが、わたしたち一人ひとりと一緒にいてくださいます。今日、イエスさまと一緒に生きるために、わたしたちは何ができるでしょうか」(これが主質問です)

*子どもたちは、いろいろな答えを言ってくれるのではないかと思います。
・人に親切にすること ・友だちを助けること・ケンカをしないこと・人をいじめたりしないこと・困っている人を助けること・etc

◇まとめとして、次のように話していただいたらよいと思います。
「イエスさまと一緒に、人に優しくし、愛をもって人と接すること」・・・「イエスさまは、みなさんにそうしてほしいなあと、望んでおられるのだと思います。そしてその時、もう、天国に入っているのだと思うよ。」等々。

4.イエスさま(神さま)に手紙を書く
今日の福音を受けて、子どもたちに手紙に書かせていただきたいと思います。
◆「イエスさまに(神さまに)、お手紙を書こう」
子どもたちに伝えやすいように「今日、狭い戸口から入っていること」とは、「イエスさまと一緒に生きること」。そしてそれは、人に「愛と優しさをもって接すること」と、シンプルにとらえました。

  • イエスさまに(神さまに)お手紙を書いてみましょう。
    これから自分が「愛と優しさをもって人に接しよう」と思うこと。
    いままで自分が人に「愛と優しさをもって人に接しなかった」と思うこと、
    イエスさま(神さま)に書いてみましょう。どんなことがあるかな?
  • それ以外の内容でも、イエスさま(神さま)に聞きたいこと、話したいことがあったら、自由に書いてください。
  • イエスさま(神さま)は、皆さんが真剣に書いたことには、真剣に答えてくださいます。
    だから、真剣に、誰にも内緒で、書いてみましょう。
  • 名前は書かなくていいです。

*この手紙が、奉納物「愛と優しさのプレゼント」(後で詳述します)と一緒に奉納されます。奉納物の作り方に応じて、手紙を書かせる紙(その他)の形状を工夫なさってください。
*できればリーダーも一緒に書いていただくと、子どもたちもより一生懸命に取り組めると思います。


3.当日持参していただきたいもの(奉納物の製作)の説明

今回の奉納は、小教区(聖堂共同体)ごとに、「愛と優しさのプレゼント」(後で詳述します)を奉納していただきます。一人の子どもが運べるような物にお作りください。(当日持って来てください)

製作していただく奉納物については、当日のスムーズな進行のため、ある程度の制約をこちらで決めさせていただきました。ご協力のほどよろしくお願いします。

「愛と優しさのプレゼント」
今回は、「狭い戸口から入るように努めなさい」と言われたイエスさまへの答えを、形に表したいと考えました。こどもたちにも伝えやすいように、「狭い戸口から入る」とは、一緒にいてくださるイエスさまと一緒に、「愛と優しさをもって 人に接すること」と、シンプルにとらえました。
カテケジスの4で書いた「イエスさま(神さま)への手紙」は、「これからは、愛と優しさをもって人と接したい」という内容の手紙ですが、今回はみんなの「愛と優しさの心」がいっぱい詰まった「愛と優しさのプレゼント」を作って、その中に「イエスさま(神さま)への手紙」を入れるようにして、奉納していただきたいと考えました。
 ◇個数:小教区毎に1個(一体)
◇機能:「愛と優しさのプレゼント」は、カテドラルの祭壇の前の階段に置きます。倒れてしまうと、見えなくなってしまうので、自立するもの、にしてください。
◇大きさ:高さは、30センチはあるものにしてください。(その程度の大きさがないと、皆から見えないため)「愛と優しさのプレゼント」の台座の幅は、38センチ以下(祭壇の前の階段に置くため:38センチは階段の踏み台の幅です)でお作りください。 (ただし子ども一人で持って奉納できる大きさ・重さ以下(厳守))
◇材質:可燃物でお願いします。特に、当日持ち帰りを希望されない教会の奉納物は、教会学校委員会で適切に後処理を行いますので、金属、粘土などではないもので作って頂きますようお願いします。

kyokaigakko2017-2作り方について
・特にありませんが、前述したように、全体の高さが、30センチはあるものにお作りください。
・こどもたちの「愛と優しさ」が表れるような姿、形に作っていただければ、ありがたいです。
・自立する形にお作りください。
・手紙の内容については、
「2.ミサまでに行なっていただきたいカテケージス(教え)」を参照してください)

奉納物「愛と優しさのプレゼント」の奉納
「奉納物(愛と優しさのプレゼント)」はミサの中で奉納します。
各教会1名の代表者(厳守)が、中央通路を通り、祭壇まで進みます。そして大司教様に手渡します。その後、係が奉納物を並べていきます。(※例年奉納の行列が長くなってしまうので、代表者は必ず1名でお願いします。)
・「奉納物」を持ち帰りたい教会は、ミサ当日に会場の受付で申し出て下さい。


4.ミサで歌う曲・申し込みハガキの控え

入祭「愛されている子供らしく」
アレルヤ「アレルヤ心をひらき」
奉納「私をお使いください」・「ささげうた」
感謝「感謝の賛歌」上村さん
平和「キリストの平和」
拝領「大波のように」・「ウィズ・クライスト」・「神様のぬくもりのしるし」
閉祭「アーメンハレルヤ」

——————-(申込みハガキ内容)——————————–
1.「こどものミサ」参加の有無
10月8日(日)の「こどものミサ」への参加の有無をお知らせください。
教会名      教会
参加する  参加しない  (○をつけてください)
*おおよそ      人 (リーダー    人、子ども    人)
*代表者名 
*連絡先  Tel:          e-mail:

2.子ども侍者団・参加の有無
前項で「参加する」に○をつけた教会の方へ。ミサの中で子ども侍者団を形成する予定ですが、同侍者団への参加の有無をお知らせください。
参加する  参加しない  (○をつけてください)
*各教会から1~2名でお願いします。
*自教会で使用している侍者服を着用ください。
*当日は午後1時30分迄に集合ください。

3.リーダー準備会への出席の可否
9月24日(日)夕方こどものミサに参加する教会のリーダーのための準備会があります。当日についての説明と、当日の朗読、共同祈願などの担当を決めます。
出席する  出席しない 
*各教会から代表で1名ご参加ください。出席者名(           )

日時:9月24日(日)午後4時半~5時半
場所:東京カテドラル・関口会館2階、教区スペース

*準備会に出られなくても、当日の係(会場設営、案内、etc)のお手伝いをして下さる方はご連絡ください。Keizo.ina@nifty.com 稲川圭三神父 迄
お手数ですが 9/18 (月)までにご返送下さい。
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以上、説明が大変長くなりましたが、よろしくお願いいたします。ご質問等ございましたら、下記のお問い合わせ先までご連絡ください。

問い合わせ先:
東京教区 教会学校委員会 担当司祭
稲川圭三神父(カトリック麻布教会 主任司祭)
電話:    03-3408-1500
fax:      03-3408-2575
e-mail: keizo.ina@nifty.com