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2007年05月20日
主の昇天 (2007/5/20 ルカ24・46-53)
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教会暦と聖書の流れ |
福音のヒント
(1) ルカ24章では、エマオの弟子たちが復活したイエスに出会った話(13-35節)に続き、エルサレムで集まっていた弟子たちにイエスが姿を現わします(36節以降)。弟子たちはイエスの復活をなかなか信じられません(37、41節)。イエスは彼らの目の前で食事をし、そして言葉を語ります。こうして弟子たちは信じる者に変えられていきます。
きょうの箇所の直前の45節に「そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて」という言葉があります。46節で「次のように書いてある」と言いますが、続く言葉は旧約聖書の特定の箇所の引用ではありません。旧約聖書全体がこのことを告げているということでしょう。「(聖書に)書いてある」というのはそれが神の救いの計画であることを表す表現でもあります。そのことを悟ることができるのは、イエスが「彼らの心の目を開」くことによって可能なのです。
イエスによって心の目が開かれ、聖書の言葉を悟ることができるようになるという体験はわたしたちの中にもあるのではないでしょうか?
(2) 「罪の赦しを得させる悔い改め」は、別の写本では「悔い改めと罪の赦し」となっていますが、意味に大差はないでしょう。「悔い改め」はギリシア語では「メタノイアmetanoia」で、「回心」とも訳される語です。この「悔い改め」と「罪のゆるし」はいつも密接に結びついています(ルカ3章3節、使徒言行録2章38節参照)。
創世記2章7節に「主なる神は、土の塵(ちり)で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」とあります。ここに聖書の根本的な人間観・生命観があります。人のいのちは神によって生かされたものであり、神とのつながりを失えば人は滅びるしかありません。人間が自分のほうから神とのつながりを断ってしまうことが「罪」です(創世記3章のアダムとエバの物語)。「罪の赦し」とは神がご自分とのつながりを見失った人間とのつながりを取り戻してくださることです。その神の赦しに応える人間の側の態度が「悔い改め」なのです。このことが復活したイエス(いのちの主)の「名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」。これこそが、神の救いの計画なのです。
(3) ルカ福音書では、イエスの活動はガリラヤから始まり、エルサレムでの死と復活によって完成します(これが福音書の内容です)。そして使徒たちの活動はそのエルサレムから始まって全世界へと広がっていくことになります(これが使徒言行録の内容です)。
弟子たちはもちろんイエスの死と復活の証人ですが、その後、悔い改めと罪のゆるしが全世界に宣べ伝えられていくことの証人でもあります。「弟子たちが告げ知らせる」のではなく、「告げ知らされる…ことの証人となる」(47,48節)というのは面白い表現です。もちろん、弟子たちが福音のメッセージを伝えていくのですが、むしろ、弟子たちをとおして、時間と空間を超えた復活のイエスがあらゆる場所の、あらゆる時代の人々に福音を伝えていくという意味に受け取ることができるでしょう。「父が約束されたもの」「高い所からの力」はどちらも聖霊のことです。弟子たちは聖霊という神の力に支えられて、「証人となる」という使命を果たしていくことになります。なお、この約束は使徒言行録2章に伝えられるように、聖霊降臨の日(ペンテコステ)に実現します。
聖霊が、あるいは目に見えないが今も生きておられる復活のイエスが、福音を告げ知らせる働きの本当に主人公だと言ってもよいのでしょう。わたしたちの使命は、自分の力で頑張って福音を伝えるというよりも、人々の中に働いている聖霊、あるいは復活したイエスの働きを見いだし、あかしすることだと考えてみてはどうでしょうか。
(4) 天に上げられるイエスを見て、弟子たちは「イエスを伏し拝」みます。この「伏し拝む」は「礼拝する」ことを表す言葉で、ルカ福音書の中で弟子たちがイエスを礼拝したと言われているのはここだけです。つまり、ここで初めて弟子たちはイエスとはどういう方であるかを本当に悟ることになったわけです。こうして、イエスが弟子たちに特別な形で姿を現す期間は終わり、目に見えない形で彼らとともに生き続ける時代が始まります。
ルカは、「復活→昇天→聖霊降臨」を時間的な流れの中で起きた出来事として伝えていますが、他の福音書はそうではありません。この3つは別々の出来事というよりも、イエスの死の後に実現したこと全体のいろいろな側面を表しているとも言えるのではないでしょうか。「復活」という言葉は、イエスが死に打ち勝ち、今も生きている、という面を表します。「昇天」(あるいは「高く上げられる」)という言葉は、イエスが単に地上の生に舞い戻ってきたのではなく、神のもとに行き、そこで神とともに永遠のいのちを生きる方となったという面を表します。そして「聖霊降臨」はイエスが目に見えないけれどもわたしたちのうちに今も働いていてくださることを表していると言ったらよいでしょう。
この主の昇天の出来事はわたしたちの希望でもあります。きょうのミサの集会祈願の中に、「主の昇天に、わたしたちの未来の姿が示されています」という言葉があります。わたしたちの歩みは肉体の死で終わる歩みではなく、死を通って最終的に神のもとに(天に)至る歩みなのです。そのことを本気で感じ、受け取ったときに、今のわたしたちにとって目の前の喜びや楽しみ、苦しみや悲しみがどのような意味を持っているかが見えてくるのではないでしょうか。
投稿者 ct : 2007年05月20日 17:06
コメント
福音を告げ知らせるのが、私たちが頑張るというより、主の働きの証人となる、というのが印象的でした。主が生きておられ、神のいのちを生き、今も共におられること、なんと素晴らしいことでしょうか。神様の救いのご計画が皆に実現されますように。神様の働きに皆が気付きますように。心から祈ります。今苦しくとも、必ず実現する救いのご計画を信じて、信頼をもって生きることができますように。
投稿者 マリア : 2007年05月18日 00:50
マリアさん、コメントありがとうございます。うまく行かないことや悲惨なことばかり目につくのがわたしたちの常ですけど、この現実の中に確かに神様が働いていてくださるのを見つける目を持ちたいですよね!
投稿者 ヒント執筆者 : 2007年05月18日 14:50
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