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2007年03月18日
四旬節第4主日(2007/3/18 ルカ15・1-3,11-32)
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教会暦と聖書の流れ |
福音のヒント
(1) 徴税人は当時パレスチナを支配していたローマ帝国の税金を集めるユダヤ人でした。ローマの支配に加担して同胞から税を取る徴税人は、ユダヤ民族の裏切り者としてユダヤ人同胞から嫌われていました。徴税人は、ローマ帝国の役人ではなく、徴税の権利を金で買い、税に自分の手数料を加えたものを人々から集めていました。そのため、不正に多くのお金を集め、富を蓄えていた徴税人も多かったようです。当時のユダヤ人、特に宗教熱心なファリサイ派の人々や律法学者からみれば、決して救われるはずのない罪人でした。また、当時のユダヤでは、「一緒に食事をすること」は「救われる人々の共同体を目に見えるかたちで表すもの」でした。それゆえファリサイ派の人々には、イエスがこのような罪人を迎え入れて一緒に食事までしていることが理解できません。イエスのしていたことは、律法によって人の価値をはかる当時のユダヤ社会の秩序に対する挑戦でした。
イエスはルカ15章の3つのたとえ話で、なぜ自分が罪人を迎えて食事を一緒にしているかを語ります。それは、神が見失った一匹の羊を捜し求め、その羊が見つかったことを喜ぶ羊飼いのような方であり、なくした銀貨を見つけて大喜びする女性のような方であり、さらに、この放蕩息子の父のような方だから、ということです。神は罪人の滅びを望まれるのではなく、罪人が再び神のもとに立ち返り、神の子として生きることを望んでおられる方だ、だからわたしも罪人を招き、一緒に食事をしているのだ、ということになります。
(2) 放蕩息子のたとえの中で、弟息子は父親に向かって、「お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください」(12節)と言います。これは本来、父親が死んだら受け継ぐことになっている財産の話です。息子の心の中で父は死んだも同然なのでしょう。息子が転落してやっとありついた仕事は「豚の世話」でした。ユダヤ人にとって豚は汚(けが)れた家畜で、豚を食べることは決してありませんでした。豚の世話をすることは屈辱的であったはずです。「いなご豆」は貧しい人の食べ物にもなりましたが、それすら食べられないというのも、この弟息子のどん底の状態を表しています。
(3) 「ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」(20節)。父親は息子が帰ってくることを知らないはずですから、普通ならば息子のほうが先に父の姿を見つけるはずです。父が息子を見つけるという箇所には、出て行った息子を思う父親の強い心が表れていると言えるでしょう。
「憐れに思い」はギリシア語では「スプランクニゾマイsplanknizomai」という言葉が使われています。「スプランクナsplankna=はらわた」という名詞に動詞の語尾を付けたものなので、ある人は「はらわたする」と訳しました。さらにこの「ゾマイzomai」という語尾の形は能動態ではなく中動態という形です。これは「みずからの意志でそうする」のではなく、「自然とそうなってしまう」というようなときに使われる形です。つまり、「目の前の人の苦しみを見て、自分のはらわたがゆさぶられてしまう」ということを表す言葉なのです。普通の日本語で言えば「胸が痛む」というのが一番近いでしょうか。沖縄には同様な意味で使われる「チムグリサ(肝苦さ)」という言葉があるそうですが、このほうがもっと近いかもしれません。
(4) ボロボロになった人間を「見て、はらわたして(胸が痛み)、走り寄って」、わが子として迎え入れる、父である神とはそのような方だとイエスは語るのです。それは、旧約聖書の中でモーセに現れた神の姿と重なります。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降(くだ)って行き…」(出エジプト記3・7,8)。「痛みを知る」の「知る」はただ単に知識として知るというよりも、体験として知ることを意味します。「ああ痛いだろうな」というような知り方ではなく、「人の痛みを自分の痛みとして感じる」ことだと言ったらよいでしょう。だからこそ神のほうが「降って行き」イスラエルの民を救おうとなさるのです。ここには旧約と新約を結ぶもっとも大切な神のイメージがあります!
(5) このたとえ話は、弟息子の立場で読めば、ありがたい「福音」以外の何物でもありません。ただしイエスは、このたとえを、ファリサイ派の人々や律法学者に向けて語られました。兄息子の姿は罪人を切り捨てた彼らの姿そのものだと言えるでしょう。「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません」(29節)というように、人との比較の中で自分は正しいと誇り、「あなたのあの息子」をゆるす父の心が理解できないのです。父親のほうはそれを「お前のあの弟」(32節)と言い換え、お前にとって彼は兄弟ではないかと諭します。この最後の父親の言葉には、兄息子を責めるのではなく、なんとか自分の心を分かってほしいという父の思いが強く感じられるでしょう。わたしたちはどちらの立場でこのたとえ話を聞くことができるでしょうか。
投稿者 ct : 2007年03月18日 16:47
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