« 年間第28主日 (2007/10/14 ルカ17・11-19) | メイン | 年間第30主日(2007/10/28 ルカ18・9-14 ) »
2007年10月21日
年間第29主日 (2007/10/21 ルカ18・1-8)
|
教会暦と聖書の流れ |
福音のヒント
(1) 「気を落とさずに」と言いますが、そこにはどんな状況が考えられるでしょうか。17章の終わりで語られていたのは、イエスの再臨の時=神の裁きの時に起こる苦難と破滅でした。その中で「もうダメだ」と気を落としてしまうということでしょうか。しかし、それはある将来のことというよりも、わたしたちが生きている今の現実のことでもあるかもしれません。この世界は、テロと戦争、暴力と犯罪、欲望とエゴイズム、弱い立場にいる人々の苦しみに満ちています。そんな中で、わたしたちは「気を落として」しまうことがあるのではないでしょうか。イエスはそのときにも絶えず祈ることを呼びかけています。きょうの箇所を読む上で、この苦難という状況は無視できないでしょう。
(2) 旧約聖書の中でやもめは自分を守ってくれる人がいない社会的弱者の代表でした。彼女が助けを求めたのは、誰かが彼女から亡き夫の財産を不正に奪おうとする、というような状況があったからだと想像できます。3節の「相手を裁いて、わたしを守ってください」ということばは、直訳では「相手に対してわたしを裁いてください」です。「裁き」には「悪を断罪する」という面だけでなく「善悪をはっきりさせ、弱い人を守る」という意味があります。そういう意味で「わたしを裁いてください」というのです。7-8節の「神の裁き」も同様です。
(3) このたとえ話は、ルカ11章5-8節の「旅の友人の願い」のたとえとよく似ています。これらのたとえ話は、祈りの大切さを教えていますが、同時に神は誠実でいつくしみ深い方であるから、わたしたちの祈りを必ず聞いてくださる、ということが強調されています。
しかし、神を「神を畏れず人を人とも思わない」「不正な裁判官」にたとえるのはあまりも突飛に聞こえます。イエスは「不正な裁判官」と「正しくいつくしみ深い裁き主である神」の対比を強調していると言ったらよいのでしょうか。そもそもこのたとえ話が語られたのは、「神に祈っても結局は無駄ではないか」という考えを持っていた人々(弟子たち)に対してだったのでしょう。そうであるならば、イエスは聞いている人を驚かせ、彼らの目を開かせるために、あえて突飛なたとえを語られたのかもしれません。
(4) 「選ばれた人たち」(7節)という言葉は何を意味しているのでしょうか。マルコ13章20節に、「主がその(苦難の)期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、主は御自分のものとして選んだ人たちのために、その期間を縮めてくださったのである」(マタイ24章22節も参照)とあります。そこでは確かに、「選ばれた人たち」は救いにあずかる人々のことです。神の救いにあずかるということが、その人たち自身の功績によることではなく、まったく神の恵み(好意)によることだと考えられ、その神のイニシアチブを強調するために「選ばれた人=神が選んだ人」と言われていると考えればよいでしょう。神の選びは、現代社会のコンテストとは違います。コンテストでは優れたものが選ばれ、選ばれなかったものは捨てられますが、神は誰一人切り捨てず、すべての人を救うために、もっとも貧しく弱い者を選ばれるのです(申命記6章6-8節、Ⅱコリント1章26-31節参照)。そう考えれば、このたとえ話のやもめのような、弱く貧しい人こそが「神の選ばれた人たち」だと言うこともできるでしょう。
(5) 「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」(8節)の「人の子」は本来「人間」を指すことばでしたが、ダニエル書7章13-14節などから、神が決定的に天から遣わす審判者・統治者を指すようになりました。ここの文脈の中では審判者として再び世に来られるキリストのことが考えられています。きょうの箇所全体から考えれば、ここでいう「信仰」とは「苦難の中にあって絶えず祈り続ける姿勢」のことだと言ったらよいでしょう。このやもめのように、苦しみの中にあって、神以外に頼るものがない人が、必死の思いで神に向かう姿勢そのものを「信仰」と言ってもよいのかもしれません。
(6) 聖書の終末についての教えには2つの側面があります。1つは、苦難や迫害の中での希望のメッセージという面。本来、終末についてのメッセージは、悪の支配下にある今の時代が過ぎ去ることを語って、迫害や苦難の中にいる信仰者を励ますメッセージでした。もう1つの面は、人がなまぬるい、自分勝手な生き方をしているときの警告のメッセージです。神の判断(裁き)から見たときに何が本当に大切なのかを鋭く問いかけるメッセージにもなるのです。
きょうの箇所から希望と励ましのメッセージを受け取ることができますが、最後の「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」(8節)という言葉には、警告の響きも感じ取ることができるでしょう。
わたしたちはどうでしょうか? 問われていることは、わたしたちの祈りや願いがどこまで切実なものかということではないでしょうか。さらに言えば、わたしたちの祈りがどこまで切実かということは、わたしたちの祈りがどこまで現実の人間の苦しみとつながっているかにかかっている、とも言えるのではないでしょうか。
投稿者 ct : 2007年10月21日 14:31
コメント
コメント欄にはその日の福音についての感想を書き込むことができます。福音の感想でなく管理者が不適切と判断した場合は、コメントを削除させていただくことがありますので、あらかじめご了承ください。 名前はハンドルネーム可、メールアドレスとURLは省略可(記入すると公開されます)。 ※ただいまコメントの投稿ができなくなっております。大変申し訳ございませんが、今しばらくお待ち下さいませ。