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2007年12月20日

『福音のヒント』は引っ越しました。

『福音のヒント』は以下の場所に引っ越しました。
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大変恐れ入りますが、東京大司教区携帯用ホームページhttp://tokyo.catholic.jp/keitai.htmから「福音のヒント」へお入り直しくださいませ。
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カトリック東京大司教区『福音のヒント』

投稿者 ct : 16:12 | コメント (3)

2007年12月16日

待降節第三主日 (2007/12/16 マタイ11・2-11)

教会暦と聖書の流れ

聖書本文

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 先週に引き続き、きょうの福音にも洗礼者ヨハネが登場しますが、本当の主役はもちろんイエスご自身です。きょうの箇所では、イエスによって実現したことが何だったのか、ということが示されています。「待降節第3主日」は「喜びの主日」と言われてきました。待降節は、英語で「Adventアドベント(到来の意味)」ですが、イエスの到来によってもたらされた喜びとは何なのかを味わう箇所としてきょうの福音を読むと良いでしょう。

福音のヒント

  (1) イエスがヨルダン川で洗礼を受けたとき、すでに洗礼者ヨハネはイエスを「来(きた)るべき方」だと認めていたはずです(マタイ3章14節参照)。それなのになぜ、このきょうの箇所で「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と自分の弟子たちに質問させたのでしょうか。
 一つの考えはこうです。洗礼者ヨハネは捕らえられ、自分が死を迎えることを予感していたので、自分の弟子たちの目をイエスに向けさせ、イエスのもとへ導くために、こういう指示をした。つまり、洗礼者ヨハネ自身はイエスが「来るべき方」だということを疑っていたのではない、という考えです。
 もう一つの考えはこうです。やはり洗礼者ヨハネは疑問に思った。それはヨハネが思い描いていた「来るべき方」のイメージと、実際に到来したイエスのイメージが大きく違っていたからではないか。洗礼者ヨハネは「来るべき方」について告げ知らせましたが、ヨハネが思い描いていたのは「神の怒りと裁きをもたらす方」でした。ヨハネはイエスの実際の活動を見聞きして、それが自分の考えるメシア(キリスト)のイメージと違うことに戸惑ったのではないでしょうか。

  (2) 2節の「キリストのなさったこと」という言葉は「キリストの業」とも訳せます。これはただ単に「イエスがしていた行為」というだけでなく、「イエスがキリスト(救い主)として行っていた行為」という意味に取ることもできる言葉です。イエスの答えは、イエスの周りで実際に何が起こっているかに目を向けさせるものでした。それは旧約聖書の救いの到来に関する預言の成就と言えることです。特に次の箇所が思い浮かびます。
 「そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。そのとき/歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う」(イザヤ35章5-6節)
 「主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために」(イザヤ61章1節)

  (3) 「貧しい人」というのは「さまざまな事情で圧迫され小さくなっている人」のことです。「目の見えない人」「足の不自由な人」などは皆、「貧しい人」と別の人のことではないでしょう。苦しみの中にあって神の救いを待ち望んでいるすべての人が「貧しい人」と呼ばれているのだ、と考えたらよいのではないでしょうか。「神の救いに飢え渇く人」と言ったほうが分かりやすいかもしれません。それは「神なしで満ち足りている」というのと反対の状態だとも言えます。
 ルカ4章16-21節でも、イエスは「貧しい人に福音を告げ知らせる」という言葉をご自分に当てはめています。この言葉は、イエスの使命、イエスがもたらしたものを実に簡潔明瞭に表す言葉だと言えるでしょう。では、わたしたちの「貧しさ」とは何でしょうか。わたしたちにとっての「福音」とは何でしょうか。

  (4) わたしの中の「貧しい部分」「飢え渇いている部分」は何でしょうか。わたしたちの周りの家庭や社会、世界の中で「貧しい部分」「飢え渇いている部分」は何でしょうか。わたしたち自身の「貧しさ」を見つめることは、実は待降節の大切なテーマなのです。ルカ福音書の伝えるイエスの誕生の物語は、旅をしている貧しい夫婦、飼い葉桶の中の貧しい幼子、そして最初にこの幼子を訪れた貧しい羊飼いの姿を伝えています。イエスの誕生が貧しい人々にもたらした救いの喜びを味わうのがクリスマスなのです。
 イエスによって実現したこと(キリストの業)は、単なる病気のいやしではありません。イエスが2000年前の貧しい人々に何をもたらしたのか、今の貧しいわたしたちに何をもたらしてくれるのか、いくつかのヒントを挙げてみます。
 1. この貧しさや苦しみの中で、自分はまったく独りぼっちではないと気づくこと!
 2. この世界は神がともにいてくださる世界であると気づくこと!
 3. だから、わたしたちの心に信頼と希望と愛が生まれること!
 そういう体験がわたしたちにもあるのではないでしょうか。だとしたら、それがわたしたちにとっての「到来(アドベント)」であり「降誕」なのではないでしょうか。

  (5) 11節の「天の国」はマタイ福音書特有の言い方で、「神の国」と同じ意味です。「国」はギリシア語では「バシレイアbasileia」です。この言葉は「王(バシレウス)」から来た言葉で「王であること、王としての支配、王が治める国(王国)」の意味になります。
 イエスは洗礼者ヨハネを預言者として、人間として最大限に評価していますが、同時に「天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」と言っています。それは、ヨハネが神のバシレイアの「準備の時代」の人であったのに、イエスの救いを受け取った人は、その「実現の時代」にいる、ということを意味しているのでしょう。イエスと共に「まったく新しい救いの時代が始まっている」のです。
 わたしたちはこの「もうすでに始まっている神のバシレイア(国、支配)」に生きているはずです。そしてイエスによって始められた神のバシレイアをもうすでに生き始めているからこそ、わたしたちは、世の終わりの、人生の終わりのときの「救いの完成」への確かな希望を持つことができるのです。

投稿者 ct : 17:13 | コメント (20)

2007年12月09日

待降節第二主日 (2007/12/9 マタイ3・1-12)

教会暦と聖書の流れ

聖書本文

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 待降節は、英語では「アドベントadvent」と言いますが、本来の意味は「到来」です。待降節第2、第3主日の福音では毎年、洗礼者ヨハネに関する箇所が読まれます。それはわたしたちが洗礼者ヨハネの弟子になるためではありません。わたしたちはイエスの弟子になろうとしています。洗礼者ヨハネとともに、彼がその到来を告げ知らせた「来(きた)るべき方」のほうに心を向けていくのです。

福音のヒント

  (1) 洗礼者ヨハネは「預言者」でした。洗礼者ヨハネが登場した時代、すでに文字に書かれた聖書(旧約)ができあがっていました。神は聖書を通して語られるのであって、もう生身の預言者の口をとおして民に語りかけることはない、という雰囲気がありました。その中で、洗礼者ヨハネは「今、神が語られることば」を告げます。
 彼の活動は伝統的な預言者のスタイルを意図的に再現したものでした。「荒れ野」は生きるために厳しい場所ですが、イスラエルの伝統の中では、神との出会いの場でもありました。生きるか死ぬかのギリギリのところで、それでもなお自分を生かしてくださる神の存在を身近に感じ取ることができるのです。洗礼者ヨハネはこの荒れ野で神の声を聞き、町に住む人々に語りかけます。だから彼は「声」(3節)と呼ばれます(ちなみにこの箇所はイザヤ40章3節の引用ですが、福音書は原文を少し変えて引用しています)。「毛衣と革の帯」は、列王記下1章8節に伝えられている預言者エリヤと同じ服装です。「いなごと野蜜を食物としていた」は、荒れ野の中でかろうじて手に入れられるものだけで生きていた、すなわちほとんど断食のような生活をしていた、ということです。このように、ヨハネは典型的な預言者だったのです。

  (2) 洗礼者ヨハネが呼びかけたのは「回心」でした。ヨハネにとって「差し迫った神の怒り」(7節)が問題でした。そこから救われるために必要なことは「悔い改め、回心」(ギリシア語で「メタノイアmetanoia」)でした(2節)。この悔い改めは、すべての人に求められました。「自分たちはアブラハムの子孫だ」という誇りや安心感は、神の裁きの前では何の役にも立ちません(9節)。すべての人が今、回心しなければならないのです。しかしこのことは逆に、どんな人でも今、回心すれば救いにあずかれる、という希望のメッセージにもなりました(こんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。9節)。そして、その回心のしるしが「洗礼」だったのです。
 また、同時に大切なことは、「悔い改めにふさわしい実を結ぶこと」(8節)、「良い実を結ぶこと」(10節)です。洗礼者ヨハネが求めたことは、具体的な生活の改善でした。それはそれぞれの人が自分の置かれた生活の場の中で、愛と正義を行うことだったのです(ルカ3章11-14節参照)。

  (3) ヨハネは、自分の「後から来る方」について語っています。そして「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」と言います(11節)。キリスト教は、イエスこそが洗礼者ヨハネの告げた「来(きた)るべき方」だと考えます。「洗礼を授ける」(ギリシア語の「バプティゾーbaptizo」)の本来の意味は「沈める、浸す」なので、「聖霊と火で洗礼を授ける」というのは「聖霊と火の中に人を沈める、浸す」というイメージです(実際、ヨハネの洗礼はヨルダン川に人の全身を沈めるものでした)。これを神のいのちである聖霊を与え、愛の火で人を清める、という意味に受け取るのがキリスト教的な理解です。
 しかし、洗礼者ヨハネ自身はこういう意味でこの言葉を語ったのでしょうか? この直後に「手に箕(み)を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」(12節)という言葉があります。「箕」はもみ殻と麦粒を分けるための農具です。麦の実とその殻が混じったものを箕に入れてほうりあげると、軽いもみ殻は風に飛ばされ、重い麦粒だけをより分けることができるのです。聖霊の「霊(プネウマ)」にはもともと風の意味がありますが、この「風と火に浸す」のイメージは、来るべき方が怒りと罰をもたらす方だということを言おうとしていたのではないでしょうか。
 一方、実際に来られたイエスは、決して「怒りと罰」をもたらしたのではありませんでした。イエスのメッセージの中にも厳しい裁きの面がありますが、イエスがもたらしたものはむしろ、ゆるしと恵みでした。だからわたしたちは、恐れおののきつつ、来るべき方を待つのではありません。「愛と喜びに包まれた待望の時」(典礼暦年に関する一般原則39の言葉)として、この待降節を過ごしているのです。

  (4) 「悔い改めよ。天の国は近づいた」(2節)。マタイ福音書によれば、イエスもまったく同じ言葉でご自分の活動を始めました(4章17節)。ヨハネもイエスも同じように切実な終末意識を持って、人々に回心を呼びかけたのです。「悔い改め、回心」の原語の「メタノイア」は「心を変えること」を意味しています。それは単なる「改心」というよりも、「神に心を向け直すこと」「主に立ち返る」ことなのです。
 ただ、洗礼者ヨハネの場合は「近づいているが、まだ来ていない」のに対して、イエスの場合は「近づいてきて、ある意味でもうすでに始まっている」というところに決定的な違いがあると言えるでしょう。イエスは、父である神の愛のバシレイアbasileia(国、支配)がもう始まっている、だから「その父である神に心を向けなさい」と呼びかけるのです。
 待降節を過ごしているわたしたちにも両面があります。確かにイエスは2000年前に来られ、神の国はすでに始まった、という面と、最終的にいつか本当の意味で実現する、という面。それだけでなく、わたしたちの生活の中に日々「主は来られている」ということも大切でしょう。この「日々の到来」についてはわたしたちの姿勢がいつも問われます。わたしたちが回心と信仰を持って受け入れなければ、日々の到来(アドベント)は受け取れません。その意味で、洗礼者ヨハネのメッセージは今のわたしたちにとっても切実な呼びかけだと言えるのではないでしょうか。

投稿者 ct : 14:53 | コメント (27)

2007年12月02日

待降節第一主日 (2007/12/2 マタイ24・37-44)

教会暦と聖書の流れ

聖書本文

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 クリスマスの4週前の日曜日から待降節が始まります。教会の暦ではこの待降節第一主日から新しい年になります。3年周期の主日のミサの朗読配分ではA,B,C年のうちA年にあたり、福音朗読では主にマタイ福音書が読まれていきます。  「待降節」という日本語は「主の降誕を待つ季節」という意味では分かりやすいのですが、ラテン語はアドヴェントゥスADVENTUS(英語ではアドヴェントadvent)で、「到来」を意味する言葉です。待降節とは、2000年前にイエスが世に来られたことを思うだけでなく、世の終わりに栄光のうちに再び来られることを思う季節でもあります。待降節の福音朗読は毎年、終末についての説教からとられた「目を覚ましていなさい」という言葉から始まります。

福音のヒント

  (1) 「人の子」はダニエル7章13節に基づく表現で、神が最終的に天から遣わす方を表します。新約聖書では「人の子の到来」は、天に上げられたイエスが世の終わりに再び来られることを意味しています。人の子の到来は「救いの完成の時」であると同時に「裁きの時」でもあります。キリストが力をもって来られ、キリストがすべてにおいてすべてとなる、ということは、神に信頼し、救いを待ち望んでいる者にとっては救いの完成ですが、同時にそれは神に反するすべてのものが滅ぼされる時だとも言えます。きょうの福音の箇所では、この「裁き」の面が強調されています。「愛は決して滅びない」(Ⅰコリント13章8節)という大きな希望の言葉がありますが、神の裁きには「愛に反するものはすべて滅ぼされる」という面があるのです。「愛に反するものが滅ぼされる」というのは「愛に反する人が滅ぼされる」というよりも、「わたしたちの中の愛に反する部分が滅ぼされる」と受け取ることもできるでしょう。それはわたしたちがキリストのように愛そのものへと変えられていくためです。Ⅰヨハネ3章2節の次の言葉が参考になるのではないでしょうか。「わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです」

  (2) 「ノアの時」は創世記6章から始まる有名な洪水物語のことです。人の子の到来の時(裁きの時)は人が考えていないときに突然やってくるということが強調されています。きょうの箇所の直前に「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである」(24章36節)という言葉がありましたが、内容的にそれとつながっています。「思いがけない時に来る」ということは43-44節でも繰り返されるテーマです。人にはいつ来るか分からない、ということだけでなく、来るということさえ意識していないということもあるでしょう。その中で「いつか確実に来るのだ」ということも強調されています。
 「そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される」(40-41節)は、人の目にはまったく同じように見える2人の人間が、神の裁きの目から見るとまったく違う評価を受ける、ということです。これは、人間が勝手に神の裁きを想像して、自分で自分を裁いたり、他人を裁いてしまったりすることへの警告と言えるのかもしれません。

  (3) 「目を覚ましている」というのはわたしたちにとってどういうことでしょうか。泥棒を警戒するように「裁きの時を警戒してビクビクしながら生活する」ことでしょうか? 43節のたとえから考えるとそうなってしまいそうですが、それがわたしたちに求められている生き方だとは到底思えません。あるいは「この世のことよりも終わりの時の裁きのことを考える」ということでしょうか? 最終的な神の裁きのことばかりを思うことには落とし穴があります。それは、今の生活がどうでもよくなり、現実の目の前の人間の苦しみや社会の不正に目を閉ざしてしまう危険です。実は、きょうの箇所には「目を覚ましている」とはどういうことか、ほとんど何も語られていないのです!
 マルコ福音書13章は「目を覚ましていなさい」という警告でイエスの長い終末についての説教を結んでいますが、マタイ福音書は、マルコ福音書を基にしながら、この説教の後に24章45節~25章46節の大きな部分を付け加えています。この部分は4つの話からなっていて、この4つの話はすべて「目を覚ましている」とはどういうことかを語る話だと言えます。それは「主人が帰って来たとき、言われたとおりにしている」(24章46節)ことであり、「ともし火と一緒に、壺に油を入れて持っている」(25章4節)ことであり、「預かったタラントンを用いて、ほかのタラントンをもうける」(25章16-17節)ことなのです。とはいえ、ここまでの3つの話はすべてたとえ話で、これらのたとえが何を意味しているか、本当に「目を覚ましている」こととは何なのか、ということは25章31-46節になってはじめて明らかにされます。そこまで読まなければ、「目を覚ましている」ということは分からないようになっているのです!(ちなみにマルコやルカの福音書を読むと違う面が見えてきますが、今回は触れることができません)

  (4) マタイ25章31-46節は、飢え、渇き、旅人であったり、裸であったり、病気であったり、牢にいる人に助けの手を差し伸べること、「わたし(キリスト)の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことだ」という箇所です。マタイ福音書の中で「目を覚ましている」とはどういうことか、と言えば、ここにもっとも明快な答えがあります。「助けを必要としている人に手を差し伸べること」「愛を持って生きること」と言ったらよいでしょうか。あるいは、「出会う一人一人の人の中にキリストを見いだすこと」「苦しむ人、虐げられている人を通してキリストに出会うこと」と言うこともできるかもしれません。今年の待降節を迎えるわたしたちにとって、「目を覚ましている」とはどういうことなのでしょうか?

投稿者 ct : 16:57 | コメント (0)