教区の歴史

教区の歴史

フランシスコ会司祭叙階式

2003年03月22日

2003年3月22日、瀬田教会にて

 

受階者
フランシスコ 伊能 哲大(いよくてつひろ)

 

朗読箇所
申命記26:16-19
ヨハネの福音17:6-8,17-19

 

今日読まれた福音の中でイエスは言われました。「(あなたが)わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました」(17:18)。

これはイエスがご受難の直前におん父にささげた祈りの言葉です。おなじようなことばが、復活したイエスからて弟子たちに告げられました。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」(ヨハネ20:21)。

いまわたしたちの兄弟フランシスコ伊能 哲大さんが司祭に叙階されようとしています。

司祭は教会の奉仕者、司教の協力者として神の民を牧し、福音を述べ伝え、新約の祭儀・聖体祭儀を執行します。

彼はその任務をこの世の中で、派遣されたものとして行うのです。 

司祭ばかりでなくわたしたち教会はこの世に派遣されたものです。教会を派遣したのは主イエスです。そのイエスを世に遣わされたのは父なる神です。そして父と子の愛の交わりである聖霊がわたしたちのなかに注がれています。教会の誕生はすなわ聖霊の派遣・聖霊降臨であります。聖霊は真理の霊といわれます。聖霊はわたしたちを神のいのちにあずからせ、真理に導き、わたしたちを聖としてくださいます。

わたしたちはこの世において真理を証するよう召されているのです。わたしたちがキリストの弟子であることを世界の人々に示すのはこの世界の中においてであり、日々の生き方・在り方を通して、です。 

ところでわたしたちはいま、世界と人類の現実をどうみたらよいのでしょうか。

キリスト教が多数をしめる超大国が、あるイスラム教徒の国を攻撃しています。この現実は多くの人々に戸惑いと躓き、反感を引き起こしています。どんな理由があるにせよ、十字架のキリスト、復活されたキリストのイメージ・教えと調和させることが困難であるとわたしたちは感じます。

他方、わたしたちが他者のことを言う前に自分たち日本のカトリック教会はその点大丈夫が、点検してみるひつようがあります。小さな群れにすぎないわたしたちです。キリストの弟子といえるような生活をしているのか、行動をとっているでしょうか。その点、はなはだ不十分であると認めざるを得ないのです。 

わたしたちの世界は病んでいます。わたしたちの教会も病んでいます。

しかしわたしたちは信仰のうちに救いと癒しを待ち望んでいます。教会は神の国そのものではありませんが、神の国到来のしるしです。すでに神の国は到来しました。

フランシスコの弟子である皆さん、いまこそこの世界に、この日本の社会に、東京とその周辺の地域に、聖フランシスコの精神を発揮してください。彼は教派を超え宗教を越え、イデオロギーを越えて、実に多くの人から愛されています。

救いと癒しは聖霊のたまものです。そしてそれは暴力や利己主義とは両立できません。

ひとり一人のなかに人間の尊厳を認める真理の霊の働きであり、謙遜と無私な精神に宿る霊の賜物です。

きょう叙階される兄弟たちが聖フランシスコの弟子として平和の使徒として謙遜にして勇気ある証を立ててくださるよう切望します。