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2007年04月29日

復活節第4主日(2007/4/29 ヨハネ10・27-30)

教会暦と聖書の流れ

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 復活節第4主日には毎年、ヨハネ福音書10章の羊と羊飼いのたとえが読まれます(「良い牧者の主日」と呼ばれるのはそのためです)。たとえは3つの部分に分けられて3年周期で読まれますが、今年(C年)は3番目の箇所です。22-23節に「そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた」という言葉がありますので、前のたとえと場面は変わっていますが、内容的にはつながっています。どのたとえにも共通しているのは、「羊と羊飼い」の間にある深いつながりです。復活して今も生きているイエスとわたしたちの間にある深いつながりを味わうためにこれらの箇所が選ばれています。

福音のヒント

   (1) 短い箇所ですが、羊飼いであるイエスとわたしたち(羊)との深いつながりを感じることができるでしょう。1つのキーワードは「聞く」という言葉です。27節では「聞き分ける」と訳されていますが、ギリシア語では「アクオーakuo」で、普通はただ「聞く」と訳される言葉です(ここでは他の人の声と違うものとして聞き分けるという意味で受け取られています)。この「聞く」ということばは、ヨハネ10章に何度も出てきます。3節「門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す」。8節「わたしより前に来た者は皆、盗人(ぬすびと)であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった」。16節「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける」。いずれも「アクオー」という動詞が使われています。
 8節のように、「聞く」には「聞き従う」の意味もあります。日本語でも「聞く」は、ただ単に「耳で聞く」だけではありません。「お母さんの言うことを聞く」は「聞いてそのとおりにする」=「聞き従う」の意味があります。「神の声を聞く」というのは、単に言葉として聞くのではなく、そのことばを自分に向けて語られた神の呼びかけとして聞き、それに応えていくことです。きょうの27節も「聞き従う」の意味で受け取ることができます。わたしたちがイエスの声を聞く、というのはどのような体験でしょうか。

  (2) もう一つのキーワードは「知る」です。27節「わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う」。この「知る」はただ単に知識として知っているというのではありません。むしろ、両者の深いつながりを表すことばなのです。これも日本語で「○○さんを知っていますか」というときの知るに似ています。この質問は、「知識として知っているか」という意味だけでなく「かかわりがあるか、会って話したことがあるか」という関係を問う問いなのです。聖書の中でも「知る」は、いつも「かかわりをとおして知ること」を意味しています。
 10章4節には「羊はその(羊飼いの)声を知っている」という表現があります。14節でも「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである」と言われています。「互いが互いを知っている」ということは本当に深く結ばれた関係であることを表しています。何よりもイエスがわたしたちを知っていてくださるということはどれほど大きな恵みでしょうか!

  (3) 10章のたとえは、9章でイエスが生まれつき目の見えない人をいやした物語から直接続けて語られています。羊のために命を差し出す良い羊飼いの姿は、安息日であっても目の前の苦しむ人に救いの手を差し伸べたイエスの姿そのものだと言えます。
 9章の盲人の話を思い出しましょう。彼はイエスによって目に土を塗られ、シロアムの池に行っていやされました。つまり、彼はイエスの姿さえ知らずにいやされたことになります。彼はイエスという方が自分をいやしてくれたことを知っていますが、イエスについて、それ以外の知識は何もありません。9章12節で「その人はどこにいるのか」と問われた彼は「知りません」と答えます。さらにファリサイ派の人々に問い詰められて、彼はとうとうこう言います。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです」(9・25)。最終的に9・35以下で、彼は再びイエスに出会い、「主よ、信じます」と告白します。しかし、この人のイエスに対する根本的な「知り方」は、出会いをとおして自分が変えられたという体験だったのです。わたしたちはどのようにイエスを「知っている」でしょうか。

  (4) イエスの復活によって実現したことは、次の2つのことだと言えるでしょう。
 1つはイエスと父とのつながりの完成。父である神は、イエスを死の滅びの中に見捨てることなく、ご自分のもとに引き上げ、永遠に父である神とともに生きるものとしてくださった。「わたしと父とは一つである」(30節)ということはイエスの復活においてはっきりと示されるのです。
 もう1つは、イエスとわたしたち、父である神とわたしたちとのつながりの完成です。復活したイエスは、目に見えないが今も生きていて、わたしたちとともにいてくださる。このイエスとわたしたちの絆(きずな)は決して絶たれることがない。また、イエスをとおして父である神と結ばれたわたしたちと神との絆も決して絶たれることはない。「だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない」(28節)、「だれも父の手から奪うことはできない」(29節)と、この箇所で約束されているとおりです。なお、29節の「わたしの父がわたしにくださったもの」はイエスに従う羊(信じる人々)のことでしょう。しかし、この箇所を「わたしに(彼らを)くださった父は、すべてのものより偉大」と読む写本もあります。
 イエスを死の滅びの中に見捨てなかった神は、決してわたしたちをも見捨てない。イエスは今もわたしたちとともにいて、わたしたちを決して見捨てることはない。これが福音の約束です。厳しい現実や死に直面したときにこそ、この約束はわたしたちに大きな力を与えてくれるのではないでしょうか?

投稿者 ct : 15:08 | コメント (0)

2007年04月22日

復活節第3主日 (2007/04/22 ヨハネ21・1-19)

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 毎年、復活節第2第3主日の福音では復活したイエスと弟子たちとの出会いの場面が読まれます。ヨハネ福音書は本来20章(先週の福音の箇所)で終わっていたと考えられますので、21章は後に付け加えられた部分ということになります。先週の福音もそうでしたが、復活したイエスと出会った弟子たちの物語は、遠い昔の過ぎ去った出来事ではなく、今もわたしたちの中で繰り返される出来事として読むことができます。

福音のヒント

   (1) 「ティベリアス湖」はペトロたちが漁師をしていたガリラヤ湖の別名です。復活したイエスと出会った弟子たちは、20章21節で「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」と言われていたのに、ここでまた漁師の仕事に戻っているのは不自然な感もあります。登場する弟子たちの名前からすると同じ弟子たちのようですが、先週の箇所とつなげて読むよりも、復活したイエスとの出会いを伝える別の物語として読んだほうが良いかもしれません(14節の「3度目」という言葉にもかかわらず、これが弟子たちにとって初めての出会いであるように感じられるのではないでしょうか)。イエスが十字架で死んでしまった後、失望し、故郷に帰り、以前の生活と仕事に戻っていった弟子たちがいたのでしょうか。イエスに希望をかけていたが、結局ダメだった。その上、漁をしてもうまくいかない。ここには彼らの大きな失意を感じることができるでしょう。
 「不思議な大漁」の話は今年の年間第5主日に読まれたルカ福音書5章1-11節にもありました。それはイエスの活動の初期の話で、ガリラヤ湖の漁師であったペトロたちがイエスの弟子になっていくきっかけとなった出来事でした。きょうのヨハネの箇所はもちろん、復活後の出会いの物語です。この2つの記事がどのように関連しているかはよく分かりません。ただ、失望と落胆の中でイエスに出会い、喜びと希望を取り戻していったという体験は、イエスの生前にも、そして復活後にも何度もあったことなのでしょう。

  (2) 4節にあるように、復活したイエスは一目見ただけではそれと分からない姿だったようです。「イエスが生きている、わたしたちと共にいてくださる」ということはいつも心の目が開かれなければ悟れないことなのです。イエスの愛しておられた弟子(おそらくヨハネ)が「主だ」と気づいたのはなぜでしょうか。ルカ5章にあるような不思議な大漁の出来事をかつて体験していたのだとすれば、イエスの生前に起こった出来事と目の前で起きている出来事が結びついたから「主だ」と悟ったと言えるかもしれません。「主だ」は「主がおられる」とも訳すことができます。福音書の伝える出来事が今の自分たちの現実と結びつく時に「ここに主がいてくださる」と気づくという体験は、わたしたちにもあるのではないでしょうか? (なお、8節の「二百ぺキス」は約100メートルです)

  (3) 9節に「陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった」とあります。結局、イエスがすべてを前もって用意していたわけです。同時にイエスは弟子たちの働きも無駄にはしていません(10節「今とった魚を何匹か持って来なさい」)。こういう体験はわたしたちの中にもあるのではないでしょうか?自分が一生懸命やったつもりだったのに、実はイエス(神)のほうがすべてを整えていてくれたというような体験です。その中でわたしたちの働きは決して無駄にはならなかったのではないでしょうか。「さあ、来て、朝の食事をしなさい」という言葉でイエスは弟子たちを食卓に招きます。13節のパンと魚は、「5つのパン」の出来事を思い出させます(ヨハネ6章参照)。聖体ともつながるイメージでしょう。

  (4) 15節以下で、イエスが3度ペトロに「わたしを愛するか」と問いかけた話の背景には、イエスが逮捕されたときにペトロが3度イエスを知らないと言ったことがあります(ヨハネ18・17,25,27参照)。
 3回のやり取りの中で「愛する」と訳された言葉は、ギリシア語では「アガパオーagapao」と「フィレオーphileo」という2種類の言葉です。一般的に「アガパオー」は、「神の愛」というときに使われる「本当に相手を大切にする愛」であるのに対して、「フィレオー」はどちらかというと「人間的な愛着」を表すときに使う言葉です。この箇所で厳密に区別があるかどうかは断言できませんが…。
 ここでは最初、イエスは「アガパオー」で問いかけますが、ペトロは「フィレオー」で答えます。2回目のやり取りも同じです。イエスを否認したペトロが「アガパオー」での問い(「あなたはわたしを大切にしているか」という問い)に対して、「フィレオー」(「わたしはあなたが好きです」というような意味の言葉)でしか答えられない気持ちはよく分かるのではないでしょうか。そして、イエスは3度目には「フィレオー」で問いかけています。「あなたを大切にしています」と言い切ることができず、ただ「あなたのことが好きです」としか言うことのできないペトロを見て、イエスはペトロのところまで降りてくると言えるでしょうか。このように考えると、この対話は罪の重荷に苦しむペトロにとって、イエスの愛とゆるしを受け取る大きな体験だったと言うことができるでしょう。

  (5) 「わたしの羊を飼いなさい(わたしの羊の世話をしなさい)」は、ペトロに与えられた特別な使命と見ることができるでしょう。18節の言葉、「あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」はペトロの将来を暗示していますが、実際にペトロは紀元64年ごろローマで殉教したと伝えられています。もしかしたらこの言葉もわたしたちの中にもある1つの実感ではないでしょうか。若い時は自分の思い通りになったことがだんだんそうは行かなくなる。望まない地位に着かされたり、病気や高齢で思うことができなくなったり、という経験は多くの人にあることでしょう。その中に「神の栄光」(19節)が現れると感じることができれば幸いです。

投稿者 ct : 21:40 | コメント (16)

2007年04月15日

復活節第2主日 (2007/4/15 ヨハネ20・19-31)

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 復活節各主日の福音のテーマは次のように捉えることができるでしょう。復活の主日は復活の朝の「空の墓」の物語、第2、第3主日は「復活したイエスと弟子たちとの出会い」の物語、第4~第6主日は「目に見えないがイエスがともにいてくださるとはどういうことか」を示すヨハネ福音書の箇所。  復活節第2主日の福音は毎年同じで、「週の初めの日の夕方」と「八日の後」にイエスが弟子たちに姿を現したヨハネ福音書20章の箇所です(なお、この「福音のヒント」も毎年ほとんど同じです)。このような箇所は2000年程前のある日の出来事であると同時に、今のわたしたちのイエスとの出会いの物語として読むことができるでしょう。

福音のヒント

  (1) 「弟子たちはユダヤ人を恐れて」(19節)とあります。先生であるイエスが逮捕され、殺されていった、自分たちにもどんな迫害が及ぶか分からない、町にはイエスの残党を探して捕らえようとしている人がいるかもしれない。弟子たちは恐怖におびえ、1つの家に閉じこもり、中から鍵をかけて災いが過ぎ去るのを待っていました。
 そこへイエスが来て、弟子たちの集いの「真ん中に」立ちます(26節もそうです)。復活したイエスは時間と空間を超越した方ですから、戸をすり抜けてきたと考える必要はありません。イエスは「あなたがたに平和」と言います。これは普通のあいさつのことば(ヘブライ語なら「シャローム」)でもありますが、21、26節で繰り返されるところを見ると、よほど印象的なことばだったと言えるかもしれません。
 弟子たちが求めていたのは自分たちの身の安全でした。しかし、本当の平和は鍵をかけて閉じこもるところにはありません。いくら鍵をかけていても心は恐怖でいっぱいなのです。本当の平和はイエスがともにいてくださるところから来ます。イエスが共にいてくださる、だから何も恐れることはない、これがキリストの平和です。この平和に満たされたとき、扉を内側から開いて出て行くことができるのです。ミサの最後に「行きましょう、主の平和のうちに」と言われるとき、いつも思い出したい場面です。

  (2) 復活したイエスとの出会いは、弟子たちにとってゆるしの体験でもありました。「ゆるし」とは「和解、関係回復」の出来事です。父との縁を自ら断ち切ってしまった放蕩息子を、父親が再び子として受け入れること(ルカ15・11-32)、これがイエスの語るゆるしのもっとも明快なイメージです。イエスを見捨てて逃げてしまった弟子たちはイエスの弟子であることにおいて失格者でした。しかし、復活したイエスは、弟子たちを責めるのではなく、再び弟子として受け入れ、新たに派遣していきます。

  (3) 「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」(21節)。これまで父である神に派遣された者としてイエスが地上で行なってきたことを、今度は弟子たちが行なっていくことになります。そして弱い人間である弟子たちが、この使命を果たすことができるように「聖霊」という神からの力が与えられるのです。弟子たちの使命の中心は「ゆるし」、あるいは「愛」と言ってもよいでしょう(ヨハネ13・34-35、15・12参照)。「ゆるし」は「愛」の典型だからです。23節の「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」は、ゆるすもゆるさないも弟子たちの好きにしてよいという意味ではなく、だからゆるしなさい、あなたがたが人をゆるすことによって、神のゆるしがその人の上に実現するのだ、と受け取るべきでしょう。人からゆるされる(愛される)ことをとおして神のゆるし(愛)を実感することができたという体験はわたしたちの中にもあるのではないでしょうか。

  (4) 「トマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった」(24節)。ルカ24章のエマオの弟子たちも他の弟子たちから離れていきましたが、イエスの死という出来事は、弟子たちのコミュニティーをバラバラにしてしまう出来事でもあったようです。トマスは、最後までイエスに従うという覚悟(ヨハネ11・16参照)を果たせなかった自分に失望し、他の弟子たちにも失望して、弟子の集いから離れていたのかもしれません。しかし、このトマスにイエスが生きているという知らせが届きます。トマスにとって「主を見た」というほかの弟子の言葉は、とても信じられない言葉であったと同時に、信じれば自分の人生のすべてが変わる、という言葉でもありました。トマスは、もしそれが本当ならば自分で確かめたかったのです。だからこそ、「八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた」のではないでしょうか。そしてイエスはトマスを信じる者に変えてくださいました。
 トマスは弟子たちの集いの中で、弟子たちの集いの真ん中にいるイエスに出会いました。わたしたちはどこで復活のイエスに出会うことができるでしょうか。

  (5) 「見ないのに信じる人は、幸いである」(29節)は、わたしたちへの祝福のことばだと言えるのではないでしょうか。使徒たちの後の時代のキリスト信者は、皆「見ないで信じている者」だからです。イエスの復活を信じるとは「イエスと神とのつながりは死によって断ち切られなかった、イエスとわたしたちとのつながりも死によって断ち切られない」と信じることです。イエスの復活を信じることは「愛を信じる」というのと似ています。「目に見えないものは信じない」と言い張ることも可能かもしれませんが、「信じること」は単なる知的興味の問題ではなく、わたしたちの生き方の根幹にかかわることなのです(トマスにとってはまさにそうでした)。
 「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるため」(31節)の原文は「信じていない人が信じるようになるため」とも「信じている人が信じ続けるため」とも受け取ることができます。ヨハネ福音書はいつも、すでに信じているわたしたちをイエスとのより確かな交わりへと導いてくれる書だと言えるでしょう。

投稿者 ct : 16:26 | コメント (1)

2007年04月08日

復活の主日・復活徹夜祭 (2007/4/8 ルカ24・1-12)

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 復活の主日のミサには、復活徹夜祭と日中のミサがありますが、この「福音のヒント」では3年周期の復活徹夜祭のミサの福音を取り上げます。今年はルカ福音書の箇所が読まれます(ちなみに日中のミサは毎年同じで、ヨハネ20・1-9です)。  イエスは安息日の前日に処刑され、墓に葬られました。このありさまを見ていた女性たちは家に帰って香料と香油を準備しました(ルカ23・49,55-56)。日没からすぐに安息日になりました(当時のユダヤでは、日没から新しい1日が始まりました)。次の日没と同時に安息日が明けます。この日が「週の初めの日」です。

福音のヒント

  (1)  どの福音書もイエスの十字架上での死と埋葬を見届け、3日目の朝、空(から)の墓を見つけた女性たちのことを伝えています。この女性たちについて、ルカ福音書8章1-3節ではこう述べられていました。「すぐその後、イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった。悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた」。「七つの悪霊」とはさまざまな病気を抱えていた状態を表しているのでしょう。病気をいやされイエスの一行に加わった女性たちは「奉仕していた」と言われますが、単なる身辺の世話係というよりも、女性の弟子たちと言ったら良さそうです。
 当時の墓は、洞窟のような横穴で、入り口が円盤型の大きな石でふさいであったと言われます。その墓が開いていたことに女性たちはまず驚きます。イエスの遺体がなくなっていたのですから、彼女たちの驚きはさらに大きくなりました。ここに現れる「輝く衣を着た二人の人」は明らかに天使です。マルコでは1人ですが、ルカでは「2人の証言は確かである」(申命記17・6,19・15参照)という考えが背景にあって2人になっているのでしょうか。

  (2) 5-7節で、天使ははっきりとイエスの復活を告げています。天使の語る言葉の後半はマルコ福音書ではこうでした。「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と」(マルコ16・7)。ルカにも「ガリラヤ」という地名がありますが、内容はずいぶん変わっています。「まだガリラヤにおられたころ、お話になったことを思い出しなさい」(6節)。ルカはこの後、エルサレムでの出現を報告するので、この部分を変えているようです。もちろん、確かにルカ9・21-22で、まだガリラヤにいたときにイエスは受難と復活を予告し始めていました。「そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した」(8節)とありますが、この女性たちがそれをどこまで悟ったかは不明です。それでも彼女たちは男の弟子たちにこの出来事を伝えました。

  (3) 男の弟子たちは、女性たちの言うことをなぜ「たわ言」(11節)だと思ったのでしょうか。女性の弟子に対する偏見があったというよりも、むしろ、あまりに非現実的で信じられなかったのでしょう。12節でペトロは墓に行きます。とにかく行動してしまうというのはいかにもペトロらしいのですが、ヨハネ福音書でもこの空の墓の場面に、ペトロの姿が現れています。初代教会の中でペトロを復活の第一の証人とした伝承があり(Ⅰコリント15・5参照)、それが影響しているのかもしれません。
 復活の主日の福音は、空の墓の場面で、天使がイエスの復活を宣言していますが、まだイエスは姿を現しませんし、弟子たちが信じたということもはっきりとは語られません。復活したイエスが姿を現した時もまだ「彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った」(24・37)と伝えられています。イエスの復活をなかなか信じることのできなかった弟子たちの姿は、復活を信じることの難しさを語ろうとしているのでしょうか?
 しかし、もちろんわたしたちはこの日に、イエスの復活についての信仰を宣言します。わたしたちにとって、イエスが復活して今も生きているとはどういうことでしょうか?

  (4) きょうの福音を読みながら1つのヒントにしたいことは、「イエスの言葉が生きている」ということです。イエスの墓に行った女性たちは、天使から「お話になったことを思い出しなさい」と言われます。「そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した」と伝えられています。わたしたちも聖書を読みながらいつもイエスの言葉を思い出しています。イエスが「ガリラヤにおられたころ、お話しになったこと」は、福音書に数多く伝えられています。たとえば、「人よ、あなたの罪は赦された」(ルカ5・20)、「貧しい人々は幸いである。神の国はあなたがたのものである」(ルカ6・20)、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」(ルカ7・50、8・48)、「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」(ルカ8・21)、などなど。
 ヨハネ福音書14章26節に「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」という言葉があります。これは、ただ忘れていた言葉を思い出すというよりも、イエスの語った言葉を今のわたしたちの現実の中に生きている言葉として思い出すということでしょう。「イエスのおっしゃったことは過去のことになってはいない。その言葉は今もわたしたちの中に生きていて、働いている」、そう悟った時に、イエスが今も生きていると感じることができるのではないでしょうか。

投稿者 ct : 20:05 | コメント (2)

2007年04月01日

受難の主日 (2007/4/1 ルカ23・1-49)

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 4つの福音書それぞれに受難物語がありますが、「受難の主日」にはマタイ、マルコ、ルカが3年周期で読まれます(ヨハネ福音書は毎年「聖金曜日」に読まれます)。なお、今日の受難朗読は、ルカ22章14節~23章56節の長い形もありますが、ここでは短いほうを取り上げます。地上の生涯の終わりに、イエスは弟子たちとともに過越の食事をし、オリーブ山で祈った後、逮捕され、ユダヤの最高法院で裁判を受けました(22・14-71)。その後、ローマ総督ピラトのもとに連れて行かれるところから、23章が始まります。

福音のヒント

  (1)  非常に長い朗読ですが、ローマ総督ピラトによる裁判の場面(1-25節)とイエスが十字架にかけられる場面(26節以下)とに分けて考えましょう。前半では「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」というピラトの宣言が、4節、14-15節、22節と繰り返されています。イエスが何の罪もないのに処刑されることになった様子が伝えられています。
 この短い「福音のヒント」の中で、すべてのことを説明することはできませんので、特に後半のルカ福音書に特徴的な部分に焦点をあててコメントすることにします。

  (2) ルカ福音書の十字架の場面は、マルコ福音書を基にして、いくつかの印象的なエピソードを付け加えています。その一つは28-31節です。イエスはご自分のために泣いているエルサレムの女性たちを逆に慰めます。29-30節はこれから起こる大きな災いを予告する言葉です。その災いは、子どもがいれば、自分の苦しみだけでなく、自分の子どもについても苦しまなければならないから、子どもがいないほうがましだ、と思わせるほどのものです。さらにそれは自然災害による死などよりももっと大きな苦しみなのだ、というのです。31節の「『生の木』さえこうされるのなら、『枯れた木』はいったいどうなるのだろうか」の「生の木」は永遠のいのちを持っているはずの罪のないイエスのこと、「枯れた木」は死んだも同然の罪人(つみびと)である普通の人々のことでしょう。
 次にルカだけが伝えるのは、34節の祈りです。「そのとき、イエスは言われた。『父よ、彼らをお赦(ゆる)しください。自分が何をしているのか知らないのです』」この箇所は重要な写本で欠落しているものがあるので、新共同訳では〔 〕の中に入れられています。しかし、本来のルカ福音書になくて後から書き加えられたと考えることには無理があるでしょう。むしろ、写本を書き写した人の誰かが、「イエスを十字架につけた人々の罪だけは絶対にゆるされない」と考えて省いてしまったと考えたほうが自然です。

  (3) 40-43節の、一緒に十字架につけられた犯罪人のうち、一人が回心してイエスに救いを願う話もルカだけが伝えるものです。「あなたの御国(バシレイア)においでになるときには」は、別の写本では「あなたが王権(バシレイア)をもっておいでになるときには」と読めますが、いずれにせよ、この人はイエスをキリスト(神が油注がれた王)として認め、その救いにあずかることを願っていることになります。
 「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」とイエスは約束します。「いる」は原文では未来形が使われていますが、遠い将来のことではなく、それが「今日」のことだというのが特徴的です。ルカ福音書の中で「今日」という言葉は、「救いが今実現している」ことを強調する言葉です(ルカ4・21、19・9など)。「回心した今」、「苦しみの中でイエスとともにいる今」こそが救いの時だと言うことができるのかもしれません。
 ルカが伝えるイエスの最後の言葉は、46節の「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」です。これもルカ福音書だけが伝える言葉です。詩編31・6に似た言葉があります。

  (4) マルコ福音書の受難のイエスは、ただ苦しむだけの無力な人になってしまいます。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15・34)という叫びは特徴的です。すべての人から見放され、神からも見放されたような姿で死を迎えるのです。それは、「仕える者」として自分を無にして、苦しみのどん底まで降りて行かれる神の子・救い主の姿だと言えるでしょう(マルコ10・43-45参照)。
 ルカの伝える受難のイエスも確かに無力な苦しむ人です。しかし、ルカは、これまで見てきたようなエピソードをとおして、イエスが最後の最後まで人々を愛し続け、神に信頼し続けた姿を伝えようとしています。無実の罪で死刑になる、こんな不条理なことがあれば、ただ怒りや憎しみ・恨みに支配されてしまうのが人間の普通の姿かもしれません。自分のことしか考えられなくなり、神を呪い、人を呪うのが当然かもしれません。しかし、十字架のイエスはそうではないのです。

  (5) 傍(はた)から見れば、イエスの十字架の姿は神からも人からも断ち切られた姿にしか見えなかったでしょう。しかし、イエスはその中で「愛という人とのつながり」を「信頼という神とのつながり」を生き抜きます。そのイエスの歩みは、決して肉体的な死で終わるものではなかった、むしろ死を超えて、イエスと神との絆(きずな)・イエスと人々との絆は完成していった!そう信じるのが、キリスト教の「復活」という信仰です。
 すべてを奪われたように見えても、それでも最後まで人を愛することはできる、それでも最後まで神に信頼して祈り続けることはできる。このルカ福音書が伝える十字架のイエスの姿はわたしたちの現実への光になるでしょうか。わたしたちもすべてを剥ぎ取られ、何もかも失ってしまい、自分では何もすることができなくなることがあります。それでもまだできることがある、と十字架のイエスは語りかけているのではないでしょうか?

投稿者 ct : 16:59 | コメント (2)