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2007年11月11日
年間第32主日 (2007/11/11 ルカ20・27-38)
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教会暦と聖書の流れ |
福音のヒント
(1) サドカイ派は、ファリサイ派と並ぶイエス時代のユダヤ教の一派です。彼らの名「サドカイ」は祭司の名から来ています。彼らは当時のエルサレムの神殿の権威や富と結びついていた裕福なグループでした。ファリサイ派がモーセ五書(律法の書、創世記~申命記)以外の預言書や口伝(くでん)律法を大切にしていたのと異なり、サドカイ派はモーセ五書のみを正典と考えました。モーセ五書には「復活」について明確に述べている箇所はありません。イスラエル民族はもともと、人は死ぬと先祖の列に加えられる、そこは「シェオール(陰府)」と呼ばれるところで、そこでは生きている人との関わりも神との関わりもなくなってしまう、と考えていたようです。
(2) 旧約聖書の中で「復活」ということがはっきりと語られるようになるのは、ダニエル書の12章とマカバイ記二の7章です(マカバイ記はヘブライ語聖書には含まれていませんが、カトリック教会では「第二正典」とされています)。これらの箇所が書かれた時代は、紀元前2世紀の迫害と殉教の時代でした。紀元前4世紀、ギリシアのアレクサンドロス大王が築いた広大な支配地域には、4つのヘレニズム(ギリシア人の)帝国ができました。パレスチナは初め、エジプトのプトレマイオス王朝の支配を受けましたが、後にシリアのセレウコス王朝に支配されるようになりました。そして、そのセレウコス王朝のアンティオコス4世エピファネスという王のとき、ユダヤ人に対する激しい宗教的迫害が起こりました。エルサレムの神殿にはギリシアの神々の像が持ち込まれ、ユダヤ人は先祖伝来の律法に従って生きることを禁じられました。「神に忠実に生きようとすればするほど、この世では苦しみを受け、中には殺されていく人もいる」という厳しい状況の中で「死を越えて神が救いを与えてくださるという希望=復活の希望」が語り始められたのです。
(3) サドカイ派が復活を認めなかったのは、彼らが「モーセ五書」のみを正典と考えていたから、というだけではないでしょう。サドカイ派はこの世で満ち足りていた人々の集まりでした。たとえローマ帝国の支配下であろうとも、神殿の権威や富に結びついていたサドカイ派にとって今の生活は悪くなかったのです。彼らにとって神との関係は、神殿の祭儀の中で正しいいけにえをささげているだけで十分で、死を越えて神に希望するものなど何もなかったのでしょう。だからサドカイ派はここで「復活」という考えの矛盾を指摘して復活を否定しようとしたのです。
一方のイエスは、貧しい人々とともに生き、苦しむ人々の姿を見つめてきました。彼らの苦しみと希望はイエスのものでもあったのです。そしてご自分の身にも危険が迫っていることをイエスは切実に感じていました。イエスにとって、復活とは死後の世界に対する興味や、宗教家の議論の問題ではなかったのです。それは、「どう考えてもこの世では今の苦しみと絶望的な未来しかないと感じられるときに、それでもなお神に信頼し、人を愛し、希望を持って生きることができるかどうか」というギリギリの決断の問題なのです。
(4) 34-36節でイエスは、この世の有り様と復活の有り様はまったく違うということを語ります。復活のいのちとはこの世のいのちの延長線上にあるものではなく、まったく違うレベルのいのちなのだ、ということでしょう。復活とは、まったく「神によって生きる」(38節)ことなのです。
37-38節の「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」だから「死者は復活する」というのはどういうことでしょうか。あえて説明すれば、「神は『生きている者の神』であり、モーセに現れた神がご自分を先祖の神だ、と言うのだとすれば、先祖たちは今も何らかの形で生きていることになる」ということでしょうか。イエスはサドカイ派も認めているモーセ五書を使って彼らに反論していますが、ただこれをもって復活の論証と考えるとあまり説得力がないようにも思えます。
(5) 37節の「柴」の箇所とは、出エジプト記3章を指します。神がシナイ山で初めてモーセに声をかけ、イスラエルの民をエジプトの奴隷状態から脱出させるために、モーセを民の指導者として選び出す箇所です。そこで神がモーセに向かって語る自己紹介の言葉が「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」(出エジプト記3章6節)というものでした。イスラエルの先祖とともにいて、いつも彼らを守り導いた神は、今エジプトの奴隷状態にある民を決して見捨てていないのです。この神は、いつも人とともにいて、人を導き、どんな苦しみの中でも人が希望を置くことのできる神なのです。ここに復活の希望の根拠があると言えるのではないでしょうか。
38節「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」の「生きている者の神」とは、生きている人間の支えとなり、希望となり、力となる神だとも言えるでしょう。逆に、現実の人間の苦しみや喜びと関係なく、人が儀式をとおして出会うだけの神は「死んだ者の神」と言ってもよいかもしれません。
きょうの箇所は、わたしたちの神との関わりについての鋭い問いかけでもあります。それは、「わたしたちは神にどのような希望を置いているのか、そして、わたしたちは本当に神によって生きているか?」という問いかけなのです。
投稿者 ct : 2007年11月11日 14:16
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