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<title>福音のヒント</title>
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<title>『福音のヒント』は引っ越しました。</title>
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<![CDATA[<p>『福音のヒント』は以下の場所に引っ越しました。<br />
<img alt="qrcode.png" src="http://tokyo.catholic.jp/cgi-bin/MT/archives/qrcode.png" width="123" height="123"align="right"/><br />
<a href="http://tokyocatholic.cocolog-nifty.com/">http://tokyocatholic.cocolog-nifty.com/</a><br />
携帯からも引き続きご覧になれます。<br />
大変恐れ入りますが、東京大司教区携帯用ホームページhttp://tokyo.catholic.jp/keitai.htmから「福音のヒント」へお入り直しくださいませ。<br />
こちらにブックマークをされている方にはお手数をおかけいたしますが、よろしくお願い申し上げます。</p>

<p>カトリック東京大司教区『福音のヒント』</p>]]>

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<title>待降節第三主日 (2007/12/16　マタイ11･2-11)</title>
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<summary type="text/plain">                  教会暦と聖書の流れ             ...</summary>
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<dc:subject>2008年（主日A年）</dc:subject>
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<![CDATA[<table id="AutoNumber1" style="BORDER-COLLAPSE: collapse" borderColor="#111111" cellSpacing="0" cellPadding="0" border="0" width="400">
  <tr>
    <td width="406">
    <p align="center"><b><font color="#000080" size="4">
    <span style="BACKGROUND-COLOR: #dddddd">教会暦と聖書の流れ</span></font></b></td>
    <td width="143">
    <p align="center"><font color="#000080" size="2">
    <a href="http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2008/text1216.htm" target="_blank">
    聖書本文</a></font></td>
    <td width="319">
    <p align="center"><span style="BACKGROUND-COLOR: #ffdcb9">
    <a href="http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2008/hint1216.doc" target="_blank">
    <font color="#000080" size="2">「ワード文書」</font></a></span><font color="#000080" size="2">&nbsp;&nbsp;&nbsp;
    </font><span style="BACKGROUND-COLOR: #ffdcb9">
    <a href="http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2008/hint1216.pdf" target="_blank">
    <font color="#000080" size="2">「PDF」</font></a></span><br>
    <font color="#000080" size="2">ダウンロードができます</font></td>
  </tr>
</table>
　先週に引き続き、きょうの福音にも洗礼者ヨハネが登場しますが、本当の主役はもちろんイエスご自身です。きょうの箇所では、イエスによって実現したことが何だったのか、ということが示されています。「待降節第3主日」は「喜びの主日」と言われてきました。待降節は、英語で「Adventアドベント(到来の意味)」ですが、イエスの到来によってもたらされた喜びとは何なのかを味わう箇所としてきょうの福音を読むと良いでしょう。]]>
<![CDATA[<p><b><font size="4" color="#000080"><span style="background-color: #DDDDDD">
福音のヒント</span></font></b></p>

<p><img border="5" src="../../../../../images/senkyoshiboku/2008/1216.jpg" hspace="6" align="right" style="border: 0px solid #CCCCCC">　　(1)　イエスがヨルダン川で洗礼を受けたとき、すでに洗礼者ヨハネはイエスを「来(きた)るべき方」だと認めていたはずです(マタイ3章14節参照)。それなのになぜ、このきょうの箇所で「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と自分の弟子たちに質問させたのでしょうか。<br />
　一つの考えはこうです。洗礼者ヨハネは捕らえられ、自分が死を迎えることを予感していたので、自分の弟子たちの目をイエスに向けさせ、イエスのもとへ導くために、こういう指示をした。つまり、洗礼者ヨハネ自身はイエスが「来るべき方」だということを疑っていたのではない、という考えです。<br />
　もう一つの考えはこうです。やはり洗礼者ヨハネは疑問に思った。それはヨハネが思い描いていた「来るべき方」のイメージと、実際に到来したイエスのイメージが大きく違っていたからではないか。洗礼者ヨハネは「来るべき方」について告げ知らせましたが、ヨハネが思い描いていたのは「神の怒りと裁きをもたらす方」でした。ヨハネはイエスの実際の活動を見聞きして、それが自分の考えるメシア(キリスト)のイメージと違うことに戸惑ったのではないでしょうか。</p>

<p>　　(2)　2節の「キリストのなさったこと」という言葉は「キリストの業」とも訳せます。これはただ単に「イエスがしていた行為」というだけでなく、「イエスがキリスト(救い主)として行っていた行為」という意味に取ることもできる言葉です。イエスの答えは、イエスの周りで実際に何が起こっているかに目を向けさせるものでした。それは旧約聖書の救いの到来に関する預言の成就と言えることです。特に次の箇所が思い浮かびます。<br />
　「そのとき、見えない人の目が開き／聞こえない人の耳が開く。そのとき／歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う」(イザヤ35章5-6節)<br />
　「主はわたしに油を注ぎ／主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして／貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み／捕らわれ人には自由を／つながれている人には解放を告知させるために」(イザヤ61章1節)</p>

<p>　　(3)　「貧しい人」というのは「さまざまな事情で圧迫され小さくなっている人」のことです。「目の見えない人」「足の不自由な人」などは皆、「貧しい人」と別の人のことではないでしょう。<u><strong>苦しみの中にあって神の救いを待ち望んでいるすべての人が「貧しい人」と呼ばれている</strong></u>のだ、と考えたらよいのではないでしょうか。「神の救いに飢え渇く人」と言ったほうが分かりやすいかもしれません。それは「神なしで満ち足りている」というのと反対の状態だとも言えます。<br />
　ルカ4章16-21節でも、イエスは「貧しい人に福音を告げ知らせる」という言葉をご自分に当てはめています。この言葉は、イエスの使命、イエスがもたらしたものを実に簡潔明瞭に表す言葉だと言えるでしょう。では、<u><strong>わたしたちの「貧しさ」とは何でしょうか。わたしたちにとっての「福音」とは何でしょうか。</strong></u></p>

<p>　　(4)　わたしの中の「貧しい部分」「飢え渇いている部分」は何でしょうか。わたしたちの周りの家庭や社会、世界の中で「貧しい部分」「飢え渇いている部分」は何でしょうか。わたしたち自身の「貧しさ」を見つめることは、実は待降節の大切なテーマなのです。ルカ福音書の伝えるイエスの誕生の物語は、旅をしている<u><strong>貧しい夫婦</strong></u>、飼い葉桶の中の<u><strong>貧しい幼子</strong></u>、そして最初にこの幼子を訪れた<u><strong>貧しい羊飼い</strong></u>の姿を伝えています。イエスの誕生が貧しい人々にもたらした救いの喜びを味わうのがクリスマスなのです。<br />
　イエスによって実現したこと(キリストの業)は、単なる病気のいやしではありません。イエスが2000年前の貧しい人々に何をもたらしたのか、今の貧しいわたしたちに何をもたらしてくれるのか、いくつかのヒントを挙げてみます。<br />
　1.　この貧しさや苦しみの中で、自分はまったく独りぼっちではないと気づくこと！<br />
　2.　この世界は神がともにいてくださる世界であると気づくこと！<br />
　3.　だから、わたしたちの心に信頼と希望と愛が生まれること！<br />
　そういう体験がわたしたちにもあるのではないでしょうか。だとしたら、それがわたしたちにとっての「到来(アドベント)」であり「降誕」なのではないでしょうか。</p>

<p>　　(5)　11節の「天の国」はマタイ福音書特有の言い方で、「神の国」と同じ意味です。「国」はギリシア語では「バシレイアbasileia」です。この言葉は「王(バシレウス)」から来た言葉で「王であること、王としての支配、王が治める国(王国)」の意味になります。<br />
　イエスは洗礼者ヨハネを預言者として、人間として最大限に評価していますが、同時に「天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」と言っています。それは、ヨハネが神のバシレイアの「準備の時代」の人であったのに、イエスの救いを受け取った人は、その「実現の時代」にいる、ということを意味しているのでしょう。イエスと共に「<u><strong>まったく新しい救いの時代が始まっている</strong></u>」のです。<br />
　わたしたちはこの「もうすでに始まっている神のバシレイア(国、支配)」に生きているはずです。そしてイエスによって始められた神のバシレイアをもうすでに生き始めているからこそ、わたしたちは、世の終わりの、人生の終わりのときの「救いの完成」への確かな希望を持つことができるのです。</p>]]>
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<title>待降節第二主日 (2007/12/9　マタイ3･1-12)</title>
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<summary type="text/plain">                  教会暦と聖書の流れ             ...</summary>
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<dc:subject>2008年（主日A年）</dc:subject>
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<![CDATA[<table id="AutoNumber1" style="BORDER-COLLAPSE: collapse" borderColor="#111111" cellSpacing="0" cellPadding="0" border="0" width="400">
  <tr>
    <td width="406">
    <p align="center"><b><font color="#000080" size="4">
    <span style="BACKGROUND-COLOR: #dddddd">教会暦と聖書の流れ</span></font></b></td>
    <td width="143">
    <p align="center"><font color="#000080" size="2">
    <a href="http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2008/text1209.htm" target="_blank">
    聖書本文</a></font></td>
    <td width="319">
    <p align="center"><span style="BACKGROUND-COLOR: #ffdcb9">
    <a href="http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2008/hint1209.doc" target="_blank">
    <font color="#000080" size="2">「ワード文書」</font></a></span><font color="#000080" size="2">&nbsp;&nbsp;&nbsp;
    </font><span style="BACKGROUND-COLOR: #ffdcb9">
    <a href="http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2008/hint1209.pdf" target="_blank">
    <font color="#000080" size="2">「PDF」</font></a></span><br>
    <font color="#000080" size="2">ダウンロードができます</font></td>
  </tr>
</table>
　待降節は、英語では「アドベントadvent」と言いますが、本来の意味は｢到来｣です。待降節第2、第3主日の福音では毎年、洗礼者ヨハネに関する箇所が読まれます。それはわたしたちが洗礼者ヨハネの弟子になるためではありません。わたしたちはイエスの弟子になろうとしています。洗礼者ヨハネとともに、彼がその到来を告げ知らせた「来(きた)るべき方」のほうに心を向けていくのです。]]>
<![CDATA[<p><b><font size="4" color="#000080"><span style="background-color: #DDDDDD">
福音のヒント</span></font></b></p>

<p><img border="5" src="../../../../../images/senkyoshiboku/2008/1209.jpg" hspace="6" align="right" style="border: 0px solid #CCCCCC">　　(1)　洗礼者ヨハネは「預言者」でした。洗礼者ヨハネが登場した時代、すでに文字に書かれた聖書(旧約)ができあがっていました。神は聖書を通して語られるのであって、もう生身の預言者の口をとおして民に語りかけることはない、という雰囲気がありました。その中で、洗礼者ヨハネは「今、神が語られることば」を告げます。<br />
　彼の活動は伝統的な預言者のスタイルを意図的に再現したものでした。「荒れ野」は生きるために厳しい場所ですが、イスラエルの伝統の中では、神との出会いの場でもありました。生きるか死ぬかのギリギリのところで、それでもなお自分を生かしてくださる神の存在を身近に感じ取ることができるのです。洗礼者ヨハネはこの荒れ野で神の声を聞き、町に住む人々に語りかけます。だから彼は「声」(3節)と呼ばれます(ちなみにこの箇所はイザヤ40章3節の引用ですが、福音書は原文を少し変えて引用しています)。「毛衣と革の帯」は、列王記下1章8節に伝えられている預言者エリヤと同じ服装です。「いなごと野蜜を食物としていた」は、荒れ野の中でかろうじて手に入れられるものだけで生きていた、すなわちほとんど断食のような生活をしていた、ということです。このように、ヨハネは典型的な預言者だったのです。</p>

<p>　　(2)　洗礼者ヨハネが呼びかけたのは「回心」でした。ヨハネにとって「差し迫った神の怒り」(7節)が問題でした。そこから救われるために必要なことは「悔い改め、回心」(ギリシア語で「メタノイアmetanoia」)でした(2節)。この悔い改めは、すべての人に求められました。「自分たちはアブラハムの子孫だ」という誇りや安心感は、神の裁きの前では何の役にも立ちません(9節)。すべての人が<u><strong>今、回心</strong></u>しなければならないのです。しかしこのことは逆に、どんな人でも<u><strong>今、回心</strong></u>すれば救いにあずかれる、という希望のメッセージにもなりました(こんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。9節）。そして、その回心のしるしが「洗礼」だったのです。<br />
　また、同時に大切なことは、「悔い改めにふさわしい実を結ぶこと」(8節)、「良い実を結ぶこと」(10節)です。洗礼者ヨハネが求めたことは、具体的な生活の改善でした。それはそれぞれの人が<u><strong>自分の置かれた生活の場の中で、愛と正義を行う</strong></u>ことだったのです(ルカ3章11-14節参照)。</p>

<p>　　(3)　ヨハネは、自分の「後から来る方」について語っています。そして「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」と言います(11節)。キリスト教は、イエスこそが洗礼者ヨハネの告げた「来(きた)るべき方」だと考えます。「洗礼を授ける」(ギリシア語の「バプティゾーbaptizo」)の本来の意味は「沈める、浸す」なので、「聖霊と火で洗礼を授ける」というのは「聖霊と火の中に人を沈める、浸す」というイメージです(実際、ヨハネの洗礼はヨルダン川に人の全身を沈めるものでした)。これを<u><strong>神のいのちである聖霊を与え、愛の火で人を清める</strong></u>、という意味に受け取るのがキリスト教的な理解です。<br />
　しかし、洗礼者ヨハネ自身はこういう意味でこの言葉を語ったのでしょうか？　この直後に「手に箕(み)を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」(12節)という言葉があります。「箕」はもみ殻と麦粒を分けるための農具です。麦の実とその殻が混じったものを箕に入れてほうりあげると、軽いもみ殻は風に飛ばされ、重い麦粒だけをより分けることができるのです。聖霊の「霊(プネウマ)」にはもともと風の意味がありますが、この「風と火に浸す」のイメージは、来るべき方が怒りと罰をもたらす方だということを言おうとしていたのではないでしょうか。<br />
　一方、実際に来られたイエスは、決して「怒りと罰」をもたらしたのではありませんでした。イエスのメッセージの中にも厳しい裁きの面がありますが、<u><strong>イエスがもたらしたものはむしろ、ゆるしと恵み</strong></u>でした。だからわたしたちは、恐れおののきつつ、来るべき方を待つのではありません。「<u><strong>愛と喜びに包まれた待望の時</strong></u>」(典礼暦年に関する一般原則39の言葉)として、この待降節を過ごしているのです。</p>

<p>　　(4)　「悔い改めよ。天の国は近づいた」(2節)。マタイ福音書によれば、イエスもまったく同じ言葉でご自分の活動を始めました(4章17節)。ヨハネもイエスも同じように切実な終末意識を持って、人々に回心を呼びかけたのです。「悔い改め、回心」の原語の「<u><strong>メタノイア</strong></u>」は「心を変えること」を意味しています。それは単なる「改心」というよりも、<u><strong>「神に心を向け直すこと」「主に立ち返る」</strong></u>ことなのです。<br />
　ただ、洗礼者ヨハネの場合は「近づいているが、まだ来ていない」のに対して、イエスの場合は「近づいてきて、ある意味でもうすでに始まっている」というところに決定的な違いがあると言えるでしょう。イエスは、父である神の愛のバシレイアbasileia(国、支配)がもう始まっている、だから「その父である神に心を向けなさい」と呼びかけるのです。<br />
　待降節を過ごしているわたしたちにも両面があります。<u><strong>確かにイエスは2000年前に来られ、神の国はすでに始まった</strong></u>、という面と、<u><strong>最終的にいつか本当の意味で実現する</strong></u>、という面。それだけでなく、わたしたちの生活の中に日々「主は来られている」ということも大切でしょう。この「日々の到来」についてはわたしたちの姿勢がいつも問われます。<u><strong>わたしたちが回心と信仰を持って受け入れなければ、日々の到来(アドベント)は受け取れません。</strong></u>その意味で、洗礼者ヨハネのメッセージは今のわたしたちにとっても切実な呼びかけだと言えるのではないでしょうか。</p>]]>
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<title>待降節第一主日 (2007/12/2　マタイ24･37-44）</title>
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<modified>2007-11-22T08:05:13Z</modified>
<issued>2007-12-02T07:57:43Z</issued>
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<dc:subject>2008年（主日A年）</dc:subject>
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<![CDATA[<table id="AutoNumber1" style="BORDER-COLLAPSE: collapse" borderColor="#111111" cellSpacing="0" cellPadding="0" border="0" width="400">
  <tr>
    <td width="406">
    <p align="center"><b><font color="#000080" size="4">
    <span style="BACKGROUND-COLOR: #dddddd">教会暦と聖書の流れ</span></font></b></td>
    <td width="143">
    <p align="center"><font color="#000080" size="2">
    <a href="http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2008/text1202.htm" target="_blank">
    聖書本文</a></font></td>
    <td width="319">
    <p align="center"><span style="BACKGROUND-COLOR: #ffdcb9">
    <a href="http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2008/hint1202.doc" target="_blank">
    <font color="#000080" size="2">「ワード文書」</font></a></span><font color="#000080" size="2">&nbsp;&nbsp;&nbsp;
    </font><span style="BACKGROUND-COLOR: #ffdcb9">
    <a href="http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2008/hint1202.pdf" target="_blank">
    <font color="#000080" size="2">「PDF」</font></a></span><br>
    <font color="#000080" size="2">ダウンロードができます</font></td>
  </tr>
</table>
　クリスマスの4週前の日曜日から待降節が始まります。教会の暦ではこの待降節第一主日から新しい年になります。3年周期の主日のミサの朗読配分ではA,B,C年のうちA年にあたり、福音朗読では主にマタイ福音書が読まれていきます。
　「待降節」という日本語は「主の降誕を待つ季節」という意味では分かりやすいのですが、ラテン語はアドヴェントゥスADVENTUS（英語ではアドヴェントadvent）で、「到来」を意味する言葉です。待降節とは、2000年前にイエスが世に来られたことを思うだけでなく、世の終わりに栄光のうちに再び来られることを思う季節でもあります。待降節の福音朗読は毎年、終末についての説教からとられた「目を覚ましていなさい」という言葉から始まります。
]]>
<![CDATA[<p><b><font size="4" color="#000080"><span style="background-color: #DDDDDD">
福音のヒント</span></font></b></p>

<p><img border="5" src="../../../../../images/senkyoshiboku/2008/1202.jpg" hspace="6" align="right" style="border: 0px solid #CCCCCC">　　(1)　「人の子」はダニエル7章13節に基づく表現で、神が最終的に天から遣わす方を表します。新約聖書では「人の子の到来」は、天に上げられたイエスが世の終わりに再び来られることを意味しています。人の子の到来は「救いの完成の時」であると同時に「裁きの時」でもあります。<u><strong>キリストが力をもって来られ、キリストがすべてにおいてすべてとなる</strong></u>、ということは、神に信頼し、救いを待ち望んでいる者にとっては救いの完成ですが、同時にそれは神に反するすべてのものが滅ぼされる時だとも言えます。きょうの福音の箇所では、この「裁き」の面が強調されています。「愛は決して滅びない」(Ⅰコリント13章8節)という大きな希望の言葉がありますが、神の裁きには「<u><strong>愛に反するものはすべて滅ぼされる</strong></u>」という面があるのです。「愛に反するものが滅ぼされる」というのは「愛に反する人が滅ぼされる」というよりも、「<u><strong>わたしたちの中の愛に反する部分が滅ぼされる</strong></u>」と受け取ることもできるでしょう。それはわたしたちがキリストのように愛そのものへと変えられていくためです。Ⅰヨハネ3章2節の次の言葉が参考になるのではないでしょうか。「わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです」</p>

<p>　　(2)　「ノアの時」は創世記6章から始まる有名な洪水物語のことです。人の子の到来の時(裁きの時)は<u><strong>人が考えていないときに突然やってくる</strong></u>ということが強調されています。きょうの箇所の直前に「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである」(24章36節)という言葉がありましたが、内容的にそれとつながっています。「思いがけない時に来る」ということは43-44節でも繰り返されるテーマです。人にはいつ来るか分からない、ということだけでなく、<u><strong>来るということさえ意識していない</strong></u>ということもあるでしょう。その中で「<u><strong>いつか確実に来るのだ</strong></u>」ということも強調されています。<br />
　「そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される」(40-41節)は、人の目にはまったく同じように見える２人の人間が、神の裁きの目から見るとまったく違う評価を受ける、ということです。これは、人間が勝手に神の裁きを想像して、自分で自分を裁いたり、他人を裁いてしまったりすることへの警告と言えるのかもしれません。</p>

<p>　　(3)　「目を覚ましている」というのはわたしたちにとってどういうことでしょうか。泥棒を警戒するように「裁きの時を警戒してビクビクしながら生活する」ことでしょうか？　43節のたとえから考えるとそうなってしまいそうですが、それがわたしたちに求められている生き方だとは到底思えません。あるいは「この世のことよりも終わりの時の裁きのことを考える」ということでしょうか？　最終的な神の裁きのことばかりを思うことには落とし穴があります。それは、今の生活がどうでもよくなり、現実の目の前の人間の苦しみや社会の不正に目を閉ざしてしまう危険です。実は、<u><strong>きょうの箇所には「目を覚ましている」とはどういうことか、ほとんど何も語られていない</strong></u>のです！<br />
　マルコ福音書13章は「目を覚ましていなさい」という警告でイエスの長い終末についての説教を結んでいますが、マタイ福音書は、マルコ福音書を基にしながら、この説教の後に24章45節～25章46節の大きな部分を付け加えています。この部分は4つの話からなっていて、この4つの話はすべて「目を覚ましている」とはどういうことかを語る話だと言えます。それは「主人が帰って来たとき、言われたとおりにしている」(24章46節)ことであり、「ともし火と一緒に、壺に油を入れて持っている」(25章4節)ことであり、「預かったタラントンを用いて、ほかのタラントンをもうける」(25章16-17節)ことなのです。とはいえ、ここまでの3つの話はすべてたとえ話で、これらのたとえが何を意味しているか、本当に「目を覚ましている」こととは何なのか、ということは25章31-46節になってはじめて明らかにされます。そこまで読まなければ、「目を覚ましている」ということは分からないようになっているのです！(ちなみにマルコやルカの福音書を読むと違う面が見えてきますが、今回は触れることができません)</p>

<p>　　(4)　マタイ25章31-46節は、<u><strong>飢え、渇き、旅人であったり、裸であったり、病気であったり、牢にいる人に助けの手を差し伸べること、「わたし(キリスト)の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことだ」</strong></u>という箇所です。マタイ福音書の中で「目を覚ましている」とはどういうことか、と言えば、ここにもっとも明快な答えがあります。「助けを必要としている人に手を差し伸べること」「愛を持って生きること」と言ったらよいでしょうか。あるいは、「出会う一人一人の人の中にキリストを見いだすこと」「苦しむ人、虐げられている人を通してキリストに出会うこと」と言うこともできるかもしれません。今年の待降節を迎えるわたしたちにとって、「目を覚ましている」とはどういうことなのでしょうか？</p>]]>
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<title>王であるキリスト　(2007/11/25 ルカ23･35-43)</title>
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<dc:subject>2007年（主日C年）</dc:subject>
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<![CDATA[<table id="AutoNumber1" style="BORDER-COLLAPSE: collapse" borderColor="#111111" cellSpacing="0" cellPadding="0" border="0" width="400">
  <tr>
    <td width="406">
    <p align="center"><b><font color="#000080" size="4">
    <span style="BACKGROUND-COLOR: #dddddd">教会暦と聖書の流れ</span></font></b></td>
    <td width="143">
    <p align="center"><font color="#000080" size="2">
    <a href="http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2007/text1125.htm" target="_blank">
    聖書本文</a></font></td>
    <td width="319">
    <p align="center"><span style="BACKGROUND-COLOR: #ffdcb9">
    <a href="http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2007/hint1125.doc" target="_blank">
    <font color="#000080" size="2">「ワード文書」</font></a></span><font color="#000080" size="2">&nbsp;&nbsp;&nbsp;
    </font><span style="BACKGROUND-COLOR: #ffdcb9">
    <a href="http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2007/hint1125.pdf" target="_blank">
    <font color="#000080" size="2">「PDF」</font></a></span><br>
    <font color="#000080" size="2">ダウンロードができます</font></td>
  </tr>
</table>
　教会の暦には、クリスマスと復活祭を中心にした4つの「季節」(待降節・降誕節・四旬節・復活節)があり、それ以外の期間を「年間」と呼んでいます。王であるキリストの祭日は年間最後の主日にあたります。「王」というのは現代日本のわたしたちには馴染みにくいイメージですが、この祭日のテーマは、<u><strong>キリストがすべてにおいてすべてになる、終末における救いの完成</strong></u>ということです。ところで、王であるキリストのミサの聖書朗読の箇所は年によってずいぶん違っています。いずれもただ単に「キリストが王である」ということよりも、キリストが「<u><strong>普通の人間の王とどのように異なる王であるか</strong></u>」を表す箇所が選ばれています。｢王｣という言葉にあまりこだわらずに、福音の箇所そのものを味わってみたらよいでしょう。]]>
<![CDATA[<p><b><font size="4" color="#000080"><span style="background-color: #DDDDDD">
福音のヒント</span></font></b></p>

<p><img border="5" src="../../../../../images/senkyoshiboku/2007/1125.jpg" hspace="6" align="right" style="border: 0px solid #CCCCCC">　　(1)　イエスが十字架にかけられる場面です。ルカ福音書の受難物語はマルコ福音書の受難物語をもとにして、ルカ独自の資料・伝承を挿入する形で書かれています。マルコ、マタイでは、イエスとともに十字架につけられた犯罪人が二人ともイエスをののしった、となっていますが、ルカは別の伝承を採用しています。ルカはそのうちの一人が回心し、イエスに救いを願った、という話を伝えています。<br />
　「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」(40-41節)。ここにはルカ福音書の受難物語の1つの特徴が表れています。それは、イエスが罪なき方であることを強調することです。ユダヤの最高法院でイエスは「自分を神の子とした」という冒瀆(ぼうとく)の罪(22章70-71節)を着せられ、ローマ総督に対して「民衆を扇動し、皇帝への納税を禁じた」と訴えられました。しかし、本当はイエスは無罪なのです(ルカ23章4、14-15、22、47節参照)。ルカは「彼は不法を働かず／その口には偽りもなかったのに」(イザヤ53章9節)という<u><strong>苦しむ主のしもべの姿</strong></u>をわたしたちに思い出させようとしているのでしょうか。</p>

<p>　　(2)　「議員たち」はユダヤ人の最高法院の議員たち、「兵士たち」は処刑を担当したローマ人の兵士です。「犯罪人」は十字架刑を受けるほど重大な犯罪を犯した人なのでしょう。35-39節で、彼らがイエスに向かって言ったことはすべて「自分を救ってみろ」ということでした。イエスはそれに何一つ答えません。イエスは自分を救うことができなかったのでしょうか？　イエスが神の子キリストとして、人々の救いのためにご自分の命を差し出されたと考えれば、イエスは自分を救うことができたのにあえて自分を救わなかったのだと考えるのが当然でしょう。もちろん、これが伝統的なキリスト教の見方です。<br />
　しかし、現代のわたしたちが直面している暴力(戦争・テロから身近なところでの暴力に至るまで)の問題から、イエスの受難を見るならば、違う見方が必要になるかもしれません。「自分を救えるのに救わない」ということは、暴力を容認し、被害者が耐え忍ぶことを良しとし、暴力を繰り返させる危険さえあるのではないかという問いもありうるからです。「罪人をゆるすこと」と「暴力を許すこと」とは別の問題です。神の望みは人が暴力から解放され、平和のうちに生きることであるはずです。イエスがご自分に振りかかる暴力をどう受け止めたのか、これは今のわたしたちにとって切実な問いではないでしょうか？</p>

<p>　　(3)　「自分を救わない」あるいは「救えない」イエスの姿の中に、「暴力によって苦しむすべての人」との連帯の姿を見ることはできないでしょうか。暴力は人を肉体的に傷つけるだけではありません。暴力は人を<u><strong>孤立無援の状態</strong></u>にします。イエスも表面的には神から見捨てられ、人からも見捨てられたような姿になりました。暴力のもう1つの作用は、<u><strong>人から力を奪ってしまう</strong></u>ことです。確かに十字架のイエスはあらゆる力を奪われて何もできなくなってしまったかのようでした。そういう意味で、イエスはすべての暴力被害者と同じ体験をされたのだといえるでしょう。<br />
　しかし、イエスには特別なことがありました。特にルカ福音書は、イエスが最後まで神への信頼と人への愛を持ち続けた姿を伝えています。イエスは絶望や憎しみに支配されることなく、出会ったすべての人、自分を十字架につけた人々をも愛し抜かれるのです。無力な十字架のイエスの中にこそ、<u><strong>愛と連帯によって本当の意味で暴力に打ち勝ち、暴力の連鎖を断ち切る</strong></u>道を見つけることができるのではないでしょうか。</p>

<p>　　(4)　「ユダヤ人の王」(38節)はイエスをローマ帝国に対する反逆者とする罪状です。しかし、福音書はそこにもイエスが「真の王」であることが暗示されていると考えているのでしょう。ところで、きょうの箇所の中で、「王」というテーマはむしろ42-43節の犯罪人とイエスの対話の中に表れてきます。「<u><strong>あなたの御国においでになるとき</strong></u>」という箇所は、写本によっては「あなたが王権をもって来られるとき」と読むこともできます。「国、王権」と訳された言葉はギリシア語の「バシレイアbasileia」です。この言葉は「王(バシレウスbasileus)」という言葉から来ていて、「王であること、王としての統治、王として治める国」の意味になります。この犯罪人は、自分もイエスも十字架で死を迎えることを知っていますから、このイエスの王国が死を超えて実現すると考えていることになるでしょう。その中で「わたしを思い出してください」と願うのです。<br />
　43節「<u><strong>あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる</strong></u>」の「楽園」は、ギリシア語で「パラデイソスparadeisos」です。70人訳聖書(古代のギリシャ語訳旧約聖書)の創世記2章8節は、エデンの園をこう呼んでいます。神と人、人と人との調和に満ちた世界、人が神と共にいる状態(Ⅱコリント12章4節参照)だと言ってもいいでしょう。そして、イエスがそれを約束するのは「今日」です！　<u><strong>苦しみのどん底の中で、イエスが共にいてくださることに気づいたとき、そこにもう「バシレイア」が実現している、そこが「パラダイス」になる</strong></u>、と言ってもいいのかもしれません。<br />
</p>]]>
</content>
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<title>年間第33主日　(2007/11/18  ルカ21･5-19)</title>
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<modified>2007-11-20T03:02:08Z</modified>
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<dc:subject>2007年（主日C年）</dc:subject>
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<![CDATA[<table id="AutoNumber1" style="BORDER-COLLAPSE: collapse" borderColor="#111111" cellSpacing="0" cellPadding="0" border="0" width="400">
  <tr>
    <td width="406">
    <p align="center"><b><font color="#000080" size="4">
    <span style="BACKGROUND-COLOR: #dddddd">教会暦と聖書の流れ</span></font></b></td>
    <td width="143">
    <p align="center"><font color="#000080" size="2">
    <a href="http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2007/text1118.htm" target="_blank">
    聖書本文</a></font></td>
    <td width="319">
    <p align="center"><span style="BACKGROUND-COLOR: #ffdcb9">
    <a href="http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2007/hint1118.doc" target="_blank">
    <font color="#000080" size="2">「ワード文書」</font></a></span><font color="#000080" size="2">&nbsp;&nbsp;&nbsp;
    </font><span style="BACKGROUND-COLOR: #ffdcb9">
    <a href="http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2007/hint1118.pdf" target="_blank">
    <font color="#000080" size="2">「PDF」</font></a></span><br>
    <font color="#000080" size="2">ダウンロードができます</font></td>
  </tr>
</table>
　教会の暦で「年間」の終わりにあたる3つの日曜日(年間第32、33主日、王であるキリストの祭日)は「終末主日」と呼ばれています。これらの主日の典礼は「終わり」(世の終わり、あるいは、個人の終わりである死)ということにわたしたちの心を向けさせます。
　マタイ、マルコ、ルカ、3つの福音書では、イエスの活動の最後に終末についての説教が置かれています。マルコとマタイでは、終末についての説教はイエスが神殿を去った後、オリーブ山で語られたことになっていますが、きょう読まれるルカ福音書では神殿の境内で語られたことになっています。ルカ福音書にとって神殿は、イエスの「父の家」(ルカ2章49節)であり、「祈りの家」(19章46節)であり、最後までイエスの活動の中心的な場だったと言えるでしょう(写真は現在のエルサレム。イエスの時代に神殿があった場所です)。]]>
<![CDATA[<p><b><font size="4" color="#000080"><span style="background-color: #DDDDDD">
福音のヒント</span></font></b></p>

<p><img border="5" src="../../../../../images/senkyoshiboku/2007/1118.jpg" hspace="6" align="right" style="border: 0px solid #CCCCCC">　　(1)　8節の「わたしの名を名乗る者」とは、「わたしがキリスト(救い主)だ」と主張する「偽(にせ)キリスト」のことでしょう。人々の不安や怖れにつけこんで「ここに救いがある、これこそが真の救いだ」というような偽りの情報が現代のわたしたちの周りにもたくさんあるのではないでしょうか。人々の危機意識を煽(あお)り立てて、信者を集めようとする怪しげな宗教もあるかもしれません。世の終わりについての聖書の教えは、そういうものとは無縁です。イエスは人々の恐怖心を煽るためにこれらの言葉を語られたのではありません。イエスが語るのは、たとえどんなことが起こっても「<u><strong>惑わされないように</strong></u>」(8節)ということです。<br />
　きょうの箇所は、世の終わりそのものというより、それに先立つ混乱の時代について語る箇所です。イエスは世を去る前に、将来起こるはずのことについて語りました。<u><strong>戦争、暴動、民族紛争、大地震、飢饉、疫病</strong></u>、などなどです。それらは、福音書が書かれた1世紀後半にはすでに現実になっていたことでした。そして、21世紀に生きているわたしたちにとって、これらの現象はさらに切実で、深刻な現実だと感じられるかもしれません。その中で、きょうのわたしたちにイエスが語りかけていることを聞き取ろうとします。</p>

<p>　　(2)　聖書の終末論(終わりについての教え)には、2つの面があります。<br />
　1つは、厳しい迫害や大きな苦難の中にあっても神に信頼するように、と促す<u><strong>励ましのメッセージ</strong></u>という面です。きょうの箇所では、特に迫害の中でのイエスの助けと神の守りが約束されています。「どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである」(15節)、「あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない」(18節)。身の安全が保障されるというわけではありません。約束されるのは、裁きの場に引き出されてもそれを「証しをする機会」にする力が与えられること、たとえ殺されても「命をかち取る」ことができるということです。<br />
　「髪の毛の一本」(18節)はごくわずかなもの、ほんの小さなもののたとえです。神のわたしたちに対する愛が確かなもので、大きく、また細やかであることを強調しています。しかしそれは、危害がなくなるというよりも、<u><strong>どんなに危害を加えられても本当に大切なものを奪われることはない</strong></u>、という意味のようです。19節の「命をかち取る」の「命」はギリシア語では「プシュケーpsyche」です。「プシュケー」は「たましい」とも訳される言葉です。ある辞書には、「<u><strong>なまの人間の人格生命の本質的部分</strong></u>」という説明がありました。決して奪われることのない本当に大切なものは、この「本質的な部分」だと言えるでしょうか。なお、「忍耐」と訳された言葉の元の意味は「下に留まること」です。ただじっと我慢するというよりも、「<u><strong>神のもとに踏み留まること</strong></u>」と言ったらよいでしょうか。この神とのつながりこそが、決して傷つけられることのない本質的な部分だと言うこともできるのではないでしょうか。</p>

<p>　　(3)　終末論のもう1つの面は、<u><strong>警告のメッセージ</strong></u>という面です。きょうの福音の箇所の冒頭にある「ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話している」という場面を思い浮かべたらよいかもしれません。人は目に見えるものの立派さに心を奪われてしまうことが確かにあります。現代の消費社会は、そのように人の心を奪うものに満ち溢れていると言っても過言ではありません。テレビやインターネットを通して、美しいもの・派手なもの・欲しいものの情報がわたしたちに飛び込んできます。そして、本当に大切なものを見失ってしまう危険があるのです。聖書の終末論は、目に見えるすべてのものは「過ぎ去るもの」「滅びゆくもの」であることに気づかせ、<strong><u>何が本当に永遠のものであり、滅びないものであるかに気づかせる</u></strong>のです。<br />
　「世の終わりはどうなるのか」といくら頭で考えても役に立ちません。聖書の終末論のこの2つの面が、わたしたち自身の現実の体験とどう結びつくかを考えてみましょう。</p>

<p>　　(4)　末期ガンなどのターミナル・ケア(終末医療)への取り組みが盛んになる中で、「クオリティ・オブ・ライフquality of life」ということが言われるようになりました。迫り来る死を前にした時、いかに命の長さを伸ばすか、という「生命の量」の問題よりも、残された日々をいかに充実したものとして生きるか、という「いのちの質」が問われる、という考えです。<br />
　キリスト信者にとって「クオリティ・オブ・ライフ」の根源的なモデルは、イエスご自身の地上での最後の日々でしょう（きょうの箇所の後、すぐに受難の物語が始まります）。<u><strong>イエスは死を目前にして最後までどう生きたか</strong></u>、そのイエスのいのちの輝きを見つめたときに、人はパウロとともにこう確信することができるようになるのです。<br />
　「<u><strong>愛は決して滅びない。…信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。</strong></u>」(Ⅰコリント13章8、13節)<br />
　わたしたちの人生にも必ず「終わり」が待ち受けています。その終わりに向かってどう生きるかをきょうの福音は、そしてイエスの生き方はわたしたちに問いかけているのです。</p>]]>
</content>
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<title>年間第32主日　(2007/11/11 ルカ20・27-38)</title>
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<modified>2007-11-02T05:21:06Z</modified>
<issued>2007-11-11T05:16:15Z</issued>
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<![CDATA[<table id="AutoNumber1" style="BORDER-COLLAPSE: collapse" borderColor="#111111" cellSpacing="0" cellPadding="0" border="0" width="400">
  <tr>
    <td width="406">
    <p align="center"><b><font color="#000080" size="4">
    <span style="BACKGROUND-COLOR: #dddddd">教会暦と聖書の流れ</span></font></b></td>
    <td width="143">
    <p align="center"><font color="#000080" size="2">
    <a href="http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2007/text1111.htm" target="_blank">
    聖書本文</a></font></td>
    <td width="319">
    <p align="center"><span style="BACKGROUND-COLOR: #ffdcb9">
    <a href="http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2007/hint1111.doc" target="_blank">
    <font color="#000080" size="2">「ワード文書」</font></a></span><font color="#000080" size="2">&nbsp;&nbsp;&nbsp;
    </font><span style="BACKGROUND-COLOR: #ffdcb9">
    <a href="http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2007/hint1111.pdf" target="_blank">
    <font color="#000080" size="2">「PDF」</font></a></span><br>
    <font color="#000080" size="2">ダウンロードができます</font></td>
  </tr>
</table>
　教会の暦ではもう「年間」の終わりに近づいています。きょうの年間第32主日から再来週の「王であるキリスト」の祭日(年間最後の主日)までの3つの主日は「終末主日」と呼ばれています。「終わり」(世の終わり、あるいは、個人の終わりである死)ということに思いを馳せるときです。
　福音の内容は復活についてのサドカイ派との問答です。ルカ福音書19章45節から、イエスはエルサレムの神殿で活動を始め、当時の宗教的指導者たちと論争しました。イエスと彼らとの対立は深まるばかりで、イエスご自身の受難と死の時が迫ってきています。]]>
<![CDATA[<p><b><font size="4" color="#000080"><span style="background-color: #DDDDDD">
福音のヒント</span></font></b></p>

<p><img border="5" src="../../../../../images/senkyoshiboku/2007/1111.jpg" hspace="6" align="right" style="border: 0px solid #CCCCCC">　　(1)　サドカイ派は、ファリサイ派と並ぶイエス時代のユダヤ教の一派です。彼らの名「サドカイ」は祭司の名から来ています。彼らは当時のエルサレムの神殿の権威や富と結びついていた裕福なグループでした。ファリサイ派がモーセ五書(律法の書、創世記～申命記)以外の預言書や口伝(くでん)律法を大切にしていたのと異なり、サドカイ派はモーセ五書のみを正典と考えました。モーセ五書には「復活」について明確に述べている箇所はありません。イスラエル民族はもともと、人は死ぬと先祖の列に加えられる、そこは「シェオール(陰府)」と呼ばれるところで、そこでは生きている人との関わりも神との関わりもなくなってしまう、と考えていたようです。</p>

<p>　　(2)　旧約聖書の中で「復活」ということがはっきりと語られるようになるのは、ダニエル書の12章とマカバイ記二の7章です(マカバイ記はヘブライ語聖書には含まれていませんが、カトリック教会では「第二正典」とされています)。これらの箇所が書かれた時代は、紀元前2世紀の<u><strong>迫害と殉教の時代</strong></u>でした。紀元前4世紀、ギリシアのアレクサンドロス大王が築いた広大な支配地域には、4つのヘレニズム(ギリシア人の)帝国ができました。パレスチナは初め、エジプトのプトレマイオス王朝の支配を受けましたが、後にシリアのセレウコス王朝に支配されるようになりました。そして、そのセレウコス王朝のアンティオコス4世エピファネスという王のとき、ユダヤ人に対する激しい宗教的迫害が起こりました。エルサレムの神殿にはギリシアの神々の像が持ち込まれ、ユダヤ人は先祖伝来の律法に従って生きることを禁じられました。「<u><strong>神に忠実に生きようとすればするほど、この世では苦しみを受け、中には殺されていく人もいる</strong></u>」という厳しい状況の中で「<u><strong>死を越えて神が救いを与えてくださるという希望＝復活の希望</strong></u>」が語り始められたのです。</p>

<p>　　(3)　サドカイ派が復活を認めなかったのは、彼らが「モーセ五書」のみを正典と考えていたから、というだけではないでしょう。サドカイ派はこの世で満ち足りていた人々の集まりでした。たとえローマ帝国の支配下であろうとも、神殿の権威や富に結びついていたサドカイ派にとって今の生活は悪くなかったのです。彼らにとって神との関係は、神殿の祭儀の中で正しいいけにえをささげているだけで十分で、死を越えて神に希望するものなど何もなかったのでしょう。だからサドカイ派はここで「復活」という考えの矛盾を指摘して復活を否定しようとしたのです。<br />
　一方のイエスは、貧しい人々とともに生き、苦しむ人々の姿を見つめてきました。彼らの苦しみと希望はイエスのものでもあったのです。そしてご自分の身にも危険が迫っていることをイエスは切実に感じていました。イエスにとって、復活とは死後の世界に対する興味や、宗教家の議論の問題ではなかったのです。それは、「<u><strong>どう考えてもこの世では今の苦しみと絶望的な未来しかないと感じられるときに、それでもなお神に信頼し、人を愛し、希望を持って生きることができるかどうか</strong></u>」というギリギリの決断の問題なのです。</p>

<p>　　(4)　34-36節でイエスは、この世の有り様と復活の有り様はまったく違うということを語ります。復活のいのちとはこの世のいのちの延長線上にあるものではなく、まったく違うレベルのいのちなのだ、ということでしょう。復活とは、まったく「<u><strong>神によって生きる</strong></u>」(38節)ことなのです。<br />
　37-38節の「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」だから「死者は復活する」というのはどういうことでしょうか。あえて説明すれば、「神は『生きている者の神』であり、モーセに現れた神がご自分を先祖の神だ、と言うのだとすれば、先祖たちは今も何らかの形で生きていることになる」ということでしょうか。イエスはサドカイ派も認めているモーセ五書を使って彼らに反論していますが、ただこれをもって復活の論証と考えるとあまり説得力がないようにも思えます。</p>

<p>　　(5)　37節の「柴」の箇所とは、出エジプト記3章を指します。神がシナイ山で初めてモーセに声をかけ、イスラエルの民をエジプトの奴隷状態から脱出させるために、モーセを民の指導者として選び出す箇所です。そこで神がモーセに向かって語る自己紹介の言葉が「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」(出エジプト記3章6節)というものでした。イスラエルの先祖とともにいて、いつも彼らを守り導いた神は、今エジプトの奴隷状態にある民を決して見捨てていないのです。この神は、<u><strong>いつも人とともにいて、人を導き、どんな苦しみの中でも人が希望を置くことのできる神</strong></u>なのです。ここに復活の希望の根拠があると言えるのではないでしょうか。<br />
　38節「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」の「生きている者の神」とは、生きている人間の支えとなり、希望となり、力となる神だとも言えるでしょう。逆に、現実の人間の苦しみや喜びと関係なく、人が儀式をとおして出会うだけの神は「死んだ者の神」と言ってもよいかもしれません。<br />
きょうの箇所は、わたしたちの神との関わりについての鋭い問いかけでもあります。それは、「<u><strong>わたしたちは神にどのような希望を置いているのか、そして、わたしたちは本当に神によって生きているか？</strong></u>」という問いかけなのです。</p>]]>
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<title>年間第31主日　(2007/11/4 ルカ19・1-10)</title>
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<modified>2007-10-26T07:20:56Z</modified>
<issued>2007-11-04T07:08:47Z</issued>
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<![CDATA[<table id="AutoNumber1" style="BORDER-COLLAPSE: collapse" borderColor="#111111" cellSpacing="0" cellPadding="0" border="0" width="400">
  <tr>
    <td width="406">
    <p align="center"><b><font color="#000080" size="4">
    <span style="BACKGROUND-COLOR: #dddddd">教会暦と聖書の流れ</span></font></b></td>
    <td width="143">
    <p align="center"><font color="#000080" size="2">
    <a href="http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2007/text1104.htm" target="_blank">
    聖書本文</a></font></td>
    <td width="319">
    <p align="center"><span style="BACKGROUND-COLOR: #ffdcb9">
    <a href="http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2007/hint1104.doc" target="_blank">
    <font color="#000080" size="2">「ワード文書」</font></a></span><font color="#000080" size="2">&nbsp;&nbsp;&nbsp;
    </font><span style="BACKGROUND-COLOR: #ffdcb9">
    <a href="http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2007/hint1104.pdf" target="_blank">
    <font color="#000080" size="2">「PDF」</font></a></span><br>
    <font color="#000080" size="2">ダウンロードができます</font></td>
  </tr>
</table>
　ルカ福音書9章51節から始まったエルサレムへの旅も終わりに近づきました。きょうの福音の舞台は、エルサレムまであと20キロほどエリコという町です。このザアカイの物語もルカ福音書だけが伝える話ですが、イエスの旅は最後まで神の愛とゆるしを告げる旅だったということを、強く印象付ける物語だと言えるでしょう。]]>
<![CDATA[<p><b><font size="4" color="#000080"><span style="background-color: #DDDDDD">
福音のヒント</span></font></b></p>

<p><img border="5" src="../../../../../images/senkyoshiboku/2007/1104.jpg" hspace="6" align="right" style="border: 0px solid #CCCCCC">　　(1)　イエスの時代のパレスチナはローマ帝国の支配下にありました。ローマ帝国は被征服民族であるユダヤ人にある程度の自治や宗教的自由を認める一方で、税を徴収することによって利益を得ていました。ローマに税を納めることはローマの支配を認めることであり、自分たちは神の民だと考えていたユダヤ人にとっては耐え難いことでした。<br />
　徴税人はユダヤ人でありながら、このローマ帝国の徴税という仕事を引き受けていた人たちです。彼らはそもそも、ローマに仕える民族の裏切り者として忌(い)み嫌われていました。徴税人は、ローマ帝国から給与を得ていたのではなく、ローマに納める税金に自分の取り分を上乗せしたものを人々から徴収し、それによって財を蓄えていたので、不正な取り立ても多かったようです。このような事情で「徴税人」は、当時のユダヤ社会の中で明らかに「<u><strong>罪びとというレッテル</strong></u>」を貼られていた職業になっていたのです。ザアカイは「徴税人の頭(かしら)で、金持ちであった」と紹介されています。彼は経済的には恵まれていましたが、ユダヤ人社会の中では「神から程遠く、社会のクズであり、生きるに値しない最低の人間だ」という烙印を押されていたのです。もちろんザアカイ自身、自分の生き方が神に背くものだと感じていたでしょう。</p>

<p>　　(2)　ザアカイは「イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群集にさえぎられて見ることができなかった。それで・・・、いちじく桑の木に登った」(3-4節) とあります。ザアカイはなぜイエスを見ようとしたのでしょうか。単なる好奇心でしょうか。しかし、木に登ってまでイエスを見たいというザアカイの姿には、何かしらもっと切実な思いも感じられます。また、背が低くて見えなければ、群集をかきわけて前に出ればよいはずですが、彼はそうしませんでした。ザアカイは周囲の人々の目を気にしていたのかもしれません。それ以上に、自分のような罪びとがイエスに近づいて行く資格はない、と感じていたのかもしれません。<br />
　それでもザアカイはイエスを一目見たいと思って木に登るのです。彼はイエスという方が「罪びとを招いて、一緒に食事までしている」(ルカ15章2節)といううわさを聞いていたのかもしれません。そして、この人だったら、自分のどうにもならない思いを受け止め、理解してくれて、自分をこの行き詰まりから解放してくれるのではないか、という期待を持ったのかもしれません。</p>

<p>　　(3)　「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」この言葉を聞いてザアカイはどう感じたでしょうか。周囲にはおおぜいの人がいます。その中でイエスは自分にだけ声をかけてくれたのです。しかも「一緒に食事をする」だけでなく「あなたの家に泊まる」と言うのです。どれほど大きな喜びを彼は感じたでしょうか。<br />
　なお、この「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」(5節)は、「今日、わたしはどうしてもあなたの家に泊まらなければならない」とか「今日、わたしはあなたの家に泊まることになっている」とも訳せる箇所です。これは、そのことが神の救いの計画の中にあることだから必ず実現するはずだということを示す表現です。</p>

<p>　　(4)　ヨハネ福音書4章７節で、イエスはサマリアの女に「水を飲ませてください」と声をかけました。ここでもイエスはザアカイに対して「わたしがあなたに何かをしてあげよう」というのではなく「あなたの家に泊めてくれ」、つまり「あなたにはわたしのためにできることがある」と言ってザアカイに近づきます。どんなに罪びとのレッテルを貼られた人であっても、<u><strong>あなたの中に素晴らしいものがある、あなたにはよいことをする力がある</strong></u>、とイエスは見ているのです。そういう眼差しに出会ったとき、人は本当に新たに生きる力を与えられるのではないでしょうか。イエスのいう「この人もアブラハムの子なのだ」(9節)という言葉は、「この人も神が祝福を約束してくださった人間なのだ」ということです。ザアカイはイエスとの出会いによって、自分が生きるに値しない呪われた罪びとではなく、<u><strong>自分もアブラハムの子なのだ</strong></u>、ということに気づいていきます。そして、新しい神とのつながり、人とのつながりに生き始めようとするのです。イエスに出会ったことは、ザアカイの人生を根本から変えてしまいました。もちろん、彼はこれからも罪びとのレッテルを貼られたまま生きていかなくてはならないでしょう。でも彼はもはや「神に見捨てられた罪びと」ではなく、「神に愛された罪びと」なのです。</p>

<p>　　(5)　別の徴税人の物語を思い出してみましょう。マルコ2章14節にはこういう話がありました。「(イエスは)通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、『わたしに従いなさい』と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。」<br />
　イエスは、ザアカイには「わたしに従え」と要求しませんでした。ザアカイもすべてを捨ててイエスに従うとは言いません。<u><strong>ザアカイは徴税人をやめない</strong></u>のです。<u><strong>ただ自分の置かれた場で精一杯、正しいことを行い、貧しい人を大切にして生きようと決意する</strong></u>のです。イエスはその決意を受け入れ、「今日、救いがこの家を訪れた」と宣言しています。<br />
　きょうの福音の箇所には「今日」という言葉が2回出てきます(5,9節)。この「今日」という言葉は、ルカ福音書の中では特別な重みのあることばです(ルカ2章11節、4章21節、23章43節など参照)。<u><strong>「今日」とは、今まさに人が神の愛とゆるしに出会うその時であり、今まさに神の救いが実現しているその時</strong></u>なのです！　わたしたちも、神の救いが実現している「今日」を感じることがあるでしょうか？</p>]]>
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<title>年間第30主日（2007/10/28  ルカ18・9-14 ）</title>
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<modified>2007-10-19T07:25:07Z</modified>
<issued>2007-10-28T07:15:05Z</issued>
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<summary type="text/plain">                  教会暦と聖書の流れ             ...</summary>
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<name>ct</name>


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<dc:subject>2007年（主日C年）</dc:subject>
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<![CDATA[<table id="AutoNumber1" style="BORDER-COLLAPSE: collapse" borderColor="#111111" cellSpacing="0" cellPadding="0" border="0" width="400">
  <tr>
    <td width="406">
    <p align="center"><b><font color="#000080" size="4">
    <span style="BACKGROUND-COLOR: #dddddd">教会暦と聖書の流れ</span></font></b></td>
    <td width="143">
    <p align="center"><font color="#000080" size="2">
    <a href="http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2007/text1028.htm" target="_blank">
    聖書本文</a></font></td>
    <td width="319">
    <p align="center"><span style="BACKGROUND-COLOR: #ffdcb9">
    <a href="http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2007/hint1028.doc" target="_blank">
    <font color="#000080" size="2">「ワード文書」</font></a></span><font color="#000080" size="2">&nbsp;&nbsp;&nbsp;
    </font><span style="BACKGROUND-COLOR: #ffdcb9">
    <a href="http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2007/hint1028.pdf" target="_blank">
    <font color="#000080" size="2">「PDF」</font></a></span><br>
    <font color="#000080" size="2">ダウンロードができます</font></td>
  </tr>
</table>
　エルサレムへの旅の段落の中にあるたとえ話で、この話もルカ福音書だけが伝えているものです。先週の箇所(やもめと裁判官のたとえ話。ルカ18章1-8節)との関連を考えれば、祈りについての教えが継続しているとも言えるでしょう。]]>
<![CDATA[<p><b><font size="4" color="#000080"><span style="background-color: #DDDDDD">
福音のヒント</span></font></b></p>

<p><img border="5" src="../../../../../images/senkyoshiboku/2007/1028.jpg" hspace="6" align="right" style="border: 0px solid #CCCCCC">　　　(1)　ファリサイ派はイエス時代のユダヤ教の一派で、律法と口伝(くでん)律法を重んじ、忠実にそれを守ろうとしていたグループでした。「口伝律法」とは、聖書の律法を現実の生活に適用するために律法学者たちが作り上げた多くの解釈のことです。「ファリサイ」ということばは「分離する」という意味の言葉から来たと言われます。彼らは自分たちを「律法を知らない汚(けが)れた民衆から分離した者」と考えていました。<br />
　一方の徴税人は、ユダヤ人でありながら、ローマ帝国の税金徴収という仕事を引き受け、その仕事によって富を得ていた人たちです。彼らは福音書の中で罪びとの代表のように言われていますが、それは彼らが税の取り立てに関して不正を働いていたと考えられたからです。また、そもそも民族の裏切り者として忌み嫌われていた面もあります。当時のユダヤ社会の中ではどちらが「正しい人」でどちらが「罪びと」であるかは明白でした。</p>

<p>　　(2)　14節にある「義とされる」という言葉は、パウロの手紙の中によく見られる言葉ですが、福音書の中ではあまり多く使われていません。「義とする」はギリシア語の「ディカイオオーdikaioo」という言葉の直訳ですが、聖書の中で語られる「義」(ギリシア語では「ディカイオシュネーdikaiosyne」)は「人間的な正しさ」という以前に、根本には「神の義」ということがあります。<u><strong>「人が義とされる」は「人が神の義にあずかる」こと、もっと分かりやすく言えば「神に受け入れられる」ということ</strong></u>です。人間的な見方ではなく、神との関係という点では、この徴税人のほうが正しいあり方なのだとイエスは言うのです。それはなぜでしょうか。<br />
　ファリサイ派の人の「うぬぼれ」の根拠は、結局のところ<u><strong>他人との比較</strong></u>でした。普通の人よりも自分はちゃんとやっている、ましてこの徴税人なんかとは比べ物にならない、ということです。しかし、人と比較して神の前に自分を誇っても何の意味もありません。そのような姿勢は<u><strong>神との関わりを妨げてしまうだけ</strong></u>です。「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下して」いるとき、<u><strong>人との関係も絶たれてしまいます</strong></u>。人間は互いに助け合い、支えあって生きる者であるはずなのに、周りの人は競争相手になってしまい、弱い人への共感を見失うからです。</p>

<p>　　(3)　イエスの言葉は、わたしたちの自己評価に挑戦してきます。わたしたちが、「自分はチャンとやっている」と感じているとするならば、それは他の人と比べてのことではないでしょうか。「自分はぜんぜんダメだ」と感じているならば、それも人と比較してのことではないでしょうか。わたしたちはあまりにも「比較と競争」の世界に毒されているのかもしれません。<br />
　この社会は、人を果てしない競争へと駆り立てる社会です。その中でわたしたちはどれほどストレスを抱えていることでしょうか、そしてどれほど多くの人が行き詰ってしまっているでしょうか。確かに「社会は競争なのだから、生きていくためにこの競争を降りることはできない」という人は多いでしょう。かと言って、人生が競争だけになれば、その人生はまったく悲惨なものになってしまうでしょう。「<u><strong>競争よりももっと大切なものがある、それを見失わないこと</strong></u>」きょうの福音はそう呼びかけているのではないでしょうか。<br />
　<u><strong>わたしは神の前に立つ。どうしようもなく限界や弱さを抱えているけれども、神がそのわたしを愛し、生かしてくださっているのを感じる。そのとき、優越感と劣等感の間でもがき苦しむところから解放されていく</strong></u>。わたしたちの中にそういう体験があるでしょうか。</p>

<p>　　(4)　<u><strong>祈りとはありのままの自分を神の前に差し出すこと</strong></u>です。そこでは人との比較は役に立ちません。「あの人もしていたから、わたしもこうしました」とか「この人にはかなわないけれど、別の人よりはましです」そういうことは何の意味もない世界なのです。「自分の小ささを認めて神の前にへりくだるとき、神は本当に自分を受け入れ、愛してくださる」。そういう祈りの体験がありますか。<br />
　「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」の「へりくだる」は、直訳では「自分を低くする」です。「自分を低くする」とはどういうことでしょうか。それは表面的に謙遜を装うということではないでしょう。また、「自分なんか何の価値もない。生きるに値しないダメな人間だ」と思い込むことでもないでしょう。むしろ、自分のありのままの姿を見つめるということではないでしょうか。それは決して簡単なことではありません。わたしたちの中に、本当の自分以上に自分のことをよく思いたいという部分がありますが、それは幻想の中を生きることです。逆に本当の自分以下にしか、自分の価値を見いだせず、自尊心を見失い、異様に低い自己評価を持っているとしたら、それも幻想です。自分自身のありのままを認めることは、わたしたちが、神の前に自分を置いてみるときに初めて可能になるのではないでしょうか。</p>

<p>　　(5)　「<u><strong>罪人(びと)であるわたし</strong></u>」という言葉にどんな現実感があるでしょうか。もちろん、自分に特別大きな罪があると思っているならば、自然にそう感じられるかもしれません。この徴税人にはそういう罪意識がありましたが、わたしたちは自分がそれほど悪いことをしているという意識がない場合も多いでしょう。そのわたしを罪びとだと感じるのは難しいでしょうか。「罪」とは「神から離れること」です。<u><strong>神から遠く離れてしまっている自分を感じること、神の前に立つのにふさわしくないという感覚</strong></u>、それが「罪の感覚」だと言えるかもしれません。そして、それは漫然と生活しているだけでなく、本気で神に近づこう、キリストに従っていこうとした時にこそ感じることだとも言えそうです。</p>]]>
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<title>年間第29主日　(2007/10/21　ルカ18・1-8)</title>
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<summary type="text/plain">                  教会暦と聖書の流れ             ...</summary>
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<dc:subject>2007年（主日C年）</dc:subject>
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<![CDATA[<table id="AutoNumber1" style="BORDER-COLLAPSE: collapse" borderColor="#111111" cellSpacing="0" cellPadding="0" border="0" width="400">
  <tr>
    <td width="406">
    <p align="center"><b><font color="#000080" size="4">
    <span style="BACKGROUND-COLOR: #dddddd">教会暦と聖書の流れ</span></font></b></td>
    <td width="143">
    <p align="center"><font color="#000080" size="2">
    <a href="http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2007/text1021.htm" target="_blank">
    聖書本文</a></font></td>
    <td width="319">
    <p align="center"><span style="BACKGROUND-COLOR: #ffdcb9">
    <a href="http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2007/hint1021.doc" target="_blank">
    <font color="#000080" size="2">「ワード文書」</font></a></span><font color="#000080" size="2">&nbsp;&nbsp;&nbsp;
    </font><span style="BACKGROUND-COLOR: #ffdcb9">
    <a href="http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2007/hint1021.pdf" target="_blank">
    <font color="#000080" size="2">「PDF」</font></a></span><br>
    <font color="#000080" size="2">ダウンロードができます</font></td>
  </tr>
</table>
　ルカ福音書の中の長いエルサレムへの旅の段落(9章51節～19章44節)は終わりに近づいています。この話もルカ福音書だけが伝える話です。
　この箇所の直前、17章20節で「神の国はいつ来るのか」という問いかけがあり、イエスは「神の国は、見える形では来ない」「神の国はあなたがたの間にあるのだ」(20,21節)と答えました。と同時に「稲妻がひらめいて、大空の端(はし)から端へと輝くように、人の子もその日に現れる」(24節)とも言っておられます。その日その時は神の裁きが下される時です(22-37節)。この文脈から考えると、きょうの箇所は、その決定的な裁きの時に向かう心構えについての教えとして受け取ることもできるでしょう。
]]>
<![CDATA[<p><b><font size="4" color="#000080"><span style="background-color: #DDDDDD">
福音のヒント</span></font></b></p>

<p><img border="5" src="../../../../../images/senkyoshiboku/2007/1021.jpg" hspace="6" align="right" style="border: 0px solid #CCCCCC">　　　(1)　「気を落とさずに」と言いますが、そこにはどんな状況が考えられるでしょうか。17章の終わりで語られていたのは、イエスの再臨の時＝神の裁きの時に起こる苦難と破滅でした。その中で「もうダメだ」と気を落としてしまうということでしょうか。しかし、それはある将来のことというよりも、わたしたちが生きている今の現実のことでもあるかもしれません。この世界は、テロと戦争、暴力と犯罪、欲望とエゴイズム、弱い立場にいる人々の苦しみに満ちています。そんな中で、わたしたちは「気を落として」しまうことがあるのではないでしょうか。イエスはそのときにも絶えず祈ることを呼びかけています。きょうの箇所を読む上で、この<u><strong>苦難という状況は無視できない</strong></u>でしょう。</p>

<p>　　(2)　旧約聖書の中でやもめは自分を守ってくれる人がいない社会的弱者の代表でした。彼女が助けを求めたのは、誰かが彼女から亡き夫の財産を不正に奪おうとする、というような状況があったからだと想像できます。3節の「相手を裁いて、わたしを守ってください」ということばは、直訳では「相手に対してわたしを裁いてください」です。「裁き」には「悪を断罪する」という面だけでなく「<u><strong>善悪をはっきりさせ、弱い人を守る</strong></u>」という意味があります。そういう意味で「わたしを裁いてください」というのです。7-8節の「神の裁き」も同様です。</p>

<p>　　(3)　このたとえ話は、ルカ11章5-8節の「旅の友人の願い」のたとえとよく似ています。これらのたとえ話は、祈りの大切さを教えていますが、同時に神は<u><strong>誠実でいつくしみ深い方であるから、わたしたちの祈りを必ず聞いてくださる</strong></u>、ということが強調されています。<br />
　しかし、神を「神を畏れず人を人とも思わない」「不正な裁判官」にたとえるのはあまりも突飛に聞こえます。イエスは「不正な裁判官」と「正しくいつくしみ深い裁き主である神」の対比を強調していると言ったらよいのでしょうか。そもそもこのたとえ話が語られたのは、「神に祈っても結局は無駄ではないか」という考えを持っていた人々(弟子たち)に対してだったのでしょう。そうであるならば、イエスは聞いている人を驚かせ、彼らの目を開かせるために、あえて突飛なたとえを語られたのかもしれません。</p>

<p>　　(4)　「選ばれた人たち」(7節)という言葉は何を意味しているのでしょうか。マルコ13章20節に、｢主がその(苦難の)期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、主は<u><strong>御自分のものとして選んだ人たち</strong></u>のために、その期間を縮めてくださったのである」(マタイ24章22節も参照)とあります。そこでは確かに、「選ばれた人たち」は救いにあずかる人々のことです。神の救いにあずかるということが、その人たち自身の功績によることではなく、まったく神の恵み(好意)によることだと考えられ、その神のイニシアチブを強調するために「選ばれた人＝神が選んだ人」と言われていると考えればよいでしょう。神の選びは、現代社会のコンテストとは違います。コンテストでは優れたものが選ばれ、選ばれなかったものは捨てられますが、<u><strong>神は誰一人切り捨てず、すべての人を救うために、もっとも貧しく弱い者を選ばれるの</strong></u>です(申命記6章6-8節、Ⅱコリント1章26-31節参照）。そう考えれば、このたとえ話のやもめのような、弱く貧しい人こそが「神の選ばれた人たち」だと言うこともできるでしょう。</p>

<p>　　(5)　「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」(8節)の「人の子」は本来「人間」を指すことばでしたが、ダニエル書7章13-14節などから、神が決定的に天から遣わす審判者・統治者を指すようになりました。ここの文脈の中では審判者として再び世に来られるキリストのことが考えられています。きょうの箇所全体から考えれば、ここでいう「信仰」とは「苦難の中にあって絶えず祈り続ける姿勢」のことだと言ったらよいでしょう。このやもめのように、<u><strong>苦しみの中にあって、神以外に頼るものがない人が、必死の思いで神に向かう姿勢</strong></u>そのものを「信仰」と言ってもよいのかもしれません。</p>

<p>　　(6)　聖書の終末についての教えには2つの側面があります。1つは、苦難や迫害の中での<u><strong>希望のメッセージ</strong></u>という面。本来、終末についてのメッセージは、悪の支配下にある今の時代が過ぎ去ることを語って、迫害や苦難の中にいる信仰者を励ますメッセージでした。もう1つの面は、人がなまぬるい、自分勝手な生き方をしているときの<u><strong>警告のメッセージ</strong></u>です。神の判断(裁き)から見たときに何が本当に大切なのかを鋭く問いかけるメッセージにもなるのです。<br />
　きょうの箇所から希望と励ましのメッセージを受け取ることができますが、最後の「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」(8節)という言葉には、警告の響きも感じ取ることができるでしょう。<br />
　わたしたちはどうでしょうか？　問われていることは、<u><strong>わたしたちの祈りや願いがどこまで切実なものか</strong></u>ということではないでしょうか。さらに言えば、<u><strong>わたしたちの祈りがどこまで切実かということは、わたしたちの祈りがどこまで現実の人間の苦しみとつながっているかにかかっている</strong></u>、とも言えるのではないでしょうか。</p>]]>
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<title>年間第28主日　(2007/10/14　ルカ17・11-19)</title>
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<dc:subject>2007年（主日C年）</dc:subject>
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<![CDATA[<table id="AutoNumber1" style="BORDER-COLLAPSE: collapse" borderColor="#111111" cellSpacing="0" cellPadding="0" border="0" width="400">
  <tr>
    <td width="406">
    <p align="center"><b><font color="#000080" size="4">
    <span style="BACKGROUND-COLOR: #dddddd">教会暦と聖書の流れ</span></font></b></td>
    <td width="143">
    <p align="center"><font color="#000080" size="2">
    <a href="http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2007/text1014.htm" target="_blank">
    聖書本文</a></font></td>
    <td width="319">
    <p align="center"><span style="BACKGROUND-COLOR: #ffdcb9">
    <a href="http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2007/hint1014.doc" target="_blank">
    <font color="#000080" size="2">「ワード文書」</font></a></span><font color="#000080" size="2">&nbsp;&nbsp;&nbsp;
    </font><span style="BACKGROUND-COLOR: #ffdcb9">
    <a href="http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2007/hint1014.pdf" target="_blank">
    <font color="#000080" size="2">「PDF」</font></a></span><br>
    <font color="#000080" size="2">ダウンロードができます</font></td>
  </tr>
</table>
　エルサレムに向かうイエスの旅は十字架に向かう旅、十字架を経て天に上げられる旅でしたが、それはまた神の国を告げ、神のいつくしみをあらわし続ける旅でもありました。ルカ福音書はこの旅の間に、イエスのさまざまな言動の記録を伝えています。きょうの話もその中での出来事であり、ルカ福音書だけが伝える出来事です。]]>
<![CDATA[<p><b><font size="4" color="#000080"><span style="background-color: #DDDDDD">
福音のヒント</span></font></b></p>

<p><img border="5" src="../../../../../images/senkyoshiboku/2007/1014.jpg" hspace="6" align="right" style="border: 0px solid #CCCCCC">　　　(1)　紀元前10世紀、ソロモン王の死後、北イスラエル王国は南のユダ王国から政治的に分裂し、エルサレムの神殿とは別の聖所をサマリアのゲリジム山に作り、宗教的にも分離してしまいました。紀元前8世紀には北王国はアッシリア帝国に滅ぼされ、サマリアの人々はアッシリア人との混血になり、南のユダヤ人とは民族的にも分かれてしまいました。このような経緯で、ユダヤ人とサマリア人は反目し合うようになっていたのです。<br />
　きょうの福音の場面は「サマリアとガリラヤの間」とありますが、正確な場所はよく分かりません。話の中にサマリア人とユダヤ人が一緒に出てくるので、それに合わせた場面設定だとも言えそうです。なお、イエスが育ったガリラヤ地方は、ユダヤから見てサマリアよりもさらに北にありましたが、ある時代に、南のユダヤ人が入植して町や村を作ったので、人種的にも宗教的にもユダヤ人との同一性を保っていました。つまり、ガリラヤの人々はユダヤ人なのです。</p>

<p>　　(2)　ユダヤ人とサマリア人は、共にモーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)を正典としていました。その中には次のような規定がありました。「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、『わたしは汚(けが)れた者です。汚れた者です』と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない」(レビ記13章45-46節)。<br />
　反目し合っていたユダヤ人とサマリア人が一緒に行動していることは普通ならば考えにくいことです。しかし、重い皮膚病の人々は、それぞれが本来属していた共同体から排斥されてしまっていて、その中で苦しむ者同士として支え合い、助け合いながら生活していたのでしょうか。<u><strong>人と人とがお互いの違いを超えて苦しみの中での連帯する</strong></u>･･･そういうような経験はわたしたちの周りにもあるでしょうか。</p>

<p>　　(3)　なぜイエスは「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」(14節)と言われたのでしょうか。当時の社会では、この病気を宣告するのも、治癒(ちゆ)を宣言するのも、祭司の役割でした。肉体的に病気が治っても、祭司によって「清め」の儀式をしてもらわなければ、社会復帰ができないのです。イエスはその人の<u><strong>神とのつながりを回復するだけでなく、その人がもともと所属していたコミュニティとの関係を取り戻すこと</strong></u>を意図しておられたとも言えるでしょう。なお、ユダヤ人とサマリア人は別々の祭司を持っていたので、彼らは、別の場所へ出かけていったはずです。</p>

<p>　　(4)　きょうの福音から、「もっともっと感謝と賛美の心を持たなければならない」という教訓を受け取るのは当然のことでしょう。しかし、「感謝し、賛美する」というのは、義務感から来るものではないはずです。むしろ自然に心の中からわき上がるのが、賛美と感謝なのではないでしょうか。どうしたら心から賛美し、感謝することができるかを考えるために、<u><strong>自分をこの福音の場面の中に置いてみて、このサマリア人の立場からこの物語を味わってみたら</strong></u>どうでしょうか。病気が治った人々はもちろん皆、喜んだはずです。しかし、祭司のところに行く前に、「感謝し」(16節)「賛美するために戻ってきた」(18節)のはサマリア人だけでした。それはなぜなのでしょうか。<br />
　この10人は皆「清くされた」(14節)のですが、1人のサマリア人だけが「自分がいやされたのを知って」(15節)と言われています。「知る」は直訳では「見る、分かる」です。この人がはっきりと意識したことは、<u><strong>「自分がいやされた」、つまり、「神がこの自分をいやしてくださった」ということ</strong></u>だったのでしょう。他の人と違って、そのことを明確に意識したからこそ彼は賛美し感謝することができたのだ、と言えるのではないでしょうか。<br />
　もう一つ考えられることは、イエスというユダヤ人が民族の壁を超えて、自分にも目をかけてくださった、ということの中に、ほかの人(ユダヤ人)以上の感謝を感じたということかもしれません。<u><strong>「この自分にまでも！」という驚きと感動</strong></u>が、彼の行動の背景にはあるといえるのではないでしょうか。<br />
　どちらも、わたしたちの中に似た経験があるかもしれません。わたしたちが、本当に神に感謝し、神を賛美するのはどんなときでしょうか。</p>

<p>　　(5)　「あなたの信仰があなたを救った」(19節)という言葉は福音書に何度か出てきますが、考えてみれば不思議な言葉です。「神があなたを救ってくださった」というほうが自然なのではないでしょうか。しかしイエスは意外なほど「信仰」の力を強調しています。<br />
　重い皮膚病だったこのサマリア人の「信仰」とは何でしょうか？　それは、この人が自分の病気が治ったことを「神がいやしてくださったこと」として受け取ったということではないでしょうか。<u><strong>自分の身に起こった出来事の中に神とのつながりを発見すること、自分の現実の中に神の働きを見ていくこと</strong></u>、それがここでいう信仰だと言えるのかもしれません。また、この箇所で、その「信仰があなたを救った」というときの「救い」も、病気がいやされたことであるというより、<u><strong>この人が心から感謝と賛美を生きる者となった、そのこと自体</strong></u>だと言ってもよいのではないでしょうか。なお、この個所のすぐ後に「<u><strong>神の国はあなたがたの間にある</strong></u>」(ルカ17章21節)というイエスのことばがあります。イエスは、きょうの出来事のように、民族の違いを超えて、神の救いの喜びが広がっていく現実の中に、神の国の実現を見ていたのでしょう。今のわたしたちは、どのように信仰と救い、賛美と感謝、神の国の現実を生きているでしょうか。</p>]]>
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<title>年間第27主日　(2007/10/7　ルカ17･5-10)</title>
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<summary type="text/plain">                  教会暦と聖書の流れ             ...</summary>
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<dc:subject>2007年（主日C年）</dc:subject>
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<![CDATA[<table id="AutoNumber1" style="BORDER-COLLAPSE: collapse" borderColor="#111111" cellSpacing="0" cellPadding="0" border="0" width="400">
  <tr>
    <td width="406">
    <p align="center"><b><font color="#000080" size="4">
    <span style="BACKGROUND-COLOR: #dddddd">教会暦と聖書の流れ</span></font></b></td>
    <td width="143">
    <p align="center"><font color="#000080" size="2">
    <a href="http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2007/text1007.htm" target="_blank">
    聖書本文</a></font></td>
    <td width="319">
    <p align="center"><span style="BACKGROUND-COLOR: #ffdcb9">
    <a href="http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2007/hint1007.doc" target="_blank">
    <font color="#000080" size="2">「ワード文書」</font></a></span><font color="#000080" size="2">&nbsp;&nbsp;&nbsp;
    </font><span style="BACKGROUND-COLOR: #ffdcb9">
    <a href="http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2007/hint1007.pdf" target="_blank">
    <font color="#000080" size="2">「PDF」</font></a></span><br>
    <font color="#000080" size="2">ダウンロードができます</font></td>
  </tr>
</table>
　エルサレムへの旅の段落の中で、ルカは他の福音書にない独自の伝承(イエスについての言い伝え)を数多く伝えていますが、きょうの福音の少し前からは、マタイ福音書と共通する話がかなりあります(1-2節はマタイ18章6-7節に、3-4節はマタイ18章21-22節に、5-6節はマタイ17章20節によく似ています)。新共同訳聖書がルカ17章の1-10節に「赦し、信仰、奉仕」という小見出しを付けているように、ここにはいくつかのテーマが並んでいますが、本来、1-2節、3-4節、5-6節、7-10節は別々の伝承だったと考えたほうがよいでしょう。イエスの弟子としてふさわしい生き方はどういうものかを教える言葉として、さまざまな場面で語られた言葉が集められたもののようです。]]>
<![CDATA[<p><b><font size="4" color="#000080"><span style="background-color: #DDDDDD">
福音のヒント</span></font></b></p>

<p><img border="5" src="../../../../../images/senkyoshiboku/2007/1007.jpg" hspace="6" align="right" style="border: 0px solid #CCCCCC">　　　(1)　からし種は1～2ミリの小さな種で、本当に小さなもののたとえです。桑の木が海に生えるというのは大きなことのたとえです。なぜそんな小さな信仰で大きなことが可能になるのでしょうか。ただ頭で考えるよりも、みことばを自分の体験と照らし合わせてみることが大切でしょう。「信仰があれば不可能なことは何もない」と感じたことがありますか。それはどんなときですか。逆に「信じてもうまくいかなかった」という体験もあるでしょうか。それはどんなときでしょうか。</p>

<p>　　(2)　「わたしどもの信仰を増してください」と信仰の「量」を問題にした弟子たちに対して、イエスは「からし種」の話をしています。それは「信仰とは量や大きさの問題ではないのだ」と言うことでしょうか。信仰の力とは「信じるとその人に不思議な力が備わる」というようなものではなく、「<u><strong>信じて神にゆだねたときに、神が働いてくださる</strong></u>」ということだと言えるのではないでしょうか。だからこそすべてが可能になるのでしょう。<br />
　福音書の中で「神を信じる」というのは「神は存在すると思っている」ということではありません。イエスの出会った人、イエスの周りにいた人は、だれも神の存在を疑っていませんでした。神を信じるとは「神の存在についての考え方の問題」ではなく、「神に信頼を置いて生きるかどうか」という問題だったのです。</p>

<p>　　(3)　信仰の世界は、自分が自分の力でこれだけのことを成し遂げた、という世界ではありません。<u><strong>神が働いていてくださる。そこに自分をゆだねていく</strong></u>、という世界です。だから自分は何もしなくていい、というのではなく、<u><strong>だから自分にできる精一杯のことをしていこう</strong></u>、ということになるのです。本気でそう思えば、「わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」(10節)と言えるのでしょう。<br />
　わたしたちは自分の力でなんとかしなければならない、という世界に生きています。「能力と努力がすべてを可能にするはずで、うまくいかないのは能力や努力が足りないからだ」、と考えるような世界です。しかし、そういう考えはどれほど多くの人を行き詰らせてしまっているでしょうか。人間は、自分の能力と努力で生まれてきたのではありません。生まれた子どもは自分の能力と努力で育っていくのではありません。むしろ、周囲の人々の愛の中で、そしていのちの与え主である神の愛の中で生き、成長していくのです。<br />
　<br />
　　(4)　1-10節で、別々の伝承がつなぎ合わされているのだとすると、そもそも、<u><strong>なぜ使徒たちが「わたしどもの信仰を増してください」(5節)と言ったのか</strong></u>は分からないことになります。しかし、わたしたちも同じような言葉を言いたくなることがあるのではないでしょうか。それはどんなときでしょうか。自分たちの状況、自分たちの直面している問題に当てはめながら、この箇所を読んでみることもできるでしょう。<br />
　3-4節の<u><strong>「ゆるし」のテーマとつなげて考える</strong></u>ことも一つのヒントになるかもしれません。「もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦(ゆる)してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい」。こう言われても、実際には非常にむずかしいと感じることがあるでしょう。そして、この「ゆるせない」ことを「信仰が足りない」ことだと感じることもあるのではないでしょうか。だとすると、イエスの答えは、大きな信仰があればゆるせるはずだ、というよりも、ゆるしの力は神から来る、その神の力を信頼の心をもって受け取ることが大切なのだ、という意味になるのではないでしょうか。<br />
　さらに「わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」という言葉も、人が人をゆるす、ということと関連づけて受け取ることができるかもしれません。わたしたちは神にゆるされ、だからこそゆるし合うことができるのだとすれば、人が人をゆるすということは、まさに「しなければならないことをしただけ」ということになります。</p>

<p>　　(5)　「人が人をゆるす」ということはどんなときに可能なのでしょうか。いくつかのヒントをあげてみます。思い当たることがありますか。<br />
　　(a)　自分に対して罪を犯した人間が、その罪の痛みを本当に感じていると分かったとき。心からの謝罪をしていると感じたとき(逆に言えば、悪いことをした人が、反省も痛みもなく平気で生きていることがゆるしがたいわけです)。<br />
　　(b)　相手の弱さを感じたとき。その人がしたことはとんでもないことだが、その人がなぜそれほど悪いことをしたかを理解できるとき。その人が過去にどんな傷を受けてきたかとか、その中でどんなふうに人格が歪んで、ああいう行動に走ったのかというようなことが理解できると思えたとき。<br />
　　(c)　ひどいことをした人に対して、それでもその人との関係を持ち続けたいと願うとき。<br />
　　(d)　罪びとである自分自身が本当に神にゆるされていると感じる体験をしたとき。<br />
他にもあるかもしれません。「ゆるせない」と嘆いてばかりいるよりも、「ゆるせた」「ゆるしてもらった」という体験を分かち合ったほうがたぶん何倍も役に立つでしょう。</p>]]>
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<title>年間第26主日 (2007/9/30  ルカ16・19-31）</title>
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<modified>2007-09-20T07:42:07Z</modified>
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<summary type="text/plain">                  教会暦と聖書の流れ             ...</summary>
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<dc:subject>2007年（主日C年）</dc:subject>
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<![CDATA[<table id="AutoNumber1" style="BORDER-COLLAPSE: collapse" borderColor="#111111" cellSpacing="0" cellPadding="0" border="0" width="400">
  <tr>
    <td width="406">
    <p align="center"><b><font color="#000080" size="4">
    <span style="BACKGROUND-COLOR: #dddddd">教会暦と聖書の流れ</span></font></b></td>
    <td width="143">
    <p align="center"><font color="#000080" size="2">
    <a href="http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2007/text0930.htm" target="_blank">
    聖書本文</a></font></td>
    <td width="319">
    <p align="center"><span style="BACKGROUND-COLOR: #ffdcb9">
    <a href="http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2007/hint0930.doc" target="_blank">
    <font color="#000080" size="2">「ワード文書」</font></a></span><font color="#000080" size="2">&nbsp;&nbsp;&nbsp;
    </font><span style="BACKGROUND-COLOR: #ffdcb9">
    <a href="http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2007/hint0930.pdf" target="_blank">
    <font color="#000080" size="2">「PDF」</font></a></span><br>
    <font color="#000080" size="2">ダウンロードができます</font></td>
  </tr>
</table>
　イエスのエルサレムへの旅が続いています。この旅の段落の中に、ルカは他の福音書にないイエスの多くの言葉を伝えています。今日の箇所のたとえ話もルカ福音書だけが伝えるものです。なお、お金や富の問題は先週の福音から続いているテーマだと言えます。]]>
<![CDATA[<p><b><font size="4" color="#000080"><span style="background-color: #DDDDDD">
福音のヒント</span></font></b></p>

<p><img border="5" src="../../../../../images/senkyoshiboku/2007/0930.jpg" hspace="6" align="right" style="border: 0px solid #CCCCCC">　　(1)　この箇所の少し前の14節には「金に執着するファリサイ派の人々」ということばがありました。ファリサイ派は当時のユダヤ教の一派で、律法と口伝律法(律法学者たちによる律法解釈)を厳格に守ろうとした宗教熱心なグループでした。彼らがなぜ、「金に執着する」と言われるのでしょうか。隣人を愛し、貧しい人のために自分の持っているものを分かち合うという律法に表された神の根本的な要求よりも、自分の生活の豊かさを確保した上で、安息日の義務や清めに関する細かい規定を熱心に守ろうとしていた態度のためなのでしょうか。だとすれば、「金に執着する」という言葉は、わたしたちにとっても他人事ではないかもしれません。</p>

<p>　　(2)　19-21節で、この世での金持ちとラザロの生活が対比されます。当時嫌われていた動物だった犬が近づくということも、ラザロの状態の悲惨さを強調しています。22節以降には、死後の世界についての描写があります。「天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた」とか「陰府(よみ)でさいなまれ」とか「わたしたちとお前たちの間には大きな淵(ふち)があって」などです。ここにある死後の世界の具体的な描写は当時の人々の考えに基づいたものであり、イエスは死後の世界のありさまについて教えようとしていると考える必要はないでしょう。むしろここでイエスは、死という時・決定的な神の「裁き」という観点から見て、<u><strong>今をどう生きるかを鋭く問いかけている</strong></u>のです。<br />
　なお、このラザロという人は特別に正しい人であったとは言われていませんが、金持ちと貧しいラザロの状況は死後逆転してしまいます。このような神による逆転は、ルカ福音書の特徴といえるかもしれません(ルカ1章52-53節、6章20-26節参照)。その根底には、「神は真実な方で、貧しい人の苦しみを決して見過ごされることはない」という考えがあると言えるのでしょう。</p>

<p>　　(3)　「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる」(29節)、「モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう」(31節)と言われますが、それは、貧しい人を助けなければならない、ということについて、旧約聖書をとおしてすでにはっきりと聞いているはずだ、ということです。たとえば、申命記にはこういう箇所があります。<br />
　「あなたの神、主が与えられる土地で、どこかの町に貧しい同胞が一人でもいるならば、その貧しい同胞に対して心をかたくなにせず、手を閉ざすことなく、彼に手を大きく開いて、必要とするものを十分に貸し与えなさい。････彼に必ず与えなさい。また与えるとき、心に未練があってはならない。このことのために、あなたの神、主はあなたの手の働きすべてを祝福してくださる。この国から貧しい者がいなくなることはないであろう。それゆえ、わたしはあなたに命じる。この国に住む同胞のうち、生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい」(申命記15章7-11節)。<br />
　イザヤ書にもこうあります。<br />
　「わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛(くびき)の結び目をほどいて／虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え／さまよう貧しい人を家に招き入れ／裸の人に会えば衣を着せかけ／同胞に助けを惜しまないこと。そうすれば、あなたの光は曙(あけぼの)のように射し出で／あなたの傷は速やかにいやされる。････飢えている人に心を配り／苦しめられている人の願いを満たすなら／あなたの光は、闇の中に輝き出で／あなたを包む闇は、真昼のようになる」(イザヤ58章6-10節)。</p>

<p>　　(4)　このようなことばを、この金持ちとその兄弟たちは聞いていたはずだ、というのです。この金持ちが聞き逃したのはそういう聖書のメッセージであり、見過ごしたのは目の前の人の苦しみでした。わたしたちにとっても呼びかけは2つあると言えるでしょう。1つは<u><strong>「聖書」からの呼びかけ</strong></u>、神が人間に何を望んでおられ、わたしたち人間は何をすべきか、ということです。もう1つは<u><strong>「現実」からの呼びかけ</strong></u>です。自分の家の目の前に、貧しい人が横たわって苦しんでいる、そのような現実はわたしたちに何かを呼びかけているはずです。そして、<u><strong>聖書をとおしての神の呼びかけと、目の前の人間の現実の必要が結びついたときに、わたしたちの具体的な行動への呼びかけになるはずです</strong></u>。<br />
　わたしたちはそういう呼びかけを聞いているでしょうか。それに応えているでしょうか。どうしたらその呼びかけに本当に応えることができるでしょうか。</p>

<p>　　(5)　「死者の中から生き返る者」(31節)という言葉は、イエスご自身を暗示しているのでしょうか。もちろんここでは、その者を見ても回心しないだろう、と言われるのですが、福音書の言葉を読む時に、イエスご自身の姿を思い浮かべることはいつも大きなヒントになります。イエスは単に言葉による教えを述べたのではなく、「<u><strong>主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだった</strong></u>」(Ⅱコリント8章9節。きょうのアレルヤ唱参照）と言われる方です。それは単なる「施し」をはるかに超える姿でした。さらにマタイ25章31-46節で、イエスが、飢え、のどが渇き、旅をしていて、裸であったり、病気であったり、牢にいる人にしたことは「わたしにしてくれたことだ」と言った言葉も思い出すならば、「<u><strong>イエスは死者の中から復活して、貧しい人・もっとも小さな兄弟の中にいる</strong></u>」と言ってもいいかもしれません。わたしたちは、その呼びかけを聞くことができるでしょうか。</p>]]>
</content>
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<title>年間第25主日 (2007/9/23  ルカ16･1-13)</title>
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<modified>2007-09-14T05:54:46Z</modified>
<issued>2007-09-23T03:21:21Z</issued>
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<dc:subject>2007年（主日C年）</dc:subject>
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<![CDATA[<table id="AutoNumber1" style="BORDER-COLLAPSE: collapse" borderColor="#111111" cellSpacing="0" cellPadding="0" border="0" width="400">
  <tr>
    <td width="406">
    <p align="center"><b><font color="#000080" size="4">
    <span style="BACKGROUND-COLOR: #dddddd">教会暦と聖書の流れ</span></font></b></td>
    <td width="143">
    <p align="center"><font color="#000080" size="2">
    <a href="http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2007/text0923.htm" target="_blank">
    聖書本文</a></font></td>
    <td width="319">
    <p align="center"><span style="BACKGROUND-COLOR: #ffdcb9">
    <a href="http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2007/hint0923.doc" target="_blank">
    <font color="#000080" size="2">「ワード文書」</font></a></span><font color="#000080" size="2">&nbsp;&nbsp;&nbsp;
    </font><span style="BACKGROUND-COLOR: #ffdcb9">
    <a href="http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2007/hint0923.pdf" target="_blank">
    <font color="#000080" size="2">「PDF」</font></a></span><br>
    <font color="#000080" size="2">ダウンロードができます</font></td>
  </tr>
</table>
　イエスのエルサレムへの旅、十字架を経て天に向かう旅が続いています。この旅の段落の中に、ルカは他の福音書にないイエスの多くのことばを伝えています。きょうの箇所のたとえもルカ福音書だけが伝えるものです。]]>
<![CDATA[<p><b><font size="4" color="#000080"><span style="background-color: #DDDDDD">
福音のヒント</span></font></b></p>

<p><img border="5" src="../../../../../images/senkyoshiboku/2007/0923.jpg" hspace="6" align="right" style="border: 0px solid #CCCCCC">　　(1)　1節～8節前半のたとえは、かなり分かりにくいと感じられるでしょう。主人が人に貸したものを管理人が勝手に減額してしまうというのは、普通ならほめられるはずがないことです。なぜ「<u><strong>主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた</strong></u>」のでしょうか。ただ、この管理人の「抜け目のなさ(賢さ)」だけを評価しているということなのでしょうか。だとしても「ほめる」というのは少し無理があるように感じられるでしょう。<br />
　この管理人の行為については、別の見方もあります。1つは、管理人が放棄したものが実は自分の受け取るはずの手数料だったという解釈。手数料を放棄したのであれば、そのこと自体は不正とは言えないことになります。もう1つは、管理人は利息分を棒引きしてやったという解釈です。利息をとって人に貸すことは律法で禁じられていましたが、実際にはどの時代にも行われていました。50バトス貸したときに100バトス貸した、とか、80コロス貸したときに100コロス貸した、という証文を書いておけば、この差額が実際には利息分だということになります。利息分を棒引きすることは主人の利益に反しますが、本来利息を取ること自体が悪だとされているので、主人は文句を言えないわけです。</p>

<p>　　(2)　たとえ話の結論は、「そこで、わたしは言っておくが、<u><strong>不正にまみれた富で友達を作りなさい</strong></u>」(9節)です。「不正にまみれた富」は直訳では「不正なマンモン」。「不正によって得たお金」というよりも「神から離れた、この世のものである富」という意味です。お金とどうかかわるべきか、お金をどう使うか、というのが、10節以下でもテーマになっています。「友達を作る」は富を貧しい人に施すことによって、貧しい人の友となり、神がそのことを顧みて、受け入れてくださる、と取ることができるでしょうか。あるいはそうすることによって「神を友にする」とも取れるでしょうか。</p>

<p>　　(3)　10-12節で「富について忠実」であることが求められていますが、それはもちろん「富に忠誠を尽くす」という意味ではなく「<u><strong>富を誠実に、正しく扱う</strong></u>」ということです。「忠実」は「ピストスpistos」の訳で、「不忠実」は「アディコスadikos」の訳です。adikosは8節の「不正なadikia」と同じ言葉ですが、内容的には結び付きません。ここから見ても、10節以下の教えは、本来、前のたとえ話とは別の教えだったようであり、切り離して考えたほうが良さそうです。13節の「<u><strong>神と富とに仕えることはできない</strong></u>」という教えは、マタイ6章24節(山上の説教の中)にもあり、これも直接12節までとつながっているというより、13節だけで独立した教えと考えたほうがよいでしょう。このあたりは、「富」というテーマのつながりで、イエスのいろいろな言葉がつなぎ合わされているようです。<br />
　お金との関わり方というのは確かにわたしたちにとって大きなテーマです。お金に縛られたり、お金に振り回されている現実はだれにでもあるはずです。しかし、わたしたちは、お金がすべてではなく、お金が神ではないことも分かっているはずです。10-12節の言葉で言えば、<u><strong>もし、富が『ごく小さな事、不正にまみれた富、他人のもの』だとすれば、何が『大きな事、本当に価値あるもの、あなたがたのもの（自分自身のもの）』なのでしょうか。それは神とのつながりでしょうか、人と人とのつながりでしょうか、自分自身の生き方でしょうか。</strong></u>お金がそれらのものを妨げてしまうと感じられることもきっとあるでしょう。わたしたちの生活の中で、きょうのイエスのことばをどのような呼びかけとして受け取ることができるでしょうか？</p>

<p>　　(4)　1-9節の別の読み方を紹介します。実はきょうの福音のたとえ話は、15章の３つのたとえ(百匹の羊、十枚の銀貨、放蕩息子の父)に続いて語られていますが、ここで突然「富」がテーマになるとしたら不自然ではないでしょうか。本来はこのたとえ話も15章同様、「罪のゆるし」がテーマだったと考えてみてはどうでしょうか。福音書の中で「罪のゆるし」が「借金の帳消し」のたとえで語られることがあります。「主の祈り」もそうですし、ルカ7章41-42節やマタイ18章23-34節もそうです。神は借金が返せずにどうにも行き詰まってしまった人間を見て、憐れに思い(マタイ18章27節「スプランクニゾマイ」)、何とか生かそうとする――これが「借金の帳消し」の意味であり、神のゆるしなのです。きょうの箇所の管理人は自分の不正によって行き詰ってしまいましたが、その行き詰まりを打開し、なんとか生き延びるために彼がしたことは、主人に負債のある人の負債を勝手に減免してしまうことでした。それは「<u><strong>罪びとである人間が、他の罪びとをゆるしてしまう</strong></u>」ということを表しているのではないでしょうか。さらに、「主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた」(8節)というのは、「<u><strong>実は、それが神の望みでもあったのだ</strong></u>」ということではないでしょうか。<br />
  ルカ15章1-2節で、イエスは徴税人や罪びとを迎え、一緒に食事をしていると非難されました。非難したファリサイ派や律法学者からすれば、その人々は神が絶対にゆるさないはずの人々でした。だから自分たちがゆるす必要もないのです。しかし、イエスにとっては、人が「罪びと」をゆるし、受け入れることこそが神の心にかなうことだったのです。このように考えると、「不正にまみれた富で友達を作りなさい」(9節)という結論は、「人が人をゆるし、<u><strong>人と人とが友として和解すること</strong></u>」を勧めていることになります(もちろん、このように考えると、このたとえ話は10節以下の富についての教えとは関係がないことになります)。<br />
　どのような解釈を取るにせよ、わたしたちも本当はどこかで行き詰っていて、絶体絶命のピンチにあると言えるのかもしれません。もしそうならば「その時、この不正な管理人はどうしたか」は何かのヒントになるのではないでしょうか。</p>]]>
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<title>年間第24主日（2007/9/16  ルカ15・1-32）</title>
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<modified>2007-09-07T06:34:49Z</modified>
<issued>2007-09-16T06:25:24Z</issued>
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<summary type="text/plain">                  教会暦と聖書の流れ             ...</summary>
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<dc:subject>2007年（主日C年）</dc:subject>
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<![CDATA[<table id="AutoNumber1" style="BORDER-COLLAPSE: collapse" borderColor="#111111" cellSpacing="0" cellPadding="0" border="0" width="400">
  <tr>
    <td width="406">
    <p align="center"><b><font color="#000080" size="4">
    <span style="BACKGROUND-COLOR: #dddddd">教会暦と聖書の流れ</span></font></b></td>
    <td width="143">
    <p align="center"><font color="#000080" size="2">
    <a href="http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2007/text0916.htm" target="_blank">
    聖書本文</a></font></td>
    <td width="319">
    <p align="center"><span style="BACKGROUND-COLOR: #ffdcb9">
    <a href="http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2007/hint0916.doc" target="_blank">
    <font color="#000080" size="2">「ワード文書」</font></a></span><font color="#000080" size="2">&nbsp;&nbsp;&nbsp;
    </font><span style="BACKGROUND-COLOR: #ffdcb9">
    <a href="http://tokyo.catholic.jp/text/senkyoshiboku/hint/2007/hint0916.pdf" target="_blank">
    <font color="#000080" size="2">「PDF」</font></a></span><br>
    <font color="#000080" size="2">ダウンロードができます</font></td>
  </tr>
</table>
　ミサの朗読には、長い形と短い形がある場合がありますが、この「福音のヒント」ではいつも長い形のほうを取り上げています。グループで分かち合う場合には、ミサほど時間の制約がないと思うからです。なおきょうの短い形では、11節以下の「放蕩息子の父のたとえ」が省略されていますが、それは今年(C年)の四旬節第4主日でも読まれた箇所だからでしょう。ルカ福音書の文脈では、イエスはエルサレムに向かう旅を続けています。その中でイエスは父である神の姿と神の国の喜びをはっきりと示していきます。]]>
<![CDATA[<p><b><font size="4" color="#000080"><span style="background-color: #DDDDDD">
福音のヒント</span></font></b></p>

<p><img border="5" src="../../../../../images/senkyoshiboku/2007/0916.jpg" hspace="6" align="right" style="border: 0px solid #CCCCCC">　　(1)　3つのたとえ話ですが、1-3節の導入部分は大切です。これらのたとえ話は単なる言葉による教えではなく、イエスの生き方・行動と密接に結びついているのです。この話のきっかけは、イエスが徴税人や罪びとを招き、食事まで一緒にしていたのを非難されたことでした。イエスの答えが、「神とは、この羊飼いのような方であり、一枚の銀貨を探す女性のような方(！)であり、放蕩息子の父のような方だ。だから、自分も罪びとを招き、食事を一緒にしているのだ」ということであるのは明白です。</p>

<p>　　(2)　「<u><strong>共に食事をすること</strong></u>」が、一緒に食事をする人同士の絆を作り、確認し、深めるものであることは、ほとんどすべての民族・文化に共通することです。食べ物を一人占めせずに、分け合って食べるというところに、人と人とのもっとも基本的な「共に生きる姿」があると言えるのでしょう。ユダヤ人にとって「共に食事をすること」は「神の前での大宴会」のイメージでもありました。出エジプト記はイスラエルの長老たちがシナイ山で、神を見て食べかつ飲んだことを、特別な恵みのしるしとして伝えています(出エジプト記24章11節)。預言者は最終的に到来する救いの完成を神のもとでの宴として描きました(イザヤ25章6-10節)。<br />
　<u><strong>地上で「共に食事をすること」は、この「神のもとでの宴とそこに集う共同体」を目に見える形で表すもの</strong></u>と考えられていました。それゆえ、イエスの時代のユダヤ人は異邦人と一緒に食事をしませんでした。自分たちだけが神の救いの食卓にあずかれると考えていたからです。同じように、ファリサイ派の人々は自分たちのグループだけで食事をしました。徴税人など罪人は救いから排除されるはずだったからです。イエスにとっても「共に食事をすること」は救いの共同体を表すものでした。しかし、<u><strong>だからこそイエスはすべての人をそこに招いたのです！</strong></u><br />
　きょうのたとえ話は、神が罪びとの滅びではなく、罪びとが生きることを望んでおられるということを明確に示しています。神は罪によって自分から離れ、ボロボロになり、滅びかけようとしている人を、探し、待ち続け、見つけて連れ戻すことを喜びとする方なのです。</p>

<p>　　(3)　福音書の中での「罪びと」の問題は、自分の意志で悪を行ったというようなことよりも、病気や職業によって罪びとのレッテルを貼られ、神からも人からも断ち切られていた人々の問題だったということを思い出すことも、たぶん大切でしょう。それは「悪いと知りつつあえてその悪いことをするというような厳密な罪」というよりも、もっと広く「<u><strong>神と人々から断ち切られた状態</strong></u>」の問題だといってもよいでしょう。今の社会の中ではどういう人々のことを思い浮かべることができるでしょうか。</p>

<p>　　(4)　きょう、わたしたちはこの福音をどう受け止め、どのように分かち合うことができるでしょうか。たぶんまず最初に問われることは、わたしたちがだれの立場でこれらのたとえ話を聞くかということです。「迷わずにいる99匹の羊」か「迷った1匹」か。真面目に父親のもとで働いてきた兄か、放蕩息子である弟か。もし後者であれば、きょうの箇所のたとえ話は、<u><strong>もうありがたくてありがたくて仕方ない「福音」</strong></u>としか言いようがないでしょう。ただし、イエスはこれらのたとえ話を、迷子の羊や放蕩息子である「徴税人や罪びと」に向けて語られたのではありません。むしろ99匹であり、真面目な兄である「ファリサイ派や律法学者」に向けて語られたのです。そこで求められていることははっきりしています。99匹には、<u><strong>羊飼いの心を分かってほしい</strong></u>、兄には、<u><strong>弟を受け入れた父の心を分かってほしい</strong></u>、ということです。これも、わたしたちにも思い当たることがあるのではないでしょうか。自分を「99匹・兄」と感じる部分がだれの中にもあるでしょう。一方、「迷子の1匹・弟息子」と感じることもきっとあるでしょう。わたしたちはどんなときにそう感じるのでしょうか。<br />
　「わたしにとって、迷子の1匹や弟とはだれのことか」と問いかけてみることもできるかもしれません(マタイ18章10節)。本当は神がとても大切にしている人なのに、自分がいつの間にか見下していたり、無視してしまっている人がいるのではないでしょうか。</p>

<p>　　(5)　放蕩息子のたとえで、よく言われることは「こんなに甘い父親では、弟は更生しないし、兄もやる気を失ってしまう」ということです。社会の常識から言えばそのとおりでしょう。それでも神は、無条件にゆるすのです。なぜなら、人間は神からの、この無条件のゆるしと愛なしには生きられないものだからです。そのことを本当に感じられますか。<br />
　放蕩息子の父のたとえは、<u><strong>ゆるしとは関係回復の出来事だ</strong></u>ということを非常にはっきりと示しています。弟息子は「わたしが頂くことになっている財産の分け前」と言いますが、これは普通なら父親が死んでから与えられるものです。弟息子にとって父は死んだも同然、まったく関係を断ち切ってしまいます。一方の父親は息子の帰りを待ち続け、帰ってきた息子を「見つけて、憐れに思い(例の「<u><strong>スプランクニゾマイsplanknizomai＝はらわたして！</strong></u>」)、走り寄って」、わが子として受け入れるのです。ゆるしとは罪によって断ち切られた関係を取り戻そうとする働きです。この関係回復も現代世界の大きなテーマではないでしょうか。<br />
</p>]]>
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