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2007年06月10日
キリストの聖体 (2007/6/10 ルカ9・11b-17)
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教会暦と聖書の流れ |
福音のヒント
(1) ルカ福音書は、マルコ福音書を基にしていて、12人の弟子の派遣の後、彼らが帰ってくるところからこの物語を始めています。「使徒たちは帰って来て、自分たちの行ったことをみなイエスに告げた。イエスは彼らを連れ、自分たちだけでベトサイダという町に退かれた。群衆はそのことを知ってイエスの後を追った」(ルカ9章10-11節前半)。そして、「イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた」(11節後半)ときょうの箇所が始まります。神の国について語り、人々をいやすというのは、イエスのこれまでの活動の要約のような言葉だと言えるでしょう。イエスの活動全体とこの5つのパンの出来事は密接につながっているのです。
なお、ルカ福音書では12使徒の派遣ときょうの箇所の間に、ガリラヤの領主ヘロデがイエスについて「いったい、何者だろう」と言う箇所があります(9章9節)。そして、この出来事の後、ルカ福音書はすぐにペトロの信仰告白の場面を続けています。「イエスが言われた。『それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。』ペトロが答えた。『神からのメシアです』」(9章20節)。ルカ福音書の中でイエスとは何者かという問いに挟まれたこの出来事は、イエスとはどういう方かをはっきりと表す出来事だと言えるようです。
(2) 5つのパンと2匹の魚で5,000人以上の人が満腹したというような奇跡の物語を読むとき、福音書に書かれているとおりの出来事が実際に起こったと信じられるでしょうか。素直に信じられるという人も、ちょっと信じがたいという人もいるでしょう。もちろん、この出来事が実際にどのように起こったかということは、今となっては確かめようがありません。最初にこの出来事を記録したマルコ福音書でも実際の出来事が起きてから、40年ほどたってから書かれました。それまでイエスのなさったことはおもに口伝えで伝えられていきました。それは誰かが作り出したフィクションではなく、少なくとも「わずかな食物をイエスが人々とともに分け合い、大勢の人が満たされた、というような弟子たちの体験」が基にあったと考えればよいでしょう。弟子たちは確かに驚くべき体験をしたはずです。そして、彼らがそこで感じ取ったのは、イエスのもとにこそ、本当の豊かさがあり、本物のいのちがある、ということだったのでしょう。
(3) 16節「イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた」。
最後の晩さんのときの動作とよく似ています。「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。『これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。』」(ルカ22章19節)
「賛美の祈りを唱え」はギリシア語では「エウロゲオーeulogeo」です。「エウロゲオー」には「賛美する」と「祝福する」の意味がありますが、ここでは食事を前にして神の祝福を求めて祈ることを意味しているようです。祈りの内容としては「感謝の祈りを唱え(エウカリステオーeucharisteo)」と同じだと考えられます。また、「弟子たちに渡して」と「使徒たちに与えて」というところには、原文では同じ動詞が使われています。
ルカ福音書で、エマオに向かった弟子たちが、一緒に歩いていた旅人を復活したイエスだと気づくのも、その人がこの動作をしたときでした。「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かった…」(ルカ24章30-31節)。
(4) この食事の前の行為にはイエスの食事の特徴が非常によく表れています。「パンを取り、天を仰いで、感謝(賛美)の祈りを唱え」はほとんど1つの動作です。パンを取り、天を仰ぐのは、感謝(賛美)の祈りを唱えるためなのです。「このパンがたまたまここにあるからラッキー!」というのではなく、「このパンは神から与えられたものだ」ということを深く受け止める行為だと言えるでしょう。「裂いて、弟子たちに与える」もほとんど1つの動作です。裂くのはパンを一人で食べずに皆と分かち合うためだからです。イエスにとって「共に食事する」ことは、神とのつながりを深く味わい、人と人とのつながりを深く味わうことでした。わたしたちは日々の食事の中でそのことを感じているでしょうか?
最後の晩さんという、イエスが弟子たちとともにした最後の食事は、地上でイエスが行なっていたイエスの食事の頂点でした。そこでイエスは、この神とのつながり、人と人とのつながり、そしてご自分と弟子たちのつながりを永続するものにしようとされたのです。きょうわたしたちは、特別に聖体をとおして神・イエスとのつながり、人と人とのつながりを味わうように招かれていると言えるのではないでしょうか。
なお、17節で「パンの屑(くず)」と訳されている言葉は、直訳では「裂かれたもの」を意味します。これはもちろんイエスが裂いたパンの断片の意味ですから、むしろ「パン切れ」と訳したほうが良さそうです。残ったパン切れが12カゴにもなった、ということにも、イエスのもとにある豊かさが表わされています。12という数が使徒の数と同じであることに意味があるのでしょうか。もし意味があるとすれば、使徒たちがこの場にいない人々にもパンを分け与える使命をいただくことを暗示しているのかもしれません。
投稿者 ct : 2007年06月10日 14:06
コメント
イエズス様の動作、あのパンを裂く式の動作を、神に感謝し、人々と分かち合う動作とは知ってはいましたが、その意味を今ほど生き生きと感じたことはありませんでした。イエズス様のなさることは、すべてが深く美しく意味あることとあらためて思います。また、パン屑にどんな意味があるのかと思っていましたが、パン切れがあんなに余ったということは、そこにいる人たちだけでなく、もっと多くの人が加わる余地がいつもあるということなのかと思い至りました。三位一体の交わりがここにも豊かに響いているのを感じます。
投稿者 マリア : 2007年06月05日 14:34
天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。17すべての人が食べて満腹した。 「このパンは神から与えられたものだ」ということを深く受け止める行為と言うヒントの説明で思い出しました。生物的、物質的に空腹であっても、関係性に於いて人間関係が整った時、満たされた感覚。また、ご聖体を受ける時、肉体的に空腹であったのに満腹感になる事、ミサにおいてみ言葉を聴き、聖体を受ける一連の行為と想いの中で感じ、味わい得た、味わわせて頂いた事です。神から与えられたものと言う気付きを頂く時、満たされる、暖かさ、感じは力です。
投稿者 ぶどうの枝 : 2007年06月05日 21:17
マリアさん、ぶどうの枝さん、コメントありがとうございます。聖体の豊かさは頭で完全に理解できることではないですね。でも、福音の物語をていねいに読み、それを今の自分の現実とつながることとして受け取ったら、その豊かさを少しでも深めることができるでしょう。そんな思いでヒントを書いていますので、これからもよろしく。
投稿者 ヒント執筆者 : 2007年06月06日 16:13
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