« 四旬節第1主日 (2007/2/25 ルカ4・1-13) | メイン | 四旬節第3主日 (2007/3/11 ルカ13・1‐9) »
2007年03月04日
四旬節第2主日 (2007/3/4 ルカ9・28b-36)
|
教会暦と聖書の流れ |
福音のヒント
(1) 冒頭28節の前半が省かれていますが、そこには「この話をしてから八日ほどたったとき」という言葉があります。「この話」とは、イエスが初めてご自分の受難・死・復活について弟子たちに語られたことを指しています。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」(ルカ9・22)。
ここに登場するモーセは律法を代表する人物、エリヤは預言者を代表する人物です。「律法と預言者」は旧約聖書の中心部分を表しています。ルカ福音書では、この3人が話し合っていた内容が「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期(さいご)について」(ルカ9・31)であったことが伝えられていて、イエスの受難・死・復活が聖書に記された神の計画の中にあることをはっきりと示しています。
(2) このように見てくると、この山の上で示された栄光に輝くイエスの姿は、単なる栄光の姿というよりも、イエスが受難と死をとおって神のもとで受けることになる栄光の姿なのだと言えるでしょう。つまり、上に引用した9・22が言葉による受難予告であるとすれば、この変容の出来事は「出来事による受難予告」と言ってもよいのです。
モーセとエリヤがイエスから離れていこうとしたとき、ペトロは仮小屋を建てようと提案します。これは自分たちの先生がモーセやエリヤと語り合っている、このあまりにも素晴らしい光景が消え失せないように、3人の住まいを建ててこの場面を永続化させよう、と願ったからでしょう。しかし、この光景は永続するものではなく、一瞬にして消え去りました。今はまだ栄光の時ではなく、受難に向かう時だからです。
(3) 雲は「神がそこにおられる」ことのしるしです。雲は太陽や星を覆い隠すものですが、古代の人々は雲を見たときに、雲の向こうに何かがある、と感じたのでしょう(『天空の城ラピュタ』のように)。聖書の中では、目に見えない神がそこにいてくださる、というしるしになりました。たとえば、イスラエルの民の荒れ野の旅の間、雲が神の臨在のシンボルとして民とともにありました(出エジプト記40・34-38参照)。
雲の中からの声は、もちろん神の声です。「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」(ルカ9・35)。この言葉は、ヨルダン川でイエスが洗礼を受けられたときに天から聞こえた声「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(ルカ3・22)によく似ています。この言葉の背景にはイザヤ42・1「見よ、わたしの僕(しもべ)、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を」があるようです。洗礼のときから「神の子、主の僕」としての歩みを始めたイエスはここから受難への道を歩み始めますが、その時に再び同じような声が聞こえます。この受難の道も神の子、主の僕としての道であることが示されるのです。
そしてここでは弟子たちに「これに聞け」と呼びかけられます。「聞く」はただ声を耳で聞くというだけでなく、聞き従うことを意味します(申命記18・15参照)。受難予告の中で「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(ルカ9・23)と言われていたことと対応していると言ったらよいでしょう。
受難の道を行くイエスに従っていくこと、これがきょうの福音の呼びかけです。しかし、実際には、この弟子たちはこれほど大きなイエスの栄光を見たのに、最後まで従っていくことができませんでした。イエスが逮捕されたとき、皆逃げてしまったのです。わたしたちはどうでしょうか。
(4) イエスは「祈るために」(28節)山に行き、「祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」(29節)と言われます。イエスの祈る姿をよく伝えるのはルカ福音書の特徴です。受難予告の導入にあたるルカ9・18にも「イエスがひとりで祈っておられたとき」という言葉があります。祈りとは、特別に神との親しい時を過ごすことです。イエスの地上での歩みは受難と死に向かう道でした。しかし、イエスは祈りの中で、それを神の大きな救いの計画の中にあることとして受け止め、そして自分のすべてを神の計画に委ねていったと言ってもよいのではないでしょうか。きょうの箇所でも、だからこそイエスの姿は祈るうちに光り輝いたのだ、と言えるかもしれません。
祈りの中で神に心を向け、祈りの中で自分の思いを越えた神の救いの計画を受け止め、そこから自分の現実を見つめなおす。そのとき、目の前の困難や苦しみを超えた救いの世界を、祈りの中で受け取ることができる…。だとすれば、きょうのイエスの姿は、四旬節の時を過ごすわたしたちにとって大きな励ましだといえるでしょう。
実はルカ福音書の中には弟子たちの祈る姿は表れません。弟子たちは、イエスの復活と聖天の後、祈り始めることになります(使徒言行録1・14)。弟子たちを、最後までイエスに従う者へと変えていくのは、この「祈り」だと言うこともできるのではないでしょうか。
投稿者 ct : 2007年03月04日 16:50
コメント
コメント欄にはその日の福音についての感想を書き込むことができます。福音の感想でなく管理者が不適切と判断した場合は、コメントを削除させていただくことがありますので、あらかじめご了承ください。 名前はハンドルネーム可、メールアドレスとURLは省略可(記入すると公開されます)。 ※ただいまコメントの投稿ができなくなっております。大変申し訳ございませんが、今しばらくお待ち下さいませ。