お知らせ

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日本カトリック部落差別委員会「福島差別を危惧するアピール」

2011年12月22日

日本カトリック部落差別人権委員会
「福島差別を危惧するアピール」

東京電力福島第一原子力発電所の事故で、大気中に放出された放射性物質の量は、広島原爆の168倍相当にも上ります。この放射性物質は、近隣都県に高い線量の被害を及ぼしています。わたしたちが、今まで高エネルギー消費生活を享受してきたことを省みるならば、今回の放射能被害は、福島県周辺の住民のみならず、日本全体で背負わねばならない問題なのではないでしょうか。

 

九州の福岡市内で今年9月に開店予定だった産地直送品の販売店「ふくしま応援ショップ」が出店を取りやめました。「九州に福島の放射能を持ち込むな」とのメールや電話による反対があったためとされています。さらに同月、愛知県日進市の「福島製打ち上げ花火」拒否や、10月に報道された大阪府河内長野市の架橋工事で「福島製の橋桁の放射能が不安」との声により工事が中断されたことなど、福島の排除は続きました。

 

京都の「五山送り火」の件を考えてみましょう。8月、岩手県陸前高田市の被災松でつくられた薪が「放射能が少しでもあるならダメだ」と二度にわたって拒否されました。

そこには、見えない放射能とその拡散への恐れが、「亡くなった人々の冥福を祈る」という被災地の人々の思いをも踏みにじってしまう、あまりにも悲しい断絶が表れています。

 

いわゆる「安全神話」のもと、徹底した情報の隠ぺいと統制によって、原子力運用の危険性と原発事故の実態が市民レベルに行き渡ることが妨げられて、こうした排除・断絶を引き起こすことになりました。放射能が拡散していくように、忌避による排除・差別が広がりつつあるのです。このような事態を克服するには、すでに原発事故が起こってしまっている現在、わたしたちは3.11以後、生活環境はまったく変わり、日常的に放射能に囲まれているという現実を受け止め、その中で生きていく術を身につけねばならないのではないでしょうか。

 

「福島産のものは買わない」「福島の人には来てほしくない」といった反応だけでは、この現実を乗り越えていくことはできません。今回の原発事故は福島県とその周辺だけの問題ではなく、わたしたちすべての問題であり、今は、日本中が福島に連帯してその痛みを共有していく時なのです。そして同時に、未来への希望である子どもたち、これから生まれてくる新しいいのち、若い人々への被曝のリスクを最小限にすることも求められています。

 

政府は9月30日に、福島第一原発から半径20~30キロ圏の緊急避難準備区域を一斉に解除し、南相馬市など5市町村の2万6千人の人たちが、帰還できることになりました。環境線量が年間20ミリシーベルト以下の地域であり、今後緊急事態が発生する可能性が極めて低くなったため、というのが解除の理由です。国が決めたので信頼して帰還してよい、というのです。しかし、年間20ミリシーベルトという数値には、多くの人から批判が出され、政府内においても再検討が始まりました。これは人命を第一とした数字とは言えません。

 

福島を拒んでも事態がよくなることはありません。そして、このような高い放射能のある故郷に、苦しみを負って帰還していく福島の人たちに連帯し、寄りそって受け止めることで、初めてわたしたちは、今、何を選ぶべきなのかに気づけるのではないでしょうか。拒まれなければならないのは、福島ではなく、福島の人々との連帯を妨げるわたしたちの排除と差別、そしてこの事態を生んだ原子力政策なのです。

 

原発は都会に作れない立地差別を前提とし、建設過程では賛否両側に住民を分裂させる人間関係破壊の働きをし、一度稼働し始めればその維持運営においては多大な被曝労働者を生み出し、かつ膨大な核分裂生成物、つまり「死の灰」を生み出し続けます。

今までに日本の54基の原発が生み出した死の灰の総量は、広島原爆の120万発分にも達しています。このように原発は、ウラン採掘から廃棄物管理に至るまで、人類に重い負担をかけます。とくに高レベル放射性廃棄物は100万年もの間、生命環境から隔離しなければならない危険物で、それはあらゆる意味で人類が管理できる限界を超えています。

 

わたしたち日本カトリック部落差別人権委員会では、福島の子どもたちが避難先で差別を受けたり、将来結婚差別を受けたりすることなどがないようにとアピールします。

2011年12月22日

日本カトリック部落差別人権委員会
委員長 平賀 徹夫(カトリック仙台教区司教)

 

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