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2007年08月26日
年間第21主日(2007/8/26 ルカ13・22-30)
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教会暦と聖書の流れ |
福音のヒント
(1) 「救われる」(23節)というのは、ここでは「神の国に入っている」(28節)、「神の国で宴会の席に着く」(29節)ということを意味しています。「神の国」とは、「神の愛がすべてにおいてすべてとなること」と言ってもよいでしょうが、それには「すでに始まっている」面と「最終的にいつか完成する」という面があります。ここで問題になっているのは、最終的な神の国の完成にあずかることができるかどうか、ということです。もちろん、それにあずかれるかどうかは「神の判断・裁き」にかかっているはずです。
「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」。この問いを発した人は、なぜこんなことを聞いたのでしょうか。「救われるのが少数ならば、そうとうがんばらなければならない、逆に、多くの人が救われるというのなら、まあまあ人並みにやっていれば大丈夫だろう」そのような考えがあったのかもしれません。「入ろうとしても入れない人が多い」というイエスのことばは、「救われる人は少ない」と言っているようにも聞こえます。しかし、本当にそうでしょうか。
(2) 「人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く」(29節)は非常に多くの人がそこに受け入れられているイメージです。「後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある」(30節)は、「人間の考えでは先だと思っている人が神の国では後になり、人間の考えで後だと思っている人が神の判断では先になる」ということでしょう。一方ではものすごい広さがあって、予想もしなかった多くの人がそこに招かれていく、という面と、同時に、入れるはずの(つもりの)人が入れないという面があるようです。神の裁き(判断)は、人間の考えや計算を超えている、ということなのでしょう。「救われる人が多いか少ないか」という人間の「取らぬタヌキの皮算用」は通用しない世界なのです。「戸を閉めてしまってからでは」(25節)ダメだというのは、あくまでも今の生き方が問われるということですが、では、神の目から見て何が本当に良しとされることなのか。これについて、きょうの箇所には明白な答えがないようにも感じられます。
(3) マタイ7章22-23節 にはよく似た言葉が伝えられています。「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ』」。ここでは、「天の父の御心を行う」という表現が使われていますが、マタイ福音書には、もっと明確な言葉もあります。25章31-46節です。「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ」(35-36節)「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(40節)。ここでは、神の裁き・判断の基準は非常に明白です。
(4) ルカ福音書の中のたとえ話で言えば、やはり「善きサマリア人のたとえ」(ルカ10章25-37節)を思い出すべきでしょう。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」、「わたしの隣人とはだれですか」と問いかけた律法学者に向かってイエスはこのたとえを話されました。律法学者は、神の報いについて人間的な計算をしようとしたのでしょう。しかし、たとえ話の中のサマリア人は、報いを期待して道に倒れていた人を助けたのではありません。彼は「憐れに思って」、すなわち「はらわたをゆさぶられた(スプランクニゾマイsplanknizomai)」から助けたのです。
イエスは「行って、あなたも同じようにしなさい」(37節)と教えましたが、イエスご自身の生き方がまさにこのサマリア人のような生き方だったとも言えます(ルカ7・13など参照)。古代のある人はイエスを「autobasileia(ご自身が神の国である方)」と呼びました。イエスは神の国に入る資格があるというよりも、すでにイエスの中に神の国が実現していると言うべきではないでしょうか。今神の国を生きること、そして最後まで神の国を生き抜くこと。このイエスの生き方は、人間的な計算に基づく生き方ではありませんでした。
(5) 救われるための計算に基づく行いは、その人の本当の生き方とは言えないでしょう。「自分が救われるために人を愛する」というのも何か変です。わたしたちは、どうしたら今、神の国を生きることができるのでしょうか。
ルカの今日の箇所では、「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ」と言われています。これは、「多くの人が来るが、その中の少数しか入れないほど狭い戸口」というニュアンスですが、マタイ7・13-14には「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」という言葉があります。この「狭い門」は多くの人が見過ごしてしまうほど小さな門、という意味でしょう。わたしたちにとって、狭い門、狭い戸口から入るとはどういうことでしょうか。人間的な見方や打算ではなく、わたしたちの心のもっとも深いところに働きかける神の呼びかけに従うことだと言ってもよいかもしれません。それを「聖霊の導き」と言うのですが・・・。
2007年08月19日
年間第20主日 (2007/8/19 ルカ12・49-53)
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教会暦と聖書の流れ |
福音のヒント
(1) ここでイエスがおっしゃる「火」とは何のことでしょうか。この箇所だけから考えるのは難しいでしょうが、ルカ3章16節に洗礼者ヨハネのこういう言葉がありました。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」。この「火」は一方では神に反するものを滅ぼしつくす「裁きの火」です。ただ、この見方だけではルカ12章49節の「その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか」との結びつきは理解しにくくなるかもしれません。
この「火」は「聖霊」、「洗礼」と結びついています。使徒言行録2章にある「炎のような舌」も聖霊のシンボルです。ここには「清め」のイメージもあります。「火」は、聖霊によって人に罪のゆるしをもたらし、神との結びつきを確かにする「清めの火」でもあると言えるでしょう。なお、きょうの50節にも「洗礼」のイメージが続いています。
(2) 「平和」はヘブライ語で「シャローム」と言います。すでにイエスの誕生の場面で、天使たちはこう歌いました。「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ」(ルカ2章14節)。イエスのもたらすものは本来、平和であるはずです。この平和は人と人とが深く尊重し合って生きるような、神から来る平和だと言うことができるでしょう。これに対して、「わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ」という時の「平和」は争いが避けられ、表面的に平穏が保たれているだけの状態だということになるでしょう。
イエスの到来とそのメッセージは、人々にはっきりとした態度の決断を求めるものでした。それは、イエスによって始まっている神の国を受け入れるか、それを拒否するか、という決断です。そこでは表面的な平穏さを保つだけではすまないのです。
(3) 53節はミカ7章6節の引用だと考えられます。「息子は父を侮(あなど)り/娘は母に、嫁はしゅうとめに立ち向かう。人の敵はその家の者だ」。これは人々の中に悪が満ち、もはや親しい者さえも信じることができないという終末の混乱した状況を語る言葉です。続くミカ7章7-8節では、その混乱の中で主に信頼する人の生き方が示されます。「しかし、わたしは主を仰ぎ/わが救いの神を待つ。わが神は、わたしの願いを聞かれる。わたしの敵よ、わたしのことで喜ぶな。たとえ倒れても、わたしは起き上がる。たとえ闇の中に座っていても/主こそわが光」。
終末についての聖書の教えは、神が人間の間に混乱や分裂を引き起こすということを語ろうとしているのではありません。現実にどのような混乱や分裂があっても、それを突き抜けて神の救いが実現する、という希望と確信を表すものなのです。
(4) 「五人」の家族というのは、両親とその息子、娘に、息子の嫁を加えた家族の姿が考えられているのでしょうか。だとするとこの対立は、親の世代と子どもの世代の間の対立であるという見方もできるかもしれません。それは、イエスご自身や弟子たちが経験したことでもあったようです。
「イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。大勢の人が、イエスの周りに座っていた。『御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます』と知らされると、イエスは、『わたしの母、わたしの兄弟とは誰か』と答え、周りに座っている人々を見回して言われた。『見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。』」(マルコ3章31-34節)
「また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った」(マルコ1章19-20節)。
このような場面を思い起こすならば、この対立は、自分の家族の中でうまくやっていけばよいという態度と、神の子として、すべての人と兄弟姉妹としてのつながりを生きようとする態度の間にある対立ということになるでしょう。
(5) きょうの箇所が語っているのは、いつのことでしょうか。最終的な裁きと神の国の完成の時のようでもあり、イエスが活動している今のことのようでもあります。また、「わたしには受けねばならない洗礼がある」という言葉は、イエスの十字架の時を特に意識させます(マルコ10章38-39節参照)。今が終わりの時である、イエスの到来とともにすでに終わりの時は始まっている、ということはわたしたちにとっても大切でしょう。
わたしたちの中にも分裂や対立の厳しい現実があるかもしれません。その中で神の救いが見えなくなることもあるかもしれません。それはある意味で終末のような状況です。しかし、「対立して分かれる」(53節)ということがイエスの望みではないし、本当の終わりでもないのです。内容的に言えば、きょうの箇所に続くはずの言葉は、「ただ、神の国を求めなさい」(ルカ11章31節)ではないでしょうか。だとすれば、「火」は「神の国に対する熱い思い」だと考えることもできるでしょう。イエスがわたしたちに求めているのは、「その火がすでに燃えていたら」ということだと受け取ってみてはどうでしょうか。
2007年08月12日
年間第19主日 (2007/8/12 ルカ12・32-48)
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教会暦と聖書の流れ |
福音のヒント
(1) 32節「小さな群れよ、恐れるな」。これはもちろんイエスと共にエルサレムへの旅をしていた弟子たちに向けられた言葉です。イエスがわたしたちにもそう呼びかけてくださっていることを感じてみてはどうでしょうか。「父は喜んで神の国をくださる」という喜びの雰囲気も感じたいものです。イエスは弟子たちの心を、目先の利害・損得ではなく、もっと大きな、過ぎ去ることのない「神の国」の喜びのほうに向けさせようとしているのです。「持ち物を売り払って施しなさい」「富を天に積みなさい」(33節)も、難しい命令というだけではありません。わたしたちはイエスの言葉を、本当にすばらしい、豊かないのちへの招きとして受け取ることができるのではないでしょうか。
(2) 「主人が帰ってくる」(36-38節)、「人の子が来る」(40節)というのは終末のイメージです。聖書が語る世の終わり、あるいは個人の終わり(死)についての教えの中ではいつも2つの確信が示されています。1つは「今のこのときは終わる、過ぎ去る」ということ、そしてもう1つは「そこで神(キリスト)との決定的な出会いがある」ということです。この終末についての教えは聞く人の状況によって、希望のメッセージにもなれば、警告のメッセージにもなります。
(A) 希望のメッセージ
本来、聖書の中で「世の終わり」が語られるようになった背景は、迫害や極度の苦しみという状況でした。「信じれば信じるほど現実には救いが見えなくなる」という状況の中で、「今この世を支配している悪の力がすべてではない」「この悲惨な現実を超えて(死さえも超えて)、神はもっと豊かな救いを(いのちを)与えてくださる」これが終末のメッセージの大切な1つの面です。
(B) 警告のメッセージ
他方、迫害や苦しみの中ではなく、「なんとなくいい加減に生きている」というとき、終末のメッセージは厳しい警告のメッセージになります。最終的に神に出会い、神の目から見たときに何が本当に価値あるものなのかが明らかになる(この神の判断を「裁き」と言います)。今わたしたちが求めているもの、大切にしているものは、神の目から見たら正しいのかどうか、そのことを強烈に問いかけるのです。
きょうの福音の中にもこの両方の面があります。わたしたちは自分の状況をどう感じているでしょうか。そこからこのメッセージをどのように受け取ることができるでしょうか。
(3) 「目を覚ましている」という言葉は、考えてみると少し分かりにくいところがあります。「泥棒に入られないようにいつも警戒している」(39節)と言うたとえは分かりやすいのですが、そうすると、来るべき神の国が「災い」であるかのように聞こえてしまう恐れがあります。むしろ「目を覚ましている」というとき、「主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている」(36節)というイメージが大切でしょう。この僕(しもべ)は、主人を心から待ち望んでいるのです。主人のほうにいつも心を向けているのです。ルカ21章36節には、「人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい」ということばがあります。祈りとは何よりも心を神に向けることです。自分の心の中で自分の思いや、反省や、願いを「ああでもない、こうでもない」とどうどう巡りさせているのが、祈りではありません。それを突き抜けて心を神に(イエスに)向けていくこと。ルカ福音書の「目を覚ましていること」とはそういうことだといったらよいかもしれません。わたしたちにとって「目を覚ましている」とはどういうことでしょうか。
(4) 37節の「主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる」というのは非常に印象的な姿です。常識的には、いくら僕がよくやったからと言って、そこまでする主人はいないでしょう。しかし、イエスの姿はまさにそうだったと言えます。マルコ10章45節に「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」という言葉がありますが、イエスの生き方は、主でありながら人々に仕える生き方そのものではないでしょうか。僕にとって主人から給仕されることが喜びなのではありません。むしろ、仕えることを喜びとする主人(イエス)の心を、本当に深く受け取ることが大切なのだと言えるのではないでしょうか。
(5) 35-40節がすべての弟子のあるべき態度を語っているのに対しで、41節以下は教会の中の特定の人々、責任を負った人々のことを語っているように聞こえるのではないでしょうか。確かに「主人が召し使いたちの上に立て・・・(た)・・・管理人」というのは教会の指導者のことだと考えるのが一般的な解釈です。
彼らはなぜ厳しく責任を問われるのでしょうか。立場上、大きな責任を負わされているから、というだけでなく、「彼らは主人の思いを知っているはずだ」という点は大切でしょう。そうだとすれば、ここで語られている管理人のあり方についての教えは特定の人だけでなく、「主人の思いを知っている」すべての人にかかわる教えだとも考えられます。「多く与えられた者」「多く任された者」というのも、わたしたち一人一人が自分自身のことだと受け取ってみてはどうでしょうか。
2007年08月05日
年間第18主日 (2007/8/5 ルカ12・13-21)
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福音のヒント
(1) 「ラビ(先生)」と呼ばれるユダヤ人たちの宗教指導者は、宗教的な教えだけでなく、実際の人々の生活の中での相談に乗ったり、もめごとの裁定にもかかわったようです。遺産分配のことでイエスに訴えた人は、そのようなラビの1人としてイエスを見ていたのでしょう。イエスのことばの内容についてはほとんど何も説明する必要がないでしょう。できるだけ素直にイエスの語りかけを、問いかけを、呼びかけを聞けばよいのです。たぶん、そこには今のわたしたちの生き方への強烈なチャレンジが感じられるでしょう。わたしたちの多くにとって、「お金」の問題や、人と人とのトラブルの問題は切実だからです。
(2) 富を蓄えることへの警告という点では、申命記の次のことばが思い出されます。
「あなたが食べて満足し、立派な家を建てて住み、牛や羊が殖え、銀や金が増し、財産が豊かになって、心おごり、あなたの神、主を忘れることのないようにしなさい。主はあなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出し、炎の蛇とさそりのいる、水のない乾いた、広くて恐ろしい荒れ野を行かせ、硬い岩から水を湧き出させ、あなたの先祖が味わったことのないマナを荒れ野で食べさせてくださった。それは、あなたを苦しめて試し、ついには幸福にするためであった。あなたは、『自分の力と手の働きで、この富を築いた』などと考えてはならない。むしろ、あなたの神、主を思い起こしなさい。富を築く力をあなたに与えられたのは主であり、主が先祖に誓われた契約を果たして、今日のようにしてくださったのである。」(申命記8章13-18節)
紀元前13世紀、神によってエジプトの奴隷状態から救い出されたイスラエルの民は、40年の荒れ野の旅を経て、約束の地の目前であるヨルダン川の東岸にたどり着きました。申命記の中心部分は、指導者であるモーセがそこにあるネボ山の山頂から約束の地を見渡しながら語る説教です。モーセは民に40年の荒れ野の旅を思い起こさせ、その意味を解き明かし、約束の地に入ってからどう生きるべきかを語ります。そこにある一つの危険が「富を蓄えること」でした。荒れ野では、毎日ぎりぎりの食べ物しかなかった。でもだからこそ一日一日神によって養われていることを感じないわけにはいかなかった。しかし、富や作物を蓄えると「主を忘れる」というのです。
わたしたちの中にも、本当に苦しいとき、どん底の中でこそ神に支えられたという体験があるかもしれません。そしてそれをいつの間にか忘れているのかもしれません。
(3) 自分の力でなんとかしよう、人間の力ですべてをうまくやっていこう、とわたしたち現代人は考えます。そのためには、やはりお金が必要だ、ということにもなります。確かにこの世界の中では、金持ちのほうが高度な医療を受けられたり、発展途上国の人には充分な医療が行き届かない、という現実もあります。まさに「人の命は財産によってどうすることもできる」、というような世界があるのです!
しかし、もし人間の力やお金の力ですべてがなんとかなると感じているならば、おそらく「神は不要」になるでしょう。人間の無力さや限界を知るということはそういう意味で大切なことです。おそらく、人間にとってもっとも顕著に「無力さ・限界」を感じるのは、死に直面したときです。そして「今夜、お前の命は取り上げられる」・・・いつ自分の死が訪れるか、本当はだれも知らないのです。その時、富は頼りにならない、本当に問われるのは「神の前に豊かになる」ということなのだ、とイエスは語ります。
(4) 末期ガンの人々のケア(ターミナル・ケア)の中で「生命の質(quality of life)」ということがよく語られるようになりました。迫り来る死を前にしたときに、いのちの「量(長さ)」ではなく、「質(残された時間をどのように充実して生きるか)」が問われるのです。
「趣味の世界に生きる」とか「大自然の美に触れる」など、人生を豊かにするものはいろいろあります。しかし、突き詰めて言えば、人間を超えたもの・目に見えないものとのつながりを生きること、人と人との愛のつながりを生きることこそが、豊かないのちを生きることであり、そのいのちは肉体の死をも越えるものである、とわたしたちキリスト者は信じています。自分の肉体の中にある孤立した命のイメージではなく、神とのつながりの中にあるいのち、人との愛の交わりの中にあるいのちを感じること、それを「スピリチュアルspiritualな感覚」と言うこともできます。
イエスご自身が、十字架の死に向かう中で、そのような「いのちの質」を極限まで生き抜かれました。「神の前に豊かになる」いのちとは、イエスの十字架の中にあるいのちだと言ったらいいのかもしれません。
(5) きょうの箇所の発端は「兄弟との間のもめごと」でした。わたしたちの周囲にもよくある問題でしょう。しかし、ぎりぎりのところで問われるのは、損得ではなく、その人と共に生きることを喜べるかどうかということではないでしょうか。死を前にして、家族や友人との和解を望んだ人、そして実際に和解することのできた人の姿は感動的です。逆に、その和解を妨げるものが「貪欲」だと言っても良いのではないでしょうか。
わたしたち一人一人の中に、おそらく両方の面があります。
わたしの中にある「貪欲」とはどんなものでしょうか。
わたしの中にある「神の前での豊かさ」とはどんなものでしょうか。