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2007年04月01日

受難の主日 (2007/4/1 ルカ23・1-49)

教会暦と聖書の流れ

聖書本文

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 4つの福音書それぞれに受難物語がありますが、「受難の主日」にはマタイ、マルコ、ルカが3年周期で読まれます(ヨハネ福音書は毎年「聖金曜日」に読まれます)。なお、今日の受難朗読は、ルカ22章14節~23章56節の長い形もありますが、ここでは短いほうを取り上げます。地上の生涯の終わりに、イエスは弟子たちとともに過越の食事をし、オリーブ山で祈った後、逮捕され、ユダヤの最高法院で裁判を受けました(22・14-71)。その後、ローマ総督ピラトのもとに連れて行かれるところから、23章が始まります。

福音のヒント

  (1)  非常に長い朗読ですが、ローマ総督ピラトによる裁判の場面(1-25節)とイエスが十字架にかけられる場面(26節以下)とに分けて考えましょう。前半では「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」というピラトの宣言が、4節、14-15節、22節と繰り返されています。イエスが何の罪もないのに処刑されることになった様子が伝えられています。
 この短い「福音のヒント」の中で、すべてのことを説明することはできませんので、特に後半のルカ福音書に特徴的な部分に焦点をあててコメントすることにします。

  (2) ルカ福音書の十字架の場面は、マルコ福音書を基にして、いくつかの印象的なエピソードを付け加えています。その一つは28-31節です。イエスはご自分のために泣いているエルサレムの女性たちを逆に慰めます。29-30節はこれから起こる大きな災いを予告する言葉です。その災いは、子どもがいれば、自分の苦しみだけでなく、自分の子どもについても苦しまなければならないから、子どもがいないほうがましだ、と思わせるほどのものです。さらにそれは自然災害による死などよりももっと大きな苦しみなのだ、というのです。31節の「『生の木』さえこうされるのなら、『枯れた木』はいったいどうなるのだろうか」の「生の木」は永遠のいのちを持っているはずの罪のないイエスのこと、「枯れた木」は死んだも同然の罪人(つみびと)である普通の人々のことでしょう。
 次にルカだけが伝えるのは、34節の祈りです。「そのとき、イエスは言われた。『父よ、彼らをお赦(ゆる)しください。自分が何をしているのか知らないのです』」この箇所は重要な写本で欠落しているものがあるので、新共同訳では〔 〕の中に入れられています。しかし、本来のルカ福音書になくて後から書き加えられたと考えることには無理があるでしょう。むしろ、写本を書き写した人の誰かが、「イエスを十字架につけた人々の罪だけは絶対にゆるされない」と考えて省いてしまったと考えたほうが自然です。

  (3) 40-43節の、一緒に十字架につけられた犯罪人のうち、一人が回心してイエスに救いを願う話もルカだけが伝えるものです。「あなたの御国(バシレイア)においでになるときには」は、別の写本では「あなたが王権(バシレイア)をもっておいでになるときには」と読めますが、いずれにせよ、この人はイエスをキリスト(神が油注がれた王)として認め、その救いにあずかることを願っていることになります。
 「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」とイエスは約束します。「いる」は原文では未来形が使われていますが、遠い将来のことではなく、それが「今日」のことだというのが特徴的です。ルカ福音書の中で「今日」という言葉は、「救いが今実現している」ことを強調する言葉です(ルカ4・21、19・9など)。「回心した今」、「苦しみの中でイエスとともにいる今」こそが救いの時だと言うことができるのかもしれません。
 ルカが伝えるイエスの最後の言葉は、46節の「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」です。これもルカ福音書だけが伝える言葉です。詩編31・6に似た言葉があります。

  (4) マルコ福音書の受難のイエスは、ただ苦しむだけの無力な人になってしまいます。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15・34)という叫びは特徴的です。すべての人から見放され、神からも見放されたような姿で死を迎えるのです。それは、「仕える者」として自分を無にして、苦しみのどん底まで降りて行かれる神の子・救い主の姿だと言えるでしょう(マルコ10・43-45参照)。
 ルカの伝える受難のイエスも確かに無力な苦しむ人です。しかし、ルカは、これまで見てきたようなエピソードをとおして、イエスが最後の最後まで人々を愛し続け、神に信頼し続けた姿を伝えようとしています。無実の罪で死刑になる、こんな不条理なことがあれば、ただ怒りや憎しみ・恨みに支配されてしまうのが人間の普通の姿かもしれません。自分のことしか考えられなくなり、神を呪い、人を呪うのが当然かもしれません。しかし、十字架のイエスはそうではないのです。

  (5) 傍(はた)から見れば、イエスの十字架の姿は神からも人からも断ち切られた姿にしか見えなかったでしょう。しかし、イエスはその中で「愛という人とのつながり」を「信頼という神とのつながり」を生き抜きます。そのイエスの歩みは、決して肉体的な死で終わるものではなかった、むしろ死を超えて、イエスと神との絆(きずな)・イエスと人々との絆は完成していった!そう信じるのが、キリスト教の「復活」という信仰です。
 すべてを奪われたように見えても、それでも最後まで人を愛することはできる、それでも最後まで神に信頼して祈り続けることはできる。このルカ福音書が伝える十字架のイエスの姿はわたしたちの現実への光になるでしょうか。わたしたちもすべてを剥ぎ取られ、何もかも失ってしまい、自分では何もすることができなくなることがあります。それでもまだできることがある、と十字架のイエスは語りかけているのではないでしょうか?

投稿者 ct : 2007年04月01日 16:59

コメント

先日、貴社(オリエント宗教研究所)からご紹介いただいたカトリック春日部教会の一信者です。上記「福音のヒント」は自分ひとりで黙想しながら勉強するには非常に参考になりますが、小生が探しているのは、司祭不在の際におこなう「言葉の祭儀」で、分かち合いとして使用できるような内容の解説書です。上記の内容を完全に理解して分かち合いに使用できれば、それに越したことはないのですが、人に説明できるところまでにはなれませんので、解説書を読むことで、分かち合いになるような内容の解説書を探しています。無理なことなのでしょうか? もし、お心当たりがあれば、紹介してください。よろしくお願いいたします。

投稿者 鈴木賢治 : 2007年03月30日 23:08

『毎日の黙想』と言う小冊子などいかがでしょうか。
「みことばの泉社」発行です。

〒150-0032
 東京都渋谷区鶯谷町14-5-305
FAX 03-3462-4478

ここは「返事は期待しないでください」と以前ありましたので、関係者からは回答が望めないかもしれないと思い投稿しました。

投稿者 ご参考になれば : 2007年03月31日 22:17

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