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2007年11月04日
年間第31主日 (2007/11/4 ルカ19・1-10)
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教会暦と聖書の流れ |
福音のヒント
(1) イエスの時代のパレスチナはローマ帝国の支配下にありました。ローマ帝国は被征服民族であるユダヤ人にある程度の自治や宗教的自由を認める一方で、税を徴収することによって利益を得ていました。ローマに税を納めることはローマの支配を認めることであり、自分たちは神の民だと考えていたユダヤ人にとっては耐え難いことでした。
徴税人はユダヤ人でありながら、このローマ帝国の徴税という仕事を引き受けていた人たちです。彼らはそもそも、ローマに仕える民族の裏切り者として忌(い)み嫌われていました。徴税人は、ローマ帝国から給与を得ていたのではなく、ローマに納める税金に自分の取り分を上乗せしたものを人々から徴収し、それによって財を蓄えていたので、不正な取り立ても多かったようです。このような事情で「徴税人」は、当時のユダヤ社会の中で明らかに「罪びとというレッテル」を貼られていた職業になっていたのです。ザアカイは「徴税人の頭(かしら)で、金持ちであった」と紹介されています。彼は経済的には恵まれていましたが、ユダヤ人社会の中では「神から程遠く、社会のクズであり、生きるに値しない最低の人間だ」という烙印を押されていたのです。もちろんザアカイ自身、自分の生き方が神に背くものだと感じていたでしょう。
(2) ザアカイは「イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群集にさえぎられて見ることができなかった。それで・・・、いちじく桑の木に登った」(3-4節) とあります。ザアカイはなぜイエスを見ようとしたのでしょうか。単なる好奇心でしょうか。しかし、木に登ってまでイエスを見たいというザアカイの姿には、何かしらもっと切実な思いも感じられます。また、背が低くて見えなければ、群集をかきわけて前に出ればよいはずですが、彼はそうしませんでした。ザアカイは周囲の人々の目を気にしていたのかもしれません。それ以上に、自分のような罪びとがイエスに近づいて行く資格はない、と感じていたのかもしれません。
それでもザアカイはイエスを一目見たいと思って木に登るのです。彼はイエスという方が「罪びとを招いて、一緒に食事までしている」(ルカ15章2節)といううわさを聞いていたのかもしれません。そして、この人だったら、自分のどうにもならない思いを受け止め、理解してくれて、自分をこの行き詰まりから解放してくれるのではないか、という期待を持ったのかもしれません。
(3) 「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」この言葉を聞いてザアカイはどう感じたでしょうか。周囲にはおおぜいの人がいます。その中でイエスは自分にだけ声をかけてくれたのです。しかも「一緒に食事をする」だけでなく「あなたの家に泊まる」と言うのです。どれほど大きな喜びを彼は感じたでしょうか。
なお、この「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」(5節)は、「今日、わたしはどうしてもあなたの家に泊まらなければならない」とか「今日、わたしはあなたの家に泊まることになっている」とも訳せる箇所です。これは、そのことが神の救いの計画の中にあることだから必ず実現するはずだということを示す表現です。
(4) ヨハネ福音書4章7節で、イエスはサマリアの女に「水を飲ませてください」と声をかけました。ここでもイエスはザアカイに対して「わたしがあなたに何かをしてあげよう」というのではなく「あなたの家に泊めてくれ」、つまり「あなたにはわたしのためにできることがある」と言ってザアカイに近づきます。どんなに罪びとのレッテルを貼られた人であっても、あなたの中に素晴らしいものがある、あなたにはよいことをする力がある、とイエスは見ているのです。そういう眼差しに出会ったとき、人は本当に新たに生きる力を与えられるのではないでしょうか。イエスのいう「この人もアブラハムの子なのだ」(9節)という言葉は、「この人も神が祝福を約束してくださった人間なのだ」ということです。ザアカイはイエスとの出会いによって、自分が生きるに値しない呪われた罪びとではなく、自分もアブラハムの子なのだ、ということに気づいていきます。そして、新しい神とのつながり、人とのつながりに生き始めようとするのです。イエスに出会ったことは、ザアカイの人生を根本から変えてしまいました。もちろん、彼はこれからも罪びとのレッテルを貼られたまま生きていかなくてはならないでしょう。でも彼はもはや「神に見捨てられた罪びと」ではなく、「神に愛された罪びと」なのです。
(5) 別の徴税人の物語を思い出してみましょう。マルコ2章14節にはこういう話がありました。「(イエスは)通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、『わたしに従いなさい』と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。」
イエスは、ザアカイには「わたしに従え」と要求しませんでした。ザアカイもすべてを捨ててイエスに従うとは言いません。ザアカイは徴税人をやめないのです。ただ自分の置かれた場で精一杯、正しいことを行い、貧しい人を大切にして生きようと決意するのです。イエスはその決意を受け入れ、「今日、救いがこの家を訪れた」と宣言しています。
きょうの福音の箇所には「今日」という言葉が2回出てきます(5,9節)。この「今日」という言葉は、ルカ福音書の中では特別な重みのあることばです(ルカ2章11節、4章21節、23章43節など参照)。「今日」とは、今まさに人が神の愛とゆるしに出会うその時であり、今まさに神の救いが実現しているその時なのです! わたしたちも、神の救いが実現している「今日」を感じることがあるでしょうか?
投稿者 ct : 2007年11月04日 16:08
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