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2007年05月27日
聖霊降臨の主日 (2007/5/27 ヨハネ14・15-16、23b-26)
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教会暦と聖書の流れ |
福音のヒント
(1) 聖霊とは何でしょうか。「聖霊」の「聖」は「神の」という意味です。「霊」はギリシア語で「プネウマ」、ヘブライ語で「ルーアッハ」と言い、どちらも「風」や「息」を意味する言葉です。古代の人々は、目に見えない大きな力(生命力)を感じたときに、それを「霊」と呼んだのでしょうし、それが神からの力であれば「聖霊」と呼んだのです。
聖霊の働きは非常に広いものです。すべての命が生きているのは、聖霊という神の働きによることです(創世記2章7節、詩編104編29-30節参照)。この広さは大切です。一方、聖書の中で聖霊の働きが特に意識されることがあります。それは主に2種類の体験の中でのことです。1つは、人が神から与えられたミッション(派遣・使命)を果たそうとするときの体験であり、もう1つは神と人・人と人とが結ばれるという体験です。
(2) 弱い人間が神から与えられるミッションを生きようとするとき、神が不思議な力で助けてくださる、ということを体験します。旧約聖書では、王や預言者がその使命を受けるとき、聖霊が降(くだ)ったと表現されています(Ⅰサムエル16・13、イザヤ61・1参照)。新約聖書の中では、イエスがヨルダン川で洗礼を受けたときがそうでしたし、きょうの使徒言行録の箇所でペンテコステの日に使徒たちが福音を告げ始めたときもそうです。これらのことはわたしたちの洗礼や堅信の秘跡(さらに叙階・結婚・病者の塗油・ゆるしの秘跡)につながっています。もちろん、秘跡を受けるときだけでなく、人が神からのミッションを生きようとするときに繰り返し体験することだ、とも言えるでしょう。
また、人と人の間にある無理解や対立が乗り越えられて、相互の理解と愛が生まれるとき、それも神の働きとしか言いようがないことでしょう。神の霊が人間の心に働きかけて信頼や愛の心が呼び覚まされるのです。このような神の働きも聖書の中で「聖霊」と表現されています。使徒言行録2章のように、互いに理解し合えないと思われていた言葉の違う人々の間に相互理解が生まれるとするならば、それは聖霊という神の力によるのだと感じられたのでしょう。パウロはⅠコリント12章で、聖霊の賜物(カリスマ)がいろいろあることを認めながら「わたしはあなたがたに最高の道を教えます」(31節)と述べて、続く13章で「愛」について語ります。まさに「霊の結ぶ実は愛」(ガラテヤ5・22-23)なのです。
(3) きょうの福音の箇所は、最後の晩さんの席でイエスが語られた約束です。16節と25節の「弁護者」はギリシア語で「パラクレートスparakletos」です。「パラpara」は「そばに」、「クレートス」は「カレオーkaleo(呼ぶ)」という動詞から来ていて「そばに呼ばれた者」の意味です。裁判のときにそばにいて弁護してくれる人を「パラクレートス」と言ったので新共同訳聖書は「弁護者」と訳しますが、もっと一般的に「そばにいて助けてくださる方」と受け取って「助け主」や「慰め主」と訳されることもあります。
ヨハネの第一の手紙2章1節には「御父のもとに弁護者(パラクレートス)、正しい方、イエス・キリストがおられます」という言葉があります。これは復活して神のもとに上げられたイエスのことですが、イエスこそが第一の「パレクレートス」であるということができます。そこで、ヨハネ福音書14章16節では、聖霊について「別のパラクレートス」という言葉が使われているのでしょう。
(4) 15節の「わたしの掟」、23節の「わたしの言葉」はどちらも「互いに愛し合いなさい」(13章34節、15章12節)という掟を指しています。15節「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」と23節「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る」はほとんど同じ内容です。そして、15節に続く16節では「父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」と言われ、23節では続けて「わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む」と約束されています。実はこの2つのこと、つまり、聖霊が弟子たちに与えられるということと、父とイエスが弟子たちと共に住む、ということはほとんど同じことだと言うことができます。
26節では「聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」と約束されています。聖霊が教えるのですが、その教えはイエスがこれまで教えてきたことと違うのではありません。「イエスのことばを思い出させる」というのは、ただ単に忘れていた言葉を思い出すという意味ではないでしょう。わたしたちが人生の中でさまざまな体験をしたとき、「そうだ、確かにイエスのおっしゃったあの言葉は真実なのだ」と悟ることを指しているのではないでしょうか。
ヨハネ福音書14~16章でイエスが約束される聖霊の働きは、一言で言えば、わたしたちを神とイエスに結びつける働きと言うことができるでしょう。
「聖霊」を人間の頭の中で抽象的に理解しようとしてもうまくいかないでしょう。目に見えない神の働き、復活して目に見えないが今もわたしたちとともにいてくださるイエスの働きが、聖霊の働きなのです。「聖霊」という言葉よりも大切なのは、わたしたちの日々の生活の中に、わたしたちの集いの中に、今も神が、キリストが共にいて、何かをしてくださっているということです。わたしたちはどのようなときにそう感じることができるでしょうか。
2007年05月20日
主の昇天 (2007/5/20 ルカ24・46-53)
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教会暦と聖書の流れ |
福音のヒント
(1) ルカ24章では、エマオの弟子たちが復活したイエスに出会った話(13-35節)に続き、エルサレムで集まっていた弟子たちにイエスが姿を現わします(36節以降)。弟子たちはイエスの復活をなかなか信じられません(37、41節)。イエスは彼らの目の前で食事をし、そして言葉を語ります。こうして弟子たちは信じる者に変えられていきます。
きょうの箇所の直前の45節に「そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて」という言葉があります。46節で「次のように書いてある」と言いますが、続く言葉は旧約聖書の特定の箇所の引用ではありません。旧約聖書全体がこのことを告げているということでしょう。「(聖書に)書いてある」というのはそれが神の救いの計画であることを表す表現でもあります。そのことを悟ることができるのは、イエスが「彼らの心の目を開」くことによって可能なのです。
イエスによって心の目が開かれ、聖書の言葉を悟ることができるようになるという体験はわたしたちの中にもあるのではないでしょうか?
(2) 「罪の赦しを得させる悔い改め」は、別の写本では「悔い改めと罪の赦し」となっていますが、意味に大差はないでしょう。「悔い改め」はギリシア語では「メタノイアmetanoia」で、「回心」とも訳される語です。この「悔い改め」と「罪のゆるし」はいつも密接に結びついています(ルカ3章3節、使徒言行録2章38節参照)。
創世記2章7節に「主なる神は、土の塵(ちり)で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」とあります。ここに聖書の根本的な人間観・生命観があります。人のいのちは神によって生かされたものであり、神とのつながりを失えば人は滅びるしかありません。人間が自分のほうから神とのつながりを断ってしまうことが「罪」です(創世記3章のアダムとエバの物語)。「罪の赦し」とは神がご自分とのつながりを見失った人間とのつながりを取り戻してくださることです。その神の赦しに応える人間の側の態度が「悔い改め」なのです。このことが復活したイエス(いのちの主)の「名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」。これこそが、神の救いの計画なのです。
(3) ルカ福音書では、イエスの活動はガリラヤから始まり、エルサレムでの死と復活によって完成します(これが福音書の内容です)。そして使徒たちの活動はそのエルサレムから始まって全世界へと広がっていくことになります(これが使徒言行録の内容です)。
弟子たちはもちろんイエスの死と復活の証人ですが、その後、悔い改めと罪のゆるしが全世界に宣べ伝えられていくことの証人でもあります。「弟子たちが告げ知らせる」のではなく、「告げ知らされる…ことの証人となる」(47,48節)というのは面白い表現です。もちろん、弟子たちが福音のメッセージを伝えていくのですが、むしろ、弟子たちをとおして、時間と空間を超えた復活のイエスがあらゆる場所の、あらゆる時代の人々に福音を伝えていくという意味に受け取ることができるでしょう。「父が約束されたもの」「高い所からの力」はどちらも聖霊のことです。弟子たちは聖霊という神の力に支えられて、「証人となる」という使命を果たしていくことになります。なお、この約束は使徒言行録2章に伝えられるように、聖霊降臨の日(ペンテコステ)に実現します。
聖霊が、あるいは目に見えないが今も生きておられる復活のイエスが、福音を告げ知らせる働きの本当に主人公だと言ってもよいのでしょう。わたしたちの使命は、自分の力で頑張って福音を伝えるというよりも、人々の中に働いている聖霊、あるいは復活したイエスの働きを見いだし、あかしすることだと考えてみてはどうでしょうか。
(4) 天に上げられるイエスを見て、弟子たちは「イエスを伏し拝」みます。この「伏し拝む」は「礼拝する」ことを表す言葉で、ルカ福音書の中で弟子たちがイエスを礼拝したと言われているのはここだけです。つまり、ここで初めて弟子たちはイエスとはどういう方であるかを本当に悟ることになったわけです。こうして、イエスが弟子たちに特別な形で姿を現す期間は終わり、目に見えない形で彼らとともに生き続ける時代が始まります。
ルカは、「復活→昇天→聖霊降臨」を時間的な流れの中で起きた出来事として伝えていますが、他の福音書はそうではありません。この3つは別々の出来事というよりも、イエスの死の後に実現したこと全体のいろいろな側面を表しているとも言えるのではないでしょうか。「復活」という言葉は、イエスが死に打ち勝ち、今も生きている、という面を表します。「昇天」(あるいは「高く上げられる」)という言葉は、イエスが単に地上の生に舞い戻ってきたのではなく、神のもとに行き、そこで神とともに永遠のいのちを生きる方となったという面を表します。そして「聖霊降臨」はイエスが目に見えないけれどもわたしたちのうちに今も働いていてくださることを表していると言ったらよいでしょう。
この主の昇天の出来事はわたしたちの希望でもあります。きょうのミサの集会祈願の中に、「主の昇天に、わたしたちの未来の姿が示されています」という言葉があります。わたしたちの歩みは肉体の死で終わる歩みではなく、死を通って最終的に神のもとに(天に)至る歩みなのです。そのことを本気で感じ、受け取ったときに、今のわたしたちにとって目の前の喜びや楽しみ、苦しみや悲しみがどのような意味を持っているかが見えてくるのではないでしょうか。
2007年05月13日
復活節第6主日 (2007/5/13 ヨハネ17・20-26)
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福音のヒント
(1) ヨハネ福音書は、最後の晩さんの席で起こったことを13~17章までの長い記録として伝えています。13-16章は主に「告別説教」と呼ばれるイエスの遺言のような言葉です。そして17章でイエスは父である神に向かって祈ります。6節以降でイエスは弟子たちと信じるすべての人々のために祈りますので、「大祭司としての祈り」と呼ばれることがあります。「ヘブライ人への手紙」はイエスを「大祭司」と呼びますが、ヨハネ福音書がここでイエスを大祭司として示そうとしているとまで考える必要はなさそうです。
17章は次のように始まります。「イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。『父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください』」(1節)。1-5節の祈りの中で、イエスはまず、父である神とご自分との深い一致を確認するのです。
(2) 6-20節の弟子たちのための祈りの中には次のような言葉があります。
「わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです」(11節)。
「真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです」(17-19節)。なお、この「聖なる者とする、ささげる」はギリシア語で「ハギアゾーhagiazo」です。これは「聖なる」と訳されるギリシア語の「ハギオスhagios」という形容詞を動詞にした言葉ですので、3箇所とも「聖別する」「聖別される」と訳したほうがよいかもしれません。新共同訳が「ささげる」と訳すのは、この言葉の中に「完全に神のものとなる」という意味だけでなく、「自分のすべてをいけにえとして神にささげる」という意味を受け取っているからのようです。
(3) これに続くのがきょうの箇所ですが、ここでは「彼ら(弟子たち)の言葉によってわたしを信じる人々のために」イエスは祈ります。まさに後の時代のわたしたちのための祈りだと言えるでしょう。それは生前のイエスの最後の日の祈りというよりも、むしろ、目に見えないが今もわたしたちのうちに生きているイエスの取り次ぎの祈りと言うべきかもしれません。「すべての人を一つにしてください」とイエスは祈りますが、この「すべての人」は全人類のことでしょうか?文脈を見ると「キリストを信じるすべての人」と採ったほうが良さそうです。21,23,25節に「世」という言葉があり、ここでは「キリストを信じる人々」と「キリストを知らない世」とが対比して語られているからです。
(4) この信じる人々の一致は、「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように」(21節)と言われる一致です。互いが互いのうちに住むという、イエスと父との一致にあずかることなのです。23節で「(あなたが)わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられた」とあり、26節では「わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいる」と言われているように、「一つになる」ことは「愛する」ことと結ばれています。ヨハネ13章34節、15章12,17節に「互いに愛し合いなさい」というイエスの新しい掟がありました。一つになるということは画一的になるということではなく、むしろ互いに深く結ばれ、互いに大切にし合い、そこに調和が生まれている、ということです。わたしたちキリスト信者の一致を考えるとき、このことは大切でしょう。
ミサを「一致の秘跡」ということがあります。ミサはキリストとわたしたち、キリストに結ばれたわたしたち同士の深い一致のしるしです。一つの食卓を囲み、一つのパンと一つの杯に共にあずかり、神からいただく恵みを皆が分かち合うところにある一致を表すものなのです。これも「一つになる」ということを考えるときのヒントになるでしょう。
(5) キリスト者が一つであることによって、「世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります」(21節)と言われ、また、「世が知るようになります」(23節)とも言われます。このことは大切です。
25節では「世はあなたを知りません。…この人々は…知っています」と言われています。「知る」はヨハネ10章の羊と羊飼いのたとえの中で何度も使われた言葉ですが、知識の問題というよりも、両者の深い交わりを表す言葉です。ヨハネの時代の教会には、キリストを受け入れない「世」との厳しい対立がありました。ここでもその状況が反映していることは確かです。しかし、世は決して救われないと決めつけているのでありません。むしろイエスも弟子たちも世に「遣わされた者」なのです。神の望みはすべての人が愛と平和のうちに生きることです。そのためにイエスの弟子は世に派遣され、神の愛とイエスの愛をあかしするのです。キリスト者の一致が大切なのは、それが派遣された者としての生き方だからであり、最終的には全人類の一致のためだと言えるのではないでしょうか。きょうの箇所の祈りに込めたイエスの思いを深く受け取りたいと思います。
2007年05月06日
復活節第5主日 (2007/5/6 ヨハネ13・31-33a,34-35)
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教会暦と聖書の流れ |
福音のヒント
(1) 31節で「ユダが出て行く」ことと「栄光を受ける」ことがつながっています。ヨハネ福音書では、イエスの「受難」と「栄光」はほとんど一つのこととして結びついています。しかし、日本語の「栄光」の持つ華やかな成功のイメージだけでは、受難の時が栄光の時だということは理解できないでしょう。
「栄光」はヘブライ語で「カボード」、ギリシャ語で「ドクサdoxa」と言います。「カボード」の元の意味は「重さ」です。本来のニュアンスは「そのものの本当の価値」ということのようです。「ドクサ」のほうはむしろ「外に現れた輝き」と言ったらよいでしょうか。パウロは「太陽のドクサ、月のドクサ、星のドクサがあって、それぞれ違いますし、星と星とのドクサにも違いがあります」(Ⅰコリント15・41)と言っています。まさに「輝き」です。ヨハネ福音書は、「ドクサ」という言葉をヘブライ語とギリシア語の両方のニュアンスを込めて、「そのものの本当の素晴らしさが輝き出ること」という意味で使っているようです。「栄光を与える」と訳されたことばは「ドクサゾーdoxazo」という動詞の形で、「栄光を受ける」はその受動態の形が使われています。「そのものの本当の素晴らしさを現す」「そのものの本当の素晴らしさが現される」という意味です。
(2) なぜ、ヨハネにとって、受難の時が栄光の時なのでしょうか。それはヨハネがイエスの受難の中に「愛の極限の姿」を見ているからなのでしょう。受難の物語を始めるヨハネの言葉はこうでした。13章1節「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」。受難と死においてイエスは「愛そのものである神」と完全に1つになり、神が愛であることを現し、神もまたイエスとはどういう方かを現しました。だからこそヨハネにとって、受難の時は、「イエスが神の本当の価値を輝かせる」栄光の時であり、同時に「父である神がイエスの本当の価値を輝かす」栄光の時なのです。
(3) イエスが世を去り、残るのは「愛の掟」です。「互いに愛し合いなさい」という言葉はヨハネ15章12節にもありますが、そこではこの掟が「わたしの掟」と呼ばれています。「善いサマリア人のたとえ」(ルカ10・30-36)で見られるように、愛とは心から自然に沸き起こるものであるとするならば、愛が「掟」であるというのはおかしいかもしれません。この「掟」は単なる命令や義務というよりも、むしろ生き方の根本原理だと言ったらよいのではないでしょうか。これから弟子たちの生き方の中心になるのは「互いに愛し合う」ことなのだ、というイエスの大きな約束として受け取ることができるでしょう。
(4) 「互いに愛し合う」というと教会の中で、キリスト信者同士が大切にし合う、言葉を代えて言えば「排他的な愛」だと受け取られてしまうかもしれません。ヨハネ福音書が書かれた状況では、「イエスを信じる人々」と「イエスを受け入れない世」との厳しい対立がありましたから、「せめて自分たちの中では愛し合おう」ということを強調しているのかもしれません。しかし、イエスの教えは本来、ウチとソトを区別するようなものではなかったはずです。あまりこのことにこだわらないほうがよいでしょう。
「互いに愛し合う」の「互いに」には別のニュアンスもあるかもしれません。「自分がこれだけ愛した」という自己満足的な愛からわたしたちをもっと豊かな人とのかかわりに招いていると考えることもできるのではないでしょうか。愛は一方通行ではなく、人と人との間にある、深い心のつながりを表すものであるはずだからです。
(5) 旧約聖書にも「隣人を愛しなさい」という掟がありました(レビ記19・18)。ここでこの「掟」が「新しい掟」と呼ばれるのはなぜでしょうか。この掟の「新しさ」を二つの面から考えることができます。一つの新しさは、「愛する」だけでなく「互いに愛し合う」という点ですが、これについては上に述べました。もう一つの新しさは「わたしがあなたがたを愛したように」という点です。「わたしがあなたがたを愛したように」の「ように」は単なる模範ではありません。「イエスが2000年前の誰かを愛した、それを模範としてわたしたちも愛さなければならない」というのではないのです。「イエスがわたしたちを愛してくださった、だからその愛を受けたわたしたちは愛し合いたいし、愛そうとするのだ」ということではないでしょうか。
わたしたちが愛し合うとき、わたしたちがイエスの「弟子であることを、皆が知るようになる」(35節)ということも大切です。わたしたちがイエスの弟子であること(キリストが今も生きていてわたしたちを導いていてくださること)は、根本的にわたしたちキリスト信者の生き方をとおして表されるのです。本屋にいくら聖書が積んであっても、わたしたちキリスト信者がいくら聖書を学んでいても、わたしたちがそれに基づいて生きていなければなんにもなりません。ヨハネの第一の手紙にはこういう言葉もあります。
「いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全(まっと)うされているのです」(Ⅰヨハネ4・12)。