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2007年07月29日
年間第17主日 (2007/7/29 ルカ11・1-13)
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教会暦と聖書の流れ |
福音のヒント
(1) 「主の祈り」は新約聖書の中に2つの形で伝えられています。この箇所と、もう1つはマタイ6章9-13節です。イエスが教えた1つの祈りが繰り返し唱えられ、アラム語からギリシャ語へ翻訳されていく中で、2つの形になったと考えられます。
大切なのは、わたしたちがこの祈りをどのような思いで祈っているか、この祈りがどのようにわたしたちを支え、導いていてくれるかということでしょう。ただ、主の祈りの言葉はけっして分かりやすいとも言えませんので、ここではいくつかの言葉を簡単に解説しておきます。
この祈りの最大の特徴は、「父よ」という単純な呼びかけです。マタイにある「天におられるわたしたちの」は礼拝の中で唱えられていくうちに付け加えられたことばのようです。「父よ」。これはイエスご自身が神に祈ったときのことばでした。マルコ福音書のゲツセマネでの祈りでは「アッバ、父よ」とアラム語も伝えられています。「アッバ」は子どもが父親を呼ぶときのことばです。信頼を込めてイエスは神に向かってこのように呼びかけました。ルカ福音書の中では、十字架のイエスの祈りが印象的です(23章34、46節)。
(2) 「み名が崇められますように」は直訳では「あなたの名が聖とされますように」です。「名」は単なる「呼び名」ではなくそのものの本質を表します。「神の名」とは「神ご自身」の意味なのです。イザヤ29章23節のように「人々が聖とする」ととれば、「人々が神を神として認めるようになる」という意味になりますが、エゼキエル36章23節のように「神がご自分の名を聖とする」という意味にもとれます。この場合は、「神が救いの力を示すことによって、ご自分が神であることを現す」という意味になります。
「み国が来ますように」は「神の心がすべてにおいてすべてとなりますように」ということだと言ってもよいでしょう。マタイ福音書は「み心が天に行われるように地にも行われますように」ということばを付け加えていますが、これは「み国が来ますように」を言い換えたものだと考えることができます。
(3) 「必要な糧」。「糧」の直訳は「パン」ですが、ここで生きるために必要なすべてを願っています。なお、ルカが「毎日」というところをマタイでは「今日」と言います。
「わたしたちの罪をゆるしてください。わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから」の祈願はマタイと少し違います。マタイのほうを直訳すると「わたしたちも自分に負い目のある人をゆるしましたから」となります。現在カトリック教会で用いられている訳は、後半が「わたしたちも人をゆるします」となっていて前半とのつながりがはっきりしないかもしれません。これは「ゆるす」と宣言しているのではなく、「ゆるしてください。そうすれば、わたしも人をなんとかゆるしたいし、ゆるすことができるようになるからです」というニュアンスで受け取ればよいでしょう。
「わたしたちを誘惑に遭わせないでください」は切羽詰まった叫びのような終わり方です。マタイはこれに「悪(悪い者)から救ってください」という言い換えを付け加えて、礼拝にふさわしい形を整えています。「誘惑に遭わせないで」という訳も可能ですが、むしろ「誘惑に陥らせないでください」のほうがよいでしょう。誘惑が来ることは避けられない(ルカ17章1節)、ただその中で、神から離れてしまわないように守ってください、という祈りだと受け取ればよいでしょう。
(4) 5-8節のたとえ話は、「しつように頼む」ことを勧めています。マタイの教会はユダヤ人キリスト信者の共同体でしたから、祈ること自体はよく知っていて、その祈りが表面的・偽善的にならないように教える必要があったのに対し、ルカの教会は異邦人の教会ですから祈りの必要性そのものを教える必要があったのでしょう。そこで「とにかく祈りなさい。神は必ず聞いてくださるのだ」ということが強調されています。9節「求めなさい。そうすれば与えられる…」は有名なことばです。ここで「与えられる」は「神が与えてくださる」の意味です。祈りに魔術的な効果があるというよりも、神が必ず祈りを(人間の叫びを)聞いてくださるということがここでもポイントです。
(5) わたしたちの中には、「祈ったら自分の思いがかなった」という体験もあるかもしれませんが、「祈っても祈っても自分の願いはかなえられなかった」という体験もあるでしょう。でもそれだけでなく、「祈って自分の思い通りにはならなかったけれど、何かが変わった」という体験もあるのではないでしょうか。13節では「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」と言われています。それはどういうことでしょうか。3つのヒントだけ示します。
(a) 聖霊は「神の力」です。祈りの中で与えられるのは神からの力だと言えるかもしれません。その力で困難を乗り越えることができた、という体験があるかもしれません。
(b) 聖霊は「神と人・人と人とをつなぐ力」です。祈りの中で神とつながっていること、人と人とがつながっていることを感じ、励まされたという体験もあるかもしれません。
(c) マタイ7章11節では、「天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」という言葉が伝えられています。自分が思うものとは違っても、結局一番「良い物」が与えられたという体験も、わたしたちの中にあるのではないでしょうか。
このように「祈りの中で何かが与えられた」「自分が変えられた」という体験を分かち合うことができれば、本当にすばらしいことではないでしょうか。
2007年07月22日
年間第16主日 (2007/7/22 ルカ10・38-42)
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教会暦と聖書の流れ |
福音のヒント

(1) マルタのようにもてなすことよりも、マリアのように主のことばを聞くことのほうが大切だとイエスは考えているのでしょうか。もちろん、イエスはご馳走を期待しているのではなく、自分のことばを聞いてほしいと思っていたことでしょう。しかし、イエスはマルタの奉仕そのものを否定しているのではないということも大切です。「もてなす」はギリシア語で「ディアコノーdiakono」ですが、この言葉は「仕える、奉仕する」とも訳される言葉で、イエスとイエスの弟子たちの生き方の中心にあるものを表す言葉です。マルコ10章43-45節「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕(しもべ)になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」。また、「マルタ、マルタ」というイエスの呼びかけも親しみを込めた呼びかけです(ルカ22章31節の「シモン、シモン」のように」)。
もし、マルタの奉仕自体が問題でないとするならば、問題は彼女がイエスに向かって不平不満をいう態度、あるいは妹を評価しない彼女の姿勢だと言えるかもしれません。
(2) 当時の社会では、男女の役割には明確な区別がありました。宗教的な勤めは第一に男性がすべきことであり、女性には聖書を学んだり、礼拝するという義務がありませんでした。女性は自分の時間の主人とは見なされなかったからです。「役割分担」と言うよりも女性はまったく従属的な位置に置かれ、神に仕える男性に奉仕することが要求されたのです。このようなことを考えると、マルタのしていたことは当時の女性として当然の役割を果たしていたということになるでしょう。一方のマリアのように家事もせずに、先生の話を聞くというのは女性としては普通ではないことになります。マルタの不満は当時の社会の常識からすれば当然とも言えます。ここでイエスはそのような男女の役割分担を否定して、マリアの態度を弁護しています。それは「男も女も神のことばを聞いていいのだ。それはだれにでもできることであり、それがもっとも大切なことなのだ」ということだと言ったらよいのではないでしょうか。
(3) マルタは当時の常識からマリアを非難しているだけではないでしょう。マルタの心の中にあった思いは、一方で、「自分も本当はイエスの話を聞きたいのに、女だから仕方なく家事をしている」ということだったり、他方、「でも家事なら誰にも負けない。わたしは働き者でマリアは怠け者だ」ということだったりしたのでしょう。「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」というイエスの言葉は、料理のことだけでなく、このような優越感と劣等感の狭間(はざま)で悶々(もんもん)としているマルタの心の状態を指摘しているのではないでしょうか。イエスのことばはマルタにとって耳の痛いものであったかもしれません。しかし、固定化された男女の役割分担に縛られ、人と人との比較の中でしか自分や姉妹を見ることのできなかったマルタにとって、そこから解放されるための「福音」だったのではないでしょうか。それはついつい他人との比較の中で自分を見てしまうわたしたちにとっても解放のメッセージなのではないでしょうか。
(4) マルタとマリアという姉妹は、ヨハネ福音書にも登場します。物語自体も場所も違いますが、この姉妹の性格に関しては不思議なほど共通するところがあります。ヨハネ11章20節でも「マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた」とあります。マルタはそこでも不平不満とも取れるようなことばをイエスに向けて発しました。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」(21節)。マルタはこのように率直にイエスに向かって自分の思いをぶつけていますが、イエスはそれに答えるのです。このことはわたしたちにとって大きなヒントかもしれません。
ルカ10章40節のマルタのことばのように、「主よ、こんなに変なことが起こっているのに、あなたはなんともお思いになりませんか?」と言いたくなることがわたしたちにもあるでしょう。ヨハネ11章21節のように「主よ、もしあなたがここにいてくださったら、こんなにひどいことは起こらなかったでしょうに」と訴えたいことだってあるかもしれません。 マルタはそういう思いをストレートにイエスにぶつけるのです。そして、イエスからの答えをいただきます。わたしたちの祈りがあまりにきれいで形式的なものになっているとしたら、このマルタの祈りに学んでみてもよいのではないでしょうか。
(5) 結局のところ、マルタもイエスのことばを聞いたのです。それどころか、マリアが聞いたはずの多くの言葉ではなく、マルタの聞いた短いことばが、今のわたしたちに伝えられています。「必要なことはただ一つだけである」その言葉はマルタにとっては、さまざまな思いから自分を解放してくれる福音だったのでしょう。きょうの福音は、わたしたちがどんな思いに縛られているか、わたしたちにほんとうに必要なことはなんなのか、と問いかけてきます。それは、今のわたしたちにとっても福音だと言えないでしょうか。
2007年07月15日
年間第15主日 (2007/7/15 ルカ10・25-37)
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教会暦と聖書の流れ |
福音のヒント
(1) 律法学者(律法の専門家)は、律法を人々に教え、律法によって民衆を指導していた人々でした。27節で律法学者が引用する「神を愛し、隣人を愛する」ことは、申命記6章5節とレビ記19章18節に記された律法の言葉です。マタイ22章37-39節とマルコ12章29-31節でこの2つの箇所を引用するのはイエスご自身ですが、ここでは律法学者のほうが引用しています。それに対して、イエスは「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすればいのちが得られる」と言っています。神への愛と隣人への愛という2つの掟が重要だとする点では、イエスと律法学者との間に意見の違いはありません。
29節で律法学者は、自分を正当化しようとして(直訳は「自分を義として」)、「わたしの隣人とはだれか」と問います。何が大切な掟かという点でイエスと同意見でも、隣人愛の掟の受け止め方は大きく違います。律法学者は次のように考えたようです。「そもそも隣人とはすべての人という意味ではなく『近くにいる人』の意味である。ではどの範囲までが隣人なのか」律法学者がなぜこんなことを考えるかといえば、それは彼らが律法を忠実に守ろうとし、この隣人愛の掟も厳密に実行しようとしたからです。彼らの考えでは隣人を愛するためにはまず「隣人とは誰か」を定義しなければならないのです。確かに「隣人」という言葉自体は、本来身近な人を指しますから、すべての人を含んでいるとは言えないでしょう。そして、この律法学者の考えの中には「罪びとや異邦人は遠ざけるべきもの、排除すべきものであり、まさか隣人愛の掟の対象ではないはずだ」ということもあったにちがいありません。
(2) イエスがいつも見つめていたのは、神の望み・神のこころでした。「律法の字句をいかに正しく解釈するか」というのではなく「そこに表されている神のこころは何か」ということをイエスは問いかけます。「わたしの隣人とはだれですか」という問いに、イエスは「だれが隣人になったと思うか」と問い返されます。神が求めていること、神の望みが、「隣人の範囲を決めて、隣人愛の掟を守る」ことではなく、「目の前の苦しむ人に近づくことによって、隣人になっていく」ことであるのは明白でしょう。
たとえ話の内容については、それほど説明はいらないでしょう。
祭司とレビ人は、両方とも神殿に仕えている人であり、真っ先に律法を実行するはずの人でした。彼らは道端に倒れている人を「見ると、道の向こう側を通って行った」とあります。彼らは神殿での務めのために、死体に触れて汚(けが)れることを避けようとしたのでしょうか、一方で、三番目に登場したサマリア人(律法学者の考えでは「隣人」ではありえない人)は「見て憐れに思い、近寄って」手厚く介抱します。この違いはなんでしょうか。
(3) ここで使われている「憐れに思い」と訳された言葉に注目すべきでしょう。これはギリシャ語で「スプランクニゾマイsplanknizomai」という言葉です。この言葉は「スプランクナsplankna(はらわた)」を動詞化したもので、「人の痛みを見たときに、こちらのはらわたが痛む」「はらわたがゆさぶられる」ことを意味する言葉です。日本語の「胸を痛める」に近いかもしれませんが、沖縄には「肝苦りさ(チムグリサ)」と言う言葉があるそうです。ある人はあえて「はらわたする」と訳しました。このサマリア人は「レビ記には『隣人を愛せ』という律法があった。この人は隣人だから助けよう」と思ったわけではありません。「はらわたした」から助けたのです。目の前の人の苦しみを見たときに、その苦しみを体で感じるから、ほうってはおけなくなるということでしょう。イエスは、人間には誰でも(ユダヤ人でもサマリア人でも)こういう心があるはずだ、と考えていて、それが神から見てもっとも大切なことであり、その心と心からの行動があるところに神の意思が実現している(もう神の国が始まっている)と語っておられるのでしょう。
(4) 「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」というレビ記19章18節の律法は、その直前に「兄弟、同胞」などという言葉がありますので、やはり本来はすべての人というよりも、ある範囲の中の人(身近な人)を指しているようです。しかし、同じ19章にはこういう言葉もあります。「寄留者があなたの土地に共に住んでいるなら、彼を虐げてはならない。あなたたちのもとに寄留する者をあなたたちのうちの土地に生まれた者同様に扱い、自分自身のように愛しなさい。なぜなら、あなたたちもエジプトの国においては寄留者であったからである。わたしはあなたたちの神、主である。」(19章33-34節)。
律法の前提には、いつも神の救いのわざがあります。エジプトで寄留者だったイスラエルの民を救ってくださった神の愛を知った民はどう生きるべきか、これがいつも律法の指し示していることです。律法は人間を採点するための掟ではなく、本当に問われていることはいつも、この神の愛にどのように出会い、どのように応えるかということです。
愛について言葉を費やすことはむなしいことでしょう。「行ってあなたも同じようにしなさい」(37節)これに尽きるのです。わたしたちの現実はどうでしょうか。わたしたちの中にも、「見て、はらわたして、近寄って行く」という体験があるはずです。しかし、いつもそうとは限らず、「見ても、はらわたしない」ということもあるでしょうし、「見て、はらわたしても、近寄っていかない(いけない)」ということだってあるでしょう。そんなわたしたちにきょうの福音のたとえ話はどんな光を与えてくれるでしょうか。
2007年07月08日
年間第14主日 (2007/7/8 ルカ10・1-12, 17-20)
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福音のヒント
(1) ルカ9章1-6節には12人の弟子が派遣される話があります。この72人の派遣にあたっての言葉は、エルサレムへの旅との関連は薄いようですし、12人ではなく72人であることの特徴もあまり感じられません。弟子たちを派遣するにあたってイエスが語った言葉は、いろいろな形で伝えられていたようです。福音書には、弟子たちを派遣するにあたってイエスのことばが、合計4箇所に伝えられています。マタイ10章5-42節、マルコ6章7-12節とルカのこの2箇所です。それらを比較すると、共通する部分と多少異なる部分があります。マタイは複数の伝承を一つの長い派遣説教としてまとめていますが、ルカはそれを2回の派遣に分けたと考えたら良さそうです。
この派遣にあたっての指示は、ルカにとっては過去の弟子たちの派遣というよりも、今復活のイエスによって派遣されている自分たちの問題だと言えるでしょう。「御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた」とありますから、人々がイエスに出会うための準備としてわたしたちは遣わされていると言うこともできるでしょう。
(2) 「七十二人」というところが70人になっている写本もあります。レビ記11章には、モーセの時代に70人の長老が選ばれる話がありますからその影響でしょうか。70人だとすると「民の指導者」というニュアンスがあるかもしれません。一方72という数は、12の6倍で、12人の弟子を拡大した「より多くの弟子たち」ということでしょう。
なお、1節で「二人ずつ」派遣されることの意味はいくつか考えられます。(a)旧約時代から、「一人の証言は不確かだが、二人の証言ならば確かである」という考えがあったから。(b)単純に二人が支えあいながら活動していけば心強いということ。(c)二人が「愛し合う」姿をとおして、イエスの弟子であることが皆に分かるようになるから(ヨハネ13章35節参照)。
(3) 「収穫は多いが、働き手は少ない」(2節)と言うイエスは、多くの人が神の国の呼びかけに応えるということを期待し、信じています。そして、その呼びかけに応える人々を「収穫」にたとえています。派遣される人はもちろん「収穫のための働き手」ですから、彼らが祈るのは「自分たち以外の人が働き手になりますように」ではなく、「自分たちだけでは足りないから、一緒に働いてくれる人を与えてください」という祈りであるはずです。召命を求める祈りはいつもそういう祈りであるはずです。「狼の中に羊を送り込む」(3節)は、もちろんこの派遣に伴う危険を指摘しています。いつも人々に受け入れられるとは限りません。弟子たちは拒否され、攻撃される可能性もあるのです。
(4) 4節の「履物も持っていくな」は少し極端かもしれません。マルコ6章9節では、はっきりと履物は履くように命じられています。袋はもらった喜捨(きしゃ)を入れるための袋でしょう。要は「何も持たず、空(カラ)の手で」行くということです。なぜなら、後にあるように、必要なものは出かけた先で与えられるからです。「その家に泊まって、そこで出されるものを食べ、また飲みなさい。働く者がその報酬を受けるのは当然である」(7節)。「自分の面倒は自分で見て、できるだけ人の世話にもなりたくない」というのが、現代のわたしたちの普通の感覚かもしれません。イエスの弟子の道はそうではないのです。自分の力ではなく神と人々の好意に頼って生きていく道。それはわたしたちにとっても、本当は大切な生き方を指し示しているのではないでしょうか。
(5) 派遣される弟子が第一にすることは「この家に平和があるように」と言うことです。これは4節で禁じられたような儀礼的な長々としたあいさつではありませんが、やはり、ほとんどあいさつの言葉だと言っても良さそうです。「平和」(ヘブライ語で「シャローム」)はほとんど日常的なあいさつの言葉だからです。弟子たちは、戦いや論争や挑発のために出かけるのではなく、出会う人々との間に平和を作ることが求められています。
ただし、いつでも良い関係が作れるとは限りません(わたしたちも同じでしょう)。それはこちらが平和を願っていても、相手のほうが拒否するということがあるからです。そんなとき、相手を責める気持ちにもなりがちです。でもここでは、そんなことに振り回されない、という生き方が求められているようです。「平和があなたがたに戻ってくる」(6節)というのは、「その人を恨んで、仕返ししようとするな、相手がどうであれ、あなたが相手のために平和を願うことはあなたにとってよいことなのだ」ということなのではないでしょうか。なお、11節の「足の埃を払い落とす」は確かに絶縁を意味する動作ですが、そこにも「恨まない、復讐心を抱かない」という意味があるでしょう。「家から家へと渡り歩くな」(7節)も面白い指示です。渡り歩くのは、歓待されるのを期待してのことでしょうか。あるいは、もっと良い待遇を期待するからでしょうか。
(6) 弟子たちの使命の中心は、病人をいやし、「神の国はあなたがたに近づいた」と言うこと(9節)です。それは、これまでイエスご自身がしてきたこととまったく同じことをしていくということです。今のわたしたちにとっては、どういうことでしょうか。
17節以下の「悪霊」「蛇やさそり」「敵」は神に敵対し、人を害するものです。「サタン」はその力の根源にあるものでしょう。イエスは悪の支配が終わり、決定的に神のバシレイア(支配、国、王であること)が始まっているのを見ています。「名が天に書き記されている」は、この神のバシレイアにあずかる者となった、という意味です!
2007年07月01日
年間第13主日(2007/7/1 ルカ9・51-62)
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福音のヒント
(1) イエスの時代、サマリア人とユダヤ人は対立していました。もともとは同じ民族でしたが、紀元前10世紀、ソロモン王の死後にイスラエルの王国は南北に分裂しました。北王国はサマリアに独自の聖所を置くようになり、エルサレムの神殿を中心とする南王国から宗教的にも分離してしまいました。さらに紀元前8世紀に北王国はアッシリア帝国に滅ぼされ、サマリアの人々はアッシリア人との混血になってしまったと言われています。宗教間・民族間の対立という問題は、今のわたしたちの問題でもあるでしょう。
54節の弟子たちの言葉、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」は、かつて預言者エリヤが自分を捕らえに来た兵士たちを焼き滅ぼした故事に基づいています(列王記下1章)。弟子たちにはもちろんそんな力はありません。自分たちの恨みをイエスの力で晴らしてもらおうとして、「主よ、そうしてください」と言うのです。イエスはこれをはっきり拒否しています。エルサレムへの旅の最初に置かれたこのエピソードは、イエスの旅が軍事的な戦いの旅ではなく、神の愛を告げ、神の愛を生きる旅であることを表していると言えるでしょう。
(2) 57-58節は、このイエスの旅に同行するとはどういうことかを示しています。「人の子には枕するところもない」の「人の子」は、ここでは「わたしのような人間」の意味です。わたしたちの今の現実の中で、「巣穴のない、枕するところのない」というような状況があるでしょうか。
59節「父を葬る」は、当時の考えでは人間として何よりも大切な義務でしたが、イエスはそれさえも許しません。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」ここで「自分たちの死者」は実際の死人のことですが、「死んでいる者」は「霊的な意味で死んでいる人」のことでしょう。イエスが指し示している「アッバ(お父さん)」である神とのつながりの中にあるいのちを生きていない人の意味です。
(3) 列王記上19章20節で預言者エリヤが自分の弟子としてエリシャを召し出した物語(きょうの第一朗読)では、家族と別れのあいさつをすることが許されていますが、きょうの福音の62節のイエスのことばは、家族へのいとまごいも許しません。「鋤(すき)」は畑をたがやすための農具です。イラストのように、牛やロバに引かせて土をたがやしていくのですが、通常、右手にムチを持ち、左手だけで操作するので、まっすぐ進むためには注意が必要です。「後ろを顧みる」ならば、たちまち曲がった畝(うね)ができてしまいます。
父の埋葬や家族へのいとまごいは、一般的に言えばいけないはずがないことです。しかし、イエスの言葉は「何をおいても今すぐ従う」ことを要求しています。ルカ福音書の文脈の中でこの緊急性は、イエスがエルサレムに向かう最後の、命懸けの旅を始めることと関連していると言えるでしょう。葬儀の義務や家族へのあいさつが本当の問題なのでしょうか。むしろ、わたしたちに問われていることは、イエスの告げる「神の国」(60、62節)への招きをどこまで本気で受け取るか、ということではないでしょうか。
(4) 「神の国」の「国」はギリシア語で「バシレイアbasileia」といいますが、この言葉の元には「バシレウスbasileus=王」という言葉があります。「バシレイア」は本来、「王であること、王となること」を意味する言葉です。英語のkingに対する kingdomと同じだと考えたらよいでしょう。「王としての統治・支配」を意味することもあり、「王が王として支配している国=王国」の意味にもなります。「神が王であること、神が王となること」これがイエスの告げ知らせた福音の中心でした。
わたしたち現代人は、王がいなくても国は成り立つと考えますので、「神が王となる」と言われてもピンとこないかもしれません。しかし、人間の王の不正な支配によって苦しめられていたイエスの時代のパレスチナの人々にとって、「神が王となる」という神の国のメッセージはすべての不当な圧迫から自由になる「解放のメッセージ」だったのです。
わたしたちは何によって支配され、圧迫され、不当に抑圧されているでしょうか。お金、市場経済、競争原理、欲望、暴力、エゴイズム・・・? わたしたちが豊かないのちを生きることを妨げているすべてのものからの解放、それこそが「神の国」の表しているものなのです。
(5) 「神の国」とは別の言葉で言えば、「神の愛がすべてにおいてすべてとなること」だと言ったらよいかもしれません。この「神の国」には、まだ来ていない(いつか完成する)という面と、すでに来ている(始まっている)という面があります。ルカ福音書にはイエスの次のような言葉が伝えられています。「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(ルカ11章20節)。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(ルカ17章20-21節)。
すでに始まっている神の国とは、わたしたちの間にある神の国とはどのようなことでしょうか。