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2007年09月02日

年間第22主日 (2007/9/2 ルカ14・1, 7-14)

教会暦と聖書の流れ

聖書本文

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 ルカ福音書の中の、エルサレムへの旅の段落(9章51節~19章44節)が続いています。ある安息日の食事の場面ですが、共に食事をすることは、「神の国の宴=神の国の完成の姿」を表すものでした。ここで語られているのは、単なるテーブルマナーや人づき合いの方法ではなく、「神の国とはどういうものであるか」ということなのです。

福音のヒント

  (1) 省略された2-6節には、水腫(すいしゅ)の人のいやしの話があります。ルカ福音書では、安息日にイエスが病人をいやしたことが6章6-11節、13章10-17節とこの箇所の3回伝えられています。いずれも苦しむ人々へのイエスの深い共感と愛を表している話です。イエスは、「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」(14章5節)と問いかけます。イエスは「安息日の律法が何を禁じているか」ということに関心があるのではなく、目の前の苦しんでいる人に目を向けているのです。そのイエスの姿勢は、きょうの福音の教えにもつながっています。福音書を読むとき、単なる「言葉による教え」ではなく、その背後にあるイエスの生き方・イエスの心を受け取ることが大切でしょう。
 
  (2) 8-11節は「へりくだること」を勧めています。フィリピの信徒への手紙2章の有名なキリスト賛歌では、イエスご自身が「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(8節)と言われています。この「へりくだる」はギリシア語で「タペイノオーtapeinoo」という言葉で、今日の11節で「低くされ」と訳されている動詞です。この動詞の元にあるのは「タペイノスtapeinos」という形容詞で、普通は「身分が低い」と訳される言葉です。イエスご自身がご自分のことを「タペイノス」であると言われたこともあります。マタイ11章29節です。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい」。ここで「謙遜」と訳されている言葉は、直訳では「心において身分の低い者、心へりくだる者」という意味です。
 「へりくだる」ということばを一般的・抽象的に考えるよりも、「イエスはどのような意味で、へりくだる者であり、身分の低いものであったか」を見つめてみるとよいのではないでしょうか。イエスの「へりくだり」は決してポーズとしての、うわべだけの謙虚さではありませんでした。それは神に対する従順とすべての人に対する連帯を貫く生き方だと言えるかもしれません。なお、「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(11節)は、イエスの死と復活につながるイメージだとも言えるでしょう。

  (3) 「面目を施す」と訳された言葉は直訳では「ドクサdoxaがある」です。この「ドクサ」という言葉は、元々のギリシア語では「人からの評判や名誉」を表すことばでしたが、聖書の中では多くの場合、「栄光」と訳されています。「神の栄光」あるいは「神からの栄光」の意味で使われています。ここでも「みんなの前で神からの栄光(栄誉)がある」という意味に受け取ることができるでしょう。イエスが問いかけているのは、単なる人間的な評判の問題ではないはずだからです。なお、11節の「低くされ」「高められる」という受動態の形は、「神が低くし」「神が高めてくださる」という意味でもあります。

  (4) イエスは13節で、貧しい人や障がいのある人を食事に招きなさい、と言います。障がい者に対する古代イスラエル社会の見方は非常に差別的なものでした。聖書の中でも、障がいのある者は祭司の務めを果たすことが許されない(レビ記21・17-23)とか、「目や足の不自由な者は神殿に入ってはならない」(サムエル記下5・8)というような箇所があります。そこから考えればイエスの語る神の国は、そのような人々が奪われた人間性を取り戻し、すべての人が神の子どもとして等しく尊重される場だとも言えるでしょう。

  (5) 「その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる」(14節)というのはもちろん、神からの報いがあるということです。ここには、人からの報いを期待しないという面があります。わたしたちは普段の生活の中で、プレゼントやそのお返しにずいぶん気を使って生きているかもしれません。人からの報いや人へのお返しが当たり前の社会に生きているわたしたちにとって、イエスの言葉は非常に強烈な問いかけです。「これだけのことをしてあげたら、これだけのことはしてもらえるだろう」「これだけのことをしてもらったから、これくらいはしてあげなければならない」というだけの世界では、自分の本当の生き方を見いだすことはできないのです。自分の生き方を人からの報いではなく、神とのかかわりの中で選び取るということは大切なことです。

  (6) 一方、「人からの報いを期待せず、神からの報いのみを期待する」という態度にも落とし穴があるかもしれません。それは天国での報いばかりに目を向けて、この世の現実との関わりを見失い、現実の人間の苦しみ・悲しみなどどうでもよくなって、宗教的な妄信の世界に生きる、という危険です。
 イエスが語っておられることは、本当は「報いを得るために何かをする」ということではないのではないでしょうか。貧しい人や障がいのある人と出会い、一緒に生きようとすることは、それ自体が神のみ心にかなう道であり、そこに神の国がもう始まっている、といえるような素晴らしい世界なのです。イエスはこの福音の世界にわたしたちを招いておられるのです。もし、わたしたちが自分たちの現実の中に、今日のイエスの言葉とつながる何かを見つけることができるならば、わたしたちの中にもう神の国(神の愛がすべてにおいてすべてとなること、そこですべての人が愛によって結ばれること)は始まっていると言えるのではないでしょうか。

投稿者 ct : 2007年09月02日 15:37

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