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2007年02月11日

年間第6主日 (2007/2/11 ルカ6・17、20-26)

教会暦と聖書の流れ

聖書本文

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 イエスの活動が始まってしばらくしてから、イエスは山の上で12人の弟子を使徒として選びました。その後、今日の箇所になります。省略された18-19節には次のような言葉があります。「(彼らは)イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人々もいやしていただいた。群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである」。イエスはこの人々を前にして「幸い…」と語り始めるのです。

福音のヒント

  (1) 20-49節の長い説教は、マタイ福音書の5~7章の説教と共通する部分が多くあります。マタイのほうが「山上の説教」と呼ばれるのと対比して、ルカのこの部分は17節の「平らな所」という言葉から「平地の説教」とも呼ばれることがあります。
 マタイの山上の説教もルカの平地の説教も、イエスがある時に語った長い説教が記録されていたと考えるよりも、さまざまな場面でイエスの語られたことばがつなぎ合わされて今の形になったと考えたほうが良さそうです。マタイとルカの共通の源となった伝承の存在が考えられます。何のために初代教会の人々は、これらのイエスのことばを集めたのでしょうか。内容から考えて、これらのことばは、新しくキリスト信者になった人々に、キリスト信者としての新しい生き方を指し示すことばとして集められている、と考える学者がいます。だとしたら、まず最初に「幸い」と言われているのも納得できるでしょう。

  (2) 今日の箇所は、マタイの山上の説教の冒頭にある「八つの幸い」とよく似ています。ルカの最初の3つの幸いとマタイの八つの幸いの前半4つを比べてみましょう。
ルカ6・20 貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。
     21a 今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。
   21b 今泣いている人々は幸いである、あなたがたは笑うようになる。
マタイ5・3 心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである
   5・4 悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる
   5・5 柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
    5・6 義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる
 ルカ6・20とマタイ5・3、ルカ6・21aとマタイ5・6は多くの言葉が共通しています。ルカ6・21bとマタイ5・4も内容的にはよく似ています。もともと一つのイエスのことばが伝えられていくうちに二つの形になった、と考えるのが良さそうです。そしてさらに言えることは、単純なルカの形のほうが元の形に近いだろうということです(くわしくは、A年年間第4主日の「福音のヒント」参照)。

  (3) 「貧しい人は幸いである…」というと一つの叙述文ですが、原文の語順どおりに訳せば、「幸い、貧しい人々。なぜなら、あなたがたのものだから、神の国は」となります。これは目の前の人に向かって語りかける祝福のことばなのです。
 「貧しい人」「飢えている人」「泣いている人」がなぜ幸いなのでしょうか。それは「神の国(バシレイア)はあなたがたのもの」だからです。神は決してあなたがたを見捨ててはいない、神は王(バシレウス)となってあなたがたを救ってくださる、だから幸いなのです。「あなたがたは満たされる」「笑うようになる」も神がそのようにしてくださるということを意味しています。これこそがイエスの福音(=よい知らせ)なのです。
 「貧しい人」は単に経済的な貧しさだけを表す言葉ではありません。今年の年間第3主日の福音にも、「貧しい人に福音を告げ知らせる」(ルカ4・18)という言葉がありましたが、この「貧しい人」は「捕らわれている人」「目の見えない人」「圧迫されている人」など、さまざまな理由で小さくなっている人すべてを含む言葉です。福音書に登場する病人や障害者、悪霊に取りつかれた人、女性や子どもなども、ある意味で皆、「貧しい人」です。ルカ19章に登場するザアカイのような徴税人も、たとえ金持ちであったとしても社会的に排除されていたという意味では「貧しい人」だと言えるのです。

  (4) ルカは4番目に迫害される人の幸いを語ります(22-23節)。これは本来、その前にある3つの幸いとは別な場面で語られた言葉だったようです。ところで、ルカはこの4つの幸いの後、正反対の4つの不幸について語ります(24-26節)。これはマタイの「八つの幸い」にはない言葉です。ルカ福音書では、このように「幸いの道」と「不幸の道」が示され、今日の箇所全体が幸いの道を選ぶようにという「勧告」になっています。
 もちろん、わたしたちが経済に繁栄した消費社会にどっぷりと浸りきり、社会的な地位や評価も得て、さらに、この世界の中で苦しんでいる多くの人々のことを忘れてしまい、神様抜きですべてに満ち足りてしまっているとしたら、神に期待するものは何もないでしょう。そういう意味で、きょうの箇所の後半をわたしたちに反省を促す厳しい言葉として受け取ることは大切です。
 しかし、本来のイエスの言葉(特に20-21節)は「勧告」というよりも、純粋な「福音」だったということも大切です。病気や経済的困難、さまざまな苦しみの中で日々救いに飢え渇いていると感じる人もいるでしょう。逆にザアカイのようにどんなに満ち足りているように見えても、人とのつながりに渇き、愛に飢えていると感じる人もいるでしょう。わたしたちは自分自身がほんとうに「貧しい人」であると感じたとき、その貧しさの中でこそ、イエスの言葉を「福音」として聞くことができるのではないでしょうか。

投稿者 ct : 2007年02月11日 15:24

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