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2007年04月29日
復活節第4主日(2007/4/29 ヨハネ10・27-30)
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教会暦と聖書の流れ |
福音のヒント
(1) 短い箇所ですが、羊飼いであるイエスとわたしたち(羊)との深いつながりを感じることができるでしょう。1つのキーワードは「聞く」という言葉です。27節では「聞き分ける」と訳されていますが、ギリシア語では「アクオーakuo」で、普通はただ「聞く」と訳される言葉です(ここでは他の人の声と違うものとして聞き分けるという意味で受け取られています)。この「聞く」ということばは、ヨハネ10章に何度も出てきます。3節「門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す」。8節「わたしより前に来た者は皆、盗人(ぬすびと)であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった」。16節「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける」。いずれも「アクオー」という動詞が使われています。
8節のように、「聞く」には「聞き従う」の意味もあります。日本語でも「聞く」は、ただ単に「耳で聞く」だけではありません。「お母さんの言うことを聞く」は「聞いてそのとおりにする」=「聞き従う」の意味があります。「神の声を聞く」というのは、単に言葉として聞くのではなく、そのことばを自分に向けて語られた神の呼びかけとして聞き、それに応えていくことです。きょうの27節も「聞き従う」の意味で受け取ることができます。わたしたちがイエスの声を聞く、というのはどのような体験でしょうか。
(2) もう一つのキーワードは「知る」です。27節「わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う」。この「知る」はただ単に知識として知っているというのではありません。むしろ、両者の深いつながりを表すことばなのです。これも日本語で「○○さんを知っていますか」というときの知るに似ています。この質問は、「知識として知っているか」という意味だけでなく「かかわりがあるか、会って話したことがあるか」という関係を問う問いなのです。聖書の中でも「知る」は、いつも「かかわりをとおして知ること」を意味しています。
10章4節には「羊はその(羊飼いの)声を知っている」という表現があります。14節でも「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである」と言われています。「互いが互いを知っている」ということは本当に深く結ばれた関係であることを表しています。何よりもイエスがわたしたちを知っていてくださるということはどれほど大きな恵みでしょうか!
(3) 10章のたとえは、9章でイエスが生まれつき目の見えない人をいやした物語から直接続けて語られています。羊のために命を差し出す良い羊飼いの姿は、安息日であっても目の前の苦しむ人に救いの手を差し伸べたイエスの姿そのものだと言えます。
9章の盲人の話を思い出しましょう。彼はイエスによって目に土を塗られ、シロアムの池に行っていやされました。つまり、彼はイエスの姿さえ知らずにいやされたことになります。彼はイエスという方が自分をいやしてくれたことを知っていますが、イエスについて、それ以外の知識は何もありません。9章12節で「その人はどこにいるのか」と問われた彼は「知りません」と答えます。さらにファリサイ派の人々に問い詰められて、彼はとうとうこう言います。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです」(9・25)。最終的に9・35以下で、彼は再びイエスに出会い、「主よ、信じます」と告白します。しかし、この人のイエスに対する根本的な「知り方」は、出会いをとおして自分が変えられたという体験だったのです。わたしたちはどのようにイエスを「知っている」でしょうか。
(4) イエスの復活によって実現したことは、次の2つのことだと言えるでしょう。
1つはイエスと父とのつながりの完成。父である神は、イエスを死の滅びの中に見捨てることなく、ご自分のもとに引き上げ、永遠に父である神とともに生きるものとしてくださった。「わたしと父とは一つである」(30節)ということはイエスの復活においてはっきりと示されるのです。
もう1つは、イエスとわたしたち、父である神とわたしたちとのつながりの完成です。復活したイエスは、目に見えないが今も生きていて、わたしたちとともにいてくださる。このイエスとわたしたちの絆(きずな)は決して絶たれることがない。また、イエスをとおして父である神と結ばれたわたしたちと神との絆も決して絶たれることはない。「だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない」(28節)、「だれも父の手から奪うことはできない」(29節)と、この箇所で約束されているとおりです。なお、29節の「わたしの父がわたしにくださったもの」はイエスに従う羊(信じる人々)のことでしょう。しかし、この箇所を「わたしに(彼らを)くださった父は、すべてのものより偉大」と読む写本もあります。
イエスを死の滅びの中に見捨てなかった神は、決してわたしたちをも見捨てない。イエスは今もわたしたちとともにいて、わたしたちを決して見捨てることはない。これが福音の約束です。厳しい現実や死に直面したときにこそ、この約束はわたしたちに大きな力を与えてくれるのではないでしょうか?
投稿者 ct : 2007年04月29日 15:08
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