2007年11月25日
王であるキリスト (2007/11/25 ルカ23・35-43)
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福音のヒント
(1) イエスが十字架にかけられる場面です。ルカ福音書の受難物語はマルコ福音書の受難物語をもとにして、ルカ独自の資料・伝承を挿入する形で書かれています。マルコ、マタイでは、イエスとともに十字架につけられた犯罪人が二人ともイエスをののしった、となっていますが、ルカは別の伝承を採用しています。ルカはそのうちの一人が回心し、イエスに救いを願った、という話を伝えています。
「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」(40-41節)。ここにはルカ福音書の受難物語の1つの特徴が表れています。それは、イエスが罪なき方であることを強調することです。ユダヤの最高法院でイエスは「自分を神の子とした」という冒瀆(ぼうとく)の罪(22章70-71節)を着せられ、ローマ総督に対して「民衆を扇動し、皇帝への納税を禁じた」と訴えられました。しかし、本当はイエスは無罪なのです(ルカ23章4、14-15、22、47節参照)。ルカは「彼は不法を働かず/その口には偽りもなかったのに」(イザヤ53章9節)という苦しむ主のしもべの姿をわたしたちに思い出させようとしているのでしょうか。
(2) 「議員たち」はユダヤ人の最高法院の議員たち、「兵士たち」は処刑を担当したローマ人の兵士です。「犯罪人」は十字架刑を受けるほど重大な犯罪を犯した人なのでしょう。35-39節で、彼らがイエスに向かって言ったことはすべて「自分を救ってみろ」ということでした。イエスはそれに何一つ答えません。イエスは自分を救うことができなかったのでしょうか? イエスが神の子キリストとして、人々の救いのためにご自分の命を差し出されたと考えれば、イエスは自分を救うことができたのにあえて自分を救わなかったのだと考えるのが当然でしょう。もちろん、これが伝統的なキリスト教の見方です。
しかし、現代のわたしたちが直面している暴力(戦争・テロから身近なところでの暴力に至るまで)の問題から、イエスの受難を見るならば、違う見方が必要になるかもしれません。「自分を救えるのに救わない」ということは、暴力を容認し、被害者が耐え忍ぶことを良しとし、暴力を繰り返させる危険さえあるのではないかという問いもありうるからです。「罪人をゆるすこと」と「暴力を許すこと」とは別の問題です。神の望みは人が暴力から解放され、平和のうちに生きることであるはずです。イエスがご自分に振りかかる暴力をどう受け止めたのか、これは今のわたしたちにとって切実な問いではないでしょうか?
(3) 「自分を救わない」あるいは「救えない」イエスの姿の中に、「暴力によって苦しむすべての人」との連帯の姿を見ることはできないでしょうか。暴力は人を肉体的に傷つけるだけではありません。暴力は人を孤立無援の状態にします。イエスも表面的には神から見捨てられ、人からも見捨てられたような姿になりました。暴力のもう1つの作用は、人から力を奪ってしまうことです。確かに十字架のイエスはあらゆる力を奪われて何もできなくなってしまったかのようでした。そういう意味で、イエスはすべての暴力被害者と同じ体験をされたのだといえるでしょう。
しかし、イエスには特別なことがありました。特にルカ福音書は、イエスが最後まで神への信頼と人への愛を持ち続けた姿を伝えています。イエスは絶望や憎しみに支配されることなく、出会ったすべての人、自分を十字架につけた人々をも愛し抜かれるのです。無力な十字架のイエスの中にこそ、愛と連帯によって本当の意味で暴力に打ち勝ち、暴力の連鎖を断ち切る道を見つけることができるのではないでしょうか。
(4) 「ユダヤ人の王」(38節)はイエスをローマ帝国に対する反逆者とする罪状です。しかし、福音書はそこにもイエスが「真の王」であることが暗示されていると考えているのでしょう。ところで、きょうの箇所の中で、「王」というテーマはむしろ42-43節の犯罪人とイエスの対話の中に表れてきます。「あなたの御国においでになるとき」という箇所は、写本によっては「あなたが王権をもって来られるとき」と読むこともできます。「国、王権」と訳された言葉はギリシア語の「バシレイアbasileia」です。この言葉は「王(バシレウスbasileus)」という言葉から来ていて、「王であること、王としての統治、王として治める国」の意味になります。この犯罪人は、自分もイエスも十字架で死を迎えることを知っていますから、このイエスの王国が死を超えて実現すると考えていることになるでしょう。その中で「わたしを思い出してください」と願うのです。
43節「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」の「楽園」は、ギリシア語で「パラデイソスparadeisos」です。70人訳聖書(古代のギリシャ語訳旧約聖書)の創世記2章8節は、エデンの園をこう呼んでいます。神と人、人と人との調和に満ちた世界、人が神と共にいる状態(Ⅱコリント12章4節参照)だと言ってもいいでしょう。そして、イエスがそれを約束するのは「今日」です! 苦しみのどん底の中で、イエスが共にいてくださることに気づいたとき、そこにもう「バシレイア」が実現している、そこが「パラダイス」になる、と言ってもいいのかもしれません。
2007年11月19日
年間第33主日 (2007/11/18 ルカ21・5-19)
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福音のヒント
(1) 8節の「わたしの名を名乗る者」とは、「わたしがキリスト(救い主)だ」と主張する「偽(にせ)キリスト」のことでしょう。人々の不安や怖れにつけこんで「ここに救いがある、これこそが真の救いだ」というような偽りの情報が現代のわたしたちの周りにもたくさんあるのではないでしょうか。人々の危機意識を煽(あお)り立てて、信者を集めようとする怪しげな宗教もあるかもしれません。世の終わりについての聖書の教えは、そういうものとは無縁です。イエスは人々の恐怖心を煽るためにこれらの言葉を語られたのではありません。イエスが語るのは、たとえどんなことが起こっても「惑わされないように」(8節)ということです。
きょうの箇所は、世の終わりそのものというより、それに先立つ混乱の時代について語る箇所です。イエスは世を去る前に、将来起こるはずのことについて語りました。戦争、暴動、民族紛争、大地震、飢饉、疫病、などなどです。それらは、福音書が書かれた1世紀後半にはすでに現実になっていたことでした。そして、21世紀に生きているわたしたちにとって、これらの現象はさらに切実で、深刻な現実だと感じられるかもしれません。その中で、きょうのわたしたちにイエスが語りかけていることを聞き取ろうとします。
(2) 聖書の終末論(終わりについての教え)には、2つの面があります。
1つは、厳しい迫害や大きな苦難の中にあっても神に信頼するように、と促す励ましのメッセージという面です。きょうの箇所では、特に迫害の中でのイエスの助けと神の守りが約束されています。「どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである」(15節)、「あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない」(18節)。身の安全が保障されるというわけではありません。約束されるのは、裁きの場に引き出されてもそれを「証しをする機会」にする力が与えられること、たとえ殺されても「命をかち取る」ことができるということです。
「髪の毛の一本」(18節)はごくわずかなもの、ほんの小さなもののたとえです。神のわたしたちに対する愛が確かなもので、大きく、また細やかであることを強調しています。しかしそれは、危害がなくなるというよりも、どんなに危害を加えられても本当に大切なものを奪われることはない、という意味のようです。19節の「命をかち取る」の「命」はギリシア語では「プシュケーpsyche」です。「プシュケー」は「たましい」とも訳される言葉です。ある辞書には、「なまの人間の人格生命の本質的部分」という説明がありました。決して奪われることのない本当に大切なものは、この「本質的な部分」だと言えるでしょうか。なお、「忍耐」と訳された言葉の元の意味は「下に留まること」です。ただじっと我慢するというよりも、「神のもとに踏み留まること」と言ったらよいでしょうか。この神とのつながりこそが、決して傷つけられることのない本質的な部分だと言うこともできるのではないでしょうか。
(3) 終末論のもう1つの面は、警告のメッセージという面です。きょうの福音の箇所の冒頭にある「ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話している」という場面を思い浮かべたらよいかもしれません。人は目に見えるものの立派さに心を奪われてしまうことが確かにあります。現代の消費社会は、そのように人の心を奪うものに満ち溢れていると言っても過言ではありません。テレビやインターネットを通して、美しいもの・派手なもの・欲しいものの情報がわたしたちに飛び込んできます。そして、本当に大切なものを見失ってしまう危険があるのです。聖書の終末論は、目に見えるすべてのものは「過ぎ去るもの」「滅びゆくもの」であることに気づかせ、何が本当に永遠のものであり、滅びないものであるかに気づかせるのです。
「世の終わりはどうなるのか」といくら頭で考えても役に立ちません。聖書の終末論のこの2つの面が、わたしたち自身の現実の体験とどう結びつくかを考えてみましょう。
(4) 末期ガンなどのターミナル・ケア(終末医療)への取り組みが盛んになる中で、「クオリティ・オブ・ライフquality of life」ということが言われるようになりました。迫り来る死を前にした時、いかに命の長さを伸ばすか、という「生命の量」の問題よりも、残された日々をいかに充実したものとして生きるか、という「いのちの質」が問われる、という考えです。
キリスト信者にとって「クオリティ・オブ・ライフ」の根源的なモデルは、イエスご自身の地上での最後の日々でしょう(きょうの箇所の後、すぐに受難の物語が始まります)。イエスは死を目前にして最後までどう生きたか、そのイエスのいのちの輝きを見つめたときに、人はパウロとともにこう確信することができるようになるのです。
「愛は決して滅びない。…信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」(Ⅰコリント13章8、13節)
わたしたちの人生にも必ず「終わり」が待ち受けています。その終わりに向かってどう生きるかをきょうの福音は、そしてイエスの生き方はわたしたちに問いかけているのです。
2007年11月11日
年間第32主日 (2007/11/11 ルカ20・27-38)
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(1) サドカイ派は、ファリサイ派と並ぶイエス時代のユダヤ教の一派です。彼らの名「サドカイ」は祭司の名から来ています。彼らは当時のエルサレムの神殿の権威や富と結びついていた裕福なグループでした。ファリサイ派がモーセ五書(律法の書、創世記~申命記)以外の預言書や口伝(くでん)律法を大切にしていたのと異なり、サドカイ派はモーセ五書のみを正典と考えました。モーセ五書には「復活」について明確に述べている箇所はありません。イスラエル民族はもともと、人は死ぬと先祖の列に加えられる、そこは「シェオール(陰府)」と呼ばれるところで、そこでは生きている人との関わりも神との関わりもなくなってしまう、と考えていたようです。
(2) 旧約聖書の中で「復活」ということがはっきりと語られるようになるのは、ダニエル書の12章とマカバイ記二の7章です(マカバイ記はヘブライ語聖書には含まれていませんが、カトリック教会では「第二正典」とされています)。これらの箇所が書かれた時代は、紀元前2世紀の迫害と殉教の時代でした。紀元前4世紀、ギリシアのアレクサンドロス大王が築いた広大な支配地域には、4つのヘレニズム(ギリシア人の)帝国ができました。パレスチナは初め、エジプトのプトレマイオス王朝の支配を受けましたが、後にシリアのセレウコス王朝に支配されるようになりました。そして、そのセレウコス王朝のアンティオコス4世エピファネスという王のとき、ユダヤ人に対する激しい宗教的迫害が起こりました。エルサレムの神殿にはギリシアの神々の像が持ち込まれ、ユダヤ人は先祖伝来の律法に従って生きることを禁じられました。「神に忠実に生きようとすればするほど、この世では苦しみを受け、中には殺されていく人もいる」という厳しい状況の中で「死を越えて神が救いを与えてくださるという希望=復活の希望」が語り始められたのです。
(3) サドカイ派が復活を認めなかったのは、彼らが「モーセ五書」のみを正典と考えていたから、というだけではないでしょう。サドカイ派はこの世で満ち足りていた人々の集まりでした。たとえローマ帝国の支配下であろうとも、神殿の権威や富に結びついていたサドカイ派にとって今の生活は悪くなかったのです。彼らにとって神との関係は、神殿の祭儀の中で正しいいけにえをささげているだけで十分で、死を越えて神に希望するものなど何もなかったのでしょう。だからサドカイ派はここで「復活」という考えの矛盾を指摘して復活を否定しようとしたのです。
一方のイエスは、貧しい人々とともに生き、苦しむ人々の姿を見つめてきました。彼らの苦しみと希望はイエスのものでもあったのです。そしてご自分の身にも危険が迫っていることをイエスは切実に感じていました。イエスにとって、復活とは死後の世界に対する興味や、宗教家の議論の問題ではなかったのです。それは、「どう考えてもこの世では今の苦しみと絶望的な未来しかないと感じられるときに、それでもなお神に信頼し、人を愛し、希望を持って生きることができるかどうか」というギリギリの決断の問題なのです。
(4) 34-36節でイエスは、この世の有り様と復活の有り様はまったく違うということを語ります。復活のいのちとはこの世のいのちの延長線上にあるものではなく、まったく違うレベルのいのちなのだ、ということでしょう。復活とは、まったく「神によって生きる」(38節)ことなのです。
37-38節の「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」だから「死者は復活する」というのはどういうことでしょうか。あえて説明すれば、「神は『生きている者の神』であり、モーセに現れた神がご自分を先祖の神だ、と言うのだとすれば、先祖たちは今も何らかの形で生きていることになる」ということでしょうか。イエスはサドカイ派も認めているモーセ五書を使って彼らに反論していますが、ただこれをもって復活の論証と考えるとあまり説得力がないようにも思えます。
(5) 37節の「柴」の箇所とは、出エジプト記3章を指します。神がシナイ山で初めてモーセに声をかけ、イスラエルの民をエジプトの奴隷状態から脱出させるために、モーセを民の指導者として選び出す箇所です。そこで神がモーセに向かって語る自己紹介の言葉が「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」(出エジプト記3章6節)というものでした。イスラエルの先祖とともにいて、いつも彼らを守り導いた神は、今エジプトの奴隷状態にある民を決して見捨てていないのです。この神は、いつも人とともにいて、人を導き、どんな苦しみの中でも人が希望を置くことのできる神なのです。ここに復活の希望の根拠があると言えるのではないでしょうか。
38節「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」の「生きている者の神」とは、生きている人間の支えとなり、希望となり、力となる神だとも言えるでしょう。逆に、現実の人間の苦しみや喜びと関係なく、人が儀式をとおして出会うだけの神は「死んだ者の神」と言ってもよいかもしれません。
きょうの箇所は、わたしたちの神との関わりについての鋭い問いかけでもあります。それは、「わたしたちは神にどのような希望を置いているのか、そして、わたしたちは本当に神によって生きているか?」という問いかけなのです。
2007年11月04日
年間第31主日 (2007/11/4 ルカ19・1-10)
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(1) イエスの時代のパレスチナはローマ帝国の支配下にありました。ローマ帝国は被征服民族であるユダヤ人にある程度の自治や宗教的自由を認める一方で、税を徴収することによって利益を得ていました。ローマに税を納めることはローマの支配を認めることであり、自分たちは神の民だと考えていたユダヤ人にとっては耐え難いことでした。
徴税人はユダヤ人でありながら、このローマ帝国の徴税という仕事を引き受けていた人たちです。彼らはそもそも、ローマに仕える民族の裏切り者として忌(い)み嫌われていました。徴税人は、ローマ帝国から給与を得ていたのではなく、ローマに納める税金に自分の取り分を上乗せしたものを人々から徴収し、それによって財を蓄えていたので、不正な取り立ても多かったようです。このような事情で「徴税人」は、当時のユダヤ社会の中で明らかに「罪びとというレッテル」を貼られていた職業になっていたのです。ザアカイは「徴税人の頭(かしら)で、金持ちであった」と紹介されています。彼は経済的には恵まれていましたが、ユダヤ人社会の中では「神から程遠く、社会のクズであり、生きるに値しない最低の人間だ」という烙印を押されていたのです。もちろんザアカイ自身、自分の生き方が神に背くものだと感じていたでしょう。
(2) ザアカイは「イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群集にさえぎられて見ることができなかった。それで・・・、いちじく桑の木に登った」(3-4節) とあります。ザアカイはなぜイエスを見ようとしたのでしょうか。単なる好奇心でしょうか。しかし、木に登ってまでイエスを見たいというザアカイの姿には、何かしらもっと切実な思いも感じられます。また、背が低くて見えなければ、群集をかきわけて前に出ればよいはずですが、彼はそうしませんでした。ザアカイは周囲の人々の目を気にしていたのかもしれません。それ以上に、自分のような罪びとがイエスに近づいて行く資格はない、と感じていたのかもしれません。
それでもザアカイはイエスを一目見たいと思って木に登るのです。彼はイエスという方が「罪びとを招いて、一緒に食事までしている」(ルカ15章2節)といううわさを聞いていたのかもしれません。そして、この人だったら、自分のどうにもならない思いを受け止め、理解してくれて、自分をこの行き詰まりから解放してくれるのではないか、という期待を持ったのかもしれません。
(3) 「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」この言葉を聞いてザアカイはどう感じたでしょうか。周囲にはおおぜいの人がいます。その中でイエスは自分にだけ声をかけてくれたのです。しかも「一緒に食事をする」だけでなく「あなたの家に泊まる」と言うのです。どれほど大きな喜びを彼は感じたでしょうか。
なお、この「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」(5節)は、「今日、わたしはどうしてもあなたの家に泊まらなければならない」とか「今日、わたしはあなたの家に泊まることになっている」とも訳せる箇所です。これは、そのことが神の救いの計画の中にあることだから必ず実現するはずだということを示す表現です。
(4) ヨハネ福音書4章7節で、イエスはサマリアの女に「水を飲ませてください」と声をかけました。ここでもイエスはザアカイに対して「わたしがあなたに何かをしてあげよう」というのではなく「あなたの家に泊めてくれ」、つまり「あなたにはわたしのためにできることがある」と言ってザアカイに近づきます。どんなに罪びとのレッテルを貼られた人であっても、あなたの中に素晴らしいものがある、あなたにはよいことをする力がある、とイエスは見ているのです。そういう眼差しに出会ったとき、人は本当に新たに生きる力を与えられるのではないでしょうか。イエスのいう「この人もアブラハムの子なのだ」(9節)という言葉は、「この人も神が祝福を約束してくださった人間なのだ」ということです。ザアカイはイエスとの出会いによって、自分が生きるに値しない呪われた罪びとではなく、自分もアブラハムの子なのだ、ということに気づいていきます。そして、新しい神とのつながり、人とのつながりに生き始めようとするのです。イエスに出会ったことは、ザアカイの人生を根本から変えてしまいました。もちろん、彼はこれからも罪びとのレッテルを貼られたまま生きていかなくてはならないでしょう。でも彼はもはや「神に見捨てられた罪びと」ではなく、「神に愛された罪びと」なのです。
(5) 別の徴税人の物語を思い出してみましょう。マルコ2章14節にはこういう話がありました。「(イエスは)通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、『わたしに従いなさい』と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。」
イエスは、ザアカイには「わたしに従え」と要求しませんでした。ザアカイもすべてを捨ててイエスに従うとは言いません。ザアカイは徴税人をやめないのです。ただ自分の置かれた場で精一杯、正しいことを行い、貧しい人を大切にして生きようと決意するのです。イエスはその決意を受け入れ、「今日、救いがこの家を訪れた」と宣言しています。
きょうの福音の箇所には「今日」という言葉が2回出てきます(5,9節)。この「今日」という言葉は、ルカ福音書の中では特別な重みのあることばです(ルカ2章11節、4章21節、23章43節など参照)。「今日」とは、今まさに人が神の愛とゆるしに出会うその時であり、今まさに神の救いが実現しているその時なのです! わたしたちも、神の救いが実現している「今日」を感じることがあるでしょうか?
2007年10月28日
年間第30主日(2007/10/28 ルカ18・9-14 )
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(1) ファリサイ派はイエス時代のユダヤ教の一派で、律法と口伝(くでん)律法を重んじ、忠実にそれを守ろうとしていたグループでした。「口伝律法」とは、聖書の律法を現実の生活に適用するために律法学者たちが作り上げた多くの解釈のことです。「ファリサイ」ということばは「分離する」という意味の言葉から来たと言われます。彼らは自分たちを「律法を知らない汚(けが)れた民衆から分離した者」と考えていました。
一方の徴税人は、ユダヤ人でありながら、ローマ帝国の税金徴収という仕事を引き受け、その仕事によって富を得ていた人たちです。彼らは福音書の中で罪びとの代表のように言われていますが、それは彼らが税の取り立てに関して不正を働いていたと考えられたからです。また、そもそも民族の裏切り者として忌み嫌われていた面もあります。当時のユダヤ社会の中ではどちらが「正しい人」でどちらが「罪びと」であるかは明白でした。
(2) 14節にある「義とされる」という言葉は、パウロの手紙の中によく見られる言葉ですが、福音書の中ではあまり多く使われていません。「義とする」はギリシア語の「ディカイオオーdikaioo」という言葉の直訳ですが、聖書の中で語られる「義」(ギリシア語では「ディカイオシュネーdikaiosyne」)は「人間的な正しさ」という以前に、根本には「神の義」ということがあります。「人が義とされる」は「人が神の義にあずかる」こと、もっと分かりやすく言えば「神に受け入れられる」ということです。人間的な見方ではなく、神との関係という点では、この徴税人のほうが正しいあり方なのだとイエスは言うのです。それはなぜでしょうか。
ファリサイ派の人の「うぬぼれ」の根拠は、結局のところ他人との比較でした。普通の人よりも自分はちゃんとやっている、ましてこの徴税人なんかとは比べ物にならない、ということです。しかし、人と比較して神の前に自分を誇っても何の意味もありません。そのような姿勢は神との関わりを妨げてしまうだけです。「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下して」いるとき、人との関係も絶たれてしまいます。人間は互いに助け合い、支えあって生きる者であるはずなのに、周りの人は競争相手になってしまい、弱い人への共感を見失うからです。
(3) イエスの言葉は、わたしたちの自己評価に挑戦してきます。わたしたちが、「自分はチャンとやっている」と感じているとするならば、それは他の人と比べてのことではないでしょうか。「自分はぜんぜんダメだ」と感じているならば、それも人と比較してのことではないでしょうか。わたしたちはあまりにも「比較と競争」の世界に毒されているのかもしれません。
この社会は、人を果てしない競争へと駆り立てる社会です。その中でわたしたちはどれほどストレスを抱えていることでしょうか、そしてどれほど多くの人が行き詰ってしまっているでしょうか。確かに「社会は競争なのだから、生きていくためにこの競争を降りることはできない」という人は多いでしょう。かと言って、人生が競争だけになれば、その人生はまったく悲惨なものになってしまうでしょう。「競争よりももっと大切なものがある、それを見失わないこと」きょうの福音はそう呼びかけているのではないでしょうか。
わたしは神の前に立つ。どうしようもなく限界や弱さを抱えているけれども、神がそのわたしを愛し、生かしてくださっているのを感じる。そのとき、優越感と劣等感の間でもがき苦しむところから解放されていく。わたしたちの中にそういう体験があるでしょうか。
(4) 祈りとはありのままの自分を神の前に差し出すことです。そこでは人との比較は役に立ちません。「あの人もしていたから、わたしもこうしました」とか「この人にはかなわないけれど、別の人よりはましです」そういうことは何の意味もない世界なのです。「自分の小ささを認めて神の前にへりくだるとき、神は本当に自分を受け入れ、愛してくださる」。そういう祈りの体験がありますか。
「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」の「へりくだる」は、直訳では「自分を低くする」です。「自分を低くする」とはどういうことでしょうか。それは表面的に謙遜を装うということではないでしょう。また、「自分なんか何の価値もない。生きるに値しないダメな人間だ」と思い込むことでもないでしょう。むしろ、自分のありのままの姿を見つめるということではないでしょうか。それは決して簡単なことではありません。わたしたちの中に、本当の自分以上に自分のことをよく思いたいという部分がありますが、それは幻想の中を生きることです。逆に本当の自分以下にしか、自分の価値を見いだせず、自尊心を見失い、異様に低い自己評価を持っているとしたら、それも幻想です。自分自身のありのままを認めることは、わたしたちが、神の前に自分を置いてみるときに初めて可能になるのではないでしょうか。
(5) 「罪人(びと)であるわたし」という言葉にどんな現実感があるでしょうか。もちろん、自分に特別大きな罪があると思っているならば、自然にそう感じられるかもしれません。この徴税人にはそういう罪意識がありましたが、わたしたちは自分がそれほど悪いことをしているという意識がない場合も多いでしょう。そのわたしを罪びとだと感じるのは難しいでしょうか。「罪」とは「神から離れること」です。神から遠く離れてしまっている自分を感じること、神の前に立つのにふさわしくないという感覚、それが「罪の感覚」だと言えるかもしれません。そして、それは漫然と生活しているだけでなく、本気で神に近づこう、キリストに従っていこうとした時にこそ感じることだとも言えそうです。
2007年10月21日
年間第29主日 (2007/10/21 ルカ18・1-8)
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(1) 「気を落とさずに」と言いますが、そこにはどんな状況が考えられるでしょうか。17章の終わりで語られていたのは、イエスの再臨の時=神の裁きの時に起こる苦難と破滅でした。その中で「もうダメだ」と気を落としてしまうということでしょうか。しかし、それはある将来のことというよりも、わたしたちが生きている今の現実のことでもあるかもしれません。この世界は、テロと戦争、暴力と犯罪、欲望とエゴイズム、弱い立場にいる人々の苦しみに満ちています。そんな中で、わたしたちは「気を落として」しまうことがあるのではないでしょうか。イエスはそのときにも絶えず祈ることを呼びかけています。きょうの箇所を読む上で、この苦難という状況は無視できないでしょう。
(2) 旧約聖書の中でやもめは自分を守ってくれる人がいない社会的弱者の代表でした。彼女が助けを求めたのは、誰かが彼女から亡き夫の財産を不正に奪おうとする、というような状況があったからだと想像できます。3節の「相手を裁いて、わたしを守ってください」ということばは、直訳では「相手に対してわたしを裁いてください」です。「裁き」には「悪を断罪する」という面だけでなく「善悪をはっきりさせ、弱い人を守る」という意味があります。そういう意味で「わたしを裁いてください」というのです。7-8節の「神の裁き」も同様です。
(3) このたとえ話は、ルカ11章5-8節の「旅の友人の願い」のたとえとよく似ています。これらのたとえ話は、祈りの大切さを教えていますが、同時に神は誠実でいつくしみ深い方であるから、わたしたちの祈りを必ず聞いてくださる、ということが強調されています。
しかし、神を「神を畏れず人を人とも思わない」「不正な裁判官」にたとえるのはあまりも突飛に聞こえます。イエスは「不正な裁判官」と「正しくいつくしみ深い裁き主である神」の対比を強調していると言ったらよいのでしょうか。そもそもこのたとえ話が語られたのは、「神に祈っても結局は無駄ではないか」という考えを持っていた人々(弟子たち)に対してだったのでしょう。そうであるならば、イエスは聞いている人を驚かせ、彼らの目を開かせるために、あえて突飛なたとえを語られたのかもしれません。
(4) 「選ばれた人たち」(7節)という言葉は何を意味しているのでしょうか。マルコ13章20節に、「主がその(苦難の)期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、主は御自分のものとして選んだ人たちのために、その期間を縮めてくださったのである」(マタイ24章22節も参照)とあります。そこでは確かに、「選ばれた人たち」は救いにあずかる人々のことです。神の救いにあずかるということが、その人たち自身の功績によることではなく、まったく神の恵み(好意)によることだと考えられ、その神のイニシアチブを強調するために「選ばれた人=神が選んだ人」と言われていると考えればよいでしょう。神の選びは、現代社会のコンテストとは違います。コンテストでは優れたものが選ばれ、選ばれなかったものは捨てられますが、神は誰一人切り捨てず、すべての人を救うために、もっとも貧しく弱い者を選ばれるのです(申命記6章6-8節、Ⅱコリント1章26-31節参照)。そう考えれば、このたとえ話のやもめのような、弱く貧しい人こそが「神の選ばれた人たち」だと言うこともできるでしょう。
(5) 「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」(8節)の「人の子」は本来「人間」を指すことばでしたが、ダニエル書7章13-14節などから、神が決定的に天から遣わす審判者・統治者を指すようになりました。ここの文脈の中では審判者として再び世に来られるキリストのことが考えられています。きょうの箇所全体から考えれば、ここでいう「信仰」とは「苦難の中にあって絶えず祈り続ける姿勢」のことだと言ったらよいでしょう。このやもめのように、苦しみの中にあって、神以外に頼るものがない人が、必死の思いで神に向かう姿勢そのものを「信仰」と言ってもよいのかもしれません。
(6) 聖書の終末についての教えには2つの側面があります。1つは、苦難や迫害の中での希望のメッセージという面。本来、終末についてのメッセージは、悪の支配下にある今の時代が過ぎ去ることを語って、迫害や苦難の中にいる信仰者を励ますメッセージでした。もう1つの面は、人がなまぬるい、自分勝手な生き方をしているときの警告のメッセージです。神の判断(裁き)から見たときに何が本当に大切なのかを鋭く問いかけるメッセージにもなるのです。
きょうの箇所から希望と励ましのメッセージを受け取ることができますが、最後の「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」(8節)という言葉には、警告の響きも感じ取ることができるでしょう。
わたしたちはどうでしょうか? 問われていることは、わたしたちの祈りや願いがどこまで切実なものかということではないでしょうか。さらに言えば、わたしたちの祈りがどこまで切実かということは、わたしたちの祈りがどこまで現実の人間の苦しみとつながっているかにかかっている、とも言えるのではないでしょうか。
2007年10月14日
年間第28主日 (2007/10/14 ルカ17・11-19)
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福音のヒント
(1) 紀元前10世紀、ソロモン王の死後、北イスラエル王国は南のユダ王国から政治的に分裂し、エルサレムの神殿とは別の聖所をサマリアのゲリジム山に作り、宗教的にも分離してしまいました。紀元前8世紀には北王国はアッシリア帝国に滅ぼされ、サマリアの人々はアッシリア人との混血になり、南のユダヤ人とは民族的にも分かれてしまいました。このような経緯で、ユダヤ人とサマリア人は反目し合うようになっていたのです。
きょうの福音の場面は「サマリアとガリラヤの間」とありますが、正確な場所はよく分かりません。話の中にサマリア人とユダヤ人が一緒に出てくるので、それに合わせた場面設定だとも言えそうです。なお、イエスが育ったガリラヤ地方は、ユダヤから見てサマリアよりもさらに北にありましたが、ある時代に、南のユダヤ人が入植して町や村を作ったので、人種的にも宗教的にもユダヤ人との同一性を保っていました。つまり、ガリラヤの人々はユダヤ人なのです。
(2) ユダヤ人とサマリア人は、共にモーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)を正典としていました。その中には次のような規定がありました。「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、『わたしは汚(けが)れた者です。汚れた者です』と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない」(レビ記13章45-46節)。
反目し合っていたユダヤ人とサマリア人が一緒に行動していることは普通ならば考えにくいことです。しかし、重い皮膚病の人々は、それぞれが本来属していた共同体から排斥されてしまっていて、その中で苦しむ者同士として支え合い、助け合いながら生活していたのでしょうか。人と人とがお互いの違いを超えて苦しみの中での連帯する・・・そういうような経験はわたしたちの周りにもあるでしょうか。
(3) なぜイエスは「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」(14節)と言われたのでしょうか。当時の社会では、この病気を宣告するのも、治癒(ちゆ)を宣言するのも、祭司の役割でした。肉体的に病気が治っても、祭司によって「清め」の儀式をしてもらわなければ、社会復帰ができないのです。イエスはその人の神とのつながりを回復するだけでなく、その人がもともと所属していたコミュニティとの関係を取り戻すことを意図しておられたとも言えるでしょう。なお、ユダヤ人とサマリア人は別々の祭司を持っていたので、彼らは、別の場所へ出かけていったはずです。
(4) きょうの福音から、「もっともっと感謝と賛美の心を持たなければならない」という教訓を受け取るのは当然のことでしょう。しかし、「感謝し、賛美する」というのは、義務感から来るものではないはずです。むしろ自然に心の中からわき上がるのが、賛美と感謝なのではないでしょうか。どうしたら心から賛美し、感謝することができるかを考えるために、自分をこの福音の場面の中に置いてみて、このサマリア人の立場からこの物語を味わってみたらどうでしょうか。病気が治った人々はもちろん皆、喜んだはずです。しかし、祭司のところに行く前に、「感謝し」(16節)「賛美するために戻ってきた」(18節)のはサマリア人だけでした。それはなぜなのでしょうか。
この10人は皆「清くされた」(14節)のですが、1人のサマリア人だけが「自分がいやされたのを知って」(15節)と言われています。「知る」は直訳では「見る、分かる」です。この人がはっきりと意識したことは、「自分がいやされた」、つまり、「神がこの自分をいやしてくださった」ということだったのでしょう。他の人と違って、そのことを明確に意識したからこそ彼は賛美し感謝することができたのだ、と言えるのではないでしょうか。
もう一つ考えられることは、イエスというユダヤ人が民族の壁を超えて、自分にも目をかけてくださった、ということの中に、ほかの人(ユダヤ人)以上の感謝を感じたということかもしれません。「この自分にまでも!」という驚きと感動が、彼の行動の背景にはあるといえるのではないでしょうか。
どちらも、わたしたちの中に似た経験があるかもしれません。わたしたちが、本当に神に感謝し、神を賛美するのはどんなときでしょうか。
(5) 「あなたの信仰があなたを救った」(19節)という言葉は福音書に何度か出てきますが、考えてみれば不思議な言葉です。「神があなたを救ってくださった」というほうが自然なのではないでしょうか。しかしイエスは意外なほど「信仰」の力を強調しています。
重い皮膚病だったこのサマリア人の「信仰」とは何でしょうか? それは、この人が自分の病気が治ったことを「神がいやしてくださったこと」として受け取ったということではないでしょうか。自分の身に起こった出来事の中に神とのつながりを発見すること、自分の現実の中に神の働きを見ていくこと、それがここでいう信仰だと言えるのかもしれません。また、この箇所で、その「信仰があなたを救った」というときの「救い」も、病気がいやされたことであるというより、この人が心から感謝と賛美を生きる者となった、そのこと自体だと言ってもよいのではないでしょうか。なお、この個所のすぐ後に「神の国はあなたがたの間にある」(ルカ17章21節)というイエスのことばがあります。イエスは、きょうの出来事のように、民族の違いを超えて、神の救いの喜びが広がっていく現実の中に、神の国の実現を見ていたのでしょう。今のわたしたちは、どのように信仰と救い、賛美と感謝、神の国の現実を生きているでしょうか。
2007年10月07日
年間第27主日 (2007/10/7 ルカ17・5-10)
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福音のヒント
(1) からし種は1~2ミリの小さな種で、本当に小さなもののたとえです。桑の木が海に生えるというのは大きなことのたとえです。なぜそんな小さな信仰で大きなことが可能になるのでしょうか。ただ頭で考えるよりも、みことばを自分の体験と照らし合わせてみることが大切でしょう。「信仰があれば不可能なことは何もない」と感じたことがありますか。それはどんなときですか。逆に「信じてもうまくいかなかった」という体験もあるでしょうか。それはどんなときでしょうか。
(2) 「わたしどもの信仰を増してください」と信仰の「量」を問題にした弟子たちに対して、イエスは「からし種」の話をしています。それは「信仰とは量や大きさの問題ではないのだ」と言うことでしょうか。信仰の力とは「信じるとその人に不思議な力が備わる」というようなものではなく、「信じて神にゆだねたときに、神が働いてくださる」ということだと言えるのではないでしょうか。だからこそすべてが可能になるのでしょう。
福音書の中で「神を信じる」というのは「神は存在すると思っている」ということではありません。イエスの出会った人、イエスの周りにいた人は、だれも神の存在を疑っていませんでした。神を信じるとは「神の存在についての考え方の問題」ではなく、「神に信頼を置いて生きるかどうか」という問題だったのです。
(3) 信仰の世界は、自分が自分の力でこれだけのことを成し遂げた、という世界ではありません。神が働いていてくださる。そこに自分をゆだねていく、という世界です。だから自分は何もしなくていい、というのではなく、だから自分にできる精一杯のことをしていこう、ということになるのです。本気でそう思えば、「わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」(10節)と言えるのでしょう。
わたしたちは自分の力でなんとかしなければならない、という世界に生きています。「能力と努力がすべてを可能にするはずで、うまくいかないのは能力や努力が足りないからだ」、と考えるような世界です。しかし、そういう考えはどれほど多くの人を行き詰らせてしまっているでしょうか。人間は、自分の能力と努力で生まれてきたのではありません。生まれた子どもは自分の能力と努力で育っていくのではありません。むしろ、周囲の人々の愛の中で、そしていのちの与え主である神の愛の中で生き、成長していくのです。
(4) 1-10節で、別々の伝承がつなぎ合わされているのだとすると、そもそも、なぜ使徒たちが「わたしどもの信仰を増してください」(5節)と言ったのかは分からないことになります。しかし、わたしたちも同じような言葉を言いたくなることがあるのではないでしょうか。それはどんなときでしょうか。自分たちの状況、自分たちの直面している問題に当てはめながら、この箇所を読んでみることもできるでしょう。
3-4節の「ゆるし」のテーマとつなげて考えることも一つのヒントになるかもしれません。「もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦(ゆる)してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい」。こう言われても、実際には非常にむずかしいと感じることがあるでしょう。そして、この「ゆるせない」ことを「信仰が足りない」ことだと感じることもあるのではないでしょうか。だとすると、イエスの答えは、大きな信仰があればゆるせるはずだ、というよりも、ゆるしの力は神から来る、その神の力を信頼の心をもって受け取ることが大切なのだ、という意味になるのではないでしょうか。
さらに「わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」という言葉も、人が人をゆるす、ということと関連づけて受け取ることができるかもしれません。わたしたちは神にゆるされ、だからこそゆるし合うことができるのだとすれば、人が人をゆるすということは、まさに「しなければならないことをしただけ」ということになります。
(5) 「人が人をゆるす」ということはどんなときに可能なのでしょうか。いくつかのヒントをあげてみます。思い当たることがありますか。
(a) 自分に対して罪を犯した人間が、その罪の痛みを本当に感じていると分かったとき。心からの謝罪をしていると感じたとき(逆に言えば、悪いことをした人が、反省も痛みもなく平気で生きていることがゆるしがたいわけです)。
(b) 相手の弱さを感じたとき。その人がしたことはとんでもないことだが、その人がなぜそれほど悪いことをしたかを理解できるとき。その人が過去にどんな傷を受けてきたかとか、その中でどんなふうに人格が歪んで、ああいう行動に走ったのかというようなことが理解できると思えたとき。
(c) ひどいことをした人に対して、それでもその人との関係を持ち続けたいと願うとき。
(d) 罪びとである自分自身が本当に神にゆるされていると感じる体験をしたとき。
他にもあるかもしれません。「ゆるせない」と嘆いてばかりいるよりも、「ゆるせた」「ゆるしてもらった」という体験を分かち合ったほうがたぶん何倍も役に立つでしょう。
2007年09月30日
年間第26主日 (2007/9/30 ルカ16・19-31)
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福音のヒント
(1) この箇所の少し前の14節には「金に執着するファリサイ派の人々」ということばがありました。ファリサイ派は当時のユダヤ教の一派で、律法と口伝律法(律法学者たちによる律法解釈)を厳格に守ろうとした宗教熱心なグループでした。彼らがなぜ、「金に執着する」と言われるのでしょうか。隣人を愛し、貧しい人のために自分の持っているものを分かち合うという律法に表された神の根本的な要求よりも、自分の生活の豊かさを確保した上で、安息日の義務や清めに関する細かい規定を熱心に守ろうとしていた態度のためなのでしょうか。だとすれば、「金に執着する」という言葉は、わたしたちにとっても他人事ではないかもしれません。
(2) 19-21節で、この世での金持ちとラザロの生活が対比されます。当時嫌われていた動物だった犬が近づくということも、ラザロの状態の悲惨さを強調しています。22節以降には、死後の世界についての描写があります。「天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた」とか「陰府(よみ)でさいなまれ」とか「わたしたちとお前たちの間には大きな淵(ふち)があって」などです。ここにある死後の世界の具体的な描写は当時の人々の考えに基づいたものであり、イエスは死後の世界のありさまについて教えようとしていると考える必要はないでしょう。むしろここでイエスは、死という時・決定的な神の「裁き」という観点から見て、今をどう生きるかを鋭く問いかけているのです。
なお、このラザロという人は特別に正しい人であったとは言われていませんが、金持ちと貧しいラザロの状況は死後逆転してしまいます。このような神による逆転は、ルカ福音書の特徴といえるかもしれません(ルカ1章52-53節、6章20-26節参照)。その根底には、「神は真実な方で、貧しい人の苦しみを決して見過ごされることはない」という考えがあると言えるのでしょう。
(3) 「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる」(29節)、「モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう」(31節)と言われますが、それは、貧しい人を助けなければならない、ということについて、旧約聖書をとおしてすでにはっきりと聞いているはずだ、ということです。たとえば、申命記にはこういう箇所があります。
「あなたの神、主が与えられる土地で、どこかの町に貧しい同胞が一人でもいるならば、その貧しい同胞に対して心をかたくなにせず、手を閉ざすことなく、彼に手を大きく開いて、必要とするものを十分に貸し与えなさい。・・・・彼に必ず与えなさい。また与えるとき、心に未練があってはならない。このことのために、あなたの神、主はあなたの手の働きすべてを祝福してくださる。この国から貧しい者がいなくなることはないであろう。それゆえ、わたしはあなたに命じる。この国に住む同胞のうち、生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい」(申命記15章7-11節)。
イザヤ書にもこうあります。
「わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛(くびき)の結び目をほどいて/虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え/さまよう貧しい人を家に招き入れ/裸の人に会えば衣を着せかけ/同胞に助けを惜しまないこと。そうすれば、あなたの光は曙(あけぼの)のように射し出で/あなたの傷は速やかにいやされる。・・・・飢えている人に心を配り/苦しめられている人の願いを満たすなら/あなたの光は、闇の中に輝き出で/あなたを包む闇は、真昼のようになる」(イザヤ58章6-10節)。
(4) このようなことばを、この金持ちとその兄弟たちは聞いていたはずだ、というのです。この金持ちが聞き逃したのはそういう聖書のメッセージであり、見過ごしたのは目の前の人の苦しみでした。わたしたちにとっても呼びかけは2つあると言えるでしょう。1つは「聖書」からの呼びかけ、神が人間に何を望んでおられ、わたしたち人間は何をすべきか、ということです。もう1つは「現実」からの呼びかけです。自分の家の目の前に、貧しい人が横たわって苦しんでいる、そのような現実はわたしたちに何かを呼びかけているはずです。そして、聖書をとおしての神の呼びかけと、目の前の人間の現実の必要が結びついたときに、わたしたちの具体的な行動への呼びかけになるはずです。
わたしたちはそういう呼びかけを聞いているでしょうか。それに応えているでしょうか。どうしたらその呼びかけに本当に応えることができるでしょうか。
(5) 「死者の中から生き返る者」(31節)という言葉は、イエスご自身を暗示しているのでしょうか。もちろんここでは、その者を見ても回心しないだろう、と言われるのですが、福音書の言葉を読む時に、イエスご自身の姿を思い浮かべることはいつも大きなヒントになります。イエスは単に言葉による教えを述べたのではなく、「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだった」(Ⅱコリント8章9節。きょうのアレルヤ唱参照)と言われる方です。それは単なる「施し」をはるかに超える姿でした。さらにマタイ25章31-46節で、イエスが、飢え、のどが渇き、旅をしていて、裸であったり、病気であったり、牢にいる人にしたことは「わたしにしてくれたことだ」と言った言葉も思い出すならば、「イエスは死者の中から復活して、貧しい人・もっとも小さな兄弟の中にいる」と言ってもいいかもしれません。わたしたちは、その呼びかけを聞くことができるでしょうか。
2007年09月23日
年間第25主日 (2007/9/23 ルカ16・1-13)
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福音のヒント
(1) 1節~8節前半のたとえは、かなり分かりにくいと感じられるでしょう。主人が人に貸したものを管理人が勝手に減額してしまうというのは、普通ならほめられるはずがないことです。なぜ「主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた」のでしょうか。ただ、この管理人の「抜け目のなさ(賢さ)」だけを評価しているということなのでしょうか。だとしても「ほめる」というのは少し無理があるように感じられるでしょう。
この管理人の行為については、別の見方もあります。1つは、管理人が放棄したものが実は自分の受け取るはずの手数料だったという解釈。手数料を放棄したのであれば、そのこと自体は不正とは言えないことになります。もう1つは、管理人は利息分を棒引きしてやったという解釈です。利息をとって人に貸すことは律法で禁じられていましたが、実際にはどの時代にも行われていました。50バトス貸したときに100バトス貸した、とか、80コロス貸したときに100コロス貸した、という証文を書いておけば、この差額が実際には利息分だということになります。利息分を棒引きすることは主人の利益に反しますが、本来利息を取ること自体が悪だとされているので、主人は文句を言えないわけです。
(2) たとえ話の結論は、「そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい」(9節)です。「不正にまみれた富」は直訳では「不正なマンモン」。「不正によって得たお金」というよりも「神から離れた、この世のものである富」という意味です。お金とどうかかわるべきか、お金をどう使うか、というのが、10節以下でもテーマになっています。「友達を作る」は富を貧しい人に施すことによって、貧しい人の友となり、神がそのことを顧みて、受け入れてくださる、と取ることができるでしょうか。あるいはそうすることによって「神を友にする」とも取れるでしょうか。
(3) 10-12節で「富について忠実」であることが求められていますが、それはもちろん「富に忠誠を尽くす」という意味ではなく「富を誠実に、正しく扱う」ということです。「忠実」は「ピストスpistos」の訳で、「不忠実」は「アディコスadikos」の訳です。adikosは8節の「不正なadikia」と同じ言葉ですが、内容的には結び付きません。ここから見ても、10節以下の教えは、本来、前のたとえ話とは別の教えだったようであり、切り離して考えたほうが良さそうです。13節の「神と富とに仕えることはできない」という教えは、マタイ6章24節(山上の説教の中)にもあり、これも直接12節までとつながっているというより、13節だけで独立した教えと考えたほうがよいでしょう。このあたりは、「富」というテーマのつながりで、イエスのいろいろな言葉がつなぎ合わされているようです。
お金との関わり方というのは確かにわたしたちにとって大きなテーマです。お金に縛られたり、お金に振り回されている現実はだれにでもあるはずです。しかし、わたしたちは、お金がすべてではなく、お金が神ではないことも分かっているはずです。10-12節の言葉で言えば、もし、富が『ごく小さな事、不正にまみれた富、他人のもの』だとすれば、何が『大きな事、本当に価値あるもの、あなたがたのもの(自分自身のもの)』なのでしょうか。それは神とのつながりでしょうか、人と人とのつながりでしょうか、自分自身の生き方でしょうか。お金がそれらのものを妨げてしまうと感じられることもきっとあるでしょう。わたしたちの生活の中で、きょうのイエスのことばをどのような呼びかけとして受け取ることができるでしょうか?
(4) 1-9節の別の読み方を紹介します。実はきょうの福音のたとえ話は、15章の3つのたとえ(百匹の羊、十枚の銀貨、放蕩息子の父)に続いて語られていますが、ここで突然「富」がテーマになるとしたら不自然ではないでしょうか。本来はこのたとえ話も15章同様、「罪のゆるし」がテーマだったと考えてみてはどうでしょうか。福音書の中で「罪のゆるし」が「借金の帳消し」のたとえで語られることがあります。「主の祈り」もそうですし、ルカ7章41-42節やマタイ18章23-34節もそうです。神は借金が返せずにどうにも行き詰まってしまった人間を見て、憐れに思い(マタイ18章27節「スプランクニゾマイ」)、何とか生かそうとする――これが「借金の帳消し」の意味であり、神のゆるしなのです。きょうの箇所の管理人は自分の不正によって行き詰ってしまいましたが、その行き詰まりを打開し、なんとか生き延びるために彼がしたことは、主人に負債のある人の負債を勝手に減免してしまうことでした。それは「罪びとである人間が、他の罪びとをゆるしてしまう」ということを表しているのではないでしょうか。さらに、「主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた」(8節)というのは、「実は、それが神の望みでもあったのだ」ということではないでしょうか。
ルカ15章1-2節で、イエスは徴税人や罪びとを迎え、一緒に食事をしていると非難されました。非難したファリサイ派や律法学者からすれば、その人々は神が絶対にゆるさないはずの人々でした。だから自分たちがゆるす必要もないのです。しかし、イエスにとっては、人が「罪びと」をゆるし、受け入れることこそが神の心にかなうことだったのです。このように考えると、「不正にまみれた富で友達を作りなさい」(9節)という結論は、「人が人をゆるし、人と人とが友として和解すること」を勧めていることになります(もちろん、このように考えると、このたとえ話は10節以下の富についての教えとは関係がないことになります)。
どのような解釈を取るにせよ、わたしたちも本当はどこかで行き詰っていて、絶体絶命のピンチにあると言えるのかもしれません。もしそうならば「その時、この不正な管理人はどうしたか」は何かのヒントになるのではないでしょうか。
2007年09月16日
年間第24主日(2007/9/16 ルカ15・1-32)
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福音のヒント
(1) 3つのたとえ話ですが、1-3節の導入部分は大切です。これらのたとえ話は単なる言葉による教えではなく、イエスの生き方・行動と密接に結びついているのです。この話のきっかけは、イエスが徴税人や罪びとを招き、食事まで一緒にしていたのを非難されたことでした。イエスの答えが、「神とは、この羊飼いのような方であり、一枚の銀貨を探す女性のような方(!)であり、放蕩息子の父のような方だ。だから、自分も罪びとを招き、食事を一緒にしているのだ」ということであるのは明白です。
(2) 「共に食事をすること」が、一緒に食事をする人同士の絆を作り、確認し、深めるものであることは、ほとんどすべての民族・文化に共通することです。食べ物を一人占めせずに、分け合って食べるというところに、人と人とのもっとも基本的な「共に生きる姿」があると言えるのでしょう。ユダヤ人にとって「共に食事をすること」は「神の前での大宴会」のイメージでもありました。出エジプト記はイスラエルの長老たちがシナイ山で、神を見て食べかつ飲んだことを、特別な恵みのしるしとして伝えています(出エジプト記24章11節)。預言者は最終的に到来する救いの完成を神のもとでの宴として描きました(イザヤ25章6-10節)。
地上で「共に食事をすること」は、この「神のもとでの宴とそこに集う共同体」を目に見える形で表すものと考えられていました。それゆえ、イエスの時代のユダヤ人は異邦人と一緒に食事をしませんでした。自分たちだけが神の救いの食卓にあずかれると考えていたからです。同じように、ファリサイ派の人々は自分たちのグループだけで食事をしました。徴税人など罪人は救いから排除されるはずだったからです。イエスにとっても「共に食事をすること」は救いの共同体を表すものでした。しかし、だからこそイエスはすべての人をそこに招いたのです!
きょうのたとえ話は、神が罪びとの滅びではなく、罪びとが生きることを望んでおられるということを明確に示しています。神は罪によって自分から離れ、ボロボロになり、滅びかけようとしている人を、探し、待ち続け、見つけて連れ戻すことを喜びとする方なのです。
(3) 福音書の中での「罪びと」の問題は、自分の意志で悪を行ったというようなことよりも、病気や職業によって罪びとのレッテルを貼られ、神からも人からも断ち切られていた人々の問題だったということを思い出すことも、たぶん大切でしょう。それは「悪いと知りつつあえてその悪いことをするというような厳密な罪」というよりも、もっと広く「神と人々から断ち切られた状態」の問題だといってもよいでしょう。今の社会の中ではどういう人々のことを思い浮かべることができるでしょうか。
(4) きょう、わたしたちはこの福音をどう受け止め、どのように分かち合うことができるでしょうか。たぶんまず最初に問われることは、わたしたちがだれの立場でこれらのたとえ話を聞くかということです。「迷わずにいる99匹の羊」か「迷った1匹」か。真面目に父親のもとで働いてきた兄か、放蕩息子である弟か。もし後者であれば、きょうの箇所のたとえ話は、もうありがたくてありがたくて仕方ない「福音」としか言いようがないでしょう。ただし、イエスはこれらのたとえ話を、迷子の羊や放蕩息子である「徴税人や罪びと」に向けて語られたのではありません。むしろ99匹であり、真面目な兄である「ファリサイ派や律法学者」に向けて語られたのです。そこで求められていることははっきりしています。99匹には、羊飼いの心を分かってほしい、兄には、弟を受け入れた父の心を分かってほしい、ということです。これも、わたしたちにも思い当たることがあるのではないでしょうか。自分を「99匹・兄」と感じる部分がだれの中にもあるでしょう。一方、「迷子の1匹・弟息子」と感じることもきっとあるでしょう。わたしたちはどんなときにそう感じるのでしょうか。
「わたしにとって、迷子の1匹や弟とはだれのことか」と問いかけてみることもできるかもしれません(マタイ18章10節)。本当は神がとても大切にしている人なのに、自分がいつの間にか見下していたり、無視してしまっている人がいるのではないでしょうか。
(5) 放蕩息子のたとえで、よく言われることは「こんなに甘い父親では、弟は更生しないし、兄もやる気を失ってしまう」ということです。社会の常識から言えばそのとおりでしょう。それでも神は、無条件にゆるすのです。なぜなら、人間は神からの、この無条件のゆるしと愛なしには生きられないものだからです。そのことを本当に感じられますか。
放蕩息子の父のたとえは、ゆるしとは関係回復の出来事だということを非常にはっきりと示しています。弟息子は「わたしが頂くことになっている財産の分け前」と言いますが、これは普通なら父親が死んでから与えられるものです。弟息子にとって父は死んだも同然、まったく関係を断ち切ってしまいます。一方の父親は息子の帰りを待ち続け、帰ってきた息子を「見つけて、憐れに思い(例の「スプランクニゾマイsplanknizomai=はらわたして!」)、走り寄って」、わが子として受け入れるのです。ゆるしとは罪によって断ち切られた関係を取り戻そうとする働きです。この関係回復も現代世界の大きなテーマではないでしょうか。
2007年09月09日
年間第23主日 (2007/9/9 ルカ14・25-33)
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福音のヒント
(1) 「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら・・・」(14章26節)というのはそのまま読めば、かなり衝撃的な言葉です。一般的には「積極的に憎むという意味ではなく、より少なく愛するという意味」だと説明されています(マタイ10章37節参照)。自分の家族や自分の命を大切にすることは、普通の状況ならば何よりも優先すべきことでしょう。しかしここでは、それ以上にイエスに従うことを優先させよ、と言われています。それはやはり特別な状況の中での言葉だからでしょうか。この福音の場面では、イエスはエルサレムへ向かう生涯最後の旅、つまり十字架に向かう旅をしているわけですから、実際問題、そのイエスに従って歩んでいくことはそれくらい大きな覚悟を必要としたはずです。わたしたちの中に、そのようなギリギリのところでの二者択一を迫られるような体験があるでしょうか?
また、「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ」(ルカ14章27節)ということばも、そのような特別な状況の中でこそ切実な意味を持つ言葉かもしれません。
(2) しかし、もっと一般的な状況の中でもイエスに従うことは、ある意味では「十字架を背負う」ことだと言えるかもしれません。ルカ9章23節には「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」ということばがありました。そこでは「自分を捨て」と「日々、自分の十字架を背負って」が並行して語られています。十字架刑はローマ帝国の処刑方法の1つで、死刑にされる人を最大限に苦しめ、人々に対してみせしめとして殺す残虐な処刑方法でした(ローマの市民権を持つ人には適用されず、主に植民地の、ローマ帝国に対する反逆者に適用されたと言われています)。死刑囚は、自分の十字架を処刑場まで担いで行き、そこで木の上にさらし者にされるのです。そこから考えると、「十字架を背負う」というのは、「苦しみと死」というだけでなく「自分の利益、名誉、安全を手放し、人からの侮辱さえも受け入れて生きること」を意味していると言えるのかもしれません。これは「日々」の生き方の問題なのです。
(3) 28節からの「塔のたとえ話」と「王のたとえ話」は分かりにくいかもしれません。たとえ話自体はむずかしくないのですが、33節の「だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない」という結論に結びつけるのはやや唐突だと感じられるのではないでしょうか。2つのたとえ話に共通することは「まず腰を据えて」(28節と31節)ということばです。そうだとするとポイントは、「本当にイエスに従う覚悟があるかどうか、そのために一切を捨てる覚悟があるかどうか、前もってじっくり考える」ということになるでしょう。
(4) ただし、あまりにじっくり考えると、「やっぱりわたしには無理だ」とあきらめてしまう恐れもあります。無理だとしたらどうしたらよいか。これに関して「もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう」(32節)ということばは1つのヒントになるかもしれません。「敵」とはだれでしょうか、「和を求める」とはどういうことでしょうか。全体を「神と和解する」という意味にとれば「敵=神」となってしまいますし、「人と和解する」ととれば「敵=人」となり、どちらも違和感がありますが、何よりも大切なこととして「神との和解、人との和解」ということが考えられている、と受け取ることも1つの可能性としてはあるかもしれません。なぜなら、「神との和解、人と人との和解」は聖書全体のテーマだと言ってもよいくらいのことだからです。ただし、このたとえ話の中で、そこまで考えるべきかどうかはやはり疑問です。ここでは、あきらめて他のことを考えるよりも、「一切を捨てて、イエスの弟子になる」ことが求められているはずなのです。
(5) 福音書を読んでいて、特別に厳しいイエスの言葉に出会ったとき、それをどのように受け取ったらよいでしょうか。
何よりも大切なことは、福音の言葉を祈りの心で受け取ることではないでしょうか。
できるだけ率直に、キリストがこのわたしに語りかけている言葉として受け取ろうとするのです。それは、自分の考えや自分の都合で福音の言葉をゆがめてしまわないために大切なことです。そのために、厳しいことばをあまり割り引かずに、厳しさを厳しさのまま受け取るという姿勢も必要です。
しかし同時に、キリストのすべての言葉は、素晴らしい、本物の喜びへの招きであると受け取ることも大切です。「神が、イエスが命じているから仕方ない」というような受け取り方では、心から応えることはできません。「神は必ずわたしにとって一番良いことをしてくださる」という信頼をもって聖書の言葉を受け取るのです。イエスの招きは、ルカ福音書の文脈で言えば、神の国の宴会への招き(先週のルカ14章15-24節のテーマでした)だと言ってもいいでしょう。そこに招かれている「幸い」を感じたときにこそ、わたしたちはイエスに従うことを自分の生き方として選ぶことができます。もちろん、厳しさも苦しみもあります。人から誤解されたり、拒絶されたりすることもあるでしょう。しかし、自分の選んだ生き方ならば、わたしたちは、どんな人にも、どんなことにも振り回されることがないはずです。
きょうの福音で本当に問われていることは、わたしたちが本当に、イエスに従うことを自分自身の生き方として選んでいるかどうか、ということだと言えるのかもしれません。
2007年09月02日
年間第22主日 (2007/9/2 ルカ14・1, 7-14)
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福音のヒント
(1) 省略された2-6節には、水腫(すいしゅ)の人のいやしの話があります。ルカ福音書では、安息日にイエスが病人をいやしたことが6章6-11節、13章10-17節とこの箇所の3回伝えられています。いずれも苦しむ人々へのイエスの深い共感と愛を表している話です。イエスは、「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」(14章5節)と問いかけます。イエスは「安息日の律法が何を禁じているか」ということに関心があるのではなく、目の前の苦しんでいる人に目を向けているのです。そのイエスの姿勢は、きょうの福音の教えにもつながっています。福音書を読むとき、単なる「言葉による教え」ではなく、その背後にあるイエスの生き方・イエスの心を受け取ることが大切でしょう。
(2) 8-11節は「へりくだること」を勧めています。フィリピの信徒への手紙2章の有名なキリスト賛歌では、イエスご自身が「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(8節)と言われています。この「へりくだる」はギリシア語で「タペイノオーtapeinoo」という言葉で、今日の11節で「低くされ」と訳されている動詞です。この動詞の元にあるのは「タペイノスtapeinos」という形容詞で、普通は「身分が低い」と訳される言葉です。イエスご自身がご自分のことを「タペイノス」であると言われたこともあります。マタイ11章29節です。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい」。ここで「謙遜」と訳されている言葉は、直訳では「心において身分の低い者、心へりくだる者」という意味です。
「へりくだる」ということばを一般的・抽象的に考えるよりも、「イエスはどのような意味で、へりくだる者であり、身分の低いものであったか」を見つめてみるとよいのではないでしょうか。イエスの「へりくだり」は決してポーズとしての、うわべだけの謙虚さではありませんでした。それは神に対する従順とすべての人に対する連帯を貫く生き方だと言えるかもしれません。なお、「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(11節)は、イエスの死と復活につながるイメージだとも言えるでしょう。
(3) 「面目を施す」と訳された言葉は直訳では「ドクサdoxaがある」です。この「ドクサ」という言葉は、元々のギリシア語では「人からの評判や名誉」を表すことばでしたが、聖書の中では多くの場合、「栄光」と訳されています。「神の栄光」あるいは「神からの栄光」の意味で使われています。ここでも「みんなの前で神からの栄光(栄誉)がある」という意味に受け取ることができるでしょう。イエスが問いかけているのは、単なる人間的な評判の問題ではないはずだからです。なお、11節の「低くされ」「高められる」という受動態の形は、「神が低くし」「神が高めてくださる」という意味でもあります。
(4) イエスは13節で、貧しい人や障がいのある人を食事に招きなさい、と言います。障がい者に対する古代イスラエル社会の見方は非常に差別的なものでした。聖書の中でも、障がいのある者は祭司の務めを果たすことが許されない(レビ記21・17-23)とか、「目や足の不自由な者は神殿に入ってはならない」(サムエル記下5・8)というような箇所があります。そこから考えればイエスの語る神の国は、そのような人々が奪われた人間性を取り戻し、すべての人が神の子どもとして等しく尊重される場だとも言えるでしょう。
(5) 「その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる」(14節)というのはもちろん、神からの報いがあるということです。ここには、人からの報いを期待しないという面があります。わたしたちは普段の生活の中で、プレゼントやそのお返しにずいぶん気を使って生きているかもしれません。人からの報いや人へのお返しが当たり前の社会に生きているわたしたちにとって、イエスの言葉は非常に強烈な問いかけです。「これだけのことをしてあげたら、これだけのことはしてもらえるだろう」「これだけのことをしてもらったから、これくらいはしてあげなければならない」というだけの世界では、自分の本当の生き方を見いだすことはできないのです。自分の生き方を人からの報いではなく、神とのかかわりの中で選び取るということは大切なことです。
(6) 一方、「人からの報いを期待せず、神からの報いのみを期待する」という態度にも落とし穴があるかもしれません。それは天国での報いばかりに目を向けて、この世の現実との関わりを見失い、現実の人間の苦しみ・悲しみなどどうでもよくなって、宗教的な妄信の世界に生きる、という危険です。
イエスが語っておられることは、本当は「報いを得るために何かをする」ということではないのではないでしょうか。貧しい人や障がいのある人と出会い、一緒に生きようとすることは、それ自体が神のみ心にかなう道であり、そこに神の国がもう始まっている、といえるような素晴らしい世界なのです。イエスはこの福音の世界にわたしたちを招いておられるのです。もし、わたしたちが自分たちの現実の中に、今日のイエスの言葉とつながる何かを見つけることができるならば、わたしたちの中にもう神の国(神の愛がすべてにおいてすべてとなること、そこですべての人が愛によって結ばれること)は始まっていると言えるのではないでしょうか。
2007年08月26日
年間第21主日(2007/8/26 ルカ13・22-30)
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福音のヒント
(1) 「救われる」(23節)というのは、ここでは「神の国に入っている」(28節)、「神の国で宴会の席に着く」(29節)ということを意味しています。「神の国」とは、「神の愛がすべてにおいてすべてとなること」と言ってもよいでしょうが、それには「すでに始まっている」面と「最終的にいつか完成する」という面があります。ここで問題になっているのは、最終的な神の国の完成にあずかることができるかどうか、ということです。もちろん、それにあずかれるかどうかは「神の判断・裁き」にかかっているはずです。
「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」。この問いを発した人は、なぜこんなことを聞いたのでしょうか。「救われるのが少数ならば、そうとうがんばらなければならない、逆に、多くの人が救われるというのなら、まあまあ人並みにやっていれば大丈夫だろう」そのような考えがあったのかもしれません。「入ろうとしても入れない人が多い」というイエスのことばは、「救われる人は少ない」と言っているようにも聞こえます。しかし、本当にそうでしょうか。
(2) 「人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く」(29節)は非常に多くの人がそこに受け入れられているイメージです。「後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある」(30節)は、「人間の考えでは先だと思っている人が神の国では後になり、人間の考えで後だと思っている人が神の判断では先になる」ということでしょう。一方ではものすごい広さがあって、予想もしなかった多くの人がそこに招かれていく、という面と、同時に、入れるはずの(つもりの)人が入れないという面があるようです。神の裁き(判断)は、人間の考えや計算を超えている、ということなのでしょう。「救われる人が多いか少ないか」という人間の「取らぬタヌキの皮算用」は通用しない世界なのです。「戸を閉めてしまってからでは」(25節)ダメだというのは、あくまでも今の生き方が問われるということですが、では、神の目から見て何が本当に良しとされることなのか。これについて、きょうの箇所には明白な答えがないようにも感じられます。
(3) マタイ7章22-23節 にはよく似た言葉が伝えられています。「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ』」。ここでは、「天の父の御心を行う」という表現が使われていますが、マタイ福音書には、もっと明確な言葉もあります。25章31-46節です。「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ」(35-36節)「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(40節)。ここでは、神の裁き・判断の基準は非常に明白です。
(4) ルカ福音書の中のたとえ話で言えば、やはり「善きサマリア人のたとえ」(ルカ10章25-37節)を思い出すべきでしょう。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」、「わたしの隣人とはだれですか」と問いかけた律法学者に向かってイエスはこのたとえを話されました。律法学者は、神の報いについて人間的な計算をしようとしたのでしょう。しかし、たとえ話の中のサマリア人は、報いを期待して道に倒れていた人を助けたのではありません。彼は「憐れに思って」、すなわち「はらわたをゆさぶられた(スプランクニゾマイsplanknizomai)」から助けたのです。
イエスは「行って、あなたも同じようにしなさい」(37節)と教えましたが、イエスご自身の生き方がまさにこのサマリア人のような生き方だったとも言えます(ルカ7・13など参照)。古代のある人はイエスを「autobasileia(ご自身が神の国である方)」と呼びました。イエスは神の国に入る資格があるというよりも、すでにイエスの中に神の国が実現していると言うべきではないでしょうか。今神の国を生きること、そして最後まで神の国を生き抜くこと。このイエスの生き方は、人間的な計算に基づく生き方ではありませんでした。
(5) 救われるための計算に基づく行いは、その人の本当の生き方とは言えないでしょう。「自分が救われるために人を愛する」というのも何か変です。わたしたちは、どうしたら今、神の国を生きることができるのでしょうか。
ルカの今日の箇所では、「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ」と言われています。これは、「多くの人が来るが、その中の少数しか入れないほど狭い戸口」というニュアンスですが、マタイ7・13-14には「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」という言葉があります。この「狭い門」は多くの人が見過ごしてしまうほど小さな門、という意味でしょう。わたしたちにとって、狭い門、狭い戸口から入るとはどういうことでしょうか。人間的な見方や打算ではなく、わたしたちの心のもっとも深いところに働きかける神の呼びかけに従うことだと言ってもよいかもしれません。それを「聖霊の導き」と言うのですが・・・。
2007年08月19日
年間第20主日 (2007/8/19 ルカ12・49-53)
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(1) ここでイエスがおっしゃる「火」とは何のことでしょうか。この箇所だけから考えるのは難しいでしょうが、ルカ3章16節に洗礼者ヨハネのこういう言葉がありました。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」。この「火」は一方では神に反するものを滅ぼしつくす「裁きの火」です。ただ、この見方だけではルカ12章49節の「その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか」との結びつきは理解しにくくなるかもしれません。
この「火」は「聖霊」、「洗礼」と結びついています。使徒言行録2章にある「炎のような舌」も聖霊のシンボルです。ここには「清め」のイメージもあります。「火」は、聖霊によって人に罪のゆるしをもたらし、神との結びつきを確かにする「清めの火」でもあると言えるでしょう。なお、きょうの50節にも「洗礼」のイメージが続いています。
(2) 「平和」はヘブライ語で「シャローム」と言います。すでにイエスの誕生の場面で、天使たちはこう歌いました。「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ」(ルカ2章14節)。イエスのもたらすものは本来、平和であるはずです。この平和は人と人とが深く尊重し合って生きるような、神から来る平和だと言うことができるでしょう。これに対して、「わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ」という時の「平和」は争いが避けられ、表面的に平穏が保たれているだけの状態だということになるでしょう。
イエスの到来とそのメッセージは、人々にはっきりとした態度の決断を求めるものでした。それは、イエスによって始まっている神の国を受け入れるか、それを拒否するか、という決断です。そこでは表面的な平穏さを保つだけではすまないのです。
(3) 53節はミカ7章6節の引用だと考えられます。「息子は父を侮(あなど)り/娘は母に、嫁はしゅうとめに立ち向かう。人の敵はその家の者だ」。これは人々の中に悪が満ち、もはや親しい者さえも信じることができないという終末の混乱した状況を語る言葉です。続くミカ7章7-8節では、その混乱の中で主に信頼する人の生き方が示されます。「しかし、わたしは主を仰ぎ/わが救いの神を待つ。わが神は、わたしの願いを聞かれる。わたしの敵よ、わたしのことで喜ぶな。たとえ倒れても、わたしは起き上がる。たとえ闇の中に座っていても/主こそわが光」。
終末についての聖書の教えは、神が人間の間に混乱や分裂を引き起こすということを語ろうとしているのではありません。現実にどのような混乱や分裂があっても、それを突き抜けて神の救いが実現する、という希望と確信を表すものなのです。
(4) 「五人」の家族というのは、両親とその息子、娘に、息子の嫁を加えた家族の姿が考えられているのでしょうか。だとするとこの対立は、親の世代と子どもの世代の間の対立であるという見方もできるかもしれません。それは、イエスご自身や弟子たちが経験したことでもあったようです。
「イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。大勢の人が、イエスの周りに座っていた。『御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます』と知らされると、イエスは、『わたしの母、わたしの兄弟とは誰か』と答え、周りに座っている人々を見回して言われた。『見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。』」(マルコ3章31-34節)
「また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った」(マルコ1章19-20節)。
このような場面を思い起こすならば、この対立は、自分の家族の中でうまくやっていけばよいという態度と、神の子として、すべての人と兄弟姉妹としてのつながりを生きようとする態度の間にある対立ということになるでしょう。
(5) きょうの箇所が語っているのは、いつのことでしょうか。最終的な裁きと神の国の完成の時のようでもあり、イエスが活動している今のことのようでもあります。また、「わたしには受けねばならない洗礼がある」という言葉は、イエスの十字架の時を特に意識させます(マルコ10章38-39節参照)。今が終わりの時である、イエスの到来とともにすでに終わりの時は始まっている、ということはわたしたちにとっても大切でしょう。
わたしたちの中にも分裂や対立の厳しい現実があるかもしれません。その中で神の救いが見えなくなることもあるかもしれません。それはある意味で終末のような状況です。しかし、「対立して分かれる」(53節)ということがイエスの望みではないし、本当の終わりでもないのです。内容的に言えば、きょうの箇所に続くはずの言葉は、「ただ、神の国を求めなさい」(ルカ11章31節)ではないでしょうか。だとすれば、「火」は「神の国に対する熱い思い」だと考えることもできるでしょう。イエスがわたしたちに求めているのは、「その火がすでに燃えていたら」ということだと受け取ってみてはどうでしょうか。
2007年08月12日
年間第19主日 (2007/8/12 ルカ12・32-48)
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(1) 32節「小さな群れよ、恐れるな」。これはもちろんイエスと共にエルサレムへの旅をしていた弟子たちに向けられた言葉です。イエスがわたしたちにもそう呼びかけてくださっていることを感じてみてはどうでしょうか。「父は喜んで神の国をくださる」という喜びの雰囲気も感じたいものです。イエスは弟子たちの心を、目先の利害・損得ではなく、もっと大きな、過ぎ去ることのない「神の国」の喜びのほうに向けさせようとしているのです。「持ち物を売り払って施しなさい」「富を天に積みなさい」(33節)も、難しい命令というだけではありません。わたしたちはイエスの言葉を、本当にすばらしい、豊かないのちへの招きとして受け取ることができるのではないでしょうか。
(2) 「主人が帰ってくる」(36-38節)、「人の子が来る」(40節)というのは終末のイメージです。聖書が語る世の終わり、あるいは個人の終わり(死)についての教えの中ではいつも2つの確信が示されています。1つは「今のこのときは終わる、過ぎ去る」ということ、そしてもう1つは「そこで神(キリスト)との決定的な出会いがある」ということです。この終末についての教えは聞く人の状況によって、希望のメッセージにもなれば、警告のメッセージにもなります。
(A) 希望のメッセージ
本来、聖書の中で「世の終わり」が語られるようになった背景は、迫害や極度の苦しみという状況でした。「信じれば信じるほど現実には救いが見えなくなる」という状況の中で、「今この世を支配している悪の力がすべてではない」「この悲惨な現実を超えて(死さえも超えて)、神はもっと豊かな救いを(いのちを)与えてくださる」これが終末のメッセージの大切な1つの面です。
(B) 警告のメッセージ
他方、迫害や苦しみの中ではなく、「なんとなくいい加減に生きている」というとき、終末のメッセージは厳しい警告のメッセージになります。最終的に神に出会い、神の目から見たときに何が本当に価値あるものなのかが明らかになる(この神の判断を「裁き」と言います)。今わたしたちが求めているもの、大切にしているものは、神の目から見たら正しいのかどうか、そのことを強烈に問いかけるのです。
きょうの福音の中にもこの両方の面があります。わたしたちは自分の状況をどう感じているでしょうか。そこからこのメッセージをどのように受け取ることができるでしょうか。
(3) 「目を覚ましている」という言葉は、考えてみると少し分かりにくいところがあります。「泥棒に入られないようにいつも警戒している」(39節)と言うたとえは分かりやすいのですが、そうすると、来るべき神の国が「災い」であるかのように聞こえてしまう恐れがあります。むしろ「目を覚ましている」というとき、「主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている」(36節)というイメージが大切でしょう。この僕(しもべ)は、主人を心から待ち望んでいるのです。主人のほうにいつも心を向けているのです。ルカ21章36節には、「人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい」ということばがあります。祈りとは何よりも心を神に向けることです。自分の心の中で自分の思いや、反省や、願いを「ああでもない、こうでもない」とどうどう巡りさせているのが、祈りではありません。それを突き抜けて心を神に(イエスに)向けていくこと。ルカ福音書の「目を覚ましていること」とはそういうことだといったらよいかもしれません。わたしたちにとって「目を覚ましている」とはどういうことでしょうか。
(4) 37節の「主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる」というのは非常に印象的な姿です。常識的には、いくら僕がよくやったからと言って、そこまでする主人はいないでしょう。しかし、イエスの姿はまさにそうだったと言えます。マルコ10章45節に「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」という言葉がありますが、イエスの生き方は、主でありながら人々に仕える生き方そのものではないでしょうか。僕にとって主人から給仕されることが喜びなのではありません。むしろ、仕えることを喜びとする主人(イエス)の心を、本当に深く受け取ることが大切なのだと言えるのではないでしょうか。
(5) 35-40節がすべての弟子のあるべき態度を語っているのに対しで、41節以下は教会の中の特定の人々、責任を負った人々のことを語っているように聞こえるのではないでしょうか。確かに「主人が召し使いたちの上に立て・・・(た)・・・管理人」というのは教会の指導者のことだと考えるのが一般的な解釈です。
彼らはなぜ厳しく責任を問われるのでしょうか。立場上、大きな責任を負わされているから、というだけでなく、「彼らは主人の思いを知っているはずだ」という点は大切でしょう。そうだとすれば、ここで語られている管理人のあり方についての教えは特定の人だけでなく、「主人の思いを知っている」すべての人にかかわる教えだとも考えられます。「多く与えられた者」「多く任された者」というのも、わたしたち一人一人が自分自身のことだと受け取ってみてはどうでしょうか。
2007年08月05日
年間第18主日 (2007/8/5 ルカ12・13-21)
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福音のヒント
(1) 「ラビ(先生)」と呼ばれるユダヤ人たちの宗教指導者は、宗教的な教えだけでなく、実際の人々の生活の中での相談に乗ったり、もめごとの裁定にもかかわったようです。遺産分配のことでイエスに訴えた人は、そのようなラビの1人としてイエスを見ていたのでしょう。イエスのことばの内容についてはほとんど何も説明する必要がないでしょう。できるだけ素直にイエスの語りかけを、問いかけを、呼びかけを聞けばよいのです。たぶん、そこには今のわたしたちの生き方への強烈なチャレンジが感じられるでしょう。わたしたちの多くにとって、「お金」の問題や、人と人とのトラブルの問題は切実だからです。
(2) 富を蓄えることへの警告という点では、申命記の次のことばが思い出されます。
「あなたが食べて満足し、立派な家を建てて住み、牛や羊が殖え、銀や金が増し、財産が豊かになって、心おごり、あなたの神、主を忘れることのないようにしなさい。主はあなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出し、炎の蛇とさそりのいる、水のない乾いた、広くて恐ろしい荒れ野を行かせ、硬い岩から水を湧き出させ、あなたの先祖が味わったことのないマナを荒れ野で食べさせてくださった。それは、あなたを苦しめて試し、ついには幸福にするためであった。あなたは、『自分の力と手の働きで、この富を築いた』などと考えてはならない。むしろ、あなたの神、主を思い起こしなさい。富を築く力をあなたに与えられたのは主であり、主が先祖に誓われた契約を果たして、今日のようにしてくださったのである。」(申命記8章13-18節)
紀元前13世紀、神によってエジプトの奴隷状態から救い出されたイスラエルの民は、40年の荒れ野の旅を経て、約束の地の目前であるヨルダン川の東岸にたどり着きました。申命記の中心部分は、指導者であるモーセがそこにあるネボ山の山頂から約束の地を見渡しながら語る説教です。モーセは民に40年の荒れ野の旅を思い起こさせ、その意味を解き明かし、約束の地に入ってからどう生きるべきかを語ります。そこにある一つの危険が「富を蓄えること」でした。荒れ野では、毎日ぎりぎりの食べ物しかなかった。でもだからこそ一日一日神によって養われていることを感じないわけにはいかなかった。しかし、富や作物を蓄えると「主を忘れる」というのです。
わたしたちの中にも、本当に苦しいとき、どん底の中でこそ神に支えられたという体験があるかもしれません。そしてそれをいつの間にか忘れているのかもしれません。
(3) 自分の力でなんとかしよう、人間の力ですべてをうまくやっていこう、とわたしたち現代人は考えます。そのためには、やはりお金が必要だ、ということにもなります。確かにこの世界の中では、金持ちのほうが高度な医療を受けられたり、発展途上国の人には充分な医療が行き届かない、という現実もあります。まさに「人の命は財産によってどうすることもできる」、というような世界があるのです!
しかし、もし人間の力やお金の力ですべてがなんとかなると感じているならば、おそらく「神は不要」になるでしょう。人間の無力さや限界を知るということはそういう意味で大切なことです。おそらく、人間にとってもっとも顕著に「無力さ・限界」を感じるのは、死に直面したときです。そして「今夜、お前の命は取り上げられる」・・・いつ自分の死が訪れるか、本当はだれも知らないのです。その時、富は頼りにならない、本当に問われるのは「神の前に豊かになる」ということなのだ、とイエスは語ります。
(4) 末期ガンの人々のケア(ターミナル・ケア)の中で「生命の質(quality of life)」ということがよく語られるようになりました。迫り来る死を前にしたときに、いのちの「量(長さ)」ではなく、「質(残された時間をどのように充実して生きるか)」が問われるのです。
「趣味の世界に生きる」とか「大自然の美に触れる」など、人生を豊かにするものはいろいろあります。しかし、突き詰めて言えば、人間を超えたもの・目に見えないものとのつながりを生きること、人と人との愛のつながりを生きることこそが、豊かないのちを生きることであり、そのいのちは肉体の死をも越えるものである、とわたしたちキリスト者は信じています。自分の肉体の中にある孤立した命のイメージではなく、神とのつながりの中にあるいのち、人との愛の交わりの中にあるいのちを感じること、それを「スピリチュアルspiritualな感覚」と言うこともできます。
イエスご自身が、十字架の死に向かう中で、そのような「いのちの質」を極限まで生き抜かれました。「神の前に豊かになる」いのちとは、イエスの十字架の中にあるいのちだと言ったらいいのかもしれません。
(5) きょうの箇所の発端は「兄弟との間のもめごと」でした。わたしたちの周囲にもよくある問題でしょう。しかし、ぎりぎりのところで問われるのは、損得ではなく、その人と共に生きることを喜べるかどうかということではないでしょうか。死を前にして、家族や友人との和解を望んだ人、そして実際に和解することのできた人の姿は感動的です。逆に、その和解を妨げるものが「貪欲」だと言っても良いのではないでしょうか。
わたしたち一人一人の中に、おそらく両方の面があります。
わたしの中にある「貪欲」とはどんなものでしょうか。
わたしの中にある「神の前での豊かさ」とはどんなものでしょうか。
2007年07月29日
年間第17主日 (2007/7/29 ルカ11・1-13)
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福音のヒント
(1) 「主の祈り」は新約聖書の中に2つの形で伝えられています。この箇所と、もう1つはマタイ6章9-13節です。イエスが教えた1つの祈りが繰り返し唱えられ、アラム語からギリシャ語へ翻訳されていく中で、2つの形になったと考えられます。
大切なのは、わたしたちがこの祈りをどのような思いで祈っているか、この祈りがどのようにわたしたちを支え、導いていてくれるかということでしょう。ただ、主の祈りの言葉はけっして分かりやすいとも言えませんので、ここではいくつかの言葉を簡単に解説しておきます。
この祈りの最大の特徴は、「父よ」という単純な呼びかけです。マタイにある「天におられるわたしたちの」は礼拝の中で唱えられていくうちに付け加えられたことばのようです。「父よ」。これはイエスご自身が神に祈ったときのことばでした。マルコ福音書のゲツセマネでの祈りでは「アッバ、父よ」とアラム語も伝えられています。「アッバ」は子どもが父親を呼ぶときのことばです。信頼を込めてイエスは神に向かってこのように呼びかけました。ルカ福音書の中では、十字架のイエスの祈りが印象的です(23章34、46節)。
(2) 「み名が崇められますように」は直訳では「あなたの名が聖とされますように」です。「名」は単なる「呼び名」ではなくそのものの本質を表します。「神の名」とは「神ご自身」の意味なのです。イザヤ29章23節のように「人々が聖とする」ととれば、「人々が神を神として認めるようになる」という意味になりますが、エゼキエル36章23節のように「神がご自分の名を聖とする」という意味にもとれます。この場合は、「神が救いの力を示すことによって、ご自分が神であることを現す」という意味になります。
「み国が来ますように」は「神の心がすべてにおいてすべてとなりますように」ということだと言ってもよいでしょう。マタイ福音書は「み心が天に行われるように地にも行われますように」ということばを付け加えていますが、これは「み国が来ますように」を言い換えたものだと考えることができます。
(3) 「必要な糧」。「糧」の直訳は「パン」ですが、ここで生きるために必要なすべてを願っています。なお、ルカが「毎日」というところをマタイでは「今日」と言います。
「わたしたちの罪をゆるしてください。わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから」の祈願はマタイと少し違います。マタイのほうを直訳すると「わたしたちも自分に負い目のある人をゆるしましたから」となります。現在カトリック教会で用いられている訳は、後半が「わたしたちも人をゆるします」となっていて前半とのつながりがはっきりしないかもしれません。これは「ゆるす」と宣言しているのではなく、「ゆるしてください。そうすれば、わたしも人をなんとかゆるしたいし、ゆるすことができるようになるからです」というニュアンスで受け取ればよいでしょう。
「わたしたちを誘惑に遭わせないでください」は切羽詰まった叫びのような終わり方です。マタイはこれに「悪(悪い者)から救ってください」という言い換えを付け加えて、礼拝にふさわしい形を整えています。「誘惑に遭わせないで」という訳も可能ですが、むしろ「誘惑に陥らせないでください」のほうがよいでしょう。誘惑が来ることは避けられない(ルカ17章1節)、ただその中で、神から離れてしまわないように守ってください、という祈りだと受け取ればよいでしょう。
(4) 5-8節のたとえ話は、「しつように頼む」ことを勧めています。マタイの教会はユダヤ人キリスト信者の共同体でしたから、祈ること自体はよく知っていて、その祈りが表面的・偽善的にならないように教える必要があったのに対し、ルカの教会は異邦人の教会ですから祈りの必要性そのものを教える必要があったのでしょう。そこで「とにかく祈りなさい。神は必ず聞いてくださるのだ」ということが強調されています。9節「求めなさい。そうすれば与えられる…」は有名なことばです。ここで「与えられる」は「神が与えてくださる」の意味です。祈りに魔術的な効果があるというよりも、神が必ず祈りを(人間の叫びを)聞いてくださるということがここでもポイントです。
(5) わたしたちの中には、「祈ったら自分の思いがかなった」という体験もあるかもしれませんが、「祈っても祈っても自分の願いはかなえられなかった」という体験もあるでしょう。でもそれだけでなく、「祈って自分の思い通りにはならなかったけれど、何かが変わった」という体験もあるのではないでしょうか。13節では「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」と言われています。それはどういうことでしょうか。3つのヒントだけ示します。
(a) 聖霊は「神の力」です。祈りの中で与えられるのは神からの力だと言えるかもしれません。その力で困難を乗り越えることができた、という体験があるかもしれません。
(b) 聖霊は「神と人・人と人とをつなぐ力」です。祈りの中で神とつながっていること、人と人とがつながっていることを感じ、励まされたという体験もあるかもしれません。
(c) マタイ7章11節では、「天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」という言葉が伝えられています。自分が思うものとは違っても、結局一番「良い物」が与えられたという体験も、わたしたちの中にあるのではないでしょうか。
このように「祈りの中で何かが与えられた」「自分が変えられた」という体験を分かち合うことができれば、本当にすばらしいことではないでしょうか。
2007年07月22日
年間第16主日 (2007/7/22 ルカ10・38-42)
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福音のヒント

(1) マルタのようにもてなすことよりも、マリアのように主のことばを聞くことのほうが大切だとイエスは考えているのでしょうか。もちろん、イエスはご馳走を期待しているのではなく、自分のことばを聞いてほしいと思っていたことでしょう。しかし、イエスはマルタの奉仕そのものを否定しているのではないということも大切です。「もてなす」はギリシア語で「ディアコノーdiakono」ですが、この言葉は「仕える、奉仕する」とも訳される言葉で、イエスとイエスの弟子たちの生き方の中心にあるものを表す言葉です。マルコ10章43-45節「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕(しもべ)になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」。また、「マルタ、マルタ」というイエスの呼びかけも親しみを込めた呼びかけです(ルカ22章31節の「シモン、シモン」のように」)。
もし、マルタの奉仕自体が問題でないとするならば、問題は彼女がイエスに向かって不平不満をいう態度、あるいは妹を評価しない彼女の姿勢だと言えるかもしれません。
(2) 当時の社会では、男女の役割には明確な区別がありました。宗教的な勤めは第一に男性がすべきことであり、女性には聖書を学んだり、礼拝するという義務がありませんでした。女性は自分の時間の主人とは見なされなかったからです。「役割分担」と言うよりも女性はまったく従属的な位置に置かれ、神に仕える男性に奉仕することが要求されたのです。このようなことを考えると、マルタのしていたことは当時の女性として当然の役割を果たしていたということになるでしょう。一方のマリアのように家事もせずに、先生の話を聞くというのは女性としては普通ではないことになります。マルタの不満は当時の社会の常識からすれば当然とも言えます。ここでイエスはそのような男女の役割分担を否定して、マリアの態度を弁護しています。それは「男も女も神のことばを聞いていいのだ。それはだれにでもできることであり、それがもっとも大切なことなのだ」ということだと言ったらよいのではないでしょうか。
(3) マルタは当時の常識からマリアを非難しているだけではないでしょう。マルタの心の中にあった思いは、一方で、「自分も本当はイエスの話を聞きたいのに、女だから仕方なく家事をしている」ということだったり、他方、「でも家事なら誰にも負けない。わたしは働き者でマリアは怠け者だ」ということだったりしたのでしょう。「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」というイエスの言葉は、料理のことだけでなく、このような優越感と劣等感の狭間(はざま)で悶々(もんもん)としているマルタの心の状態を指摘しているのではないでしょうか。イエスのことばはマルタにとって耳の痛いものであったかもしれません。しかし、固定化された男女の役割分担に縛られ、人と人との比較の中でしか自分や姉妹を見ることのできなかったマルタにとって、そこから解放されるための「福音」だったのではないでしょうか。それはついつい他人との比較の中で自分を見てしまうわたしたちにとっても解放のメッセージなのではないでしょうか。
(4) マルタとマリアという姉妹は、ヨハネ福音書にも登場します。物語自体も場所も違いますが、この姉妹の性格に関しては不思議なほど共通するところがあります。ヨハネ11章20節でも「マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた」とあります。マルタはそこでも不平不満とも取れるようなことばをイエスに向けて発しました。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」(21節)。マルタはこのように率直にイエスに向かって自分の思いをぶつけていますが、イエスはそれに答えるのです。このことはわたしたちにとって大きなヒントかもしれません。
ルカ10章40節のマルタのことばのように、「主よ、こんなに変なことが起こっているのに、あなたはなんともお思いになりませんか?」と言いたくなることがわたしたちにもあるでしょう。ヨハネ11章21節のように「主よ、もしあなたがここにいてくださったら、こんなにひどいことは起こらなかったでしょうに」と訴えたいことだってあるかもしれません。 マルタはそういう思いをストレートにイエスにぶつけるのです。そして、イエスからの答えをいただきます。わたしたちの祈りがあまりにきれいで形式的なものになっているとしたら、このマルタの祈りに学んでみてもよいのではないでしょうか。
(5) 結局のところ、マルタもイエスのことばを聞いたのです。それどころか、マリアが聞いたはずの多くの言葉ではなく、マルタの聞いた短いことばが、今のわたしたちに伝えられています。「必要なことはただ一つだけである」その言葉はマルタにとっては、さまざまな思いから自分を解放してくれる福音だったのでしょう。きょうの福音は、わたしたちがどんな思いに縛られているか、わたしたちにほんとうに必要なことはなんなのか、と問いかけてきます。それは、今のわたしたちにとっても福音だと言えないでしょうか。
2007年07月15日
年間第15主日 (2007/7/15 ルカ10・25-37)
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福音のヒント
(1) 律法学者(律法の専門家)は、律法を人々に教え、律法によって民衆を指導していた人々でした。27節で律法学者が引用する「神を愛し、隣人を愛する」ことは、申命記6章5節とレビ記19章18節に記された律法の言葉です。マタイ22章37-39節とマルコ12章29-31節でこの2つの箇所を引用するのはイエスご自身ですが、ここでは律法学者のほうが引用しています。それに対して、イエスは「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすればいのちが得られる」と言っています。神への愛と隣人への愛という2つの掟が重要だとする点では、イエスと律法学者との間に意見の違いはありません。
29節で律法学者は、自分を正当化しようとして(直訳は「自分を義として」)、「わたしの隣人とはだれか」と問います。何が大切な掟かという点でイエスと同意見でも、隣人愛の掟の受け止め方は大きく違います。律法学者は次のように考えたようです。「そもそも隣人とはすべての人という意味ではなく『近くにいる人』の意味である。ではどの範囲までが隣人なのか」律法学者がなぜこんなことを考えるかといえば、それは彼らが律法を忠実に守ろうとし、この隣人愛の掟も厳密に実行しようとしたからです。彼らの考えでは隣人を愛するためにはまず「隣人とは誰か」を定義しなければならないのです。確かに「隣人」という言葉自体は、本来身近な人を指しますから、すべての人を含んでいるとは言えないでしょう。そして、この律法学者の考えの中には「罪びとや異邦人は遠ざけるべきもの、排除すべきものであり、まさか隣人愛の掟の対象ではないはずだ」ということもあったにちがいありません。
(2) イエスがいつも見つめていたのは、神の望み・神のこころでした。「律法の字句をいかに正しく解釈するか」というのではなく「そこに表されている神のこころは何か」ということをイエスは問いかけます。「わたしの隣人とはだれですか」という問いに、イエスは「だれが隣人になったと思うか」と問い返されます。神が求めていること、神の望みが、「隣人の範囲を決めて、隣人愛の掟を守る」ことではなく、「目の前の苦しむ人に近づくことによって、隣人になっていく」ことであるのは明白でしょう。
たとえ話の内容については、それほど説明はいらないでしょう。
祭司とレビ人は、両方とも神殿に仕えている人であり、真っ先に律法を実行するはずの人でした。彼らは道端に倒れている人を「見ると、道の向こう側を通って行った」とあります。彼らは神殿での務めのために、死体に触れて汚(けが)れることを避けようとしたのでしょうか、一方で、三番目に登場したサマリア人(律法学者の考えでは「隣人」ではありえない人)は「見て憐れに思い、近寄って」手厚く介抱します。この違いはなんでしょうか。
(3) ここで使われている「憐れに思い」と訳された言葉に注目すべきでしょう。これはギリシャ語で「スプランクニゾマイsplanknizomai」という言葉です。この言葉は「スプランクナsplankna(はらわた)」を動詞化したもので、「人の痛みを見たときに、こちらのはらわたが痛む」「はらわたがゆさぶられる」ことを意味する言葉です。日本語の「胸を痛める」に近いかもしれませんが、沖縄には「肝苦りさ(チムグリサ)」と言う言葉があるそうです。ある人はあえて「はらわたする」と訳しました。このサマリア人は「レビ記には『隣人を愛せ』という律法があった。この人は隣人だから助けよう」と思ったわけではありません。「はらわたした」から助けたのです。目の前の人の苦しみを見たときに、その苦しみを体で感じるから、ほうってはおけなくなるということでしょう。イエスは、人間には誰でも(ユダヤ人でもサマリア人でも)こういう心があるはずだ、と考えていて、それが神から見てもっとも大切なことであり、その心と心からの行動があるところに神の意思が実現している(もう神の国が始まっている)と語っておられるのでしょう。
(4) 「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」というレビ記19章18節の律法は、その直前に「兄弟、同胞」などという言葉がありますので、やはり本来はすべての人というよりも、ある範囲の中の人(身近な人)を指しているようです。しかし、同じ19章にはこういう言葉もあります。「寄留者があなたの土地に共に住んでいるなら、彼を虐げてはならない。あなたたちのもとに寄留する者をあなたたちのうちの土地に生まれた者同様に扱い、自分自身のように愛しなさい。なぜなら、あなたたちもエジプトの国においては寄留者であったからである。わたしはあなたたちの神、主である。」(19章33-34節)。
律法の前提には、いつも神の救いのわざがあります。エジプトで寄留者だったイスラエルの民を救ってくださった神の愛を知った民はどう生きるべきか、これがいつも律法の指し示していることです。律法は人間を採点するための掟ではなく、本当に問われていることはいつも、この神の愛にどのように出会い、どのように応えるかということです。
愛について言葉を費やすことはむなしいことでしょう。「行ってあなたも同じようにしなさい」(37節)これに尽きるのです。わたしたちの現実はどうでしょうか。わたしたちの中にも、「見て、はらわたして、近寄って行く」という体験があるはずです。しかし、いつもそうとは限らず、「見ても、はらわたしない」ということもあるでしょうし、「見て、はらわたしても、近寄っていかない(いけない)」ということだってあるでしょう。そんなわたしたちにきょうの福音のたとえ話はどんな光を与えてくれるでしょうか。
2007年07月08日
年間第14主日 (2007/7/8 ルカ10・1-12, 17-20)
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(1) ルカ9章1-6節には12人の弟子が派遣される話があります。この72人の派遣にあたっての言葉は、エルサレムへの旅との関連は薄いようですし、12人ではなく72人であることの特徴もあまり感じられません。弟子たちを派遣するにあたってイエスが語った言葉は、いろいろな形で伝えられていたようです。福音書には、弟子たちを派遣するにあたってイエスのことばが、合計4箇所に伝えられています。マタイ10章5-42節、マルコ6章7-12節とルカのこの2箇所です。それらを比較すると、共通する部分と多少異なる部分があります。マタイは複数の伝承を一つの長い派遣説教としてまとめていますが、ルカはそれを2回の派遣に分けたと考えたら良さそうです。
この派遣にあたっての指示は、ルカにとっては過去の弟子たちの派遣というよりも、今復活のイエスによって派遣されている自分たちの問題だと言えるでしょう。「御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた」とありますから、人々がイエスに出会うための準備としてわたしたちは遣わされていると言うこともできるでしょう。
(2) 「七十二人」というところが70人になっている写本もあります。レビ記11章には、モーセの時代に70人の長老が選ばれる話がありますからその影響でしょうか。70人だとすると「民の指導者」というニュアンスがあるかもしれません。一方72という数は、12の6倍で、12人の弟子を拡大した「より多くの弟子たち」ということでしょう。
なお、1節で「二人ずつ」派遣されることの意味はいくつか考えられます。(a)旧約時代から、「一人の証言は不確かだが、二人の証言ならば確かである」という考えがあったから。(b)単純に二人が支えあいながら活動していけば心強いということ。(c)二人が「愛し合う」姿をとおして、イエスの弟子であることが皆に分かるようになるから(ヨハネ13章35節参照)。
(3) 「収穫は多いが、働き手は少ない」(2節)と言うイエスは、多くの人が神の国の呼びかけに応えるということを期待し、信じています。そして、その呼びかけに応える人々を「収穫」にたとえています。派遣される人はもちろん「収穫のための働き手」ですから、彼らが祈るのは「自分たち以外の人が働き手になりますように」ではなく、「自分たちだけでは足りないから、一緒に働いてくれる人を与えてください」という祈りであるはずです。召命を求める祈りはいつもそういう祈りであるはずです。「狼の中に羊を送り込む」(3節)は、もちろんこの派遣に伴う危険を指摘しています。いつも人々に受け入れられるとは限りません。弟子たちは拒否され、攻撃される可能性もあるのです。
(4) 4節の「履物も持っていくな」は少し極端かもしれません。マルコ6章9節では、はっきりと履物は履くように命じられています。袋はもらった喜捨(きしゃ)を入れるための袋でしょう。要は「何も持たず、空(カラ)の手で」行くということです。なぜなら、後にあるように、必要なものは出かけた先で与えられるからです。「その家に泊まって、そこで出されるものを食べ、また飲みなさい。働く者がその報酬を受けるのは当然である」(7節)。「自分の面倒は自分で見て、できるだけ人の世話にもなりたくない」というのが、現代のわたしたちの普通の感覚かもしれません。イエスの弟子の道はそうではないのです。自分の力ではなく神と人々の好意に頼って生きていく道。それはわたしたちにとっても、本当は大切な生き方を指し示しているのではないでしょうか。
(5) 派遣される弟子が第一にすることは「この家に平和があるように」と言うことです。これは4節で禁じられたような儀礼的な長々としたあいさつではありませんが、やはり、ほとんどあいさつの言葉だと言っても良さそうです。「平和」(ヘブライ語で「シャローム」)はほとんど日常的なあいさつの言葉だからです。弟子たちは、戦いや論争や挑発のために出かけるのではなく、出会う人々との間に平和を作ることが求められています。
ただし、いつでも良い関係が作れるとは限りません(わたしたちも同じでしょう)。それはこちらが平和を願っていても、相手のほうが拒否するということがあるからです。そんなとき、相手を責める気持ちにもなりがちです。でもここでは、そんなことに振り回されない、という生き方が求められているようです。「平和があなたがたに戻ってくる」(6節)というのは、「その人を恨んで、仕返ししようとするな、相手がどうであれ、あなたが相手のために平和を願うことはあなたにとってよいことなのだ」ということなのではないでしょうか。なお、11節の「足の埃を払い落とす」は確かに絶縁を意味する動作ですが、そこにも「恨まない、復讐心を抱かない」という意味があるでしょう。「家から家へと渡り歩くな」(7節)も面白い指示です。渡り歩くのは、歓待されるのを期待してのことでしょうか。あるいは、もっと良い待遇を期待するからでしょうか。
(6) 弟子たちの使命の中心は、病人をいやし、「神の国はあなたがたに近づいた」と言うこと(9節)です。それは、これまでイエスご自身がしてきたこととまったく同じことをしていくということです。今のわたしたちにとっては、どういうことでしょうか。
17節以下の「悪霊」「蛇やさそり」「敵」は神に敵対し、人を害するものです。「サタン」はその力の根源にあるものでしょう。イエスは悪の支配が終わり、決定的に神のバシレイア(支配、国、王であること)が始まっているのを見ています。「名が天に書き記されている」は、この神のバシレイアにあずかる者となった、という意味です!
2007年07月01日
年間第13主日(2007/7/1 ルカ9・51-62)
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(1) イエスの時代、サマリア人とユダヤ人は対立していました。もともとは同じ民族でしたが、紀元前10世紀、ソロモン王の死後にイスラエルの王国は南北に分裂しました。北王国はサマリアに独自の聖所を置くようになり、エルサレムの神殿を中心とする南王国から宗教的にも分離してしまいました。さらに紀元前8世紀に北王国はアッシリア帝国に滅ぼされ、サマリアの人々はアッシリア人との混血になってしまったと言われています。宗教間・民族間の対立という問題は、今のわたしたちの問題でもあるでしょう。
54節の弟子たちの言葉、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」は、かつて預言者エリヤが自分を捕らえに来た兵士たちを焼き滅ぼした故事に基づいています(列王記下1章)。弟子たちにはもちろんそんな力はありません。自分たちの恨みをイエスの力で晴らしてもらおうとして、「主よ、そうしてください」と言うのです。イエスはこれをはっきり拒否しています。エルサレムへの旅の最初に置かれたこのエピソードは、イエスの旅が軍事的な戦いの旅ではなく、神の愛を告げ、神の愛を生きる旅であることを表していると言えるでしょう。
(2) 57-58節は、このイエスの旅に同行するとはどういうことかを示しています。「人の子には枕するところもない」の「人の子」は、ここでは「わたしのような人間」の意味です。わたしたちの今の現実の中で、「巣穴のない、枕するところのない」というような状況があるでしょうか。
59節「父を葬る」は、当時の考えでは人間として何よりも大切な義務でしたが、イエスはそれさえも許しません。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」ここで「自分たちの死者」は実際の死人のことですが、「死んでいる者」は「霊的な意味で死んでいる人」のことでしょう。イエスが指し示している「アッバ(お父さん)」である神とのつながりの中にあるいのちを生きていない人の意味です。
(3) 列王記上19章20節で預言者エリヤが自分の弟子としてエリシャを召し出した物語(きょうの第一朗読)では、家族と別れのあいさつをすることが許されていますが、きょうの福音の62節のイエスのことばは、家族へのいとまごいも許しません。「鋤(すき)」は畑をたがやすための農具です。イラストのように、牛やロバに引かせて土をたがやしていくのですが、通常、右手にムチを持ち、左手だけで操作するので、まっすぐ進むためには注意が必要です。「後ろを顧みる」ならば、たちまち曲がった畝(うね)ができてしまいます。
父の埋葬や家族へのいとまごいは、一般的に言えばいけないはずがないことです。しかし、イエスの言葉は「何をおいても今すぐ従う」ことを要求しています。ルカ福音書の文脈の中でこの緊急性は、イエスがエルサレムに向かう最後の、命懸けの旅を始めることと関連していると言えるでしょう。葬儀の義務や家族へのあいさつが本当の問題なのでしょうか。むしろ、わたしたちに問われていることは、イエスの告げる「神の国」(60、62節)への招きをどこまで本気で受け取るか、ということではないでしょうか。
(4) 「神の国」の「国」はギリシア語で「バシレイアbasileia」といいますが、この言葉の元には「バシレウスbasileus=王」という言葉があります。「バシレイア」は本来、「王であること、王となること」を意味する言葉です。英語のkingに対する kingdomと同じだと考えたらよいでしょう。「王としての統治・支配」を意味することもあり、「王が王として支配している国=王国」の意味にもなります。「神が王であること、神が王となること」これがイエスの告げ知らせた福音の中心でした。
わたしたち現代人は、王がいなくても国は成り立つと考えますので、「神が王となる」と言われてもピンとこないかもしれません。しかし、人間の王の不正な支配によって苦しめられていたイエスの時代のパレスチナの人々にとって、「神が王となる」という神の国のメッセージはすべての不当な圧迫から自由になる「解放のメッセージ」だったのです。
わたしたちは何によって支配され、圧迫され、不当に抑圧されているでしょうか。お金、市場経済、競争原理、欲望、暴力、エゴイズム・・・? わたしたちが豊かないのちを生きることを妨げているすべてのものからの解放、それこそが「神の国」の表しているものなのです。
(5) 「神の国」とは別の言葉で言えば、「神の愛がすべてにおいてすべてとなること」だと言ったらよいかもしれません。この「神の国」には、まだ来ていない(いつか完成する)という面と、すでに来ている(始まっている)という面があります。ルカ福音書にはイエスの次のような言葉が伝えられています。「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(ルカ11章20節)。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(ルカ17章20-21節)。
すでに始まっている神の国とは、わたしたちの間にある神の国とはどのようなことでしょうか。
2007年06月24日
洗礼者聖ヨハネの誕生 (2007/6/24 ルカ1・57-66,80)
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(1) エリサベトは洗礼者ヨハネの母親です。彼女はずっと子どもがないまま、年老いていました。当時の女性にとって子どもを産めないことは恥と考えられていました。エリサベトは子を身ごもったことを知ったとき、「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました」(1章24節)と言っています。高齢の子どもを産んだことのない女性から子どもが生まれることの中には、人間の力ではなく、神の力が働いていると考えられました。「主がエリサベトを大いに慈しまれた」というのはそのためです。
「近所の人々や親類は、主がエリサベトを大いに慈しまれたと聞いて喜び合った」(ルカ1章58節)。洗礼者ヨハネの誕生は周囲の人々に大きな喜びを与えます。「喜び合った」は直訳では「彼女と一緒に喜んだ」です。一人の喜びがみんなの喜びになる、そこには素晴らしいコミュニティーの姿があると言えるのではないでしょうか。
(2) 「割礼」は、生後8日目に男子の包皮を切り取る儀式ですが、この儀式は、人が神の民の一員となることを意味していました。この日に命名も行なわれました。
「ヨハネ」という名は、旧約聖書では「ヨハナン」と記されますが、この名前には「主は恵み深い」という意味があります。ここでは名前の意味よりも、それが天使によってザカリアに告げられた名(1・13)であることのほうが重要でしょう。ザカリアは高齢の自分たち夫婦から子どもが生まれるという天使のお告げを信じなかったため、口が利けなくなっていました。62節に「手振りで尋ねた」とありますから、耳も聞こえなくなっていたようです。エリサベトはそれまで、ザカリアが天使に告げられた言葉を聞いていなかったと考えるのが自然でしょうか。そして、「名はヨハネとしなければなりません」というエリサベトの言葉はザカリアには聞こえていなかったはずです。だから、ザカリアが「この子の名はヨハネ」と書き、神を賛美し始めたことに多くの人が驚いたということなのでしょう。
「近所の人々は皆恐れを感じた」(65節)という時の「恐れ」は、「畏(おそ)れ」を表す言葉でもあります。これは神の力や神の現れに接して圧倒された人間の様子を表しています。
なお、66節の「主の力が及んでいた」は直訳では「主のみ手が彼とともにあった」です。
(3) 省略されている67-79節には、ザカリアが神を賛美して語った言葉が伝えられています。この賛歌は「ザカリアの預言」とか「ザカリアの歌」と呼ばれています。後半にこういう言葉があります。「幼子(おさなご)よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦(ゆる)しによる救いを/知らせるからである。これは我らの神の憐(あわ)れみの心による。この憐れみによって、/高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、/我らの歩みを平和の道に導く」(76-79節)。父ザカリアは幼子の将来について預言しています。「主に先立って」の「主」は来たるべき救い主を暗示しています。「あけぼのの光」も来たるべき方を指しています。この「あけぼのの光」というところから朝の賛美に用いられるようになり、今も「教会の祈り(聖務日課)」の朝の祈りの中で毎日歌われています。
(4) ルカ福音書は洗礼者ヨハネの誕生・成長の話とイエスの誕生・成長の話を並行させ、2人が同じ神の救いの計画の中にいることを印象づけています。ただし、神の子であるイエスの場合、さらに特別なことがあるという面もそこには表れています。
高齢の女性が出産することの中には、神の力が働いていると考えられましたが、イエスの母マリアは処女でイエスを身ごもったので、その誕生はさらに徹底的に、人間の力によるのではなく神の力によるものだということが強調されます。誕生の場面についても違いがあります。イエスの誕生はヨハネの誕生よりもひそやかな出来事でした。イエスはヨゼフとマリアの旅先で生まれ、宿屋には泊めてもらえず、祝いに駆けつけたのは貧しく、町の人々からさげすまれていた羊飼いだけでした。そこにはイエスの成人してからの活動と受難の姿が暗示されています。しかし、いずれにせよ、大きな喜びに満ちています。それはこの子どもをとおして神の救いの約束が実現していくという喜びです。
(5) 80節の「幼子は身も心も健やかに育ち」は、直訳では「この幼子は成長し、霊が強められ」です。イエスについては2章40節で「幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた」と言われ、2章52節では「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」と言われています。ここでもイエスのほうが、神の子としての特徴が表れていると言えるでしょう(なお、「イスラエルの人々の前に現れるまで荒れ野にいた」と言われますが、これはヨハネが成長してから活動を始めるまでのことです)。ここでは、洗礼者ヨハネやイエスという特別な人間のことが述べられていますが、このように力強く成長していくすべての子どもたちのことを思い浮かべてもよいのではないでしょうか。
2007年06月17日
年間第11主日 (2007/6/17 ルカ7・36~8・3)
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(1) ファリサイ派は、律法と律法学者によるその解釈(口伝律法)を重んじ、それを守ることに熱心だったグループです。「ファリサイ」という言葉は「分離する」という言葉から来ているようです。彼らは自分たちを、律法を知らず、守ってもいない一般民衆から分離した者と考えていました。当時のユダヤ人社会の中で宗教的なエリートだったと言えるでしょう。ファリサイ派のシモンがイエスを招待したのは、イエスのことを「この人は預言者かもしれない」と思っていたからのようです(39節参照)。彼はそのイエスと親しく接したいと願ったのでしょう。イエスがファリサイ派の人から招待を受けた例は他にもあります。ファリサイ派の人々は次第にイエスに敵意を抱くようになりますが、イエスの側から誰かを拒絶することはありませんでした。
(2) 37節「この町に一人の罪深い女がいた」。何の説明もなく「罪深い女」と呼ばれていて、彼女が罪人であることは町中の人が知っていたようですから、この女性は娼婦のような女性だったと考えてもよいでしょう。その彼女が、ファリサイ派の家で行なわれた会食の席に入って行き、イエスに近づくというのはどれほど大胆な行動だったことでしょうか。彼女はイエスの説教を聞いたことがあったのでしょうか。ただイエスについてのうわさを聞いていたのでしょうか。とにかくこの自分のどうしようもない状態を救ってくれるのはこの方しかいないと感じたのでしょう。37-38節「香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った」。彼女はイエスに対して精一杯の尊敬と愛情を表します。彼女の涙はもちろん、自分の罪深さに対する痛悔の心の表れです。ここでイエスは何もしていません。彼女の思いと彼女の行為をそのまま受け入れて、彼女のするままにさせています。ファリサイ派のシモンにはそれが理解できません。預言者なら、こんな罪深い女性を受け入れるはずがない、と彼は考えたのです。
(3) 41-42節の短いたとえは、なぜイエスが彼女の行為を受け入れているかを示しています。罪のゆるしが借金の帳消しにたとえられる箇所は他にもあります。マタイ18章23-35節には、主人から莫大な負債を免除されながら、仲間のわずかな負債をゆるさない僕(しもべ)のたとえがあります。主の祈りの中で「わたしたちの罪をおゆるしください」というときの「罪」と訳された言葉も、本来「負債」を意味する言葉です(マタイ6・12)。
人は罪を犯したとき、それを神に対する負債のように感じます。なんとかそれを自分の力で清算したいと願いますが、実はそれは不可能です。罪のゆるしとは、どうにも返すことができない借金を帳消しにしてもらうことです。なぜ神は人の借金を帳消しにするのでしょうか。その理由は、ここではただ一つ、「返す金がなかった」(ルカ7章42節)からです。罪のゆるしとは、借金で首がまわらず、そのままでは生きていけない人間をそれでも神が生かそうとすることだと言うことができるでしょう。
(4) ファリサイ派の考えでは、借金はきちんと返すべきであり、罪は償うべきものでした。自分たちも罪を犯すが、それは償いのわざによってちゃんと清算している、と思っていたのです。しかし、イエスの目の前にいた多くの民衆は償いを果たすことはできませんでした。この女性はなおさら負債を返すあてなどなかったはずです。そこで彼女は最後の希望をイエスに賭けたのだと言えるのでしょう。人は神に対する借金を返すことはできません。そして、それでも神はその罪人を拒否するのではなく、その人を愛し、受け入れ、生きることができるようにしてくださる、これがイエスのゆるしのメッセージだと言えるでしょう。人が神とのきずなを取り戻し、人と人とが互いに兄弟姉妹としてのきずなを取り戻すことこそが父である神の望みなのです。シモンにそれが伝わったでしょうか?
(5) 新共同訳聖書は47節を「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる」と訳していますが、直訳では「この人はわたしに大きな愛を示したから、その多くの罪はゆるされている」です。文脈から言えば、新共同訳のように採るほうが自然でしょう。イエスはこの後48節で「あなたの罪は赦された」と宣言されます。物語の流れでは、女性の愛の行為が先にあり、最後にイエスのゆるしがあるというように見受けられますが、本当は彼女の行為を受け入れたイエスの姿の中に、すでにゆるしが存在していたと言うべきでしょう。わたしたちはこの神の(イエスの)ゆるしをどのように受け取っているでしょうか、そしてどのようにそれに応えようとしているでしょうか?
なお、8章2節の「七つの悪霊」とは、マグダラのマリアが多くの病気を抱えていたことを表す表現のようです。7章の「罪深い女」と8章の女性たちの誰かが同じ人だと考える根拠はありません。ただ、イエスの時代の女性たちは心と体にさまざまな苦しみを抱えていたはずです。彼女たちにとって、イエスの行動と存在は大きな救いとなったはずです。
2007年06月10日
キリストの聖体 (2007/6/10 ルカ9・11b-17)
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(1) ルカ福音書は、マルコ福音書を基にしていて、12人の弟子の派遣の後、彼らが帰ってくるところからこの物語を始めています。「使徒たちは帰って来て、自分たちの行ったことをみなイエスに告げた。イエスは彼らを連れ、自分たちだけでベトサイダという町に退かれた。群衆はそのことを知ってイエスの後を追った」(ルカ9章10-11節前半)。そして、「イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた」(11節後半)ときょうの箇所が始まります。神の国について語り、人々をいやすというのは、イエスのこれまでの活動の要約のような言葉だと言えるでしょう。イエスの活動全体とこの5つのパンの出来事は密接につながっているのです。
なお、ルカ福音書では12使徒の派遣ときょうの箇所の間に、ガリラヤの領主ヘロデがイエスについて「いったい、何者だろう」と言う箇所があります(9章9節)。そして、この出来事の後、ルカ福音書はすぐにペトロの信仰告白の場面を続けています。「イエスが言われた。『それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。』ペトロが答えた。『神からのメシアです』」(9章20節)。ルカ福音書の中でイエスとは何者かという問いに挟まれたこの出来事は、イエスとはどういう方かをはっきりと表す出来事だと言えるようです。
(2) 5つのパンと2匹の魚で5,000人以上の人が満腹したというような奇跡の物語を読むとき、福音書に書かれているとおりの出来事が実際に起こったと信じられるでしょうか。素直に信じられるという人も、ちょっと信じがたいという人もいるでしょう。もちろん、この出来事が実際にどのように起こったかということは、今となっては確かめようがありません。最初にこの出来事を記録したマルコ福音書でも実際の出来事が起きてから、40年ほどたってから書かれました。それまでイエスのなさったことはおもに口伝えで伝えられていきました。それは誰かが作り出したフィクションではなく、少なくとも「わずかな食物をイエスが人々とともに分け合い、大勢の人が満たされた、というような弟子たちの体験」が基にあったと考えればよいでしょう。弟子たちは確かに驚くべき体験をしたはずです。そして、彼らがそこで感じ取ったのは、イエスのもとにこそ、本当の豊かさがあり、本物のいのちがある、ということだったのでしょう。
(3) 16節「イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた」。
最後の晩さんのときの動作とよく似ています。「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。『これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。』」(ルカ22章19節)
「賛美の祈りを唱え」はギリシア語では「エウロゲオーeulogeo」です。「エウロゲオー」には「賛美する」と「祝福する」の意味がありますが、ここでは食事を前にして神の祝福を求めて祈ることを意味しているようです。祈りの内容としては「感謝の祈りを唱え(エウカリステオーeucharisteo)」と同じだと考えられます。また、「弟子たちに渡して」と「使徒たちに与えて」というところには、原文では同じ動詞が使われています。
ルカ福音書で、エマオに向かった弟子たちが、一緒に歩いていた旅人を復活したイエスだと気づくのも、その人がこの動作をしたときでした。「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かった…」(ルカ24章30-31節)。
(4) この食事の前の行為にはイエスの食事の特徴が非常によく表れています。「パンを取り、天を仰いで、感謝(賛美)の祈りを唱え」はほとんど1つの動作です。パンを取り、天を仰ぐのは、感謝(賛美)の祈りを唱えるためなのです。「このパンがたまたまここにあるからラッキー!」というのではなく、「このパンは神から与えられたものだ」ということを深く受け止める行為だと言えるでしょう。「裂いて、弟子たちに与える」もほとんど1つの動作です。裂くのはパンを一人で食べずに皆と分かち合うためだからです。イエスにとって「共に食事する」ことは、神とのつながりを深く味わい、人と人とのつながりを深く味わうことでした。わたしたちは日々の食事の中でそのことを感じているでしょうか?
最後の晩さんという、イエスが弟子たちとともにした最後の食事は、地上でイエスが行なっていたイエスの食事の頂点でした。そこでイエスは、この神とのつながり、人と人とのつながり、そしてご自分と弟子たちのつながりを永続するものにしようとされたのです。きょうわたしたちは、特別に聖体をとおして神・イエスとのつながり、人と人とのつながりを味わうように招かれていると言えるのではないでしょうか。
なお、17節で「パンの屑(くず)」と訳されている言葉は、直訳では「裂かれたもの」を意味します。これはもちろんイエスが裂いたパンの断片の意味ですから、むしろ「パン切れ」と訳したほうが良さそうです。残ったパン切れが12カゴにもなった、ということにも、イエスのもとにある豊かさが表わされています。12という数が使徒の数と同じであることに意味があるのでしょうか。もし意味があるとすれば、使徒たちがこの場にいない人々にもパンを分け与える使命をいただくことを暗示しているのかもしれません。
2007年06月03日
三位一体の主日 (2007/6/3 ヨハネ16・12-15)
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福音のヒント
(1) ヨハネ13章から始まった最後の晩さんの席でのイエスの説教は、イエスが世を去り、目に見える形ではいなくなるが、違う形で居続ける、という大きな約束です。その中で聖霊を送る約束が4箇所あります(14章16-17節、14章26節、15章26節、16章7-15節)。きょうの箇所はその最後の部分から採られています。この約束はイエスの復活後に実現します。「彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。・・・』」(ヨハネ20章22節)。
「真理の霊」の「真理」はギリシア語では「アレーテイアaletheia」と言います。元の意味は「隠されていないこと」です。ギリシア人にとって、真理とは、ふつうは見えないが覆いを取られて現れてくるそのものの本当の姿だと言えるでしょう。一方、真理と訳されるヘブライ語は「エメト」です。この言葉は「アーメン(確かに)」という言葉と同じ語根で「確かなもの、頼りになるもの」を表します。ヨハネ福音書の「真理」には「隠れていた神の本質が現されること」というギリシア語的なニュアンスと「本当に確かで、頼りになるもの」というヘブライ語的なニュアンスの両面があると考えられます。
「ヨハネ福音書における真理とはイエスご自身のことである」と言った人がいます。イエスこそ、神の本当の姿を明らかにした方であり、わたしたちの救いのために本当に確かで頼りになる方なのです。「真理の霊」と言われる聖霊の働きは、何よりも真理であるイエスにわたしたちを結びつけることだと言ったらよいかもしれません。人間の力を超える何かしら大きな力を感じたとしても、それを聖霊の働きだということはできません。大切なのは、その力がわたしたちをイエスとその生き方(愛)に結びつけるかどうかなのです。
(2) 16章13節で「その方」と訳されている言葉はギリシア語では男性形の指示代名詞ですが、もちろん聖霊のことを指しています。「霊(プネウマpneuma)」はギリシア語では中性名詞なので、中性形の指示代名詞(訳せば「それ」)が使われてもおかしくないのですが、ヨハネはあえて男性形で書いています。これはヨハネ14章16節などで聖霊が男性名詞の「弁護者(パラクレートスparakletos)」と呼ばれているからでしょうか。聖霊とは、素朴に言えば「神の(あるいは復活したイエス)の目に見えない働き」と言うことができます。しかし、ヨハネ福音書は、単なる「働き」ではなく、弟子たちのうちにとどまり、いつも弟子たちとともにいてくださる「方」という面を強調して、聖霊のことを人格を持つもののように語っているのだとも考えられます。
ここでの聖霊の働きは「真理をことごとく悟らせる」ことです。「真理をことごとく」と訳された部分は「真理全体を」とも訳せるような言葉が使われています。「悟らせる」には「道案内する、導く」という意味の言葉が使われています。イエスはこれまで、いろいろな言葉を語ってきました。しかし、これからは聖霊が弟子たちを導くのです。聖霊の導きは、イエスがこれまで語ってきたことと別のことではなく、イエスが語られたことを、わたしたちにもっと深く理解させ、わたしたちがわたしたちの現実の中でイエスの言葉をどう生きるべきかをはっきりと示すことだと言えるのではないでしょうか。
(3) 「唯一の神が父と子と聖霊である」という三位一体の教えは、学者が頭の中で考え出した教えではありません。イエスの弟子たちの救いの体験をもとにして、古代のキリスト教の発展の中で最終的にまとめられた表現なのです。
イエスは、2000年前に一回限りの地上の生涯を生き、その言葉と生き方をもって、決定的な形で神を示してくださいました。イエスの派遣は人間に対する神からの決定的な救いの働きかけでした。弟子たちはイエスの生涯とその最後を見て、そのことを確信するに至りました。この確信を弟子たちは「イエスこそがキリストである」という言葉で表現し、人々に伝えていきますが、その福音告知の活動の中で、自分たちがいつも神によって支えられ、大きな力で導かれていることを体験しました。その体験を彼らは「聖霊がわたしたちのうちに働いている」と表現したり、「復活して今も生きておられるイエスがともにいる」(マタイ28章20節参照)と表現したのです。この働きは、そのときから2000年後の今に至るまで、キリスト信者が経験してきていることだとも言えるでしょう。
(4) つまり、神は二通りの仕方で、人間に対する決定的な働きかけをしてくださったということになります。
1つは「イエス」=歴史の中で一回限り。明確な言葉と生き方をもって語りかける。
もう1つは「聖霊」=いつの時代のどこの人にも。心の中に直接働きかける。
大切なのは、「三位一体」という言葉よりも、この二通りの神の働きかけをわたしたちがしっかりと受け取ることではないでしょうか。きょうの「福音のヒント」の図が示そうとしているのは、三位一体そのものというよりも、父と子と聖霊とわたしたちの関係です。上から下に向けての線は、上で述べた神の二通りの働きかけを表しています。これに対して、下から上に向かう線は、わたしたちが神に向かうときの姿勢を表しています。わたしたちは、イエスの言葉と生き方を見つめ、わたしたちの内面に直接働きかける神の力(聖霊)に支えられて、御父に向かって歩みます。祈りの体験もそうでしょう。聖霊という内面的に働きかける神の力があるからわたしたちは祈ることができます。そしてわたしたちの祈りは、いつもイエスをとおして(イエスの祈りに結ばれて)、御父にささげられるのです。
わたしたちは、そういうダイナミックな神との関わりを生きているでしょうか?
2007年05月27日
聖霊降臨の主日 (2007/5/27 ヨハネ14・15-16、23b-26)
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福音のヒント
(1) 聖霊とは何でしょうか。「聖霊」の「聖」は「神の」という意味です。「霊」はギリシア語で「プネウマ」、ヘブライ語で「ルーアッハ」と言い、どちらも「風」や「息」を意味する言葉です。古代の人々は、目に見えない大きな力(生命力)を感じたときに、それを「霊」と呼んだのでしょうし、それが神からの力であれば「聖霊」と呼んだのです。
聖霊の働きは非常に広いものです。すべての命が生きているのは、聖霊という神の働きによることです(創世記2章7節、詩編104編29-30節参照)。この広さは大切です。一方、聖書の中で聖霊の働きが特に意識されることがあります。それは主に2種類の体験の中でのことです。1つは、人が神から与えられたミッション(派遣・使命)を果たそうとするときの体験であり、もう1つは神と人・人と人とが結ばれるという体験です。
(2) 弱い人間が神から与えられるミッションを生きようとするとき、神が不思議な力で助けてくださる、ということを体験します。旧約聖書では、王や預言者がその使命を受けるとき、聖霊が降(くだ)ったと表現されています(Ⅰサムエル16・13、イザヤ61・1参照)。新約聖書の中では、イエスがヨルダン川で洗礼を受けたときがそうでしたし、きょうの使徒言行録の箇所でペンテコステの日に使徒たちが福音を告げ始めたときもそうです。これらのことはわたしたちの洗礼や堅信の秘跡(さらに叙階・結婚・病者の塗油・ゆるしの秘跡)につながっています。もちろん、秘跡を受けるときだけでなく、人が神からのミッションを生きようとするときに繰り返し体験することだ、とも言えるでしょう。
また、人と人の間にある無理解や対立が乗り越えられて、相互の理解と愛が生まれるとき、それも神の働きとしか言いようがないことでしょう。神の霊が人間の心に働きかけて信頼や愛の心が呼び覚まされるのです。このような神の働きも聖書の中で「聖霊」と表現されています。使徒言行録2章のように、互いに理解し合えないと思われていた言葉の違う人々の間に相互理解が生まれるとするならば、それは聖霊という神の力によるのだと感じられたのでしょう。パウロはⅠコリント12章で、聖霊の賜物(カリスマ)がいろいろあることを認めながら「わたしはあなたがたに最高の道を教えます」(31節)と述べて、続く13章で「愛」について語ります。まさに「霊の結ぶ実は愛」(ガラテヤ5・22-23)なのです。
(3) きょうの福音の箇所は、最後の晩さんの席でイエスが語られた約束です。16節と25節の「弁護者」はギリシア語で「パラクレートスparakletos」です。「パラpara」は「そばに」、「クレートス」は「カレオーkaleo(呼ぶ)」という動詞から来ていて「そばに呼ばれた者」の意味です。裁判のときにそばにいて弁護してくれる人を「パラクレートス」と言ったので新共同訳聖書は「弁護者」と訳しますが、もっと一般的に「そばにいて助けてくださる方」と受け取って「助け主」や「慰め主」と訳されることもあります。
ヨハネの第一の手紙2章1節には「御父のもとに弁護者(パラクレートス)、正しい方、イエス・キリストがおられます」という言葉があります。これは復活して神のもとに上げられたイエスのことですが、イエスこそが第一の「パレクレートス」であるということができます。そこで、ヨハネ福音書14章16節では、聖霊について「別のパラクレートス」という言葉が使われているのでしょう。
(4) 15節の「わたしの掟」、23節の「わたしの言葉」はどちらも「互いに愛し合いなさい」(13章34節、15章12節)という掟を指しています。15節「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」と23節「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る」はほとんど同じ内容です。そして、15節に続く16節では「父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」と言われ、23節では続けて「わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む」と約束されています。実はこの2つのこと、つまり、聖霊が弟子たちに与えられるということと、父とイエスが弟子たちと共に住む、ということはほとんど同じことだと言うことができます。
26節では「聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」と約束されています。聖霊が教えるのですが、その教えはイエスがこれまで教えてきたことと違うのではありません。「イエスのことばを思い出させる」というのは、ただ単に忘れていた言葉を思い出すという意味ではないでしょう。わたしたちが人生の中でさまざまな体験をしたとき、「そうだ、確かにイエスのおっしゃったあの言葉は真実なのだ」と悟ることを指しているのではないでしょうか。
ヨハネ福音書14~16章でイエスが約束される聖霊の働きは、一言で言えば、わたしたちを神とイエスに結びつける働きと言うことができるでしょう。
「聖霊」を人間の頭の中で抽象的に理解しようとしてもうまくいかないでしょう。目に見えない神の働き、復活して目に見えないが今もわたしたちとともにいてくださるイエスの働きが、聖霊の働きなのです。「聖霊」という言葉よりも大切なのは、わたしたちの日々の生活の中に、わたしたちの集いの中に、今も神が、キリストが共にいて、何かをしてくださっているということです。わたしたちはどのようなときにそう感じることができるでしょうか。
2007年05月20日
主の昇天 (2007/5/20 ルカ24・46-53)
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福音のヒント
(1) ルカ24章では、エマオの弟子たちが復活したイエスに出会った話(13-35節)に続き、エルサレムで集まっていた弟子たちにイエスが姿を現わします(36節以降)。弟子たちはイエスの復活をなかなか信じられません(37、41節)。イエスは彼らの目の前で食事をし、そして言葉を語ります。こうして弟子たちは信じる者に変えられていきます。
きょうの箇所の直前の45節に「そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて」という言葉があります。46節で「次のように書いてある」と言いますが、続く言葉は旧約聖書の特定の箇所の引用ではありません。旧約聖書全体がこのことを告げているということでしょう。「(聖書に)書いてある」というのはそれが神の救いの計画であることを表す表現でもあります。そのことを悟ることができるのは、イエスが「彼らの心の目を開」くことによって可能なのです。
イエスによって心の目が開かれ、聖書の言葉を悟ることができるようになるという体験はわたしたちの中にもあるのではないでしょうか?
(2) 「罪の赦しを得させる悔い改め」は、別の写本では「悔い改めと罪の赦し」となっていますが、意味に大差はないでしょう。「悔い改め」はギリシア語では「メタノイアmetanoia」で、「回心」とも訳される語です。この「悔い改め」と「罪のゆるし」はいつも密接に結びついています(ルカ3章3節、使徒言行録2章38節参照)。
創世記2章7節に「主なる神は、土の塵(ちり)で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」とあります。ここに聖書の根本的な人間観・生命観があります。人のいのちは神によって生かされたものであり、神とのつながりを失えば人は滅びるしかありません。人間が自分のほうから神とのつながりを断ってしまうことが「罪」です(創世記3章のアダムとエバの物語)。「罪の赦し」とは神がご自分とのつながりを見失った人間とのつながりを取り戻してくださることです。その神の赦しに応える人間の側の態度が「悔い改め」なのです。このことが復活したイエス(いのちの主)の「名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」。これこそが、神の救いの計画なのです。
(3) ルカ福音書では、イエスの活動はガリラヤから始まり、エルサレムでの死と復活によって完成します(これが福音書の内容です)。そして使徒たちの活動はそのエルサレムから始まって全世界へと広がっていくことになります(これが使徒言行録の内容です)。
弟子たちはもちろんイエスの死と復活の証人ですが、その後、悔い改めと罪のゆるしが全世界に宣べ伝えられていくことの証人でもあります。「弟子たちが告げ知らせる」のではなく、「告げ知らされる…ことの証人となる」(47,48節)というのは面白い表現です。もちろん、弟子たちが福音のメッセージを伝えていくのですが、むしろ、弟子たちをとおして、時間と空間を超えた復活のイエスがあらゆる場所の、あらゆる時代の人々に福音を伝えていくという意味に受け取ることができるでしょう。「父が約束されたもの」「高い所からの力」はどちらも聖霊のことです。弟子たちは聖霊という神の力に支えられて、「証人となる」という使命を果たしていくことになります。なお、この約束は使徒言行録2章に伝えられるように、聖霊降臨の日(ペンテコステ)に実現します。
聖霊が、あるいは目に見えないが今も生きておられる復活のイエスが、福音を告げ知らせる働きの本当に主人公だと言ってもよいのでしょう。わたしたちの使命は、自分の力で頑張って福音を伝えるというよりも、人々の中に働いている聖霊、あるいは復活したイエスの働きを見いだし、あかしすることだと考えてみてはどうでしょうか。
(4) 天に上げられるイエスを見て、弟子たちは「イエスを伏し拝」みます。この「伏し拝む」は「礼拝する」ことを表す言葉で、ルカ福音書の中で弟子たちがイエスを礼拝したと言われているのはここだけです。つまり、ここで初めて弟子たちはイエスとはどういう方であるかを本当に悟ることになったわけです。こうして、イエスが弟子たちに特別な形で姿を現す期間は終わり、目に見えない形で彼らとともに生き続ける時代が始まります。
ルカは、「復活→昇天→聖霊降臨」を時間的な流れの中で起きた出来事として伝えていますが、他の福音書はそうではありません。この3つは別々の出来事というよりも、イエスの死の後に実現したこと全体のいろいろな側面を表しているとも言えるのではないでしょうか。「復活」という言葉は、イエスが死に打ち勝ち、今も生きている、という面を表します。「昇天」(あるいは「高く上げられる」)という言葉は、イエスが単に地上の生に舞い戻ってきたのではなく、神のもとに行き、そこで神とともに永遠のいのちを生きる方となったという面を表します。そして「聖霊降臨」はイエスが目に見えないけれどもわたしたちのうちに今も働いていてくださることを表していると言ったらよいでしょう。
この主の昇天の出来事はわたしたちの希望でもあります。きょうのミサの集会祈願の中に、「主の昇天に、わたしたちの未来の姿が示されています」という言葉があります。わたしたちの歩みは肉体の死で終わる歩みではなく、死を通って最終的に神のもとに(天に)至る歩みなのです。そのことを本気で感じ、受け取ったときに、今のわたしたちにとって目の前の喜びや楽しみ、苦しみや悲しみがどのような意味を持っているかが見えてくるのではないでしょうか。
2007年05月13日
復活節第6主日 (2007/5/13 ヨハネ17・20-26)
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福音のヒント
(1) ヨハネ福音書は、最後の晩さんの席で起こったことを13~17章までの長い記録として伝えています。13-16章は主に「告別説教」と呼ばれるイエスの遺言のような言葉です。そして17章でイエスは父である神に向かって祈ります。6節以降でイエスは弟子たちと信じるすべての人々のために祈りますので、「大祭司としての祈り」と呼ばれることがあります。「ヘブライ人への手紙」はイエスを「大祭司」と呼びますが、ヨハネ福音書がここでイエスを大祭司として示そうとしているとまで考える必要はなさそうです。
17章は次のように始まります。「イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。『父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください』」(1節)。1-5節の祈りの中で、イエスはまず、父である神とご自分との深い一致を確認するのです。
(2) 6-20節の弟子たちのための祈りの中には次のような言葉があります。
「わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです」(11節)。
「真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです」(17-19節)。なお、この「聖なる者とする、ささげる」はギリシア語で「ハギアゾーhagiazo」です。これは「聖なる」と訳されるギリシア語の「ハギオスhagios」という形容詞を動詞にした言葉ですので、3箇所とも「聖別する」「聖別される」と訳したほうがよいかもしれません。新共同訳が「ささげる」と訳すのは、この言葉の中に「完全に神のものとなる」という意味だけでなく、「自分のすべてをいけにえとして神にささげる」という意味を受け取っているからのようです。
(3) これに続くのがきょうの箇所ですが、ここでは「彼ら(弟子たち)の言葉によってわたしを信じる人々のために」イエスは祈ります。まさに後の時代のわたしたちのための祈りだと言えるでしょう。それは生前のイエスの最後の日の祈りというよりも、むしろ、目に見えないが今もわたしたちのうちに生きているイエスの取り次ぎの祈りと言うべきかもしれません。「すべての人を一つにしてください」とイエスは祈りますが、この「すべての人」は全人類のことでしょうか?文脈を見ると「キリストを信じるすべての人」と採ったほうが良さそうです。21,23,25節に「世」という言葉があり、ここでは「キリストを信じる人々」と「キリストを知らない世」とが対比して語られているからです。
(4) この信じる人々の一致は、「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように」(21節)と言われる一致です。互いが互いのうちに住むという、イエスと父との一致にあずかることなのです。23節で「(あなたが)わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられた」とあり、26節では「わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいる」と言われているように、「一つになる」ことは「愛する」ことと結ばれています。ヨハネ13章34節、15章12,17節に「互いに愛し合いなさい」というイエスの新しい掟がありました。一つになるということは画一的になるということではなく、むしろ互いに深く結ばれ、互いに大切にし合い、そこに調和が生まれている、ということです。わたしたちキリスト信者の一致を考えるとき、このことは大切でしょう。
ミサを「一致の秘跡」ということがあります。ミサはキリストとわたしたち、キリストに結ばれたわたしたち同士の深い一致のしるしです。一つの食卓を囲み、一つのパンと一つの杯に共にあずかり、神からいただく恵みを皆が分かち合うところにある一致を表すものなのです。これも「一つになる」ということを考えるときのヒントになるでしょう。
(5) キリスト者が一つであることによって、「世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります」(21節)と言われ、また、「世が知るようになります」(23節)とも言われます。このことは大切です。
25節では「世はあなたを知りません。…この人々は…知っています」と言われています。「知る」はヨハネ10章の羊と羊飼いのたとえの中で何度も使われた言葉ですが、知識の問題というよりも、両者の深い交わりを表す言葉です。ヨハネの時代の教会には、キリストを受け入れない「世」との厳しい対立がありました。ここでもその状況が反映していることは確かです。しかし、世は決して救われないと決めつけているのでありません。むしろイエスも弟子たちも世に「遣わされた者」なのです。神の望みはすべての人が愛と平和のうちに生きることです。そのためにイエスの弟子は世に派遣され、神の愛とイエスの愛をあかしするのです。キリスト者の一致が大切なのは、それが派遣された者としての生き方だからであり、最終的には全人類の一致のためだと言えるのではないでしょうか。きょうの箇所の祈りに込めたイエスの思いを深く受け取りたいと思います。
2007年05月06日
復活節第5主日 (2007/5/6 ヨハネ13・31-33a,34-35)
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(1) 31節で「ユダが出て行く」ことと「栄光を受ける」ことがつながっています。ヨハネ福音書では、イエスの「受難」と「栄光」はほとんど一つのこととして結びついています。しかし、日本語の「栄光」の持つ華やかな成功のイメージだけでは、受難の時が栄光の時だということは理解できないでしょう。
「栄光」はヘブライ語で「カボード」、ギリシャ語で「ドクサdoxa」と言います。「カボード」の元の意味は「重さ」です。本来のニュアンスは「そのものの本当の価値」ということのようです。「ドクサ」のほうはむしろ「外に現れた輝き」と言ったらよいでしょうか。パウロは「太陽のドクサ、月のドクサ、星のドクサがあって、それぞれ違いますし、星と星とのドクサにも違いがあります」(Ⅰコリント15・41)と言っています。まさに「輝き」です。ヨハネ福音書は、「ドクサ」という言葉をヘブライ語とギリシア語の両方のニュアンスを込めて、「そのものの本当の素晴らしさが輝き出ること」という意味で使っているようです。「栄光を与える」と訳されたことばは「ドクサゾーdoxazo」という動詞の形で、「栄光を受ける」はその受動態の形が使われています。「そのものの本当の素晴らしさを現す」「そのものの本当の素晴らしさが現される」という意味です。
(2) なぜ、ヨハネにとって、受難の時が栄光の時なのでしょうか。それはヨハネがイエスの受難の中に「愛の極限の姿」を見ているからなのでしょう。受難の物語を始めるヨハネの言葉はこうでした。13章1節「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」。受難と死においてイエスは「愛そのものである神」と完全に1つになり、神が愛であることを現し、神もまたイエスとはどういう方かを現しました。だからこそヨハネにとって、受難の時は、「イエスが神の本当の価値を輝かせる」栄光の時であり、同時に「父である神がイエスの本当の価値を輝かす」栄光の時なのです。
(3) イエスが世を去り、残るのは「愛の掟」です。「互いに愛し合いなさい」という言葉はヨハネ15章12節にもありますが、そこではこの掟が「わたしの掟」と呼ばれています。「善いサマリア人のたとえ」(ルカ10・30-36)で見られるように、愛とは心から自然に沸き起こるものであるとするならば、愛が「掟」であるというのはおかしいかもしれません。この「掟」は単なる命令や義務というよりも、むしろ生き方の根本原理だと言ったらよいのではないでしょうか。これから弟子たちの生き方の中心になるのは「互いに愛し合う」ことなのだ、というイエスの大きな約束として受け取ることができるでしょう。
(4) 「互いに愛し合う」というと教会の中で、キリスト信者同士が大切にし合う、言葉を代えて言えば「排他的な愛」だと受け取られてしまうかもしれません。ヨハネ福音書が書かれた状況では、「イエスを信じる人々」と「イエスを受け入れない世」との厳しい対立がありましたから、「せめて自分たちの中では愛し合おう」ということを強調しているのかもしれません。しかし、イエスの教えは本来、ウチとソトを区別するようなものではなかったはずです。あまりこのことにこだわらないほうがよいでしょう。
「互いに愛し合う」の「互いに」には別のニュアンスもあるかもしれません。「自分がこれだけ愛した」という自己満足的な愛からわたしたちをもっと豊かな人とのかかわりに招いていると考えることもできるのではないでしょうか。愛は一方通行ではなく、人と人との間にある、深い心のつながりを表すものであるはずだからです。
(5) 旧約聖書にも「隣人を愛しなさい」という掟がありました(レビ記19・18)。ここでこの「掟」が「新しい掟」と呼ばれるのはなぜでしょうか。この掟の「新しさ」を二つの面から考えることができます。一つの新しさは、「愛する」だけでなく「互いに愛し合う」という点ですが、これについては上に述べました。もう一つの新しさは「わたしがあなたがたを愛したように」という点です。「わたしがあなたがたを愛したように」の「ように」は単なる模範ではありません。「イエスが2000年前の誰かを愛した、それを模範としてわたしたちも愛さなければならない」というのではないのです。「イエスがわたしたちを愛してくださった、だからその愛を受けたわたしたちは愛し合いたいし、愛そうとするのだ」ということではないでしょうか。
わたしたちが愛し合うとき、わたしたちがイエスの「弟子であることを、皆が知るようになる」(35節)ということも大切です。わたしたちがイエスの弟子であること(キリストが今も生きていてわたしたちを導いていてくださること)は、根本的にわたしたちキリスト信者の生き方をとおして表されるのです。本屋にいくら聖書が積んであっても、わたしたちキリスト信者がいくら聖書を学んでいても、わたしたちがそれに基づいて生きていなければなんにもなりません。ヨハネの第一の手紙にはこういう言葉もあります。
「いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全(まっと)うされているのです」(Ⅰヨハネ4・12)。
2007年04月29日
復活節第4主日(2007/4/29 ヨハネ10・27-30)
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(1) 短い箇所ですが、羊飼いであるイエスとわたしたち(羊)との深いつながりを感じることができるでしょう。1つのキーワードは「聞く」という言葉です。27節では「聞き分ける」と訳されていますが、ギリシア語では「アクオーakuo」で、普通はただ「聞く」と訳される言葉です(ここでは他の人の声と違うものとして聞き分けるという意味で受け取られています)。この「聞く」ということばは、ヨハネ10章に何度も出てきます。3節「門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す」。8節「わたしより前に来た者は皆、盗人(ぬすびと)であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった」。16節「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける」。いずれも「アクオー」という動詞が使われています。
8節のように、「聞く」には「聞き従う」の意味もあります。日本語でも「聞く」は、ただ単に「耳で聞く」だけではありません。「お母さんの言うことを聞く」は「聞いてそのとおりにする」=「聞き従う」の意味があります。「神の声を聞く」というのは、単に言葉として聞くのではなく、そのことばを自分に向けて語られた神の呼びかけとして聞き、それに応えていくことです。きょうの27節も「聞き従う」の意味で受け取ることができます。わたしたちがイエスの声を聞く、というのはどのような体験でしょうか。
(2) もう一つのキーワードは「知る」です。27節「わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う」。この「知る」はただ単に知識として知っているというのではありません。むしろ、両者の深いつながりを表すことばなのです。これも日本語で「○○さんを知っていますか」というときの知るに似ています。この質問は、「知識として知っているか」という意味だけでなく「かかわりがあるか、会って話したことがあるか」という関係を問う問いなのです。聖書の中でも「知る」は、いつも「かかわりをとおして知ること」を意味しています。
10章4節には「羊はその(羊飼いの)声を知っている」という表現があります。14節でも「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである」と言われています。「互いが互いを知っている」ということは本当に深く結ばれた関係であることを表しています。何よりもイエスがわたしたちを知っていてくださるということはどれほど大きな恵みでしょうか!
(3) 10章のたとえは、9章でイエスが生まれつき目の見えない人をいやした物語から直接続けて語られています。羊のために命を差し出す良い羊飼いの姿は、安息日であっても目の前の苦しむ人に救いの手を差し伸べたイエスの姿そのものだと言えます。
9章の盲人の話を思い出しましょう。彼はイエスによって目に土を塗られ、シロアムの池に行っていやされました。つまり、彼はイエスの姿さえ知らずにいやされたことになります。彼はイエスという方が自分をいやしてくれたことを知っていますが、イエスについて、それ以外の知識は何もありません。9章12節で「その人はどこにいるのか」と問われた彼は「知りません」と答えます。さらにファリサイ派の人々に問い詰められて、彼はとうとうこう言います。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです」(9・25)。最終的に9・35以下で、彼は再びイエスに出会い、「主よ、信じます」と告白します。しかし、この人のイエスに対する根本的な「知り方」は、出会いをとおして自分が変えられたという体験だったのです。わたしたちはどのようにイエスを「知っている」でしょうか。
(4) イエスの復活によって実現したことは、次の2つのことだと言えるでしょう。
1つはイエスと父とのつながりの完成。父である神は、イエスを死の滅びの中に見捨てることなく、ご自分のもとに引き上げ、永遠に父である神とともに生きるものとしてくださった。「わたしと父とは一つである」(30節)ということはイエスの復活においてはっきりと示されるのです。
もう1つは、イエスとわたしたち、父である神とわたしたちとのつながりの完成です。復活したイエスは、目に見えないが今も生きていて、わたしたちとともにいてくださる。このイエスとわたしたちの絆(きずな)は決して絶たれることがない。また、イエスをとおして父である神と結ばれたわたしたちと神との絆も決して絶たれることはない。「だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない」(28節)、「だれも父の手から奪うことはできない」(29節)と、この箇所で約束されているとおりです。なお、29節の「わたしの父がわたしにくださったもの」はイエスに従う羊(信じる人々)のことでしょう。しかし、この箇所を「わたしに(彼らを)くださった父は、すべてのものより偉大」と読む写本もあります。
イエスを死の滅びの中に見捨てなかった神は、決してわたしたちをも見捨てない。イエスは今もわたしたちとともにいて、わたしたちを決して見捨てることはない。これが福音の約束です。厳しい現実や死に直面したときにこそ、この約束はわたしたちに大きな力を与えてくれるのではないでしょうか?
2007年04月22日
復活節第3主日 (2007/04/22 ヨハネ21・1-19)
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福音のヒント
(1) 「ティベリアス湖」はペトロたちが漁師をしていたガリラヤ湖の別名です。復活したイエスと出会った弟子たちは、20章21節で「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」と言われていたのに、ここでまた漁師の仕事に戻っているのは不自然な感もあります。登場する弟子たちの名前からすると同じ弟子たちのようですが、先週の箇所とつなげて読むよりも、復活したイエスとの出会いを伝える別の物語として読んだほうが良いかもしれません(14節の「3度目」という言葉にもかかわらず、これが弟子たちにとって初めての出会いであるように感じられるのではないでしょうか)。イエスが十字架で死んでしまった後、失望し、故郷に帰り、以前の生活と仕事に戻っていった弟子たちがいたのでしょうか。イエスに希望をかけていたが、結局ダメだった。その上、漁をしてもうまくいかない。ここには彼らの大きな失意を感じることができるでしょう。
「不思議な大漁」の話は今年の年間第5主日に読まれたルカ福音書5章1-11節にもありました。それはイエスの活動の初期の話で、ガリラヤ湖の漁師であったペトロたちがイエスの弟子になっていくきっかけとなった出来事でした。きょうのヨハネの箇所はもちろん、復活後の出会いの物語です。この2つの記事がどのように関連しているかはよく分かりません。ただ、失望と落胆の中でイエスに出会い、喜びと希望を取り戻していったという体験は、イエスの生前にも、そして復活後にも何度もあったことなのでしょう。
(2) 4節にあるように、復活したイエスは一目見ただけではそれと分からない姿だったようです。「イエスが生きている、わたしたちと共にいてくださる」ということはいつも心の目が開かれなければ悟れないことなのです。イエスの愛しておられた弟子(おそらくヨハネ)が「主だ」と気づいたのはなぜでしょうか。ルカ5章にあるような不思議な大漁の出来事をかつて体験していたのだとすれば、イエスの生前に起こった出来事と目の前で起きている出来事が結びついたから「主だ」と悟ったと言えるかもしれません。「主だ」は「主がおられる」とも訳すことができます。福音書の伝える出来事が今の自分たちの現実と結びつく時に「ここに主がいてくださる」と気づくという体験は、わたしたちにもあるのではないでしょうか? (なお、8節の「二百ぺキス」は約100メートルです)
(3) 9節に「陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった」とあります。結局、イエスがすべてを前もって用意していたわけです。同時にイエスは弟子たちの働きも無駄にはしていません(10節「今とった魚を何匹か持って来なさい」)。こういう体験はわたしたちの中にもあるのではないでしょうか?自分が一生懸命やったつもりだったのに、実はイエス(神)のほうがすべてを整えていてくれたというような体験です。その中でわたしたちの働きは決して無駄にはならなかったのではないでしょうか。「さあ、来て、朝の食事をしなさい」という言葉でイエスは弟子たちを食卓に招きます。13節のパンと魚は、「5つのパン」の出来事を思い出させます(ヨハネ6章参照)。聖体ともつながるイメージでしょう。
(4) 15節以下で、イエスが3度ペトロに「わたしを愛するか」と問いかけた話の背景には、イエスが逮捕されたときにペトロが3度イエスを知らないと言ったことがあります(ヨハネ18・17,25,27参照)。
3回のやり取りの中で「愛する」と訳された言葉は、ギリシア語では「アガパオーagapao」と「フィレオーphileo」という2種類の言葉です。一般的に「アガパオー」は、「神の愛」というときに使われる「本当に相手を大切にする愛」であるのに対して、「フィレオー」はどちらかというと「人間的な愛着」を表すときに使う言葉です。この箇所で厳密に区別があるかどうかは断言できませんが…。
ここでは最初、イエスは「アガパオー」で問いかけますが、ペトロは「フィレオー」で答えます。2回目のやり取りも同じです。イエスを否認したペトロが「アガパオー」での問い(「あなたはわたしを大切にしているか」という問い)に対して、「フィレオー」(「わたしはあなたが好きです」というような意味の言葉)でしか答えられない気持ちはよく分かるのではないでしょうか。そして、イエスは3度目には「フィレオー」で問いかけています。「あなたを大切にしています」と言い切ることができず、ただ「あなたのことが好きです」としか言うことのできないペトロを見て、イエスはペトロのところまで降りてくると言えるでしょうか。このように考えると、この対話は罪の重荷に苦しむペトロにとって、イエスの愛とゆるしを受け取る大きな体験だったと言うことができるでしょう。
(5) 「わたしの羊を飼いなさい(わたしの羊の世話をしなさい)」は、ペトロに与えられた特別な使命と見ることができるでしょう。18節の言葉、「あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」はペトロの将来を暗示していますが、実際にペトロは紀元64年ごろローマで殉教したと伝えられています。もしかしたらこの言葉もわたしたちの中にもある1つの実感ではないでしょうか。若い時は自分の思い通りになったことがだんだんそうは行かなくなる。望まない地位に着かされたり、病気や高齢で思うことができなくなったり、という経験は多くの人にあることでしょう。その中に「神の栄光」(19節)が現れると感じることができれば幸いです。
2007年04月15日
復活節第2主日 (2007/4/15 ヨハネ20・19-31)
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(1) 「弟子たちはユダヤ人を恐れて」(19節)とあります。先生であるイエスが逮捕され、殺されていった、自分たちにもどんな迫害が及ぶか分からない、町にはイエスの残党を探して捕らえようとしている人がいるかもしれない。弟子たちは恐怖におびえ、1つの家に閉じこもり、中から鍵をかけて災いが過ぎ去るのを待っていました。
そこへイエスが来て、弟子たちの集いの「真ん中に」立ちます(26節もそうです)。復活したイエスは時間と空間を超越した方ですから、戸をすり抜けてきたと考える必要はありません。イエスは「あなたがたに平和」と言います。これは普通のあいさつのことば(ヘブライ語なら「シャローム」)でもありますが、21、26節で繰り返されるところを見ると、よほど印象的なことばだったと言えるかもしれません。
弟子たちが求めていたのは自分たちの身の安全でした。しかし、本当の平和は鍵をかけて閉じこもるところにはありません。いくら鍵をかけていても心は恐怖でいっぱいなのです。本当の平和はイエスがともにいてくださるところから来ます。イエスが共にいてくださる、だから何も恐れることはない、これがキリストの平和です。この平和に満たされたとき、扉を内側から開いて出て行くことができるのです。ミサの最後に「行きましょう、主の平和のうちに」と言われるとき、いつも思い出したい場面です。
(2) 復活したイエスとの出会いは、弟子たちにとってゆるしの体験でもありました。「ゆるし」とは「和解、関係回復」の出来事です。父との縁を自ら断ち切ってしまった放蕩息子を、父親が再び子として受け入れること(ルカ15・11-32)、これがイエスの語るゆるしのもっとも明快なイメージです。イエスを見捨てて逃げてしまった弟子たちはイエスの弟子であることにおいて失格者でした。しかし、復活したイエスは、弟子たちを責めるのではなく、再び弟子として受け入れ、新たに派遣していきます。
(3) 「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」(21節)。これまで父である神に派遣された者としてイエスが地上で行なってきたことを、今度は弟子たちが行なっていくことになります。そして弱い人間である弟子たちが、この使命を果たすことができるように「聖霊」という神からの力が与えられるのです。弟子たちの使命の中心は「ゆるし」、あるいは「愛」と言ってもよいでしょう(ヨハネ13・34-35、15・12参照)。「ゆるし」は「愛」の典型だからです。23節の「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」は、ゆるすもゆるさないも弟子たちの好きにしてよいという意味ではなく、だからゆるしなさい、あなたがたが人をゆるすことによって、神のゆるしがその人の上に実現するのだ、と受け取るべきでしょう。人からゆるされる(愛される)ことをとおして神のゆるし(愛)を実感することができたという体験はわたしたちの中にもあるのではないでしょうか。
(4) 「トマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった」(24節)。ルカ24章のエマオの弟子たちも他の弟子たちから離れていきましたが、イエスの死という出来事は、弟子たちのコミュニティーをバラバラにしてしまう出来事でもあったようです。トマスは、最後までイエスに従うという覚悟(ヨハネ11・16参照)を果たせなかった自分に失望し、他の弟子たちにも失望して、弟子の集いから離れていたのかもしれません。しかし、このトマスにイエスが生きているという知らせが届きます。トマスにとって「主を見た」というほかの弟子の言葉は、とても信じられない言葉であったと同時に、信じれば自分の人生のすべてが変わる、という言葉でもありました。トマスは、もしそれが本当ならば自分で確かめたかったのです。だからこそ、「八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた」のではないでしょうか。そしてイエスはトマスを信じる者に変えてくださいました。
トマスは弟子たちの集いの中で、弟子たちの集いの真ん中にいるイエスに出会いました。わたしたちはどこで復活のイエスに出会うことができるでしょうか。
(5) 「見ないのに信じる人は、幸いである」(29節)は、わたしたちへの祝福のことばだと言えるのではないでしょうか。使徒たちの後の時代のキリスト信者は、皆「見ないで信じている者」だからです。イエスの復活を信じるとは「イエスと神とのつながりは死によって断ち切られなかった、イエスとわたしたちとのつながりも死によって断ち切られない」と信じることです。イエスの復活を信じることは「愛を信じる」というのと似ています。「目に見えないものは信じない」と言い張ることも可能かもしれませんが、「信じること」は単なる知的興味の問題ではなく、わたしたちの生き方の根幹にかかわることなのです(トマスにとってはまさにそうでした)。
「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるため」(31節)の原文は「信じていない人が信じるようになるため」とも「信じている人が信じ続けるため」とも受け取ることができます。ヨハネ福音書はいつも、すでに信じているわたしたちをイエスとのより確かな交わりへと導いてくれる書だと言えるでしょう。
2007年04月08日
復活の主日・復活徹夜祭 (2007/4/8 ルカ24・1-12)
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(1) どの福音書もイエスの十字架上での死と埋葬を見届け、3日目の朝、空(から)の墓を見つけた女性たちのことを伝えています。この女性たちについて、ルカ福音書8章1-3節ではこう述べられていました。「すぐその後、イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった。悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた」。「七つの悪霊」とはさまざまな病気を抱えていた状態を表しているのでしょう。病気をいやされイエスの一行に加わった女性たちは「奉仕していた」と言われますが、単なる身辺の世話係というよりも、女性の弟子たちと言ったら良さそうです。
当時の墓は、洞窟のような横穴で、入り口が円盤型の大きな石でふさいであったと言われます。その墓が開いていたことに女性たちはまず驚きます。イエスの遺体がなくなっていたのですから、彼女たちの驚きはさらに大きくなりました。ここに現れる「輝く衣を着た二人の人」は明らかに天使です。マルコでは1人ですが、ルカでは「2人の証言は確かである」(申命記17・6,19・15参照)という考えが背景にあって2人になっているのでしょうか。
(2) 5-7節で、天使ははっきりとイエスの復活を告げています。天使の語る言葉の後半はマルコ福音書ではこうでした。「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と」(マルコ16・7)。ルカにも「ガリラヤ」という地名がありますが、内容はずいぶん変わっています。「まだガリラヤにおられたころ、お話になったことを思い出しなさい」(6節)。ルカはこの後、エルサレムでの出現を報告するので、この部分を変えているようです。もちろん、確かにルカ9・21-22で、まだガリラヤにいたときにイエスは受難と復活を予告し始めていました。「そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した」(8節)とありますが、この女性たちがそれをどこまで悟ったかは不明です。それでも彼女たちは男の弟子たちにこの出来事を伝えました。
(3) 男の弟子たちは、女性たちの言うことをなぜ「たわ言」(11節)だと思ったのでしょうか。女性の弟子に対する偏見があったというよりも、むしろ、あまりに非現実的で信じられなかったのでしょう。12節でペトロは墓に行きます。とにかく行動してしまうというのはいかにもペトロらしいのですが、ヨハネ福音書でもこの空の墓の場面に、ペトロの姿が現れています。初代教会の中でペトロを復活の第一の証人とした伝承があり(Ⅰコリント15・5参照)、それが影響しているのかもしれません。
復活の主日の福音は、空の墓の場面で、天使がイエスの復活を宣言していますが、まだイエスは姿を現しませんし、弟子たちが信じたということもはっきりとは語られません。復活したイエスが姿を現した時もまだ「彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った」(24・37)と伝えられています。イエスの復活をなかなか信じることのできなかった弟子たちの姿は、復活を信じることの難しさを語ろうとしているのでしょうか?
しかし、もちろんわたしたちはこの日に、イエスの復活についての信仰を宣言します。わたしたちにとって、イエスが復活して今も生きているとはどういうことでしょうか?
(4) きょうの福音を読みながら1つのヒントにしたいことは、「イエスの言葉が生きている」ということです。イエスの墓に行った女性たちは、天使から「お話になったことを思い出しなさい」と言われます。「そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した」と伝えられています。わたしたちも聖書を読みながらいつもイエスの言葉を思い出しています。イエスが「ガリラヤにおられたころ、お話しになったこと」は、福音書に数多く伝えられています。たとえば、「人よ、あなたの罪は赦された」(ルカ5・20)、「貧しい人々は幸いである。神の国はあなたがたのものである」(ルカ6・20)、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」(ルカ7・50、8・48)、「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」(ルカ8・21)、などなど。
ヨハネ福音書14章26節に「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」という言葉があります。これは、ただ忘れていた言葉を思い出すというよりも、イエスの語った言葉を今のわたしたちの現実の中に生きている言葉として思い出すということでしょう。「イエスのおっしゃったことは過去のことになってはいない。その言葉は今もわたしたちの中に生きていて、働いている」、そう悟った時に、イエスが今も生きていると感じることができるのではないでしょうか。
2007年04月01日
受難の主日 (2007/4/1 ルカ23・1-49)
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福音のヒント
(1) 非常に長い朗読ですが、ローマ総督ピラトによる裁判の場面(1-25節)とイエスが十字架にかけられる場面(26節以下)とに分けて考えましょう。前半では「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」というピラトの宣言が、4節、14-15節、22節と繰り返されています。イエスが何の罪もないのに処刑されることになった様子が伝えられています。
この短い「福音のヒント」の中で、すべてのことを説明することはできませんので、特に後半のルカ福音書に特徴的な部分に焦点をあててコメントすることにします。
(2) ルカ福音書の十字架の場面は、マルコ福音書を基にして、いくつかの印象的なエピソードを付け加えています。その一つは28-31節です。イエスはご自分のために泣いているエルサレムの女性たちを逆に慰めます。29-30節はこれから起こる大きな災いを予告する言葉です。その災いは、子どもがいれば、自分の苦しみだけでなく、自分の子どもについても苦しまなければならないから、子どもがいないほうがましだ、と思わせるほどのものです。さらにそれは自然災害による死などよりももっと大きな苦しみなのだ、というのです。31節の「『生の木』さえこうされるのなら、『枯れた木』はいったいどうなるのだろうか」の「生の木」は永遠のいのちを持っているはずの罪のないイエスのこと、「枯れた木」は死んだも同然の罪人(つみびと)である普通の人々のことでしょう。
次にルカだけが伝えるのは、34節の祈りです。「そのとき、イエスは言われた。『父よ、彼らをお赦(ゆる)しください。自分が何をしているのか知らないのです』」この箇所は重要な写本で欠落しているものがあるので、新共同訳では〔 〕の中に入れられています。しかし、本来のルカ福音書になくて後から書き加えられたと考えることには無理があるでしょう。むしろ、写本を書き写した人の誰かが、「イエスを十字架につけた人々の罪だけは絶対にゆるされない」と考えて省いてしまったと考えたほうが自然です。
(3) 40-43節の、一緒に十字架につけられた犯罪人のうち、一人が回心してイエスに救いを願う話もルカだけが伝えるものです。「あなたの御国(バシレイア)においでになるときには」は、別の写本では「あなたが王権(バシレイア)をもっておいでになるときには」と読めますが、いずれにせよ、この人はイエスをキリスト(神が油注がれた王)として認め、その救いにあずかることを願っていることになります。
「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」とイエスは約束します。「いる」は原文では未来形が使われていますが、遠い将来のことではなく、それが「今日」のことだというのが特徴的です。ルカ福音書の中で「今日」という言葉は、「救いが今実現している」ことを強調する言葉です(ルカ4・21、19・9など)。「回心した今」、「苦しみの中でイエスとともにいる今」こそが救いの時だと言うことができるのかもしれません。
ルカが伝えるイエスの最後の言葉は、46節の「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」です。これもルカ福音書だけが伝える言葉です。詩編31・6に似た言葉があります。
(4) マルコ福音書の受難のイエスは、ただ苦しむだけの無力な人になってしまいます。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15・34)という叫びは特徴的です。すべての人から見放され、神からも見放されたような姿で死を迎えるのです。それは、「仕える者」として自分を無にして、苦しみのどん底まで降りて行かれる神の子・救い主の姿だと言えるでしょう(マルコ10・43-45参照)。
ルカの伝える受難のイエスも確かに無力な苦しむ人です。しかし、ルカは、これまで見てきたようなエピソードをとおして、イエスが最後の最後まで人々を愛し続け、神に信頼し続けた姿を伝えようとしています。無実の罪で死刑になる、こんな不条理なことがあれば、ただ怒りや憎しみ・恨みに支配されてしまうのが人間の普通の姿かもしれません。自分のことしか考えられなくなり、神を呪い、人を呪うのが当然かもしれません。しかし、十字架のイエスはそうではないのです。
(5) 傍(はた)から見れば、イエスの十字架の姿は神からも人からも断ち切られた姿にしか見えなかったでしょう。しかし、イエスはその中で「愛という人とのつながり」を「信頼という神とのつながり」を生き抜きます。そのイエスの歩みは、決して肉体的な死で終わるものではなかった、むしろ死を超えて、イエスと神との絆(きずな)・イエスと人々との絆は完成していった!そう信じるのが、キリスト教の「復活」という信仰です。
すべてを奪われたように見えても、それでも最後まで人を愛することはできる、それでも最後まで神に信頼して祈り続けることはできる。このルカ福音書が伝える十字架のイエスの姿はわたしたちの現実への光になるでしょうか。わたしたちもすべてを剥ぎ取られ、何もかも失ってしまい、自分では何もすることができなくなることがあります。それでもまだできることがある、と十字架のイエスは語りかけているのではないでしょうか?
2007年03月25日
四旬節第5主日(2007/3/25 ヨハネ8・1-11)
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福音のヒント
(1) この箇所が後の時代の挿入だとすれば、他の福音書には伝えられていないこの物語は、この物語だけで独立して伝えられて来て、ある時ここに挿入されたのでしょうか。
あるいは、本来はルカ福音書の中にあったものが、早い時期に省かれてしまい、その後ヨハネのこの箇所に挿入された、という可能性もあるようです。ルカ21章の終わりにはこういう言葉があります。「それからイエスは、日中は神殿の境内で教え、夜は出て行って『オリーブ畑』と呼ばれる山で過ごされた。民衆は皆、話を聞こうとして、神殿の境内にいるイエスのもとに朝早くから集まって来た」(37-38節)。この言葉はきょうの福音の冒頭「イエスはオリーブ山へ行かれた。朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた」(ヨハネ8・1-2)とよく似ています。きょうの箇所は、もともとルカ21章の終わりにあったと想像してみてもよさそうです。
初代教会では、姦通は特別に大きな罪と考えられていました。ですから、姦通の罪を犯した女性をゆるしたイエスの物語は、スキャンダルになったのではないでしょうか。姦通の罪を犯した人をゆるせば初代教会の秩序が崩壊してしまうという理由から、ルカ福音書から省かれてしまったのかもしれません。なお、ヨハネ福音書のこの箇所に置かれた理由は、直後のヨハネ8章15節に「あなたたちは肉に従って裁くが、わたしはだれをも裁かない」という言葉につながると考えられたからでしょう。
(2) 古代イスラエルにおいて「姦通」とは、男性が他人の妻(または婚約者)と性的関係を結ぶことでした。逆の場合、つまり、男性が自分の妻以外の独身の女性と関係することは「姦通」ではありませんでした(これが姦通とされるのは、キリスト教になってからのことです。マルコ10・11-12参照)。律法は姦通を厳しく禁じていました。たとえば、レビ記20章10節。「人の妻と姦淫する者、すなわち隣人の妻と姦淫する者は姦淫した男も女も共に必ず死刑に処せられる」(なお、「姦淫」は不道徳な性行為全般を指す言葉ですので、「姦通」も行為としては「姦淫」の一部ということになります)。
もちろん、男も女も同罪ですが、今日の福音の物語では女性だけが捕らえられています。男は逃げてしまったのでしょうか?あるいは男のほうは見逃されたのでしょうか?男女同罪のはずなのに、社会は昔から女性のほうに厳しかったようです。
(3) いずれにせよ、イエスがもしこの女をゆるせば、律法を無視したことになり、「石で打ち殺せ」と言えば、神のゆるしを告げてきたイエスの生き方とメッセージに反することになります。どう答えてもイエスは窮地に追い込まれることになるのです。
人々はこの女性とイエスを取り囲んでいます。彼女は姦通の罪を犯したことで人々の裁きの前に立っていますが、イエスもこの女性をどう扱うか、ということで、人々に裁かれる側に立たされていると言えるのではないでしょうか。なお、このときイエスが地面に何を書いていたか、いろいろな想像がありますが、どれも想像の域を出ません。ただ、かがみこんでいるイエスの姿は印象的で、どこか弱々しく感じられるかもしれません。
人々は裁く側、イエスと彼女は裁かれる側。この構図を一変させたのは、7節のイエスの言葉でした。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」。この一言によって、そこにいたすべての人は神の裁きの前に立たされます。そして、自分が神の前で罪人(つみびと)であることを認めざるをえなくなるのです。
(4) 人々は去っていき、イエスとその女性だけが残りました。「わたしもあなたを罪に定めない」とイエスは言います。「罪に定めない」というのは、その人の行為を良しとしているのではありません。あなたの罪にもかかわらず、わたしはあなたの死を望まない、あなたが生きることを望んでいるということです。彼女は自分が神の裁きの前というよりも、もっと大きな神の愛とゆるしの前に立っていることに気づいたはずです。
きょうの福音がわたしたちに問いかけていることはなんでしょうか。1つには「わたしたちは皆、神の前に罪人である」ということを本気で受け取ることができるかどうか、ということでしょう。人を裁く前に、自分も神の前に罪人であり、その自分が神のあわれみによって生かされている、と感じること。そこから自分以外の罪人に対してどう関わるかが問われてくるのです。罪人を、社会を害する迷惑な存在であり、抹殺すべき対象と見るか、自分と同じように弱い兄弟姉妹であり、立ち直って生きることを願うか。
もう1つはこの女性のように、ゆるされたことの重み(=はかりしれない恵みの大きさ)を本気で受け取れるかどうか、ということでしょう。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」というイエスの言葉は、「まあまあなかったことにして、見逃してあげよう」という言葉ではありません。「これからゆるしを受けた者として、まったく新たな生き方を始めていきなさい」ということなのです。
2007年03月18日
四旬節第4主日(2007/3/18 ルカ15・1-3,11-32)
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福音のヒント
(1) 徴税人は当時パレスチナを支配していたローマ帝国の税金を集めるユダヤ人でした。ローマの支配に加担して同胞から税を取る徴税人は、ユダヤ民族の裏切り者としてユダヤ人同胞から嫌われていました。徴税人は、ローマ帝国の役人ではなく、徴税の権利を金で買い、税に自分の手数料を加えたものを人々から集めていました。そのため、不正に多くのお金を集め、富を蓄えていた徴税人も多かったようです。当時のユダヤ人、特に宗教熱心なファリサイ派の人々や律法学者からみれば、決して救われるはずのない罪人でした。また、当時のユダヤでは、「一緒に食事をすること」は「救われる人々の共同体を目に見えるかたちで表すもの」でした。それゆえファリサイ派の人々には、イエスがこのような罪人を迎え入れて一緒に食事までしていることが理解できません。イエスのしていたことは、律法によって人の価値をはかる当時のユダヤ社会の秩序に対する挑戦でした。
イエスはルカ15章の3つのたとえ話で、なぜ自分が罪人を迎えて食事を一緒にしているかを語ります。それは、神が見失った一匹の羊を捜し求め、その羊が見つかったことを喜ぶ羊飼いのような方であり、なくした銀貨を見つけて大喜びする女性のような方であり、さらに、この放蕩息子の父のような方だから、ということです。神は罪人の滅びを望まれるのではなく、罪人が再び神のもとに立ち返り、神の子として生きることを望んでおられる方だ、だからわたしも罪人を招き、一緒に食事をしているのだ、ということになります。
(2) 放蕩息子のたとえの中で、弟息子は父親に向かって、「お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください」(12節)と言います。これは本来、父親が死んだら受け継ぐことになっている財産の話です。息子の心の中で父は死んだも同然なのでしょう。息子が転落してやっとありついた仕事は「豚の世話」でした。ユダヤ人にとって豚は汚(けが)れた家畜で、豚を食べることは決してありませんでした。豚の世話をすることは屈辱的であったはずです。「いなご豆」は貧しい人の食べ物にもなりましたが、それすら食べられないというのも、この弟息子のどん底の状態を表しています。
(3) 「ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」(20節)。父親は息子が帰ってくることを知らないはずですから、普通ならば息子のほうが先に父の姿を見つけるはずです。父が息子を見つけるという箇所には、出て行った息子を思う父親の強い心が表れていると言えるでしょう。
「憐れに思い」はギリシア語では「スプランクニゾマイsplanknizomai」という言葉が使われています。「スプランクナsplankna=はらわた」という名詞に動詞の語尾を付けたものなので、ある人は「はらわたする」と訳しました。さらにこの「ゾマイzomai」という語尾の形は能動態ではなく中動態という形です。これは「みずからの意志でそうする」のではなく、「自然とそうなってしまう」というようなときに使われる形です。つまり、「目の前の人の苦しみを見て、自分のはらわたがゆさぶられてしまう」ということを表す言葉なのです。普通の日本語で言えば「胸が痛む」というのが一番近いでしょうか。沖縄には同様な意味で使われる「チムグリサ(肝苦さ)」という言葉があるそうですが、このほうがもっと近いかもしれません。
(4) ボロボロになった人間を「見て、はらわたして(胸が痛み)、走り寄って」、わが子として迎え入れる、父である神とはそのような方だとイエスは語るのです。それは、旧約聖書の中でモーセに現れた神の姿と重なります。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降(くだ)って行き…」(出エジプト記3・7,8)。「痛みを知る」の「知る」はただ単に知識として知るというよりも、体験として知ることを意味します。「ああ痛いだろうな」というような知り方ではなく、「人の痛みを自分の痛みとして感じる」ことだと言ったらよいでしょう。だからこそ神のほうが「降って行き」イスラエルの民を救おうとなさるのです。ここには旧約と新約を結ぶもっとも大切な神のイメージがあります!
(5) このたとえ話は、弟息子の立場で読めば、ありがたい「福音」以外の何物でもありません。ただしイエスは、このたとえを、ファリサイ派の人々や律法学者に向けて語られました。兄息子の姿は罪人を切り捨てた彼らの姿そのものだと言えるでしょう。「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません」(29節)というように、人との比較の中で自分は正しいと誇り、「あなたのあの息子」をゆるす父の心が理解できないのです。父親のほうはそれを「お前のあの弟」(32節)と言い換え、お前にとって彼は兄弟ではないかと諭します。この最後の父親の言葉には、兄息子を責めるのではなく、なんとか自分の心を分かってほしいという父の思いが強く感じられるでしょう。わたしたちはどちらの立場でこのたとえ話を聞くことができるでしょうか。
2007年03月11日
四旬節第3主日 (2007/3/11 ルカ13・1‐9)
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(1) 「ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた」と言いますが、これは比ゆ的な表現で、実際には、あるガリラヤ人たちが神殿でいけにえをささげようとしていたところをローマ軍によって殺害された、という事件を表しているようです。「シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人」も実際の出来事を指しているようです。古代エルサレムには町に水を供給するための地下水道があり、その出口にシロアムの池(ヨハネ9・7参照)がありました。その塔が倒れて大勢の人が死んだという大事故があったようです。どちらも当時のユダヤ人にとってショッキングな出来事だったはずです。当時は「人の不幸はその人の罪の結果だ」という考えがありました。事件や事故の被害者を見て、「あの人たちが何か罪を犯していたからだ」と決めつけるのはひどいことです。イエスはそういう考えに組しません。「ほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」。ほとんど同じ表現が二度繰り返されていて、強調されています。それは、悲惨な出来事を自分たちへの呼びかけ、警告として受け取ることを求めていると言えるでしょう。さまざまな出来事はわたしたちの回心のチャンスなのです。
(2) 「皆同じように滅びる」は「滅び」は、ガリラヤ人やシロアム事故の犠牲者の滅びと同じレベルの話ではなく、終末の裁きにおける滅びの意味だと考えられます。ただし、悲惨な出来事が人類一般の罪の結果であるという考えは否定されていないのかもしれません。また、ルカにとってこの「滅び」は、もしかしたら紀元70年に実際に起こったローマ軍によるエルサレムの町と神殿の破壊をも意味していたのかもしれません。だとすれば、その破滅が起こったのは、ユダヤ人全体の罪の結果だということになるでしょうか。
(3) 6節からは実のならないいちじくの木のたとえ話です。いちじくの木をぶどう園に植えることは一般的に行なわれていたことのようです。「実を結ばない木」は洗礼者ヨハネの説教にも現れた表現です。「悔い改めにふさわしい実を結べ。…良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」(ルカ3・8,9)。
このたとえ話で、ぶどう園の主人とは誰のことでしょうか。園丁とは誰のことでしょうか。「主人」を「父である神」、「園丁」を「イエス」と考えることもできるかもしれませんが、ルカ福音書はそこまで考えてはいないようです。来年もまた実がならなかったらこのいちじくの木はどうなるのだろう、ということも気になりますが、そこにもこの話のポイントはないようです。このたとえ話のポイントは、「来年まで待つ」ということそのものだと考えるべきでしょう。ここでは、神の忍耐やいつくしみよりも、今が回心の最後のチャンスだということが強調されているのです。
(4) 「滅びる」や「切り倒す」というような裁きのイメージをわたしたちはどう受け取ったらよいのでしょうか。イエスが示した神はいつくしみ深い父でした。人が誰も滅びることなく、すべての人が生きることを望まれ、罪びとにゆるしを与える方でした。しかし、イエスのメッセージの中には、厳しく人に回心を迫る面もありました。それを今のわたしたちが、自分たちの生き方への問いかけとして、まともに受け取ることは大切です。
この「神の裁き」を考えるとき、ヨハネ福音書に大切な箇所があります。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている」(ヨハネ3・16-19)。
ここでは、神が裁きを行なうというよりも、光に背を向け、闇の中にとどまる人は自ら裁きを招いている、ということになります。聖書によれば、人は神によって生かされているものであり、神とのつながりを失えば滅びるしかない存在です。ですから、神から離れた生き方をしている人間は神によって罰せられるというよりも、その生き方そのものが滅びに至るものなのだと言ってもよいのでしょう。
(5) 「さまざまな悲惨な出来事はわたしたちにとって回心のチャンス」であり、「今がその最後のチャンス」なのだというメッセージをわたしたちはどう受け取ればよいでしょうか。現代社会は、人間の科学技術が高度に発展し、人間の力が万能だと錯覚し、結局のところ経済万能になっているような面があります。そこで起こっているさまざまな問題を考えたとき、何かしら思い当たることがあるのではないでしょうか。わたしたちにとって、「今回心する」「回心にふさわしい実を結ぶ」ということはどういうことなのでしょう。
2007年03月04日
四旬節第2主日 (2007/3/4 ルカ9・28b-36)
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(1) 冒頭28節の前半が省かれていますが、そこには「この話をしてから八日ほどたったとき」という言葉があります。「この話」とは、イエスが初めてご自分の受難・死・復活について弟子たちに語られたことを指しています。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」(ルカ9・22)。
ここに登場するモーセは律法を代表する人物、エリヤは預言者を代表する人物です。「律法と預言者」は旧約聖書の中心部分を表しています。ルカ福音書では、この3人が話し合っていた内容が「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期(さいご)について」(ルカ9・31)であったことが伝えられていて、イエスの受難・死・復活が聖書に記された神の計画の中にあることをはっきりと示しています。
(2) このように見てくると、この山の上で示された栄光に輝くイエスの姿は、単なる栄光の姿というよりも、イエスが受難と死をとおって神のもとで受けることになる栄光の姿なのだと言えるでしょう。つまり、上に引用した9・22が言葉による受難予告であるとすれば、この変容の出来事は「出来事による受難予告」と言ってもよいのです。
モーセとエリヤがイエスから離れていこうとしたとき、ペトロは仮小屋を建てようと提案します。これは自分たちの先生がモーセやエリヤと語り合っている、このあまりにも素晴らしい光景が消え失せないように、3人の住まいを建ててこの場面を永続化させよう、と願ったからでしょう。しかし、この光景は永続するものではなく、一瞬にして消え去りました。今はまだ栄光の時ではなく、受難に向かう時だからです。
(3) 雲は「神がそこにおられる」ことのしるしです。雲は太陽や星を覆い隠すものですが、古代の人々は雲を見たときに、雲の向こうに何かがある、と感じたのでしょう(『天空の城ラピュタ』のように)。聖書の中では、目に見えない神がそこにいてくださる、というしるしになりました。たとえば、イスラエルの民の荒れ野の旅の間、雲が神の臨在のシンボルとして民とともにありました(出エジプト記40・34-38参照)。
雲の中からの声は、もちろん神の声です。「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」(ルカ9・35)。この言葉は、ヨルダン川でイエスが洗礼を受けられたときに天から聞こえた声「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(ルカ3・22)によく似ています。この言葉の背景にはイザヤ42・1「見よ、わたしの僕(しもべ)、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を」があるようです。洗礼のときから「神の子、主の僕」としての歩みを始めたイエスはここから受難への道を歩み始めますが、その時に再び同じような声が聞こえます。この受難の道も神の子、主の僕としての道であることが示されるのです。
そしてここでは弟子たちに「これに聞け」と呼びかけられます。「聞く」はただ声を耳で聞くというだけでなく、聞き従うことを意味します(申命記18・15参照)。受難予告の中で「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(ルカ9・23)と言われていたことと対応していると言ったらよいでしょう。
受難の道を行くイエスに従っていくこと、これがきょうの福音の呼びかけです。しかし、実際には、この弟子たちはこれほど大きなイエスの栄光を見たのに、最後まで従っていくことができませんでした。イエスが逮捕されたとき、皆逃げてしまったのです。わたしたちはどうでしょうか。
(4) イエスは「祈るために」(28節)山に行き、「祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」(29節)と言われます。イエスの祈る姿をよく伝えるのはルカ福音書の特徴です。受難予告の導入にあたるルカ9・18にも「イエスがひとりで祈っておられたとき」という言葉があります。祈りとは、特別に神との親しい時を過ごすことです。イエスの地上での歩みは受難と死に向かう道でした。しかし、イエスは祈りの中で、それを神の大きな救いの計画の中にあることとして受け止め、そして自分のすべてを神の計画に委ねていったと言ってもよいのではないでしょうか。きょうの箇所でも、だからこそイエスの姿は祈るうちに光り輝いたのだ、と言えるかもしれません。
祈りの中で神に心を向け、祈りの中で自分の思いを越えた神の救いの計画を受け止め、そこから自分の現実を見つめなおす。そのとき、目の前の困難や苦しみを超えた救いの世界を、祈りの中で受け取ることができる…。だとすれば、きょうのイエスの姿は、四旬節の時を過ごすわたしたちにとって大きな励ましだといえるでしょう。
実はルカ福音書の中には弟子たちの祈る姿は表れません。弟子たちは、イエスの復活と聖天の後、祈り始めることになります(使徒言行録1・14)。弟子たちを、最後までイエスに従う者へと変えていくのは、この「祈り」だと言うこともできるのではないでしょうか。
2007年02月25日
四旬節第1主日 (2007/2/25 ルカ4・1-13)
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(1) イエスがヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けた出来事の次に、この出来事が伝えられています。洗礼の場面はこうでした。
「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」(ルカ3・21-22)。
今日の箇所でも「聖霊に満ちて」「“霊”」(4・1)という言葉があります。「聖霊=“霊”」は目に見えない神の力・働きです。イエスのこれからの歩み全体は神に導かれたものですが、この荒れ野の出来事も神の導きによるのです。
聖書の中で「悪」とは神から離れることであり、人間を神から引き離そうとする力の根源にあるものが、人格化されて「悪魔」と呼ばれるようになりました。悪魔は二度イエスに向かって「神の子なら…」と言います(4・3,9)。洗礼の時に天から聞こえた「あなたはわたしの愛する子」という宣言の本当の意味がこの誘惑の物語の中で示されます。
(2) 40という数は聖書の中では、苦しみや試練を表す象徴的な数字です。何よりも紀元前13世紀、イスラエルの民がエジプトの奴隷状態から解放され、約束の地に入るまでの「40年間の荒れ野の旅」が思い出されます。荒れ野は水や食べ物が欠乏している場所で、生きるのに厳しい環境です。しかし、イスラエルの民の荒れ野の旅の中で、神は岩から水を湧き出させ、天から「マナ」と呼ばれる不思議な食べ物を降らせて、民を養い導き続けました。その中で神への信頼がいつも問われました。イエスの荒れ野の40日間も、神とのつながりが問われる場でした。
(3) イエスの悪魔への答えは、すべて申命記の引用です。申命記の主な部分は、荒れ野の旅の終わりに、約束の地を目前にして、モーセが民に遺言のように語る「告別説教」という形を取っています。イエスの答え、「人はパンだけで生きるものではない」は申命記8・3の引用です。荒れ野の旅の途中、イスラエルの民に与えられた天からの食物「マナ」について語ることばです。マナが与えられたのは、人がマナによって生きることを教えるためでなく、神によって生きるものであることを教えるためであった、というのです。8節の「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」は申命記6・13の引用です。これは、民が約束の地で定住生活を始め、豊かな食べ物で満たされて、主を忘れ、周辺民族の他の神々にひかれるようなことがあってはならない、という警告の中で語られることばです。12節の「あなたの神である主を試してはならない」は申命記6・16の引用です。ここでは出エジプト記17章のマサ(メリバ)での出来事が思い起こされます。それは、イスラエルの民が荒れ野でのどが渇き、神とモーセに不平を言う場面でした。
(4) ルカ福音書とマタイ福音書では、2番目と3番目の誘惑の順序が逆になっています。ルカが、エルサレムの神殿での誘惑を最後に置いていているのは、エルサレムでのイエスの受難に結び付けて考えているからでしょう。「時が来るまで」(4・13)の「時」も決定的な悪との対決の時、すなわちイエスの受難の時を意味しているのかもしれません。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ」(4・9)という悪魔の言葉は、イエスが生涯の最後に十字架の上で受けた誘惑、「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」、「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」(ルカ23・35,37)を思わせる言葉でもあります。そのすべての誘惑の中でイエスは神への信頼と従順を貫くのです。今日の箇所での誘惑との戦いは、イエスの活動の始めの一回の出来事というよりも、イエスのこれから活動、十字架の死に至る(あるいは死と復活をとおって神のもとに至る)活動の縮図なのだと考えることができるでしょう。
(5) 最後の誘惑で悪魔は詩編91・11-12を引用します。この詩編は確かな守りを与えてくださる神への信頼を呼びかける詩編ですが、悪魔はそれを自分のために使うように誘惑するのです。神の守りへの信頼は良いことであり、モノや安全を手に入れることを願うことも良いことであるはずです。イエスも実際、5つのパンで大群集を満たし、多くの病人をいやしました。わたしたちにもパンが必要ですし、健康や安全が必要です。富や力もある程度は必要でしょう。そういう意味で、これらすべてを悪の誘惑と決め付けることはできません。問題は、自分のためだけにそれらを求めること、それらを求めるあまり、神との、隣人との親しい交わりを失ってしまうことだと言ったらよいでしょうか。
わたしたちの人生も「荒れ野」だと言えるかもしれません。わたしたちはその中でいつも神とのつながりをどう生きるか、人とのつながりをどう生きるかということを問われています。これは決して四旬節だけのテーマではありません。しかし、四旬節はそのことを強く意識させてくれるチャンスなのです。
2007年02月18日
年間第7主日 (2007/2/18 ルカ6・27-38)
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(1) 「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい」。イエスは徹底的な愛を要求します。それは無条件の愛、見返りを求めない愛です。マタイ5・40では「あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい」となっていますが、ルカで上着と下着が逆転しています。マタイのほうは裁判の場面が考えられているのに対して、ルカのほうは強盗に襲われた場面を考えているようです。31節の「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」は黄金律と呼ばれる言葉で、マタイ7・12にもあります。32-34節「罪人(びと)でも」の罪人は、ここでは「神から離れている人」の意味でしょう。マタイ5・46,47では「徴税人」「異邦人」となっています。「神を知らない人」と考えてもいいかもしれません。ここでも「ギヴ・アンド・テイク」のような愛を超えた愛が求められています。
(2) イエスは確かに厳しい要求をしますが、それは単なる要求ではありません。この要求の根拠となる言葉があります。「そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」(35-36節)。
「いと高き方」はもちろん神のことです。「たくさんの報い」と言いますが、神からの報いを期待しなさい、という意味でしょうか。しかし、ここでは「人間の行為に応じて、神が報いを与える」(=応報)という以前にもっと大切なことがあるのです。それは「いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深い」ということです。これは応報の考え方を否定するような言葉です。あなたがたはこの神の愛を知ったはずだ、だから神の子として、その神の愛をもって人に対していきなさい、ということになるでしょう。これは、「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである」という福音の宣言とも無縁ではありません。この神を知ったことが弟子の生き方の原点になるのです。
イエスは「新しい律法」を与えているのではなく、神の愛を受けた神の子としての新しい生き方はこうなのだと指し示しているのではないでしょうか。根本に神の国の福音がある、ということは今日のイエスの言葉を受け取るために忘れてはならないことです。
(3) さらにこれらの言葉が、単なる言葉ではなく、イエスの生き方と結びついていることも大切でしょう。この点でルカ福音書が伝えるエピソードは印象的です。エルサレムに向かうイエスを歓迎しなかったサマリア人の村を見て、焼き滅ぼしてしまおうと考えた弟子たちをイエスは戒めました(ルカ9・51-56)。イエスを逮捕しに来た大祭司の手下の耳をイエスの弟子が切り落としたとき、イエスはその耳をいやされました(ルカ22・50-51)。さらに、イエスを十字架につけた人々のための祈りが伝えられています。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23・34)。
きょうのイエスの言葉は、ただ単なる弟子たちへの要求ではなく、イエスご自身が十字架に向かう中で最後まで貫かれた生き方を表す言葉なのです。
(4) しかし、今日のイエスの言葉をわたしたちの現実に当てはめようとしたとき、大きな困難も感じられるでしょう。わたしたちは国家間や民族間の戦争、テロ、拉致という問題に直面しています。あるいはもっと身近なところで起きている犯罪、暴力、虐待、いじめなどという現実もあります。被害者がただ単に無抵抗で、それでも加害者を愛せばよい、というだけでは解決にならないでしょう。被害者は暴力や虐待から守られなければならないはずです。「暴力をふるう夫を、それでも妻はゆるし、耐えろ」とイエスは教えているのでしょうか。そんなはずはありません。そういう意味で、今日のイエスの言葉をどんな場面にも通用する法律や規則として、文字通り受け取ることはできないはずです。
しかし逆に、「暴力を受けたら報復するのは当然」という考えで突き進んでいったときにも悲惨なことが起きます。暴力の問題、人と人との間にある憎しみや敵意の問題には、決して安易な解決はないと言わざるをえないでしょう。
(5) 暴力とは人が人を支配する力です。その支配に屈することでもなく、憎しみや復讐心を抱くという形で暴力に振り回され続けるのでもなく、どうしたらその支配から解放されるのか。暴力の連鎖をいかに断ち切ることができるのか。イエスの言葉、そして十字架の死に至る生き方は、そのことをわたしたちに問いかけているのではないでしょうか。
イエスが確信していたことは、「恩を知らない者にも悪人にも、情け深い」神の愛でした。神は一人一人の人間の苦しみに深く共感され、すべての人が生きることを望まれるので、「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ5・45)方なのです。そしてその愛を本当に知ったとき、憎しみや復讐心から解放された生き方が始まる。この福音の世界への大きな招きを感じ取りたいものです。
2007年02月11日
年間第6主日 (2007/2/11 ルカ6・17、20-26)
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(1) 20-49節の長い説教は、マタイ福音書の5~7章の説教と共通する部分が多くあります。マタイのほうが「山上の説教」と呼ばれるのと対比して、ルカのこの部分は17節の「平らな所」という言葉から「平地の説教」とも呼ばれることがあります。
マタイの山上の説教もルカの平地の説教も、イエスがある時に語った長い説教が記録されていたと考えるよりも、さまざまな場面でイエスの語られたことばがつなぎ合わされて今の形になったと考えたほうが良さそうです。マタイとルカの共通の源となった伝承の存在が考えられます。何のために初代教会の人々は、これらのイエスのことばを集めたのでしょうか。内容から考えて、これらのことばは、新しくキリスト信者になった人々に、キリスト信者としての新しい生き方を指し示すことばとして集められている、と考える学者がいます。だとしたら、まず最初に「幸い」と言われているのも納得できるでしょう。
(2) 今日の箇所は、マタイの山上の説教の冒頭にある「八つの幸い」とよく似ています。ルカの最初の3つの幸いとマタイの八つの幸いの前半4つを比べてみましょう。
ルカ6・20 貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。
21a 今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。
21b 今泣いている人々は幸いである、あなたがたは笑うようになる。
マタイ5・3 心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
5・4 悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。
5・5 柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
5・6 義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。
ルカ6・20とマタイ5・3、ルカ6・21aとマタイ5・6は多くの言葉が共通しています。ルカ6・21bとマタイ5・4も内容的にはよく似ています。もともと一つのイエスのことばが伝えられていくうちに二つの形になった、と考えるのが良さそうです。そしてさらに言えることは、単純なルカの形のほうが元の形に近いだろうということです(くわしくは、A年年間第4主日の「福音のヒント」参照)。
(3) 「貧しい人は幸いである…」というと一つの叙述文ですが、原文の語順どおりに訳せば、「幸い、貧しい人々。なぜなら、あなたがたのものだから、神の国は」となります。これは目の前の人に向かって語りかける祝福のことばなのです。
「貧しい人」「飢えている人」「泣いている人」がなぜ幸いなのでしょうか。それは「神の国(バシレイア)はあなたがたのもの」だからです。神は決してあなたがたを見捨ててはいない、神は王(バシレウス)となってあなたがたを救ってくださる、だから幸いなのです。「あなたがたは満たされる」「笑うようになる」も神がそのようにしてくださるということを意味しています。これこそがイエスの福音(=よい知らせ)なのです。
「貧しい人」は単に経済的な貧しさだけを表す言葉ではありません。今年の年間第3主日の福音にも、「貧しい人に福音を告げ知らせる」(ルカ4・18)という言葉がありましたが、この「貧しい人」は「捕らわれている人」「目の見えない人」「圧迫されている人」など、さまざまな理由で小さくなっている人すべてを含む言葉です。福音書に登場する病人や障害者、悪霊に取りつかれた人、女性や子どもなども、ある意味で皆、「貧しい人」です。ルカ19章に登場するザアカイのような徴税人も、たとえ金持ちであったとしても社会的に排除されていたという意味では「貧しい人」だと言えるのです。
(4) ルカは4番目に迫害される人の幸いを語ります(22-23節)。これは本来、その前にある3つの幸いとは別な場面で語られた言葉だったようです。ところで、ルカはこの4つの幸いの後、正反対の4つの不幸について語ります(24-26節)。これはマタイの「八つの幸い」にはない言葉です。ルカ福音書では、このように「幸いの道」と「不幸の道」が示され、今日の箇所全体が幸いの道を選ぶようにという「勧告」になっています。
もちろん、わたしたちが経済に繁栄した消費社会にどっぷりと浸りきり、社会的な地位や評価も得て、さらに、この世界の中で苦しんでいる多くの人々のことを忘れてしまい、神様抜きですべてに満ち足りてしまっているとしたら、神に期待するものは何もないでしょう。そういう意味で、きょうの箇所の後半をわたしたちに反省を促す厳しい言葉として受け取ることは大切です。
しかし、本来のイエスの言葉(特に20-21節)は「勧告」というよりも、純粋な「福音」だったということも大切です。病気や経済的困難、さまざまな苦しみの中で日々救いに飢え渇いていると感じる人もいるでしょう。逆にザアカイのようにどんなに満ち足りているように見えても、人とのつながりに渇き、愛に飢えていると感じる人もいるでしょう。わたしたちは自分自身がほんとうに「貧しい人」であると感じたとき、その貧しさの中でこそ、イエスの言葉を「福音」として聞くことができるのではないでしょうか。
2007年02月08日
年間第5主日 (2007/2/4 ルカ5・1-11)
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(1) 「ゲネサレト湖」はガリラヤ湖の別名です。マタイやマルコで、ガリラヤ湖の漁師たちとの出会いが最初に置かれていることには意味があります。「神の国」の到来を告げ知らせるイエスの活動の、目に見える一つの実現の形が、イエスの呼びかけに応えてイエスに従った人々の姿だと言うことができるでしょう。また、この弟子たちがイエスのなさるすべてのことの証人になるわけですから、最初から一緒にいなくてはならないのです。ただし、ガリラヤ湖畔でいきなりイエスに声をかけられて、すぐについていったというのは少し不自然に感じられるかもしれません。マタイやマルコはこの最初の弟子たちの姿を理想化して描いているのでしょうか。一方ルカでは、ペトロたちは、イエスが「神の言葉」(1節)を語られるのを聞き、イエスの不思議な力に触れてから、イエスに従うようになりました。このほうが自然だと言えるかもしれません。
(2) ガリラヤ湖の漁師は夜中に漁をしたと言われています。日中、魚は湖の深いところにいて、夜になると水面近くに上がってくるからです。シモンはイエスから頼まれて、イエスを自分の舟に乗せています。夜通し苦労して何も獲れなかったという疲労感や失望感の中でもイエスの頼みに応えようとしています。そこでシモンはイエスが語る「神の言葉」を聞くことになりました。そして、イエスから「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われます。プロの漁師としては、夜通し働いて獲れなかった魚が、日中になって獲れるはずがないと考えるのが当然でしょう。しかし、シモンは「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と言います。それはイエスが「神の言葉」を語るのを聞いていたからだと言えるのではないでしょうか。
わたしたちの体験の中に、このようなことがあるでしょうか。頑張っても物事がうまくいかず、疲れ、失望しかけたときに、それでもイエスの言葉に励まされてもう一度やってみたら、思わぬ結果が生じた、というような。わたしたちにとって「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」というイエスの言葉はどのように響いてくるでしょうか。
(3) 不思議な大漁を見たシモン・ペトロは、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と叫びます。「主」(ギリシア語の「キュリオスkyrios」)は新約聖書の中で旧約を引用するとき、神について使う言葉です。「イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」(使徒言行録2・36)。これはペンテコステ(五旬祭、聖霊降臨の日)のペトロの説教の結びの言葉です。ペトロはイエスの死と復活をとおして、イエスが神の子であり、神と等しい方であることを確信することになります。しかし、この最初の出会いの時から、そのことは予感されているのです。
ペトロはイエスの神的な力を感じて、「わたしから離れてください」と言います。神は聖なる方であり、その神に近づくと、罪深い者である人間はその聖性に耐え切れずに滅んでしまう、と考えられていました。この日のミサの第一朗読で読まれるイザヤの言葉も同様です。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は/王なる万軍の主を仰ぎ見た」(イザヤ6・5)。
(4) そんなペトロに向かって、イエスは「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」(10節)と言われます。ここにはまず、イエスが罪のゆるしをもたらす方であることが表れていると言えるでしょう。「罪」とは「神から離れること」です。イエスは神の子として、人が神に立ち返り、神との親しさを取り戻すこと(これが「罪のゆるし」です)のために世に来られたのです。
ペトロには使命が与えられます。「人間をとる漁師」は直訳では「人間を生け捕りにする者」です。ここには人を「まことの命へと導き入れる」というニュアンスがあるのでしょうか。そして、この「不思議な大漁」の出来事は、これからの弟子たちの活動の実りの豊かさを暗示しているとも言えるのでしょう。なお、この10節の言葉はペトロ一人に向かって語られていますが、11節の「彼ら」にはもちろんヤコブとヨハネも含まれています。「すべてを捨てて」はイエスに従う者の典型的、理想的な姿と考えられます。
(5) 不思議な大漁の話は、ヨハネ21章にもあります。これは復活したイエスと弟子たちとの出会いの物語です。時期や細部はずいぶん異なりますが、夜中にガリラヤ湖で漁をしても何も獲れなかったペトロたちが、イエスの言葉に従って網を下ろすとたくさんの魚が獲れたという点では共通しています。2回同じような出来事があったのでしょうか。1つの共通の伝承(言い伝え)があって、2つの福音書それぞれが別の仕方で伝えているのでしょうか。いずれにせよ、この2つの箇所から、福音の物語が2000年前の物語であると同時に、今のわたしたちと復活したイエスとの出会いの物語でもあると感じることができるのではないでしょうか。そのような物語としてきょうの福音も味わいたいものです。
2007年01月28日
年間第4主日(2007/1/28 ルカ4・21-30)
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福音のヒント
(1) 多くの人はこの話を読んで、話の展開に少し無理があるように感じるのではないでしょうか。22節の「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて」という箇所と、28-29節の「会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした」の間には確かに大きなギャップがあります。ただ一回のナザレでの出来事と見るには無理があると考えて、ナザレでのイエスの活動を伝えるいくつかの伝承が組み合わされているという見方もあります(確かにイエスはガリラヤでの活動中、何度かナザレに行ったことがあったでしょう)。とにかくルカはここで、ナザレでのある一日の出来事というよりも、イエスのこれからの活動全体を表そうとしているようです。
(2) 22節の「この人はヨセフの子ではないか」という言葉は、人々のイエスに対する好意的な反応を表すものでしょうか。「ヨセフの子でありながら、こんなに素晴らしいことを語っている!」というような…。だとすると、この後、イエスのほうからケンカを吹っかけるような言葉が続くのは、不自然に感じられるかもしれません。
むしろ、これは非難めいた言葉でしょうか。つまり、「ヨセフの子にすぎないのに、こんな大胆なことを語るのはおかしい」という意味です。マルコ6・2-3では故郷での話の中にこういう言葉があります。「安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。『この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。』このように、人々はイエスにつまずいた」。故郷の人々は、人間的なレベルでしかイエスを見ようとしないので、イエスを受け入れられなかった、ということになるでしょう。ルカの「ヨセフの子」も同様に考えてよいのではないでしょうか。
なお、22節で「ほめ」と訳された言葉は「弾劾し」というまったく正反対の意味にもとれる言葉です。こうとったほうが、後の展開には合うかもしれませんが、ここまでの展開からすれば「皆がイエスをほめ」と受け取るほうが自然でしょう。
(3) エリヤとエリシャはともに紀元前9世紀、北イスラエル王国で活動した預言者です。それぞれの物語は、列王記上17章、列王記下5章に伝えられた有名な話です。「シドン」「サレプタ」はイスラエルの北方、地中海に面した位置にあります。「シリア」はイスラエルの北にある国ですが、その国のアラム人の王の軍司令官がナアマンでした。ともに異邦人に神の救いがもたらされた話です。
預言者の活動は、狭い民族的な利害に基づくものではなく、神の大きな救いの意思に基づくものでした。イエスもまたそのような預言者として活動しているのです。
(4) 問題はナザレの人々の狭さでした。彼らは同郷のイエスに期待しますが、それはあくまで地縁血縁に基づく利益が与えられることへの期待だったようです。そんな彼らにとっては同じガリラヤ地方のカファルナウムでさえ「外の世界」になるのです。
この姿勢には、後になってイエスを十字架に追いやっていくユダヤの指導者たちと共通するものがあります。ルカ20章でぶどう園の農夫のたとえ話が語られています。主人からぶどう園を借りていた農夫たちが、収穫を受け取りに来る主人の「愛する息子」を殺害してしまうというたとえ話です。これに対する人々の反応をルカはこう伝えています。「そのとき、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れた」(20・19)。つまり、ユダヤ人指導層はイエスを自分たちの特権的な利益を脅かす存在として抹殺することになるわけです。このような狭い意識がわたしたちの心のどこかにないとは言えないでしょう。
(5) 「会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした」というのは極端すぎる反応でしょうか。もちろん大きな期待があったからこそ、その期待を裏切られたときにそれが憎しみに変わるということはあるかもしれません。しかし、それだけでなく、将来起こるイエスの受難と十字架の死を予告するような出来事としてルカはこのことを伝えているようです。この話は、「イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた」(30節)と結ばれています。これはもちろんまだ、十字架の「時」(4・13参照)ではないからですが、同時にイエスが最終的に「天に立ち去られた」ということを暗示しているようでもあります。
先週と今週のナザレでの出来事の中に、「貧しい人に福音を告げ知らせる」(ルカ4・18)イエスの姿とそれを受け入れることのできなかった人間の姿がはっきりと表されています。それは福音書全体の縮図とも言えるでしょう。わたしたちにも、このイエスの福音に心を開けるかどうかが問われているのです。
2007年01月21日
年間第3主日 (2007/1/21 ルカ1・1-4、4・14-21)
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福音のヒント
(1) 1・1-4はルカ福音書の序文と言えます。「わたしたちの間で実現した事柄」はもちろんイエスの生涯・死・復活のことです。「最初から目撃して御(み)言葉のために働いた人々」は使徒たちを指します。「多くの人々が既に手を着けています」とありますが、少なくともマルコ福音書はすでに書かれていて、ルカはその内容を知っていたと考えられます。「テオフィロ」という名の人物は知られていません。ルカ福音書は特定の人に献呈する形をとっていますが、この名前の意味は「神を愛する人」あるいは「神に愛された人」ですので、わたしたちすべてに向けて書かれている、と受け取ることもできます。
(2) 「“霊”」はギリシア語で「プネウマpneuma」です。「プネウマ」は必ずしも神の霊=聖霊だけに使われる言葉ではないので、かつての口語訳聖書では「プネウマ」が明らかに「聖霊」を意味すると考えられる箇所は「御霊(みたま)」と訳されていました。その部分を新共同訳聖書は「“霊”」と表記しています。聖霊はこの箇所の少し前から現れています。「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」(3・21-22)。「さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた」(4・1-2)。ヨルダン川での洗礼の時から、イエスの活動のすべては、聖霊に導かれていたことが強調されています。きょうの箇所で引用されるイザヤ書の中にも「主の霊がわたしの上におられる」という言葉があります。
(3) イエスの活動の場はガリラヤの諸会堂です。イエスの時代、ユダヤ人は安息日ごとに会堂に集まり、礼拝を行なっていました。その中心は聖書(旧約聖書)の朗読でした。巻物は今の本と違って、好きな箇所をさっと開くことはできません。イエスはたまたま開いた箇所をお読みになったことになりますが、この箇所が読まれたのは単なる偶然というよりも、むしろ、聖霊の働きによることと考えるべきでしょう。
イエスが朗読したのはイザヤ書56~66章までの「第三イザヤ」と呼ばれる部分にあたりますが、この箇所は本来、第三イザヤと呼ばれる預言者自身の召命を語る箇所だったと考えられます。「油を注ぐ」ことはその人に、神からの特別な使命とその使命を果たすための神からの力(=聖霊)が与えられることを目に見える形で表すものでした。ここでは預言者としての使命が与えられることが表されていたのでしょう。しかし一方、「油を注がれる」は「メシア=キリスト」を意味する言葉でもあるので、イエスの時代にはこの箇所が「来(きた)るべきメシア」についての預言と受け取られていたようです。イスラエルの人々は、いつかメシアが来ることを待ち望んでいました。しかし、イエスはこの預言が「今日、実現した」と宣言します。これこそがイエスの福音の決定的な新しさです。
(4) 「貧しい人」は経済的に、またその他の理由で圧迫されている人のことで、後に出てくる「捕らわれている人」「目の見えない人」「圧迫されている人」すべてを含む言葉です。「福音」は「よい知らせ」ですが、一言で言えば、「神によるこの圧迫からの解放」だと言ったらよいでしょう。ここには「解放」「自由にし」という言葉が出てきますが、どちらも「アフェシスaphesis」というギリシア語です。「アフェシス」は、「ゆるし」という意味でも使われる言葉です(ルカ24・47)。人間を縛っているあらゆるものからの解放、その根っこにある罪からの解放、これこそがイエスの使命であり、福音だと言えるでしょう。なお、新共同訳の旧約ではこの箇所は次のようになっています。
「主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。主が恵みをお与えになる年/わたしたちの神が報復される日を告知して…」(イザヤ61・1-2)
ルカの引用は、途中にイザヤ58・6の言葉を挿入するなど、いくつかの点で異なっています。「主が恵みをお与えになる年」は元来、50年ごとに「全住民に解放の宣言」(レビ記25・10)がなされるヨベルの年のことですが、「われわれの神が報復される日」という言葉は省かれています。これはイエスの使命に合わせるためにあえて省かれているのでしょう。
(5) 21節の「今日」はルカ福音書の中で特別に「救いが今、実現している」ということを強調する言葉のようです。ザアカイの家での言葉「今日、救いがこの家を訪れた」(ルカ19・9)、一緒に十字架にかけられた犯罪人への言葉「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(23・43)のような箇所にも見られます。
「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」とイエスは宣言されました。それは今、この言葉を耳にするわたしたちにとっても「今日」のことであるはずです。わたしたちはそのような言葉として聖書の言葉を聞いているでしょうか。
2007年01月14日
年間第2主日 (2007/1/14 ヨハネ2・1-11)
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福音のヒント
(1) ヨハネ1・19~2・11を見ると、かなり詳しく日付を追っていることに気づきます。1・29、35、43に「その翌日」という言葉があり、きょうの箇所に「三日目に」とありますので、全部で6日間の出来事ということになります(2・12以下にはこのような日付を追う表現はありません)。6日間は創世記1章で神が天地万物をお造りになった日数です。ヨハネはこの6日間の出来事を新しい創造とも呼ぶべき神のみわざがここに始まるという思いで伝えようとしているのかもしれません。その頂点がきょうの出来事ということになります。
宴会の途中でぶどう酒がなくなるというのは大ピンチです。イエスが水をぶどう酒に変えてそのピンチを切り抜けたという話ですが、ヨハネ福音書はこの出来事を、新しい救いの時代の始まりを象徴的に表す出来事として見ているのです。婚礼のイメージは「神と人とが一つに結ばれる救いのイメージ」でもあります。
(2) イエスの母はもちろんマリアですが、ヨハネ福音書では「イエスの母」と呼ばれるだけです。この母は十字架の場面でも登場します(19・25-27)。3節の「ぶどう酒がなくなりました」は直訳では「(彼らは)ぶどう酒を持っていません」ですが、これは非人称の表現で、単に「ぶどう酒がありません」という意味です。ぶどう酒を救いのシンボルと考えれば「救いがありません」とイエスに訴えているとも言えるでしょう。
これに対するイエスの言葉、「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです」は、冷たく聞こえる言葉でしょう。「婦人」という言葉は、現代日本ではほとんど使われない言葉ですから、現代的には「女性よ」と訳すべきでしょうか。いずれにせよ、普通は自分の母に向かって言う言葉ではありません。「わたしとどんなかかわりがあるのです」は直訳では「わたしとあなた(の間)に何があるのか?」です。確かに拒絶の言葉のように聞こえます。しかし結局、イエスはこのマリアの叫びに答えて行動することになります。とはいえ、この言葉には、マリアの願いとは関係なく、イエスがこれからすることの主導権を持っていることを強調する意味があるようです。
(3) さらにここには「わたしの時はまだ来ていません」という言葉が続いています。ヨハネ福音書の中で「わたしの時=イエスの時」とは十字架の時です(ヨハネ12・23、27、13・1、17・1など)。それは受難の時ですが、同時にイエスが父のもとに行く栄光の時でもあります。ヨハネ福音書ではマリアはこの箇所と19章の十字架の場面だけに登場します。
「イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、『婦人よ、御覧なさい。あなたの子です』と言われた。それから弟子に言われた。『見なさい。あなたの母です。』そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った」(19・26-27)
「自分の家に引き取った」という箇所は「自分のものとして受け入れた」とも訳せます。ここでマリアに弟子たちの母としての使命が与えられることになります。2章4節のイエスの言葉は、母マリアを十字架の場面に招く言葉だと言うこともできるのでしょう。
なお、5節でマリアは「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言います。マリアはイエスが何かしてくれるという希望を持ち続けます。これはイエスに対する深い信頼を表す言葉です。
(4) 「ユダヤ人が清めに用いる石の水がめ」は旧約のシンボルです。1メトレテスは約39リットルですから、100リットル前後入る大きな水がめが6個もあったことになります(ちなみに、今回の写真はカナの町の教会に置かれていた水がめです)。これがぶどう酒に変えられたのは、旧約の時代が終わり、新しい救いの時代が始まったことを表します。
9節で突然、花婿が登場します。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました」(10節)。後になって出てくる「良いぶどう酒」とは新約時代の救いを表しているのです。だとすればこの花婿の姿は神あるいはイエスを暗示しているとも言えるでしょう。
「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた」(11節)。ヨハネ福音書はこの出来事の中にイエスによってもたらされる救い全体が表されていると考えて、こう結んでいるようです。
(5) ここに伝えられているマリアの姿は、イエスの母である一(いち)女性という以上に、人々の代表としての姿だと言えるかもしれません。救いを待ち望んでいた旧約時代のすべての人を代表して「救いがありません」と言い、救いを受けた新約の民(教会)の代表として「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言っているようにも聞こえます。
とにかくこのようにして、マリアはさりげなく、イエスのなさることに協力しています。
「召し使い」はギリシア語で「ディアコノスdiakonos」です。今のカトリック教会では「助祭」と訳されていますが、聖書では「仕える者、奉仕者」と訳される言葉です。彼らもイエスの言葉に従い、そのなさることに協力しました。マリアとこの召し使いたちの姿にわたしたちの見習うべきものがあると言えるのではないでしょうか。
2007年01月07日
主の公現 (2007/1/7 マタイ2・1-12)
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福音のヒント
(1) 「占星術の学者」について、キリスト教の伝統の中では「3人の博士」や「3人の王」のイメージが強くあります(3人という数は聖書には書かれていません。贈り物の数からいつの間にか3人ということになったようです)。この「占星術の学者」と訳されたことばはギリシア語では「マゴスmagos」です。メディア(今のイラン)の一部族であり、祭司階級でもあった「マギ」に属する人、の意味です。彼らは占星術や魔術にすぐれていたと言われています。この人たちについては2つの見方があることを考慮しておくとよいでしょう。1つは、天文学を究めた当時最高の知識人という見方。もう1つには、ユダヤ人にとっては、怪しげな異教徒で、まことの神を知らない人々という見方です。もちろんどう見るかによってこの箇所全体のイメージが変わってきます。どちらが正しいか、というよりも、2つの見方の両方でそれぞれに味わってみると聖書の読み方が豊かになるのではないでしょうか。
(2) ベツレヘムはエルサレムの南7kmほどのところにある町です。マタイ福音書はイエスがベツレヘムでお生まれになったことを、旧約の預言の成就と見ています。ベツレヘムはダビデ王の出身地であり、「ダビデの子孫である理想的な王=メシア」はベツレヘムで生まれるという伝承がありました。6節で引用されているミカ書もそのひとつです。ヘブライ語原文に基づく新共同訳のミカ5・1はこうなっています。
「エフラタのベツレヘムよ/お前はユダの氏族の中でいと小さき者。
お前の中から、わたしのために/イスラエルを治める者が出る」
ミカは紀元前8世紀の南ユダ王国で活動した預言者です。ミカは当時さびれていたベツレヘムの町(いと小さき者)から救い主が誕生すると預言し、人間の思いを超えた神のすばらしい計画を見ていますが、マタイはこの町の重要性を考えて「いちばん小さいものではない」と変えているようです。
(3) ヘロデは紀元前37~前4年、パレスチナを王として支配しました。ローマ帝国からユダヤの王として認められていたヘロデですが、純粋なユダヤ人ではなくイドマヤ人の血を引いていたのでユダヤ人からは正当な王と認められませんでした。そこで「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」の知らせを聞いたときに自分の地位を脅かす存在と感じて不安になったのです。この箇所の後に、この幼子を抹殺しようとしてベツレヘム周辺の幼児を大量虐殺した話があります(マタイ2・16-17)。
「メシア=キリスト=油注がれた者」という言葉には、このように「王」のイメージがつきまといます。ただ、「イエスが王である」ということの本当の意味は、降誕物語だけでなく、その生涯全体を見つめなければ見えてきません。
(4) 学者たちが幼子を訪問したこの出来事は、イエスによってもたらされた救いが民族の壁を越えてすべての人にもたらされる、ということを示しています。この物語の中に、救いの大きな広がりを感じることができるでしょう。2000年前にユダヤやガリラヤに始まった救いの知らせは、今のわたしたちにも届けられています。どうやってわたしたちのところまでこの知らせが届いたかを考えてみたらよいかもしれません。このわたしはどうやって(だれから)この福音を受け取ったのか、そこからさかのぼっていくと2000年の歴史の中でどのようにこの福音が広がってきたかが見えてきて、そこに神の大きな救いの計画を見いだすことができるのではないでしょうか。
(5) 「拝む」という日本語はほとんど死語かもしれません。ギリシア語の「プロスキュノーproskyno」には本来「~に対してキスする」という意味があります。人間に対しても用いられることがあります(使10・25)が、原則としては神または超越的存在に対する礼拝の意味で用いられることばです。「黄金、乳香、没薬」にそれぞれシンボリックな意味を見ることもできますが、敬意を表す贈り物と考えればよいでしょう。彼らは精一杯の敬意と賛美と喜びをこの幼子に示したのです。
(6) 学者たちは「星の導き」によって救い主に出会いました。また「夢のお告げ」(12節)でヘロデ王の危険な考えを察知しました。人はいろいろな仕方で神を知り、神と出会うことができます。ふだん信仰心など持っていないようにみえる日本人が、正月には突然のように神社仏閣にお参りしたり、初日の出を拝んだりするのは、何かしら超越的なものを感じているからでしょう。それらを「間違った信仰心」ということはできません。自分たちは何かしら大きな力に守られていると感じ、そのことに感謝し、今年一年の幸いを願う、という心はすべての人の中にある共通のものだと言えるでしょう。そういう意味で、キリストを信じるわたしたちはすべての人のつながりを感じることができるでしょう。
2006年12月31日
聖家族 (2006/12/31 ルカ2・41-52)
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福音のヒント
(1) ルカ福音書だけが伝える12歳の少年イエスのエピソードです。「過越祭」は春分の日の後に行なわれる春の祭りで、エジプト脱出という神の根本的な救いのわざを記念するものでした。ユダヤ人にとって最も大切な祭りで、この祭りのとき、多くのユダヤ人がエルサレムの神殿を訪れました。ガリラヤのナザレに住んでいたヨセフも家族を連れてエルサレムに巡礼していたということになります。なお、当時の成年は13歳からでしたので、イエスはまだ成人前ということになります。
43節で「少年」と訳されている言葉はギリシア語では「パイスpais」という言葉です。この言葉はまず第一に年少者を表すので「子ども、少年」と訳されますが、家の中で小さい者の意味で「僕(しもべ)」の意味にもなります。同じルカが書いた使徒言行録の3・13、4・27、30で「僕イエス」と訳されている箇所には、ここと同じ「パイス」が使われています。この背景にあるのはイザヤ書の「主の僕」(イザヤ42・1など)で、神から特別な使命を受けた者を指しています。イエスは「少年」であるだけでなく「主の僕」でもある、きょうの箇所でもそのことが暗示されているのかもしれません。
(2) 両親は、イエスを見失い、探して、三日後に神殿にいるイエスを見つけます。「三日後」や「探す・見つける」は復活を感じさせる言葉です(ルカ24・5,23,24参照) 。ルカはこの少年イエスのエピソードの中にイエスの生涯全体が表れていると見ているようです。
49節の「自分の父の家」は直訳では「わたしの父のところ」です。
ルカ福音書の中で神殿という場所は大切な場所のようです。福音書の冒頭で祭司ザカリアは神殿の聖所の中で天使のお告げを受けました。エルサレムでのイエスの活動は最後まで神殿の境内でのことでした。「それからイエスは、日中は神殿の境内で教え、夜は出て行って『オリーブ畑』と呼ばれる山で過ごされた。民衆は皆、話を聞こうとして、神殿の境内にいるイエスのもとに朝早くから集まって来た」(21・37-38)。12歳のイエスが神殿で学者たちと問答している姿は、大人になったイエスが神殿で人々に教えている姿を前もって表すものだと言ってもよいでしょう。ルカ福音書の最後の場面は、イエスの昇天後の弟子たちの姿を伝えていますが、「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」(24・52-53)と結ばれています。
ルカ福音書が書かれた時代(紀元80年ごろ)、すでにエルサレムの神殿は崩壊していました。ルカ福音書の中での神殿とは、ある特定の地上の場所であるというより、「父のところ」であり、そこが本来イエスのいるべきところだということになるのでしょう。
(3) 49節には「当たり前だ」という言葉がありますが、これはギリシア語の「デイdei」という言葉の訳です。「必ず~することになっている」「どうしても~しなければならない」と訳されることもあります。典型的なのはいわゆる受難予告です。ルカ9・22「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」。これは「単なる必然」というよりも、「神が定めたことであるから、そのことは必ず実現する」あるいは「神の意思であるから、必ず人はそうすべきである」というニュアンスのある言葉です。
復活されたイエスの言葉、「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだった(=デイ)のではないか」(ルカ24・26)から考えると、イエスが「父のところにいる」ということも、死と復活をとおして本当の意味で実現することだと言えるかもしれません。
(4) マリアは「これらのことをすべて心に納めていた」(51節)とあります。イエスの誕生にまつわる話の中でも「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」(ルカ2・19)という言葉がありました。51節の「これらのこと」とは、12歳のイエスの神殿でのエピソードだけでなく、「イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった」ということも含まれるようです。「仕える」は直訳では「服従する、従う」です。イエスが両親の思いを超えた神の子でありながら、それでも両親に従って生活する。マリアはそこに神の不思議な計画を感じていたと言ってもよいのでしょう。
(5) クリスマスから正月にかけて、家族と共に時を過ごすという人は多いでしょう。逆に家族と共にいられない寂しさを感じる人もいるかもしれません。いずれにせよ、誰もが自分の家族を意識する時だと言えそうです。そんな中で聖家族の祝日は祝われます。
「聖家族」というと温かな家庭で、何の問題もないように感じられるかもしれません。「神と人とに愛された」(52節)という言葉はホッとさせられる言葉です。この世界のすべての子どもに何よりも必要なのは、このことではないでしょうか。子どもだけでなく、すべての人が神と人からの愛を受け取る場、これこそが家族本来の機能だと言えるでしょう。
一方で、きょうの福音は、少年イエスが両親の考えを超えた行動をし、両親にはそれが理解できないという話でもありました。ある意味では、どこの家庭にもある子どもの反抗期や親子の断絶の問題に似ているかもしれません。理想的で問題のない家族などどこにもありません。イエスはわたしたち人類の一員となり、そんな問題を抱えた家族の一員となってくださったのです。わたしたちの家庭の中にもイエスがいてくださる、そう感じることができれば、「わが家も聖家族」ということになるのではないでしょうか。
2006年12月24日
待降節第4主日 (2006/12/24 ルカ1・39-45)
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福音のヒント
(1) エリサベトはマリアの親類で、高齢になっていたにもかかわらず、洗礼者ヨハネを身ごもりました。人間的には不可能と思われることですが、だからこそ、そこに神の力が働いている、ということになります。洗礼者ヨハネの誕生という出来事には神の力が働いているのです。マリアの場合は処女でしたから、彼女が母となるということは人間的にはまったくありえないことです。もしそれがありうるとしたら、まったく神の力以外の何ものでもないということになります。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む」(1・35)から、このマリアからイエスが生まれることになるのです。
(2) エリサベトはマリアに向かって「あなたは女の中で祝福された方」(42節)と言います。これは「最も祝福された女性」という意味です。これはヘブライ語やアラム語で最上級を表す表現なのです。士師記では、イスラエルに味方して敵の将軍を倒したカイン人のヤエルという女性がたたえられていますが、そこにも同じような表現があり、新共同訳聖書は次のように訳しています。「女たちの中で最も祝福されるのは/カイン人ヘベルの妻ヤエル。天幕にいる女たちの中で/最も祝福されるのは彼女」(士師記5・24)。
今わたしたちが唱えている「恵みあふれる聖マリア…」という祈り(ラテン語の「アヴェ・マリアAve Maria」)の前半は、ルカ1・28の天使の言葉「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」と、このエリサベトの言葉から採られています。日本語では、「主はあなたを選ばれ、祝福され」と訳されていますが、どうでしょうか。「選ばれ」というとマリアだけが例外的に祝福されているように聞こえてしまうかもしれませんが、決してそうではなく、「最も祝福されている方」という意味なのです。
(3) 「胎内のお子さまも祝福されています」は直訳では「また、あなたの胎の実は祝福された方」となります。「も」というので、これもへたをすると、イエスが祝福されているのは、マリアが祝福されているからだと誤解されてしまうかもしれません。しかし、実際は逆のはずです。「胎の実」であるイエスが「祝福された方」であり、「主」(43節)であるからこそ、マリアは「最も祝福された女性」なのです。
エリサベトはマリアの胎内にいる子を「わたしの主」と呼んでいます。そこにはすでに成人した後のイエスと洗礼者ヨハネの関係が、先取りされていると言えそうです。洗礼者ヨハネは「主の道を整え」(3・4)るために来て、この「主」の到来を告げたからです。
(4) 「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」(45節)は、ルカ11・27,28の次の言葉を思い出させます。「イエスがこれらのことを話しておられると、ある女が群衆の中から声高らかに言った。『なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。』しかし、イエスは言われた。『むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である』」マリアはただ単にイエスの母だから素晴らしいのではなく、むしろ神の言葉を信じた信仰のゆえに幸いなのです。
このマリアの信仰は、1・38「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」という言葉にもっともよく表れています。マリアは自分とは関係のないところで神の言葉が実現することを信じ、願っているのではありません。「この身に」(直訳では「わたしに」)と言って、自分の中に神の約束が行なわれることを信じ、それに自分を委ねていきます。それはエリサベトも同じでしょう。
わたしたちにとっても、神の言葉(約束)はわたしたちから遠いところで実現するのではないはずです。まさに「このわたしに」実現することとして、神の言葉は語られているのです。そしてだからこそ、わたしたちが自分のうちに実現する神の言葉をどう受け入れ、どう答えるかが問われるのです。マリアの場合には、特別に「み言葉を自分の中に宿している」というイメージがあるかもしれません。わたしたちも、わたしたち自身のうちにみ言葉を宿す、という感覚を持つことができるでしょうか。
(5) 天使のお告げを受けたマリアは、なぜエリサベトのもとへ行ったのでしょうか。マリアは常識的には信じられないような天使の言葉を確かめるためにエリサベトのもとに行ったのでしょうか。しかし、前の箇所で「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と言っていたマリアの深い信頼からすると、これは考えにくいでしょう。あるいは、出産を控えたエリサベトを手伝うために、エリサベトのもとに行ったのでしょうか。しかし、「マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った」(56節)と言われていますので、これも考えにくいことです。
マリアがエリサベトを訪問した目的は、神の約束の実現を一緒に待つためではないでしょうか。自分たちのうちに神の約束が成就されつつあるのを感じ取り、その喜びを分かち合うためマリアはエリサベトを訪ねたのではないでしょうか。この2人の出会いの中に、「教会」の根本的なイメージを感じ取ることができるでしょう。「いろいろ問題や悲惨なこともあるけれど、それでも神の約束は確かにわたしたちの中で実現に向かっているよね」ということを分かち合い、その喜びを確かめ合うのが、教会という集いの根本的な意味だと言ってもよいのではないでしょうか。
2006年12月17日
待降節第3主日 (2006/12/17 ルカ3・10-18)
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福音のヒント
(1) この箇所の直前には、洗礼を受けに来た人々に対する洗礼者ヨハネの次のような言葉があります。「蝮(まむし)の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」(3・7-9)。非常に厳しい裁きのメッセージです。アブラハムの子孫であるユダヤ人だから祝福を受けられるだろうというような甘い期待は打ち砕かれます。すべての人は今、回心する(=悔い改める)かどうかを問われているのです。10-14節では、その「悔い改めにふさわしい実」とは何かが具体的に語られています。
(2) 群集に向かって要求されるのは、断食や苦行を行なうことではなく、持っているものを、それを必要としている人と分かち合うことでした。それは周りの人を大切にすることと言い換えてもよいでしょう。あらゆる人に回心を呼びかけたヨハネのもとにはさまざまな人が訪れました。ここには「徴税人」と「兵士」が登場しています。「徴税人」はユダヤ人でありながらローマ帝国のために同胞から税を取り立て、そのことによって自分の利益を得ていた人です。彼らの中には不正な取立てをする者も多く、その職業だというだけで罪びとのレッテルを貼られていました。「兵士」はローマ軍の兵士でしょうか。ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスも兵士を持っていました。彼らに対してヨハネが語ったのも、ただ、人に対して悪を行なわないように、ということでした。ヨハネは徴税人や兵士に向かって、その仕事を辞めることを要求しません。「悔い改めにふさわしい実」として必要なことは、今、自分の置かれた場で神の心にかなう生き方をすることでした。
(3) 15節の「メシア」はヘブライ語ですが、原文はギリシア語の「クリストスchristos=キリスト」です。どちらも「油を注がれた者」、つまり神から特別な使命を与えられた人を意味します。メシアを待望していた人々に対して、ヨハネは「わたしよりも優れた方」の到来を予告しました。「履物のひもを解く」(16節)はしもべの仕事で、「わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない」というのは、来られる方がいかに偉大であるかを強調する表現です。
「水による洗礼」と「聖霊と火による洗礼」の対比は分かりにくいかもしれません。まず「洗礼を授ける」と訳される言葉ですが、これはギリシア語で「バプティゾーbaptizo」という一つの動詞で「(水に)沈める、浸す」ことを表します。洗礼者ヨハネの行なっていた洗礼は、ヨルダン川の中に人の全身を沈めることでした。いったん水の中に沈み、そこから立ち上がることは、古い、罪のしもべである自分に死んで、新しく神のしもべである人に生まれ変わる「回心」を表すものでした。これが「水による洗礼」です。
(4) では「聖霊と火による洗礼」とは何でしょうか。「霊」はギリシア語で「プネウマpneuma」で「風、息」を表す言葉です。この「風と火」のイメージは本来、裁きのイメージだったと考えられます。17節には「手に箕(み)を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻(から)を消えることのない火で焼き払われる」という言葉があります。「箕」は麦の殻と実をより分けるための農具です。あらかじめ麦を叩いて実から殻を外しますが、そのままでは実と殻が混ざった状態です。箕は、その混ざった状態のものを空中に放り上げるときに使う道具です。殻は軽いので「風」に飛ばされ、重い実だけが残ります。「風と火の中に沈めること」それは本来は神の裁きのイメージだったのです。つまり、洗礼者ヨハネが語った「来られる方」は、神の裁きをもたらす人だったと言えるでしょう。ヨハネはその裁きの到来の前に、人々に回心することを呼びかけたのです。
もちろん、実際に来られた方イエスは、裁きをもたらしたのではありませんでした。イエスも終末における裁きを語られましたが、地上で活動したイエスは、むしろ神のゆるしをもたらす方でした。キリスト教は洗礼者ヨハネの言葉を実際に来られたイエスに当てはめ、イエスの姿からこの言葉を再解釈していきました。福音書の中では、「聖霊による洗礼」は「聖霊の中に人を沈めること=人に聖霊を与えること」と理解され、それがイエスによって実現することだと語るのです。なお、ここでは「火」は非常に激しい力を持つものとして聖霊のシンボルだと理解されています(使徒言行録2・3参照)。
(5) わたしたちは洗礼者ヨハネの言葉を信じて、ヨハネの弟子になろうとしているのではありません。本当に見つめるべきなのは、ヨハネではなくイエスなのです。イエスがもたらしたものは何か、ということのほうがはるかに大切です。
ところで、ルカ福音書はきょうの箇所(18節)で、ヨハネは「民に福音を告げ知らせた」と言っています。ヨハネの告げた「福音(よい知らせ)」とは何でしょうか? 第一には「決定的な方が来られるということ」でしょう。と同時に「今、回心することによって救いにあずかることができるということ」も福音だと言えるでしょう。
わたしたちは毎年この季節に、特別に「主が来られる」ということに心を向けます。それは「今が回心のチャンスだ!」という福音を受け取る時でもあります。さらに、このチャンスとは、来られるイエスに目を向けると同時に、隣人に目を向け、隣人に対して不正を行なわず、愛を行なうチャンスなのだと言ってもよいでしょう。
2006年12月10日
待降節第2主日 (2006/12/10 ルカ3・1-6)
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福音のヒント
(1) 「皇帝ティベリウスの治世の第十五年」(1節)。ティベリウスは第2代ローマ皇帝で、紀元14年に即位していますから、これは紀元28年ごろのことだということになります。「神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降(くだ)った」(2節)は、旧約聖書に見られる典型的な預言者の紹介の仕方です。たとえば、「ダレイオスの第二年八月に、イドの孫でベレクヤの子である預言者ゼカリヤに主の言葉が臨んだ」(ゼカリヤ1・1)。
「預言者」はギリシア語では「プロフェーテースprophetes」で、もともと「プロ(予め)」と「フェーミ(言う)」という語の合成語ですから、ギリシア語の訳としては「予言者」のほうが正確でしょう。しかし、この背景にあるヘブライ語の「ナービー」という言葉には単に「予言する人」ではなく「神の言葉を告げる人」という意味が強いので、「預言者」という漢字を当てたほうが内容的には適切だと言えそうです。ちなみに、中国語では「豫」(「予」の正字体)と「預」の間に意味の差はないそうです。
(2) イスラエルの歴史の中では、王国時代から捕囚後まで数多くの預言者が活動しましたが、洗礼者ヨハネやイエスの時代は、最後の預言者が去ってからかなりの時がたっていました。神はもはや預言者の口をとおして民に語りかけることはない、と感じられていた時代でした。その時代に「預言者」として登場したのが洗礼者ヨハネでした。神はこの世界に対して、今まさに決定的なことをなさろうとしている、その神の言葉を伝えるのが預言者としての洗礼者ヨハネの使命でした。
「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を」(3節)とありますが、「洗礼」はギリシア語で「バプティスマbaptisma」です。この言葉はもともと「水に沈めること、浸すこと」を意味しています。ヨハネが行なっていたバプティスマとは、ヨルダン川の水に人間の全身を沈めるものでした。一度水の中に沈み、そこから立ち上がることは、古い自分に死んで新たな命に生きることを表します。「悔い改め」と訳された語は、「メタノイアmetanoia」で、元の意味は「心を変えること」です。旧約聖書では「神に立ち返る」と言われていることです。「心を神に向け、神に立ち返る」という意味で「回心」という漢字が当てられるようになりました。古い自分に死んで、新たに神とともに生きる、と言ったらよいでしょうか。この目的は「罪の赦し」です。罪が神から離れることであるとすれば、回心とそのしるしであるバプティスマは、「罪のゆるし=神との和解」をもたらすものなのです。
もちろん、このことは本当の意味ではイエスによって実現することになります。
(3) 4-6節はイザヤ書40章の引用です。この箇所の少し前から見てみましょう。
「1慰めよ、わたしの民を慰めよと/あなたたちの神は言われる。2エルサレムの心に語りかけ/彼女に呼びかけよ/苦役(くえき)の時は今や満ち、彼女の咎(とが)は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを/主の御手(みて)から受けた、と。
3呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。4谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。5主の栄光がこうして現れるのを/肉なる者は共に見る」
イザヤ40~55章は「第二イザヤ」と呼ばれています。1~39章とは別の、バビロン捕囚時代(紀元前6世紀)の無名の預言者の言葉と考えられています。この捕囚の苦しみは自分たちの罪の結果だから仕方ない、と考えていた当時のイスラエルの民に向かって、神によるゆるしと解放を告げるのが第二イザヤのメッセージでした。
上のイザヤ書本文では、「荒れ野に道を備え…と呼びかける声」となっています。荒れ野の道とは捕囚の地バビロンからイスラエルの民が神とともに帰国する道でした。「道を備えよ」と「呼びかける声」は本来、天から預言者に向かって呼びかける声だったようです。福音書は、七十人訳聖書(古代のギリシア語訳旧約聖書)に基づいてこの箇所を「荒れ野で叫ぶ者の声」と読んで、これを洗礼者ヨハネに当てはめています。また、イザヤ書本文では「主」は「わたしたちの神」のことですが、福音書の引用では「わたしたちの神のために」が省かれ、「主」をイエスのことと受け取っています。
(4) ルカはマタイやマルコよりも長い引用をしています。それは「人は皆、神の救いを仰ぎ見る」という言葉を伝えたかったからです。翻訳を比べてみるとイザヤ40・5とルカ3・6は少し違っています。「人は皆」は直訳では「すべての肉」です。「主の栄光がこうして現れる」を「神の救い」としたのは七十人訳の影響です。いずれにせよ、ルカはイエスによってもたらされる救いがすべての人に及ぶことを強調するためにこの言葉を引用しています。新約聖書は洗礼者ヨハネを、イエスの先駆者、イエスの到来を準備した人として描きます。わたしたちが見つめるべきなのは、洗礼者ヨハネではなく、すべての人の救い主として来られる「主」イエスのほうなのです。
待降節はただ単にクリスマスを準備する季節ではありません。12月24日までイエスの誕生を待って、25日には誕生を祝うというだけではなく、待降節から降誕節までの期間をとおして、「イエスが来られる」ということの意味を味わうと考えたらよいでしょう。
イエスの到来には3重の意味があります。「2千年前に来られたイエス」「世の終わりに再び来られるイエス」「今わたしたちの生活の中に来てくださるイエス」。わたしたちにとって、やはりこの3番目の意味が大切でしょう。だとすれば、「主の道」とはただ主が来られる道ではなく、わたしたちが主とともに歩んでいく道でもあるのではないでしょうか?
2006年12月03日
待降節第1主日 (2006/12/3 ルカ21・25-28、34-36)
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福音のヒント
(1) 「太陽と月と星に徴(しるし)が現れる」というような天体の異変は、イザヤ13・10、エゼキエル32・7、ヨエル2・10などにも見られます。これは、人間の罪に対する神の裁きの到来を表す表現です。世の終わりは確かに一面では破滅のメッセージなのです。現代のわたしたちが思い描く世界の終わりも世界全面核戦争であったり、地球環境の悪化による人類の滅亡であったりして、これも破滅そのものであり、ここには何の救いも感じられないかもしれません。しかし、聖書の終わりについてのメッセージは同時に救いの完成のメッセージでもあるのです。なぜなら、その時が神との出会いの時でもあるからです。
「終末=世界の終わり」と言われてもピンとこないとしたら、「個人の終わり=死」について考えてみると良いでしょう。いつか「その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる」(34節)という面では同じなのです。それは時間と空間の中にある肉体的生命の終わりの時ですが、同時に時間の流れを越えた「永遠」との出会いの時でもあります。そして、そこに向かって、今をどう生きるかがわたしたちに問われるのです。
この永遠との出会いの中で「神の愛がすべてにおいてすべてとなる」ということがわたしたちキリスト者の希望です。そこには「神の愛に反する一切のものが滅びる」という面があることも否定できません。しかし、聖書の「終わり」についてのメッセージは、人々の恐怖心をあおり立てるためにあるのではありません。むしろ「神の愛に信頼し、その愛を生きるように」と人々を励ますためのメッセージなのです。きょうの箇所もそのように受け取ったらよいでしょう。
(2) 28節の「解放」と訳された言葉は、ギリシア語の「アポリュトローシスapolytrosis」です。これは本来、「身代金を払って奴隷を解放すること」を意味する言葉です。「あがない」と訳すこともできますが、ここでは、完全な救いの実現を表す言葉として受け取ればよいでしょう。わたしたちにとって、いったい何からの解放でしょうか。逆に言えば、わたしたちは今、何に縛られているのでしょうか。
25-26節から考えれば、それは「この世界の混乱に対する不安」だと言ったらよいかもしれません。この世界の悪の現実、戦争や犯罪や暴力という現実、それらを見れば見るほど悲観的になり、どこにも救いがないと感じるかもしれません。しかし、神はこの現実の中でもわたしたちを救いと解放に導いてくださっているとイエスは約束されるのです。
あるいは、わたしたちを縛っているものは「放縦(ほうじゅう)や深酒(ふかざけ)や生活の煩(わずら)い」(34節)だとも言えるでしょうか。財産や快適な生活に固執して、本当に大切な生き方を見失っているのもわたしたちの現実の一面でしょう。そこからの「解放」と考えても良いのかもしれません。
(3) 「いつも目を覚まして祈りなさい」の「目を覚ましている」ということはどういうことでしょうか。マルコ、マタイ、ルカの各福音書ではそれぞれにニュアンスが違うようです。
マルコ13章では、目に見えるものではなく、目に見えないが確かなもの、すなわち決して滅びることのないイエスの言葉に信頼を置くように、という勧告だと言ったらよいでしょう(B年年間第33主日の「福音のヒント」参照)。
マタイ24-25章で、「目をさましていなさい」という命令は、最終的に「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25・40)というイエスの宣言につながっていきます。「目を覚ましている」ということは、現実の生活の中で目の前の苦しんでいる人を大切にして生きることなのです(A年待降節第1主日の「福音のヒント」参照)。
(4) ルカは、目を覚ましていることを祈ることと結びつけます。「目を覚ましていること=祈ること」だと言っても良さそうです。この「祈り」は「心が鈍くならないように」(34節)するためであり、「起ころうとしているこれらすべてのことから逃れ」るためであり、さらに「人の子の前に立つことができるように」(36節)なるためのものです。
「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くなる」というのはおそらく誰の中にもあることでしょう。目先の快楽や自分の生活の安定、損得勘定にはとても敏感なのがわたしたちの日常だと言えるかもしれません。しかし、それよりももっと大切なことに心を向けさせるのが「祈り」なのです。
「起ころうとしているこれらすべてのこと」、すなわち、現実の悲惨さや絶望的な状況、迫り来る「終わり」を突き抜けて、神に心を向けることが「祈り」です。
27節にもある「人の子」は栄光のうちに再び来られるキリストのことですが、キリストが愛によってすべてを完成させる時に向けてふさわしく生きるようにさせてくれるのも「祈り」なのです。パウロは「そのときには、顔と顔を合わせて見る」(Ⅰコリント13・12)と言います。このキリストとの決定的な出会いを意識し、「来られるキリスト」に目を向けていることが「祈り」だと言ったらよいのではないでしょうか。