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2007年03月25日

四旬節第5主日(2007/3/25 ヨハネ8・1-11)

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 C年四旬節第3~5主日のミサの福音には、「回心と罪のゆるし」に関する箇所が選ばれているようです。きょうの箇所も「ゆるし」をテーマとした有名な箇所です。  新共同訳聖書は、ヨハネ福音書のこの箇所をカッコの中に入れています。古代の重要な写本の間に大きな食い違いがあって、後の時代の人が本来のヨハネ福音書に書き加えた箇所だと考えられるからです。しかし、この物語のイエスは、イエス以外の誰にもできないような大胆なゆるしの宣言をしていますから、この物語が実際に起こった出来事に基づいていることは疑いようがありません。

福音のヒント

  (1) この箇所が後の時代の挿入だとすれば、他の福音書には伝えられていないこの物語は、この物語だけで独立して伝えられて来て、ある時ここに挿入されたのでしょうか。
 あるいは、本来はルカ福音書の中にあったものが、早い時期に省かれてしまい、その後ヨハネのこの箇所に挿入された、という可能性もあるようです。ルカ21章の終わりにはこういう言葉があります。「それからイエスは、日中は神殿の境内で教え、夜は出て行って『オリーブ畑』と呼ばれる山で過ごされた。民衆は皆、話を聞こうとして、神殿の境内にいるイエスのもとに朝早くから集まって来た」(37-38節)。この言葉はきょうの福音の冒頭「イエスはオリーブ山へ行かれた。朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた」(ヨハネ8・1-2)とよく似ています。きょうの箇所は、もともとルカ21章の終わりにあったと想像してみてもよさそうです。
 初代教会では、姦通は特別に大きな罪と考えられていました。ですから、姦通の罪を犯した女性をゆるしたイエスの物語は、スキャンダルになったのではないでしょうか。姦通の罪を犯した人をゆるせば初代教会の秩序が崩壊してしまうという理由から、ルカ福音書から省かれてしまったのかもしれません。なお、ヨハネ福音書のこの箇所に置かれた理由は、直後のヨハネ8章15節に「あなたたちは肉に従って裁くが、わたしはだれをも裁かない」という言葉につながると考えられたからでしょう。

  (2)  古代イスラエルにおいて「姦通」とは、男性が他人の妻(または婚約者)と性的関係を結ぶことでした。逆の場合、つまり、男性が自分の妻以外の独身の女性と関係することは「姦通」ではありませんでした(これが姦通とされるのは、キリスト教になってからのことです。マルコ10・11-12参照)。律法は姦通を厳しく禁じていました。たとえば、レビ記20章10節。「人の妻と姦淫する者、すなわち隣人の妻と姦淫する者は姦淫した男も女も共に必ず死刑に処せられる」(なお、「姦淫」は不道徳な性行為全般を指す言葉ですので、「姦通」も行為としては「姦淫」の一部ということになります)。
 もちろん、男も女も同罪ですが、今日の福音の物語では女性だけが捕らえられています。男は逃げてしまったのでしょうか?あるいは男のほうは見逃されたのでしょうか?男女同罪のはずなのに、社会は昔から女性のほうに厳しかったようです。

  (3) いずれにせよ、イエスがもしこの女をゆるせば、律法を無視したことになり、「石で打ち殺せ」と言えば、神のゆるしを告げてきたイエスの生き方とメッセージに反することになります。どう答えてもイエスは窮地に追い込まれることになるのです。
 人々はこの女性とイエスを取り囲んでいます。彼女は姦通の罪を犯したことで人々の裁きの前に立っていますが、イエスもこの女性をどう扱うか、ということで、人々に裁かれる側に立たされていると言えるのではないでしょうか。なお、このときイエスが地面に何を書いていたか、いろいろな想像がありますが、どれも想像の域を出ません。ただ、かがみこんでいるイエスの姿は印象的で、どこか弱々しく感じられるかもしれません。
 人々は裁く側、イエスと彼女は裁かれる側。この構図を一変させたのは、7節のイエスの言葉でした。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」。この一言によって、そこにいたすべての人は神の裁きの前に立たされます。そして、自分が神の前で罪人(つみびと)であることを認めざるをえなくなるのです。

  (4) 人々は去っていき、イエスとその女性だけが残りました。「わたしもあなたを罪に定めない」とイエスは言います。「罪に定めない」というのは、その人の行為を良しとしているのではありません。あなたの罪にもかかわらず、わたしはあなたの死を望まない、あなたが生きることを望んでいるということです。彼女は自分が神の裁きの前というよりも、もっと大きな神の愛とゆるしの前に立っていることに気づいたはずです。
 きょうの福音がわたしたちに問いかけていることはなんでしょうか。1つには「わたしたちは皆、神の前に罪人である」ということを本気で受け取ることができるかどうか、ということでしょう。人を裁く前に、自分も神の前に罪人であり、その自分が神のあわれみによって生かされている、と感じること。そこから自分以外の罪人に対してどう関わるかが問われてくるのです。罪人を、社会を害する迷惑な存在であり、抹殺すべき対象と見るか、自分と同じように弱い兄弟姉妹であり、立ち直って生きることを願うか。
 もう1つはこの女性のように、ゆるされたことの重み(=はかりしれない恵みの大きさ)を本気で受け取れるかどうか、ということでしょう。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」というイエスの言葉は、「まあまあなかったことにして、見逃してあげよう」という言葉ではありません。「これからゆるしを受けた者として、まったく新たな生き方を始めていきなさい」ということなのです。

投稿者 ct : 19:30 | コメント (19)

2007年03月18日

四旬節第4主日(2007/3/18 ルカ15・1-3,11-32)

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 C年の四旬節第3~5主日の聖書朗読は「回心と罪のゆるし」をテーマにしています。今日の箇所は有名な「放蕩息子」のたとえ話です。ルカ15章には、「見失った羊」のたとえ(4-7節)、「なくした銀貨」のたとえ(8-10節)、そしてこの「放蕩息子」のたとえ(11-32節) の3つのたとえ話が伝えられています。15章冒頭の1-3節を見れば、これらのたとえ話が語ろうとしているのは、「イエスがなぜ罪人(つみびと)たちを迎えて、食事まで一緒にしているかということの理由」であることは明白です。

福音のヒント

  (1) 徴税人は当時パレスチナを支配していたローマ帝国の税金を集めるユダヤ人でした。ローマの支配に加担して同胞から税を取る徴税人は、ユダヤ民族の裏切り者としてユダヤ人同胞から嫌われていました。徴税人は、ローマ帝国の役人ではなく、徴税の権利を金で買い、税に自分の手数料を加えたものを人々から集めていました。そのため、不正に多くのお金を集め、富を蓄えていた徴税人も多かったようです。当時のユダヤ人、特に宗教熱心なファリサイ派の人々や律法学者からみれば、決して救われるはずのない罪人でした。また、当時のユダヤでは、「一緒に食事をすること」は「救われる人々の共同体を目に見えるかたちで表すもの」でした。それゆえファリサイ派の人々には、イエスがこのような罪人を迎え入れて一緒に食事までしていることが理解できません。イエスのしていたことは、律法によって人の価値をはかる当時のユダヤ社会の秩序に対する挑戦でした。
 イエスはルカ15章の3つのたとえ話で、なぜ自分が罪人を迎えて食事を一緒にしているかを語ります。それは、神が見失った一匹の羊を捜し求め、その羊が見つかったことを喜ぶ羊飼いのような方であり、なくした銀貨を見つけて大喜びする女性のような方であり、さらに、この放蕩息子の父のような方だから、ということです。神は罪人の滅びを望まれるのではなく、罪人が再び神のもとに立ち返り、神の子として生きることを望んでおられる方だ、だからわたしも罪人を招き、一緒に食事をしているのだ、ということになります。

  (2) 放蕩息子のたとえの中で、弟息子は父親に向かって、「お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください」(12節)と言います。これは本来、父親が死んだら受け継ぐことになっている財産の話です。息子の心の中で父は死んだも同然なのでしょう。息子が転落してやっとありついた仕事は「豚の世話」でした。ユダヤ人にとって豚は汚(けが)れた家畜で、豚を食べることは決してありませんでした。豚の世話をすることは屈辱的であったはずです。「いなご豆」は貧しい人の食べ物にもなりましたが、それすら食べられないというのも、この弟息子のどん底の状態を表しています。
 
  (3) 「ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」(20節)。父親は息子が帰ってくることを知らないはずですから、普通ならば息子のほうが先に父の姿を見つけるはずです。父が息子を見つけるという箇所には、出て行った息子を思う父親の強い心が表れていると言えるでしょう。
 「憐れに思い」はギリシア語では「スプランクニゾマイsplanknizomai」という言葉が使われています。「スプランクナsplankna=はらわた」という名詞に動詞の語尾を付けたものなので、ある人は「はらわたする」と訳しました。さらにこの「ゾマイzomai」という語尾の形は能動態ではなく中動態という形です。これは「みずからの意志でそうする」のではなく、「自然とそうなってしまう」というようなときに使われる形です。つまり、「目の前の人の苦しみを見て、自分のはらわたがゆさぶられてしまう」ということを表す言葉なのです。普通の日本語で言えば「胸が痛む」というのが一番近いでしょうか。沖縄には同様な意味で使われる「チムグリサ(肝苦さ)」という言葉があるそうですが、このほうがもっと近いかもしれません。

  (4) ボロボロになった人間を「見て、はらわたして(胸が痛み)、走り寄って」、わが子として迎え入れる、父である神とはそのような方だとイエスは語るのです。それは、旧約聖書の中でモーセに現れた神の姿と重なります。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞きその痛みを知った。それゆえ、わたしは降(くだ)って行き…」(出エジプト記3・7,8)。「痛みを知る」の「知る」はただ単に知識として知るというよりも、体験として知ることを意味します。「ああ痛いだろうな」というような知り方ではなく、「人の痛みを自分の痛みとして感じる」ことだと言ったらよいでしょう。だからこそ神のほうが「降って行き」イスラエルの民を救おうとなさるのです。ここには旧約と新約を結ぶもっとも大切な神のイメージがあります!

  (5) このたとえ話は、弟息子の立場で読めば、ありがたい「福音」以外の何物でもありません。ただしイエスは、このたとえを、ファリサイ派の人々や律法学者に向けて語られました。兄息子の姿は罪人を切り捨てた彼らの姿そのものだと言えるでしょう。「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません」(29節)というように、人との比較の中で自分は正しいと誇り、「あなたのあの息子」をゆるす父の心が理解できないのです。父親のほうはそれを「お前のあの弟」(32節)と言い換え、お前にとって彼は兄弟ではないかと諭します。この最後の父親の言葉には、兄息子を責めるのではなく、なんとか自分の心を分かってほしいという父の思いが強く感じられるでしょう。わたしたちはどちらの立場でこのたとえ話を聞くことができるでしょうか。

投稿者 ct : 16:47 | コメント (0)

2007年03月11日

四旬節第3主日 (2007/3/11 ルカ13・1‐9)

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 四旬節の第3~第5主日のミサの福音は年によって雰囲気が違います。A年は洗礼志願者のための伝統的な3つの箇所が読まれます(ヨハネ4,9,11章)。B年にはより直接的にイエスの死と復活に関連する福音書の箇所が読まれています。これに対して、今年C年は「回心と罪のゆるし」がテーマになっているようです。  ルカ12・35~13・9では回心の呼びかけが続いていますが、きょうの箇所はルカ福音書だけに伝えられている話です。

福音のヒント

  (1) 「ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた」と言いますが、これは比ゆ的な表現で、実際には、あるガリラヤ人たちが神殿でいけにえをささげようとしていたところをローマ軍によって殺害された、という事件を表しているようです。「シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人」も実際の出来事を指しているようです。古代エルサレムには町に水を供給するための地下水道があり、その出口にシロアムの池(ヨハネ9・7参照)がありました。その塔が倒れて大勢の人が死んだという大事故があったようです。どちらも当時のユダヤ人にとってショッキングな出来事だったはずです。当時は「人の不幸はその人の罪の結果だ」という考えがありました。事件や事故の被害者を見て、「あの人たちが何か罪を犯していたからだ」と決めつけるのはひどいことです。イエスはそういう考えに組しません。「ほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」。ほとんど同じ表現が二度繰り返されていて、強調されています。それは、悲惨な出来事を自分たちへの呼びかけ、警告として受け取ることを求めていると言えるでしょう。さまざまな出来事はわたしたちの回心のチャンスなのです。

  (2) 「皆同じように滅びる」は「滅び」は、ガリラヤ人やシロアム事故の犠牲者の滅びと同じレベルの話ではなく、終末の裁きにおける滅びの意味だと考えられます。ただし、悲惨な出来事が人類一般の罪の結果であるという考えは否定されていないのかもしれません。また、ルカにとってこの「滅び」は、もしかしたら紀元70年に実際に起こったローマ軍によるエルサレムの町と神殿の破壊をも意味していたのかもしれません。だとすれば、その破滅が起こったのは、ユダヤ人全体の罪の結果だということになるでしょうか。
 
  (3) 6節からは実のならないいちじくの木のたとえ話です。いちじくの木をぶどう園に植えることは一般的に行なわれていたことのようです。「実を結ばない木」は洗礼者ヨハネの説教にも現れた表現です。「悔い改めにふさわしい実を結べ。…良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」(ルカ3・8,9)。
 このたとえ話で、ぶどう園の主人とは誰のことでしょうか。園丁とは誰のことでしょうか。「主人」を「父である神」、「園丁」を「イエス」と考えることもできるかもしれませんが、ルカ福音書はそこまで考えてはいないようです。来年もまた実がならなかったらこのいちじくの木はどうなるのだろう、ということも気になりますが、そこにもこの話のポイントはないようです。このたとえ話のポイントは、「来年まで待つ」ということそのものだと考えるべきでしょう。ここでは、神の忍耐やいつくしみよりも、今が回心の最後のチャンスだということが強調されているのです。

  (4) 「滅びる」や「切り倒す」というような裁きのイメージをわたしたちはどう受け取ったらよいのでしょうか。イエスが示した神はいつくしみ深い父でした。人が誰も滅びることなく、すべての人が生きることを望まれ、罪びとにゆるしを与える方でした。しかし、イエスのメッセージの中には、厳しく人に回心を迫る面もありました。それを今のわたしたちが、自分たちの生き方への問いかけとして、まともに受け取ることは大切です。
 この「神の裁き」を考えるとき、ヨハネ福音書に大切な箇所があります。
 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている」(ヨハネ3・16-19)。
 ここでは、神が裁きを行なうというよりも、光に背を向け、闇の中にとどまる人は自ら裁きを招いている、ということになります。聖書によれば、人は神によって生かされているものであり、神とのつながりを失えば滅びるしかない存在です。ですから、神から離れた生き方をしている人間は神によって罰せられるというよりも、その生き方そのものが滅びに至るものなのだと言ってもよいのでしょう。

  (5) 「さまざまな悲惨な出来事はわたしたちにとって回心のチャンス」であり、「今がその最後のチャンス」なのだというメッセージをわたしたちはどう受け取ればよいでしょうか。現代社会は、人間の科学技術が高度に発展し、人間の力が万能だと錯覚し、結局のところ経済万能になっているような面があります。そこで起こっているさまざまな問題を考えたとき、何かしら思い当たることがあるのではないでしょうか。わたしたちにとって、「今回心する」「回心にふさわしい実を結ぶ」ということはどういうことなのでしょう。

投稿者 ct : 15:37 | コメント (2)

2007年03月04日

四旬節第2主日 (2007/3/4 ルカ9・28b-36)

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 きょうの福音の箇所は、イエスの姿が山の上で光り輝いた「主の変容」の出来事です。四旬節に変容の出来事を思い起こすことは古代からの教会の伝統です。この栄光のイエスの姿は、これからイエスが受難と死をとおってお受けになる復活・昇天の姿を弟子たちに垣間(かいま)見させ、同じ道に弟子たちを招くものでした。 四旬節には、「洗礼志願者の準備」、「回心」とその具体的な表れとしての「祈り・節制・愛の行い」など、さまざまなテーマがありますが、そのすべては、きょうの福音のテーマである「イエスの死からいのちへの過越(すぎこし)にあずかること」とつながっています。

福音のヒント

  (1)  冒頭28節の前半が省かれていますが、そこには「この話をしてから八日ほどたったとき」という言葉があります。「この話」とは、イエスが初めてご自分の受難・死・復活について弟子たちに語られたことを指しています。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」(ルカ9・22)。
 ここに登場するモーセは律法を代表する人物、エリヤは預言者を代表する人物です。「律法と預言者」は旧約聖書の中心部分を表しています。ルカ福音書では、この3人が話し合っていた内容が「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期(さいご)について」(ルカ9・31)であったことが伝えられていて、イエスの受難・死・復活が聖書に記された神の計画の中にあることをはっきりと示しています。

  (2) このように見てくると、この山の上で示された栄光に輝くイエスの姿は、単なる栄光の姿というよりも、イエスが受難と死をとおって神のもとで受けることになる栄光の姿なのだと言えるでしょう。つまり、上に引用した9・22が言葉による受難予告であるとすれば、この変容の出来事は「出来事による受難予告」と言ってもよいのです。
 モーセとエリヤがイエスから離れていこうとしたとき、ペトロは仮小屋を建てようと提案します。これは自分たちの先生がモーセやエリヤと語り合っている、このあまりにも素晴らしい光景が消え失せないように、3人の住まいを建ててこの場面を永続化させよう、と願ったからでしょう。しかし、この光景は永続するものではなく、一瞬にして消え去りました。今はまだ栄光の時ではなく、受難に向かう時だからです。

  (3) 雲は「神がそこにおられる」ことのしるしです。雲は太陽や星を覆い隠すものですが、古代の人々は雲を見たときに、雲の向こうに何かがある、と感じたのでしょう(『天空の城ラピュタ』のように)。聖書の中では、目に見えない神がそこにいてくださる、というしるしになりました。たとえば、イスラエルの民の荒れ野の旅の間、雲が神の臨在のシンボルとして民とともにありました(出エジプト記40・34-38参照)。
 雲の中からの声は、もちろん神の声です。「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」(ルカ9・35)。この言葉は、ヨルダン川でイエスが洗礼を受けられたときに天から聞こえた声「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(ルカ3・22)によく似ています。この言葉の背景にはイザヤ42・1「見よ、わたしの僕(しもべ)、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を」があるようです。洗礼のときから「神の子、主の僕」としての歩みを始めたイエスはここから受難への道を歩み始めますが、その時に再び同じような声が聞こえます。この受難の道も神の子、主の僕としての道であることが示されるのです。
 そしてここでは弟子たちに「これに聞け」と呼びかけられます。「聞く」はただ声を耳で聞くというだけでなく、聞き従うことを意味します(申命記18・15参照)。受難予告の中で「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(ルカ9・23)と言われていたことと対応していると言ったらよいでしょう。
 受難の道を行くイエスに従っていくこと、これがきょうの福音の呼びかけです。しかし、実際には、この弟子たちはこれほど大きなイエスの栄光を見たのに、最後まで従っていくことができませんでした。イエスが逮捕されたとき、皆逃げてしまったのです。わたしたちはどうでしょうか。

  (4) イエスは「祈るために」(28節)山に行き、「祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」(29節)と言われます。イエスの祈る姿をよく伝えるのはルカ福音書の特徴です。受難予告の導入にあたるルカ9・18にも「イエスがひとりで祈っておられたとき」という言葉があります。祈りとは、特別に神との親しい時を過ごすことです。イエスの地上での歩みは受難と死に向かう道でした。しかし、イエスは祈りの中で、それを神の大きな救いの計画の中にあることとして受け止め、そして自分のすべてを神の計画に委ねていったと言ってもよいのではないでしょうか。きょうの箇所でも、だからこそイエスの姿は祈るうちに光り輝いたのだ、と言えるかもしれません。
 祈りの中で神に心を向け、祈りの中で自分の思いを越えた神の救いの計画を受け止め、そこから自分の現実を見つめなおす。そのとき、目の前の困難や苦しみを超えた救いの世界を、祈りの中で受け取ることができる…。だとすれば、きょうのイエスの姿は、四旬節の時を過ごすわたしたちにとって大きな励ましだといえるでしょう。
 実はルカ福音書の中には弟子たちの祈る姿は表れません。弟子たちは、イエスの復活と聖天の後、祈り始めることになります(使徒言行録1・14)。弟子たちを、最後までイエスに従う者へと変えていくのは、この「祈り」だと言うこともできるのではないでしょうか。

投稿者 ct : 16:50 | コメント (0)