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2007年02月25日
四旬節第1主日 (2007/2/25 ルカ4・1-13)
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教会暦と聖書の流れ |
福音のヒント
(1) イエスがヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けた出来事の次に、この出来事が伝えられています。洗礼の場面はこうでした。
「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」(ルカ3・21-22)。
今日の箇所でも「聖霊に満ちて」「“霊”」(4・1)という言葉があります。「聖霊=“霊”」は目に見えない神の力・働きです。イエスのこれからの歩み全体は神に導かれたものですが、この荒れ野の出来事も神の導きによるのです。
聖書の中で「悪」とは神から離れることであり、人間を神から引き離そうとする力の根源にあるものが、人格化されて「悪魔」と呼ばれるようになりました。悪魔は二度イエスに向かって「神の子なら…」と言います(4・3,9)。洗礼の時に天から聞こえた「あなたはわたしの愛する子」という宣言の本当の意味がこの誘惑の物語の中で示されます。
(2) 40という数は聖書の中では、苦しみや試練を表す象徴的な数字です。何よりも紀元前13世紀、イスラエルの民がエジプトの奴隷状態から解放され、約束の地に入るまでの「40年間の荒れ野の旅」が思い出されます。荒れ野は水や食べ物が欠乏している場所で、生きるのに厳しい環境です。しかし、イスラエルの民の荒れ野の旅の中で、神は岩から水を湧き出させ、天から「マナ」と呼ばれる不思議な食べ物を降らせて、民を養い導き続けました。その中で神への信頼がいつも問われました。イエスの荒れ野の40日間も、神とのつながりが問われる場でした。
(3) イエスの悪魔への答えは、すべて申命記の引用です。申命記の主な部分は、荒れ野の旅の終わりに、約束の地を目前にして、モーセが民に遺言のように語る「告別説教」という形を取っています。イエスの答え、「人はパンだけで生きるものではない」は申命記8・3の引用です。荒れ野の旅の途中、イスラエルの民に与えられた天からの食物「マナ」について語ることばです。マナが与えられたのは、人がマナによって生きることを教えるためでなく、神によって生きるものであることを教えるためであった、というのです。8節の「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」は申命記6・13の引用です。これは、民が約束の地で定住生活を始め、豊かな食べ物で満たされて、主を忘れ、周辺民族の他の神々にひかれるようなことがあってはならない、という警告の中で語られることばです。12節の「あなたの神である主を試してはならない」は申命記6・16の引用です。ここでは出エジプト記17章のマサ(メリバ)での出来事が思い起こされます。それは、イスラエルの民が荒れ野でのどが渇き、神とモーセに不平を言う場面でした。
(4) ルカ福音書とマタイ福音書では、2番目と3番目の誘惑の順序が逆になっています。ルカが、エルサレムの神殿での誘惑を最後に置いていているのは、エルサレムでのイエスの受難に結び付けて考えているからでしょう。「時が来るまで」(4・13)の「時」も決定的な悪との対決の時、すなわちイエスの受難の時を意味しているのかもしれません。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ」(4・9)という悪魔の言葉は、イエスが生涯の最後に十字架の上で受けた誘惑、「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」、「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」(ルカ23・35,37)を思わせる言葉でもあります。そのすべての誘惑の中でイエスは神への信頼と従順を貫くのです。今日の箇所での誘惑との戦いは、イエスの活動の始めの一回の出来事というよりも、イエスのこれから活動、十字架の死に至る(あるいは死と復活をとおって神のもとに至る)活動の縮図なのだと考えることができるでしょう。
(5) 最後の誘惑で悪魔は詩編91・11-12を引用します。この詩編は確かな守りを与えてくださる神への信頼を呼びかける詩編ですが、悪魔はそれを自分のために使うように誘惑するのです。神の守りへの信頼は良いことであり、モノや安全を手に入れることを願うことも良いことであるはずです。イエスも実際、5つのパンで大群集を満たし、多くの病人をいやしました。わたしたちにもパンが必要ですし、健康や安全が必要です。富や力もある程度は必要でしょう。そういう意味で、これらすべてを悪の誘惑と決め付けることはできません。問題は、自分のためだけにそれらを求めること、それらを求めるあまり、神との、隣人との親しい交わりを失ってしまうことだと言ったらよいでしょうか。
わたしたちの人生も「荒れ野」だと言えるかもしれません。わたしたちはその中でいつも神とのつながりをどう生きるか、人とのつながりをどう生きるかということを問われています。これは決して四旬節だけのテーマではありません。しかし、四旬節はそのことを強く意識させてくれるチャンスなのです。
2007年02月18日
年間第7主日 (2007/2/18 ルカ6・27-38)
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教会暦と聖書の流れ |
福音のヒント
(1) 「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい」。イエスは徹底的な愛を要求します。それは無条件の愛、見返りを求めない愛です。マタイ5・40では「あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい」となっていますが、ルカで上着と下着が逆転しています。マタイのほうは裁判の場面が考えられているのに対して、ルカのほうは強盗に襲われた場面を考えているようです。31節の「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」は黄金律と呼ばれる言葉で、マタイ7・12にもあります。32-34節「罪人(びと)でも」の罪人は、ここでは「神から離れている人」の意味でしょう。マタイ5・46,47では「徴税人」「異邦人」となっています。「神を知らない人」と考えてもいいかもしれません。ここでも「ギヴ・アンド・テイク」のような愛を超えた愛が求められています。
(2) イエスは確かに厳しい要求をしますが、それは単なる要求ではありません。この要求の根拠となる言葉があります。「そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」(35-36節)。
「いと高き方」はもちろん神のことです。「たくさんの報い」と言いますが、神からの報いを期待しなさい、という意味でしょうか。しかし、ここでは「人間の行為に応じて、神が報いを与える」(=応報)という以前にもっと大切なことがあるのです。それは「いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深い」ということです。これは応報の考え方を否定するような言葉です。あなたがたはこの神の愛を知ったはずだ、だから神の子として、その神の愛をもって人に対していきなさい、ということになるでしょう。これは、「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである」という福音の宣言とも無縁ではありません。この神を知ったことが弟子の生き方の原点になるのです。
イエスは「新しい律法」を与えているのではなく、神の愛を受けた神の子としての新しい生き方はこうなのだと指し示しているのではないでしょうか。根本に神の国の福音がある、ということは今日のイエスの言葉を受け取るために忘れてはならないことです。
(3) さらにこれらの言葉が、単なる言葉ではなく、イエスの生き方と結びついていることも大切でしょう。この点でルカ福音書が伝えるエピソードは印象的です。エルサレムに向かうイエスを歓迎しなかったサマリア人の村を見て、焼き滅ぼしてしまおうと考えた弟子たちをイエスは戒めました(ルカ9・51-56)。イエスを逮捕しに来た大祭司の手下の耳をイエスの弟子が切り落としたとき、イエスはその耳をいやされました(ルカ22・50-51)。さらに、イエスを十字架につけた人々のための祈りが伝えられています。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23・34)。
きょうのイエスの言葉は、ただ単なる弟子たちへの要求ではなく、イエスご自身が十字架に向かう中で最後まで貫かれた生き方を表す言葉なのです。
(4) しかし、今日のイエスの言葉をわたしたちの現実に当てはめようとしたとき、大きな困難も感じられるでしょう。わたしたちは国家間や民族間の戦争、テロ、拉致という問題に直面しています。あるいはもっと身近なところで起きている犯罪、暴力、虐待、いじめなどという現実もあります。被害者がただ単に無抵抗で、それでも加害者を愛せばよい、というだけでは解決にならないでしょう。被害者は暴力や虐待から守られなければならないはずです。「暴力をふるう夫を、それでも妻はゆるし、耐えろ」とイエスは教えているのでしょうか。そんなはずはありません。そういう意味で、今日のイエスの言葉をどんな場面にも通用する法律や規則として、文字通り受け取ることはできないはずです。
しかし逆に、「暴力を受けたら報復するのは当然」という考えで突き進んでいったときにも悲惨なことが起きます。暴力の問題、人と人との間にある憎しみや敵意の問題には、決して安易な解決はないと言わざるをえないでしょう。
(5) 暴力とは人が人を支配する力です。その支配に屈することでもなく、憎しみや復讐心を抱くという形で暴力に振り回され続けるのでもなく、どうしたらその支配から解放されるのか。暴力の連鎖をいかに断ち切ることができるのか。イエスの言葉、そして十字架の死に至る生き方は、そのことをわたしたちに問いかけているのではないでしょうか。
イエスが確信していたことは、「恩を知らない者にも悪人にも、情け深い」神の愛でした。神は一人一人の人間の苦しみに深く共感され、すべての人が生きることを望まれるので、「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ5・45)方なのです。そしてその愛を本当に知ったとき、憎しみや復讐心から解放された生き方が始まる。この福音の世界への大きな招きを感じ取りたいものです。
2007年02月11日
年間第6主日 (2007/2/11 ルカ6・17、20-26)
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教会暦と聖書の流れ |
福音のヒント
(1) 20-49節の長い説教は、マタイ福音書の5~7章の説教と共通する部分が多くあります。マタイのほうが「山上の説教」と呼ばれるのと対比して、ルカのこの部分は17節の「平らな所」という言葉から「平地の説教」とも呼ばれることがあります。
マタイの山上の説教もルカの平地の説教も、イエスがある時に語った長い説教が記録されていたと考えるよりも、さまざまな場面でイエスの語られたことばがつなぎ合わされて今の形になったと考えたほうが良さそうです。マタイとルカの共通の源となった伝承の存在が考えられます。何のために初代教会の人々は、これらのイエスのことばを集めたのでしょうか。内容から考えて、これらのことばは、新しくキリスト信者になった人々に、キリスト信者としての新しい生き方を指し示すことばとして集められている、と考える学者がいます。だとしたら、まず最初に「幸い」と言われているのも納得できるでしょう。
(2) 今日の箇所は、マタイの山上の説教の冒頭にある「八つの幸い」とよく似ています。ルカの最初の3つの幸いとマタイの八つの幸いの前半4つを比べてみましょう。
ルカ6・20 貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。
21a 今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。
21b 今泣いている人々は幸いである、あなたがたは笑うようになる。
マタイ5・3 心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
5・4 悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。
5・5 柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
5・6 義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。
ルカ6・20とマタイ5・3、ルカ6・21aとマタイ5・6は多くの言葉が共通しています。ルカ6・21bとマタイ5・4も内容的にはよく似ています。もともと一つのイエスのことばが伝えられていくうちに二つの形になった、と考えるのが良さそうです。そしてさらに言えることは、単純なルカの形のほうが元の形に近いだろうということです(くわしくは、A年年間第4主日の「福音のヒント」参照)。
(3) 「貧しい人は幸いである…」というと一つの叙述文ですが、原文の語順どおりに訳せば、「幸い、貧しい人々。なぜなら、あなたがたのものだから、神の国は」となります。これは目の前の人に向かって語りかける祝福のことばなのです。
「貧しい人」「飢えている人」「泣いている人」がなぜ幸いなのでしょうか。それは「神の国(バシレイア)はあなたがたのもの」だからです。神は決してあなたがたを見捨ててはいない、神は王(バシレウス)となってあなたがたを救ってくださる、だから幸いなのです。「あなたがたは満たされる」「笑うようになる」も神がそのようにしてくださるということを意味しています。これこそがイエスの福音(=よい知らせ)なのです。
「貧しい人」は単に経済的な貧しさだけを表す言葉ではありません。今年の年間第3主日の福音にも、「貧しい人に福音を告げ知らせる」(ルカ4・18)という言葉がありましたが、この「貧しい人」は「捕らわれている人」「目の見えない人」「圧迫されている人」など、さまざまな理由で小さくなっている人すべてを含む言葉です。福音書に登場する病人や障害者、悪霊に取りつかれた人、女性や子どもなども、ある意味で皆、「貧しい人」です。ルカ19章に登場するザアカイのような徴税人も、たとえ金持ちであったとしても社会的に排除されていたという意味では「貧しい人」だと言えるのです。
(4) ルカは4番目に迫害される人の幸いを語ります(22-23節)。これは本来、その前にある3つの幸いとは別な場面で語られた言葉だったようです。ところで、ルカはこの4つの幸いの後、正反対の4つの不幸について語ります(24-26節)。これはマタイの「八つの幸い」にはない言葉です。ルカ福音書では、このように「幸いの道」と「不幸の道」が示され、今日の箇所全体が幸いの道を選ぶようにという「勧告」になっています。
もちろん、わたしたちが経済に繁栄した消費社会にどっぷりと浸りきり、社会的な地位や評価も得て、さらに、この世界の中で苦しんでいる多くの人々のことを忘れてしまい、神様抜きですべてに満ち足りてしまっているとしたら、神に期待するものは何もないでしょう。そういう意味で、きょうの箇所の後半をわたしたちに反省を促す厳しい言葉として受け取ることは大切です。
しかし、本来のイエスの言葉(特に20-21節)は「勧告」というよりも、純粋な「福音」だったということも大切です。病気や経済的困難、さまざまな苦しみの中で日々救いに飢え渇いていると感じる人もいるでしょう。逆にザアカイのようにどんなに満ち足りているように見えても、人とのつながりに渇き、愛に飢えていると感じる人もいるでしょう。わたしたちは自分自身がほんとうに「貧しい人」であると感じたとき、その貧しさの中でこそ、イエスの言葉を「福音」として聞くことができるのではないでしょうか。
2007年02月08日
年間第5主日 (2007/2/4 ルカ5・1-11)
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福音のヒント
(1) 「ゲネサレト湖」はガリラヤ湖の別名です。マタイやマルコで、ガリラヤ湖の漁師たちとの出会いが最初に置かれていることには意味があります。「神の国」の到来を告げ知らせるイエスの活動の、目に見える一つの実現の形が、イエスの呼びかけに応えてイエスに従った人々の姿だと言うことができるでしょう。また、この弟子たちがイエスのなさるすべてのことの証人になるわけですから、最初から一緒にいなくてはならないのです。ただし、ガリラヤ湖畔でいきなりイエスに声をかけられて、すぐについていったというのは少し不自然に感じられるかもしれません。マタイやマルコはこの最初の弟子たちの姿を理想化して描いているのでしょうか。一方ルカでは、ペトロたちは、イエスが「神の言葉」(1節)を語られるのを聞き、イエスの不思議な力に触れてから、イエスに従うようになりました。このほうが自然だと言えるかもしれません。
(2) ガリラヤ湖の漁師は夜中に漁をしたと言われています。日中、魚は湖の深いところにいて、夜になると水面近くに上がってくるからです。シモンはイエスから頼まれて、イエスを自分の舟に乗せています。夜通し苦労して何も獲れなかったという疲労感や失望感の中でもイエスの頼みに応えようとしています。そこでシモンはイエスが語る「神の言葉」を聞くことになりました。そして、イエスから「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われます。プロの漁師としては、夜通し働いて獲れなかった魚が、日中になって獲れるはずがないと考えるのが当然でしょう。しかし、シモンは「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と言います。それはイエスが「神の言葉」を語るのを聞いていたからだと言えるのではないでしょうか。
わたしたちの体験の中に、このようなことがあるでしょうか。頑張っても物事がうまくいかず、疲れ、失望しかけたときに、それでもイエスの言葉に励まされてもう一度やってみたら、思わぬ結果が生じた、というような。わたしたちにとって「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」というイエスの言葉はどのように響いてくるでしょうか。
(3) 不思議な大漁を見たシモン・ペトロは、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と叫びます。「主」(ギリシア語の「キュリオスkyrios」)は新約聖書の中で旧約を引用するとき、神について使う言葉です。「イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」(使徒言行録2・36)。これはペンテコステ(五旬祭、聖霊降臨の日)のペトロの説教の結びの言葉です。ペトロはイエスの死と復活をとおして、イエスが神の子であり、神と等しい方であることを確信することになります。しかし、この最初の出会いの時から、そのことは予感されているのです。
ペトロはイエスの神的な力を感じて、「わたしから離れてください」と言います。神は聖なる方であり、その神に近づくと、罪深い者である人間はその聖性に耐え切れずに滅んでしまう、と考えられていました。この日のミサの第一朗読で読まれるイザヤの言葉も同様です。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は/王なる万軍の主を仰ぎ見た」(イザヤ6・5)。
(4) そんなペトロに向かって、イエスは「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」(10節)と言われます。ここにはまず、イエスが罪のゆるしをもたらす方であることが表れていると言えるでしょう。「罪」とは「神から離れること」です。イエスは神の子として、人が神に立ち返り、神との親しさを取り戻すこと(これが「罪のゆるし」です)のために世に来られたのです。
ペトロには使命が与えられます。「人間をとる漁師」は直訳では「人間を生け捕りにする者」です。ここには人を「まことの命へと導き入れる」というニュアンスがあるのでしょうか。そして、この「不思議な大漁」の出来事は、これからの弟子たちの活動の実りの豊かさを暗示しているとも言えるのでしょう。なお、この10節の言葉はペトロ一人に向かって語られていますが、11節の「彼ら」にはもちろんヤコブとヨハネも含まれています。「すべてを捨てて」はイエスに従う者の典型的、理想的な姿と考えられます。
(5) 不思議な大漁の話は、ヨハネ21章にもあります。これは復活したイエスと弟子たちとの出会いの物語です。時期や細部はずいぶん異なりますが、夜中にガリラヤ湖で漁をしても何も獲れなかったペトロたちが、イエスの言葉に従って網を下ろすとたくさんの魚が獲れたという点では共通しています。2回同じような出来事があったのでしょうか。1つの共通の伝承(言い伝え)があって、2つの福音書それぞれが別の仕方で伝えているのでしょうか。いずれにせよ、この2つの箇所から、福音の物語が2000年前の物語であると同時に、今のわたしたちと復活したイエスとの出会いの物語でもあると感じることができるのではないでしょうか。そのような物語としてきょうの福音も味わいたいものです。