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2007年10月28日
年間第30主日(2007/10/28 ルカ18・9-14 )
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教会暦と聖書の流れ |
福音のヒント
(1) ファリサイ派はイエス時代のユダヤ教の一派で、律法と口伝(くでん)律法を重んじ、忠実にそれを守ろうとしていたグループでした。「口伝律法」とは、聖書の律法を現実の生活に適用するために律法学者たちが作り上げた多くの解釈のことです。「ファリサイ」ということばは「分離する」という意味の言葉から来たと言われます。彼らは自分たちを「律法を知らない汚(けが)れた民衆から分離した者」と考えていました。
一方の徴税人は、ユダヤ人でありながら、ローマ帝国の税金徴収という仕事を引き受け、その仕事によって富を得ていた人たちです。彼らは福音書の中で罪びとの代表のように言われていますが、それは彼らが税の取り立てに関して不正を働いていたと考えられたからです。また、そもそも民族の裏切り者として忌み嫌われていた面もあります。当時のユダヤ社会の中ではどちらが「正しい人」でどちらが「罪びと」であるかは明白でした。
(2) 14節にある「義とされる」という言葉は、パウロの手紙の中によく見られる言葉ですが、福音書の中ではあまり多く使われていません。「義とする」はギリシア語の「ディカイオオーdikaioo」という言葉の直訳ですが、聖書の中で語られる「義」(ギリシア語では「ディカイオシュネーdikaiosyne」)は「人間的な正しさ」という以前に、根本には「神の義」ということがあります。「人が義とされる」は「人が神の義にあずかる」こと、もっと分かりやすく言えば「神に受け入れられる」ということです。人間的な見方ではなく、神との関係という点では、この徴税人のほうが正しいあり方なのだとイエスは言うのです。それはなぜでしょうか。
ファリサイ派の人の「うぬぼれ」の根拠は、結局のところ他人との比較でした。普通の人よりも自分はちゃんとやっている、ましてこの徴税人なんかとは比べ物にならない、ということです。しかし、人と比較して神の前に自分を誇っても何の意味もありません。そのような姿勢は神との関わりを妨げてしまうだけです。「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下して」いるとき、人との関係も絶たれてしまいます。人間は互いに助け合い、支えあって生きる者であるはずなのに、周りの人は競争相手になってしまい、弱い人への共感を見失うからです。
(3) イエスの言葉は、わたしたちの自己評価に挑戦してきます。わたしたちが、「自分はチャンとやっている」と感じているとするならば、それは他の人と比べてのことではないでしょうか。「自分はぜんぜんダメだ」と感じているならば、それも人と比較してのことではないでしょうか。わたしたちはあまりにも「比較と競争」の世界に毒されているのかもしれません。
この社会は、人を果てしない競争へと駆り立てる社会です。その中でわたしたちはどれほどストレスを抱えていることでしょうか、そしてどれほど多くの人が行き詰ってしまっているでしょうか。確かに「社会は競争なのだから、生きていくためにこの競争を降りることはできない」という人は多いでしょう。かと言って、人生が競争だけになれば、その人生はまったく悲惨なものになってしまうでしょう。「競争よりももっと大切なものがある、それを見失わないこと」きょうの福音はそう呼びかけているのではないでしょうか。
わたしは神の前に立つ。どうしようもなく限界や弱さを抱えているけれども、神がそのわたしを愛し、生かしてくださっているのを感じる。そのとき、優越感と劣等感の間でもがき苦しむところから解放されていく。わたしたちの中にそういう体験があるでしょうか。
(4) 祈りとはありのままの自分を神の前に差し出すことです。そこでは人との比較は役に立ちません。「あの人もしていたから、わたしもこうしました」とか「この人にはかなわないけれど、別の人よりはましです」そういうことは何の意味もない世界なのです。「自分の小ささを認めて神の前にへりくだるとき、神は本当に自分を受け入れ、愛してくださる」。そういう祈りの体験がありますか。
「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」の「へりくだる」は、直訳では「自分を低くする」です。「自分を低くする」とはどういうことでしょうか。それは表面的に謙遜を装うということではないでしょう。また、「自分なんか何の価値もない。生きるに値しないダメな人間だ」と思い込むことでもないでしょう。むしろ、自分のありのままの姿を見つめるということではないでしょうか。それは決して簡単なことではありません。わたしたちの中に、本当の自分以上に自分のことをよく思いたいという部分がありますが、それは幻想の中を生きることです。逆に本当の自分以下にしか、自分の価値を見いだせず、自尊心を見失い、異様に低い自己評価を持っているとしたら、それも幻想です。自分自身のありのままを認めることは、わたしたちが、神の前に自分を置いてみるときに初めて可能になるのではないでしょうか。
(5) 「罪人(びと)であるわたし」という言葉にどんな現実感があるでしょうか。もちろん、自分に特別大きな罪があると思っているならば、自然にそう感じられるかもしれません。この徴税人にはそういう罪意識がありましたが、わたしたちは自分がそれほど悪いことをしているという意識がない場合も多いでしょう。そのわたしを罪びとだと感じるのは難しいでしょうか。「罪」とは「神から離れること」です。神から遠く離れてしまっている自分を感じること、神の前に立つのにふさわしくないという感覚、それが「罪の感覚」だと言えるかもしれません。そして、それは漫然と生活しているだけでなく、本気で神に近づこう、キリストに従っていこうとした時にこそ感じることだとも言えそうです。
2007年10月21日
年間第29主日 (2007/10/21 ルカ18・1-8)
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教会暦と聖書の流れ |
福音のヒント
(1) 「気を落とさずに」と言いますが、そこにはどんな状況が考えられるでしょうか。17章の終わりで語られていたのは、イエスの再臨の時=神の裁きの時に起こる苦難と破滅でした。その中で「もうダメだ」と気を落としてしまうということでしょうか。しかし、それはある将来のことというよりも、わたしたちが生きている今の現実のことでもあるかもしれません。この世界は、テロと戦争、暴力と犯罪、欲望とエゴイズム、弱い立場にいる人々の苦しみに満ちています。そんな中で、わたしたちは「気を落として」しまうことがあるのではないでしょうか。イエスはそのときにも絶えず祈ることを呼びかけています。きょうの箇所を読む上で、この苦難という状況は無視できないでしょう。
(2) 旧約聖書の中でやもめは自分を守ってくれる人がいない社会的弱者の代表でした。彼女が助けを求めたのは、誰かが彼女から亡き夫の財産を不正に奪おうとする、というような状況があったからだと想像できます。3節の「相手を裁いて、わたしを守ってください」ということばは、直訳では「相手に対してわたしを裁いてください」です。「裁き」には「悪を断罪する」という面だけでなく「善悪をはっきりさせ、弱い人を守る」という意味があります。そういう意味で「わたしを裁いてください」というのです。7-8節の「神の裁き」も同様です。
(3) このたとえ話は、ルカ11章5-8節の「旅の友人の願い」のたとえとよく似ています。これらのたとえ話は、祈りの大切さを教えていますが、同時に神は誠実でいつくしみ深い方であるから、わたしたちの祈りを必ず聞いてくださる、ということが強調されています。
しかし、神を「神を畏れず人を人とも思わない」「不正な裁判官」にたとえるのはあまりも突飛に聞こえます。イエスは「不正な裁判官」と「正しくいつくしみ深い裁き主である神」の対比を強調していると言ったらよいのでしょうか。そもそもこのたとえ話が語られたのは、「神に祈っても結局は無駄ではないか」という考えを持っていた人々(弟子たち)に対してだったのでしょう。そうであるならば、イエスは聞いている人を驚かせ、彼らの目を開かせるために、あえて突飛なたとえを語られたのかもしれません。
(4) 「選ばれた人たち」(7節)という言葉は何を意味しているのでしょうか。マルコ13章20節に、「主がその(苦難の)期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、主は御自分のものとして選んだ人たちのために、その期間を縮めてくださったのである」(マタイ24章22節も参照)とあります。そこでは確かに、「選ばれた人たち」は救いにあずかる人々のことです。神の救いにあずかるということが、その人たち自身の功績によることではなく、まったく神の恵み(好意)によることだと考えられ、その神のイニシアチブを強調するために「選ばれた人=神が選んだ人」と言われていると考えればよいでしょう。神の選びは、現代社会のコンテストとは違います。コンテストでは優れたものが選ばれ、選ばれなかったものは捨てられますが、神は誰一人切り捨てず、すべての人を救うために、もっとも貧しく弱い者を選ばれるのです(申命記6章6-8節、Ⅱコリント1章26-31節参照)。そう考えれば、このたとえ話のやもめのような、弱く貧しい人こそが「神の選ばれた人たち」だと言うこともできるでしょう。
(5) 「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」(8節)の「人の子」は本来「人間」を指すことばでしたが、ダニエル書7章13-14節などから、神が決定的に天から遣わす審判者・統治者を指すようになりました。ここの文脈の中では審判者として再び世に来られるキリストのことが考えられています。きょうの箇所全体から考えれば、ここでいう「信仰」とは「苦難の中にあって絶えず祈り続ける姿勢」のことだと言ったらよいでしょう。このやもめのように、苦しみの中にあって、神以外に頼るものがない人が、必死の思いで神に向かう姿勢そのものを「信仰」と言ってもよいのかもしれません。
(6) 聖書の終末についての教えには2つの側面があります。1つは、苦難や迫害の中での希望のメッセージという面。本来、終末についてのメッセージは、悪の支配下にある今の時代が過ぎ去ることを語って、迫害や苦難の中にいる信仰者を励ますメッセージでした。もう1つの面は、人がなまぬるい、自分勝手な生き方をしているときの警告のメッセージです。神の判断(裁き)から見たときに何が本当に大切なのかを鋭く問いかけるメッセージにもなるのです。
きょうの箇所から希望と励ましのメッセージを受け取ることができますが、最後の「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」(8節)という言葉には、警告の響きも感じ取ることができるでしょう。
わたしたちはどうでしょうか? 問われていることは、わたしたちの祈りや願いがどこまで切実なものかということではないでしょうか。さらに言えば、わたしたちの祈りがどこまで切実かということは、わたしたちの祈りがどこまで現実の人間の苦しみとつながっているかにかかっている、とも言えるのではないでしょうか。
2007年10月14日
年間第28主日 (2007/10/14 ルカ17・11-19)
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教会暦と聖書の流れ |
福音のヒント
(1) 紀元前10世紀、ソロモン王の死後、北イスラエル王国は南のユダ王国から政治的に分裂し、エルサレムの神殿とは別の聖所をサマリアのゲリジム山に作り、宗教的にも分離してしまいました。紀元前8世紀には北王国はアッシリア帝国に滅ぼされ、サマリアの人々はアッシリア人との混血になり、南のユダヤ人とは民族的にも分かれてしまいました。このような経緯で、ユダヤ人とサマリア人は反目し合うようになっていたのです。
きょうの福音の場面は「サマリアとガリラヤの間」とありますが、正確な場所はよく分かりません。話の中にサマリア人とユダヤ人が一緒に出てくるので、それに合わせた場面設定だとも言えそうです。なお、イエスが育ったガリラヤ地方は、ユダヤから見てサマリアよりもさらに北にありましたが、ある時代に、南のユダヤ人が入植して町や村を作ったので、人種的にも宗教的にもユダヤ人との同一性を保っていました。つまり、ガリラヤの人々はユダヤ人なのです。
(2) ユダヤ人とサマリア人は、共にモーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)を正典としていました。その中には次のような規定がありました。「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、『わたしは汚(けが)れた者です。汚れた者です』と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない」(レビ記13章45-46節)。
反目し合っていたユダヤ人とサマリア人が一緒に行動していることは普通ならば考えにくいことです。しかし、重い皮膚病の人々は、それぞれが本来属していた共同体から排斥されてしまっていて、その中で苦しむ者同士として支え合い、助け合いながら生活していたのでしょうか。人と人とがお互いの違いを超えて苦しみの中での連帯する・・・そういうような経験はわたしたちの周りにもあるでしょうか。
(3) なぜイエスは「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」(14節)と言われたのでしょうか。当時の社会では、この病気を宣告するのも、治癒(ちゆ)を宣言するのも、祭司の役割でした。肉体的に病気が治っても、祭司によって「清め」の儀式をしてもらわなければ、社会復帰ができないのです。イエスはその人の神とのつながりを回復するだけでなく、その人がもともと所属していたコミュニティとの関係を取り戻すことを意図しておられたとも言えるでしょう。なお、ユダヤ人とサマリア人は別々の祭司を持っていたので、彼らは、別の場所へ出かけていったはずです。
(4) きょうの福音から、「もっともっと感謝と賛美の心を持たなければならない」という教訓を受け取るのは当然のことでしょう。しかし、「感謝し、賛美する」というのは、義務感から来るものではないはずです。むしろ自然に心の中からわき上がるのが、賛美と感謝なのではないでしょうか。どうしたら心から賛美し、感謝することができるかを考えるために、自分をこの福音の場面の中に置いてみて、このサマリア人の立場からこの物語を味わってみたらどうでしょうか。病気が治った人々はもちろん皆、喜んだはずです。しかし、祭司のところに行く前に、「感謝し」(16節)「賛美するために戻ってきた」(18節)のはサマリア人だけでした。それはなぜなのでしょうか。
この10人は皆「清くされた」(14節)のですが、1人のサマリア人だけが「自分がいやされたのを知って」(15節)と言われています。「知る」は直訳では「見る、分かる」です。この人がはっきりと意識したことは、「自分がいやされた」、つまり、「神がこの自分をいやしてくださった」ということだったのでしょう。他の人と違って、そのことを明確に意識したからこそ彼は賛美し感謝することができたのだ、と言えるのではないでしょうか。
もう一つ考えられることは、イエスというユダヤ人が民族の壁を超えて、自分にも目をかけてくださった、ということの中に、ほかの人(ユダヤ人)以上の感謝を感じたということかもしれません。「この自分にまでも!」という驚きと感動が、彼の行動の背景にはあるといえるのではないでしょうか。
どちらも、わたしたちの中に似た経験があるかもしれません。わたしたちが、本当に神に感謝し、神を賛美するのはどんなときでしょうか。
(5) 「あなたの信仰があなたを救った」(19節)という言葉は福音書に何度か出てきますが、考えてみれば不思議な言葉です。「神があなたを救ってくださった」というほうが自然なのではないでしょうか。しかしイエスは意外なほど「信仰」の力を強調しています。
重い皮膚病だったこのサマリア人の「信仰」とは何でしょうか? それは、この人が自分の病気が治ったことを「神がいやしてくださったこと」として受け取ったということではないでしょうか。自分の身に起こった出来事の中に神とのつながりを発見すること、自分の現実の中に神の働きを見ていくこと、それがここでいう信仰だと言えるのかもしれません。また、この箇所で、その「信仰があなたを救った」というときの「救い」も、病気がいやされたことであるというより、この人が心から感謝と賛美を生きる者となった、そのこと自体だと言ってもよいのではないでしょうか。なお、この個所のすぐ後に「神の国はあなたがたの間にある」(ルカ17章21節)というイエスのことばがあります。イエスは、きょうの出来事のように、民族の違いを超えて、神の救いの喜びが広がっていく現実の中に、神の国の実現を見ていたのでしょう。今のわたしたちは、どのように信仰と救い、賛美と感謝、神の国の現実を生きているでしょうか。
2007年10月07日
年間第27主日 (2007/10/7 ルカ17・5-10)
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教会暦と聖書の流れ |
福音のヒント
(1) からし種は1~2ミリの小さな種で、本当に小さなもののたとえです。桑の木が海に生えるというのは大きなことのたとえです。なぜそんな小さな信仰で大きなことが可能になるのでしょうか。ただ頭で考えるよりも、みことばを自分の体験と照らし合わせてみることが大切でしょう。「信仰があれば不可能なことは何もない」と感じたことがありますか。それはどんなときですか。逆に「信じてもうまくいかなかった」という体験もあるでしょうか。それはどんなときでしょうか。
(2) 「わたしどもの信仰を増してください」と信仰の「量」を問題にした弟子たちに対して、イエスは「からし種」の話をしています。それは「信仰とは量や大きさの問題ではないのだ」と言うことでしょうか。信仰の力とは「信じるとその人に不思議な力が備わる」というようなものではなく、「信じて神にゆだねたときに、神が働いてくださる」ということだと言えるのではないでしょうか。だからこそすべてが可能になるのでしょう。
福音書の中で「神を信じる」というのは「神は存在すると思っている」ということではありません。イエスの出会った人、イエスの周りにいた人は、だれも神の存在を疑っていませんでした。神を信じるとは「神の存在についての考え方の問題」ではなく、「神に信頼を置いて生きるかどうか」という問題だったのです。
(3) 信仰の世界は、自分が自分の力でこれだけのことを成し遂げた、という世界ではありません。神が働いていてくださる。そこに自分をゆだねていく、という世界です。だから自分は何もしなくていい、というのではなく、だから自分にできる精一杯のことをしていこう、ということになるのです。本気でそう思えば、「わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」(10節)と言えるのでしょう。
わたしたちは自分の力でなんとかしなければならない、という世界に生きています。「能力と努力がすべてを可能にするはずで、うまくいかないのは能力や努力が足りないからだ」、と考えるような世界です。しかし、そういう考えはどれほど多くの人を行き詰らせてしまっているでしょうか。人間は、自分の能力と努力で生まれてきたのではありません。生まれた子どもは自分の能力と努力で育っていくのではありません。むしろ、周囲の人々の愛の中で、そしていのちの与え主である神の愛の中で生き、成長していくのです。
(4) 1-10節で、別々の伝承がつなぎ合わされているのだとすると、そもそも、なぜ使徒たちが「わたしどもの信仰を増してください」(5節)と言ったのかは分からないことになります。しかし、わたしたちも同じような言葉を言いたくなることがあるのではないでしょうか。それはどんなときでしょうか。自分たちの状況、自分たちの直面している問題に当てはめながら、この箇所を読んでみることもできるでしょう。
3-4節の「ゆるし」のテーマとつなげて考えることも一つのヒントになるかもしれません。「もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦(ゆる)してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい」。こう言われても、実際には非常にむずかしいと感じることがあるでしょう。そして、この「ゆるせない」ことを「信仰が足りない」ことだと感じることもあるのではないでしょうか。だとすると、イエスの答えは、大きな信仰があればゆるせるはずだ、というよりも、ゆるしの力は神から来る、その神の力を信頼の心をもって受け取ることが大切なのだ、という意味になるのではないでしょうか。
さらに「わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」という言葉も、人が人をゆるす、ということと関連づけて受け取ることができるかもしれません。わたしたちは神にゆるされ、だからこそゆるし合うことができるのだとすれば、人が人をゆるすということは、まさに「しなければならないことをしただけ」ということになります。
(5) 「人が人をゆるす」ということはどんなときに可能なのでしょうか。いくつかのヒントをあげてみます。思い当たることがありますか。
(a) 自分に対して罪を犯した人間が、その罪の痛みを本当に感じていると分かったとき。心からの謝罪をしていると感じたとき(逆に言えば、悪いことをした人が、反省も痛みもなく平気で生きていることがゆるしがたいわけです)。
(b) 相手の弱さを感じたとき。その人がしたことはとんでもないことだが、その人がなぜそれほど悪いことをしたかを理解できるとき。その人が過去にどんな傷を受けてきたかとか、その中でどんなふうに人格が歪んで、ああいう行動に走ったのかというようなことが理解できると思えたとき。
(c) ひどいことをした人に対して、それでもその人との関係を持ち続けたいと願うとき。
(d) 罪びとである自分自身が本当に神にゆるされていると感じる体験をしたとき。
他にもあるかもしれません。「ゆるせない」と嘆いてばかりいるよりも、「ゆるせた」「ゆるしてもらった」という体験を分かち合ったほうがたぶん何倍も役に立つでしょう。