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2007年01月28日
年間第4主日(2007/1/28 ルカ4・21-30)
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教会暦と聖書の流れ |
福音のヒント
(1) 多くの人はこの話を読んで、話の展開に少し無理があるように感じるのではないでしょうか。22節の「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて」という箇所と、28-29節の「会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした」の間には確かに大きなギャップがあります。ただ一回のナザレでの出来事と見るには無理があると考えて、ナザレでのイエスの活動を伝えるいくつかの伝承が組み合わされているという見方もあります(確かにイエスはガリラヤでの活動中、何度かナザレに行ったことがあったでしょう)。とにかくルカはここで、ナザレでのある一日の出来事というよりも、イエスのこれからの活動全体を表そうとしているようです。
(2) 22節の「この人はヨセフの子ではないか」という言葉は、人々のイエスに対する好意的な反応を表すものでしょうか。「ヨセフの子でありながら、こんなに素晴らしいことを語っている!」というような…。だとすると、この後、イエスのほうからケンカを吹っかけるような言葉が続くのは、不自然に感じられるかもしれません。
むしろ、これは非難めいた言葉でしょうか。つまり、「ヨセフの子にすぎないのに、こんな大胆なことを語るのはおかしい」という意味です。マルコ6・2-3では故郷での話の中にこういう言葉があります。「安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。『この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。』このように、人々はイエスにつまずいた」。故郷の人々は、人間的なレベルでしかイエスを見ようとしないので、イエスを受け入れられなかった、ということになるでしょう。ルカの「ヨセフの子」も同様に考えてよいのではないでしょうか。
なお、22節で「ほめ」と訳された言葉は「弾劾し」というまったく正反対の意味にもとれる言葉です。こうとったほうが、後の展開には合うかもしれませんが、ここまでの展開からすれば「皆がイエスをほめ」と受け取るほうが自然でしょう。
(3) エリヤとエリシャはともに紀元前9世紀、北イスラエル王国で活動した預言者です。それぞれの物語は、列王記上17章、列王記下5章に伝えられた有名な話です。「シドン」「サレプタ」はイスラエルの北方、地中海に面した位置にあります。「シリア」はイスラエルの北にある国ですが、その国のアラム人の王の軍司令官がナアマンでした。ともに異邦人に神の救いがもたらされた話です。
預言者の活動は、狭い民族的な利害に基づくものではなく、神の大きな救いの意思に基づくものでした。イエスもまたそのような預言者として活動しているのです。
(4) 問題はナザレの人々の狭さでした。彼らは同郷のイエスに期待しますが、それはあくまで地縁血縁に基づく利益が与えられることへの期待だったようです。そんな彼らにとっては同じガリラヤ地方のカファルナウムでさえ「外の世界」になるのです。
この姿勢には、後になってイエスを十字架に追いやっていくユダヤの指導者たちと共通するものがあります。ルカ20章でぶどう園の農夫のたとえ話が語られています。主人からぶどう園を借りていた農夫たちが、収穫を受け取りに来る主人の「愛する息子」を殺害してしまうというたとえ話です。これに対する人々の反応をルカはこう伝えています。「そのとき、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れた」(20・19)。つまり、ユダヤ人指導層はイエスを自分たちの特権的な利益を脅かす存在として抹殺することになるわけです。このような狭い意識がわたしたちの心のどこかにないとは言えないでしょう。
(5) 「会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした」というのは極端すぎる反応でしょうか。もちろん大きな期待があったからこそ、その期待を裏切られたときにそれが憎しみに変わるということはあるかもしれません。しかし、それだけでなく、将来起こるイエスの受難と十字架の死を予告するような出来事としてルカはこのことを伝えているようです。この話は、「イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた」(30節)と結ばれています。これはもちろんまだ、十字架の「時」(4・13参照)ではないからですが、同時にイエスが最終的に「天に立ち去られた」ということを暗示しているようでもあります。
先週と今週のナザレでの出来事の中に、「貧しい人に福音を告げ知らせる」(ルカ4・18)イエスの姿とそれを受け入れることのできなかった人間の姿がはっきりと表されています。それは福音書全体の縮図とも言えるでしょう。わたしたちにも、このイエスの福音に心を開けるかどうかが問われているのです。
2007年01月21日
年間第3主日 (2007/1/21 ルカ1・1-4、4・14-21)
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福音のヒント
(1) 1・1-4はルカ福音書の序文と言えます。「わたしたちの間で実現した事柄」はもちろんイエスの生涯・死・復活のことです。「最初から目撃して御(み)言葉のために働いた人々」は使徒たちを指します。「多くの人々が既に手を着けています」とありますが、少なくともマルコ福音書はすでに書かれていて、ルカはその内容を知っていたと考えられます。「テオフィロ」という名の人物は知られていません。ルカ福音書は特定の人に献呈する形をとっていますが、この名前の意味は「神を愛する人」あるいは「神に愛された人」ですので、わたしたちすべてに向けて書かれている、と受け取ることもできます。
(2) 「“霊”」はギリシア語で「プネウマpneuma」です。「プネウマ」は必ずしも神の霊=聖霊だけに使われる言葉ではないので、かつての口語訳聖書では「プネウマ」が明らかに「聖霊」を意味すると考えられる箇所は「御霊(みたま)」と訳されていました。その部分を新共同訳聖書は「“霊”」と表記しています。聖霊はこの箇所の少し前から現れています。「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」(3・21-22)。「さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた」(4・1-2)。ヨルダン川での洗礼の時から、イエスの活動のすべては、聖霊に導かれていたことが強調されています。きょうの箇所で引用されるイザヤ書の中にも「主の霊がわたしの上におられる」という言葉があります。
(3) イエスの活動の場はガリラヤの諸会堂です。イエスの時代、ユダヤ人は安息日ごとに会堂に集まり、礼拝を行なっていました。その中心は聖書(旧約聖書)の朗読でした。巻物は今の本と違って、好きな箇所をさっと開くことはできません。イエスはたまたま開いた箇所をお読みになったことになりますが、この箇所が読まれたのは単なる偶然というよりも、むしろ、聖霊の働きによることと考えるべきでしょう。
イエスが朗読したのはイザヤ書56~66章までの「第三イザヤ」と呼ばれる部分にあたりますが、この箇所は本来、第三イザヤと呼ばれる預言者自身の召命を語る箇所だったと考えられます。「油を注ぐ」ことはその人に、神からの特別な使命とその使命を果たすための神からの力(=聖霊)が与えられることを目に見える形で表すものでした。ここでは預言者としての使命が与えられることが表されていたのでしょう。しかし一方、「油を注がれる」は「メシア=キリスト」を意味する言葉でもあるので、イエスの時代にはこの箇所が「来(きた)るべきメシア」についての預言と受け取られていたようです。イスラエルの人々は、いつかメシアが来ることを待ち望んでいました。しかし、イエスはこの預言が「今日、実現した」と宣言します。これこそがイエスの福音の決定的な新しさです。
(4) 「貧しい人」は経済的に、またその他の理由で圧迫されている人のことで、後に出てくる「捕らわれている人」「目の見えない人」「圧迫されている人」すべてを含む言葉です。「福音」は「よい知らせ」ですが、一言で言えば、「神によるこの圧迫からの解放」だと言ったらよいでしょう。ここには「解放」「自由にし」という言葉が出てきますが、どちらも「アフェシスaphesis」というギリシア語です。「アフェシス」は、「ゆるし」という意味でも使われる言葉です(ルカ24・47)。人間を縛っているあらゆるものからの解放、その根っこにある罪からの解放、これこそがイエスの使命であり、福音だと言えるでしょう。なお、新共同訳の旧約ではこの箇所は次のようになっています。
「主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。主が恵みをお与えになる年/わたしたちの神が報復される日を告知して…」(イザヤ61・1-2)
ルカの引用は、途中にイザヤ58・6の言葉を挿入するなど、いくつかの点で異なっています。「主が恵みをお与えになる年」は元来、50年ごとに「全住民に解放の宣言」(レビ記25・10)がなされるヨベルの年のことですが、「われわれの神が報復される日」という言葉は省かれています。これはイエスの使命に合わせるためにあえて省かれているのでしょう。
(5) 21節の「今日」はルカ福音書の中で特別に「救いが今、実現している」ということを強調する言葉のようです。ザアカイの家での言葉「今日、救いがこの家を訪れた」(ルカ19・9)、一緒に十字架にかけられた犯罪人への言葉「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(23・43)のような箇所にも見られます。
「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」とイエスは宣言されました。それは今、この言葉を耳にするわたしたちにとっても「今日」のことであるはずです。わたしたちはそのような言葉として聖書の言葉を聞いているでしょうか。
2007年01月14日
年間第2主日 (2007/1/14 ヨハネ2・1-11)
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福音のヒント
(1) ヨハネ1・19~2・11を見ると、かなり詳しく日付を追っていることに気づきます。1・29、35、43に「その翌日」という言葉があり、きょうの箇所に「三日目に」とありますので、全部で6日間の出来事ということになります(2・12以下にはこのような日付を追う表現はありません)。6日間は創世記1章で神が天地万物をお造りになった日数です。ヨハネはこの6日間の出来事を新しい創造とも呼ぶべき神のみわざがここに始まるという思いで伝えようとしているのかもしれません。その頂点がきょうの出来事ということになります。
宴会の途中でぶどう酒がなくなるというのは大ピンチです。イエスが水をぶどう酒に変えてそのピンチを切り抜けたという話ですが、ヨハネ福音書はこの出来事を、新しい救いの時代の始まりを象徴的に表す出来事として見ているのです。婚礼のイメージは「神と人とが一つに結ばれる救いのイメージ」でもあります。
(2) イエスの母はもちろんマリアですが、ヨハネ福音書では「イエスの母」と呼ばれるだけです。この母は十字架の場面でも登場します(19・25-27)。3節の「ぶどう酒がなくなりました」は直訳では「(彼らは)ぶどう酒を持っていません」ですが、これは非人称の表現で、単に「ぶどう酒がありません」という意味です。ぶどう酒を救いのシンボルと考えれば「救いがありません」とイエスに訴えているとも言えるでしょう。
これに対するイエスの言葉、「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです」は、冷たく聞こえる言葉でしょう。「婦人」という言葉は、現代日本ではほとんど使われない言葉ですから、現代的には「女性よ」と訳すべきでしょうか。いずれにせよ、普通は自分の母に向かって言う言葉ではありません。「わたしとどんなかかわりがあるのです」は直訳では「わたしとあなた(の間)に何があるのか?」です。確かに拒絶の言葉のように聞こえます。しかし結局、イエスはこのマリアの叫びに答えて行動することになります。とはいえ、この言葉には、マリアの願いとは関係なく、イエスがこれからすることの主導権を持っていることを強調する意味があるようです。
(3) さらにここには「わたしの時はまだ来ていません」という言葉が続いています。ヨハネ福音書の中で「わたしの時=イエスの時」とは十字架の時です(ヨハネ12・23、27、13・1、17・1など)。それは受難の時ですが、同時にイエスが父のもとに行く栄光の時でもあります。ヨハネ福音書ではマリアはこの箇所と19章の十字架の場面だけに登場します。
「イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、『婦人よ、御覧なさい。あなたの子です』と言われた。それから弟子に言われた。『見なさい。あなたの母です。』そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った」(19・26-27)
「自分の家に引き取った」という箇所は「自分のものとして受け入れた」とも訳せます。ここでマリアに弟子たちの母としての使命が与えられることになります。2章4節のイエスの言葉は、母マリアを十字架の場面に招く言葉だと言うこともできるのでしょう。
なお、5節でマリアは「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言います。マリアはイエスが何かしてくれるという希望を持ち続けます。これはイエスに対する深い信頼を表す言葉です。
(4) 「ユダヤ人が清めに用いる石の水がめ」は旧約のシンボルです。1メトレテスは約39リットルですから、100リットル前後入る大きな水がめが6個もあったことになります(ちなみに、今回の写真はカナの町の教会に置かれていた水がめです)。これがぶどう酒に変えられたのは、旧約の時代が終わり、新しい救いの時代が始まったことを表します。
9節で突然、花婿が登場します。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました」(10節)。後になって出てくる「良いぶどう酒」とは新約時代の救いを表しているのです。だとすればこの花婿の姿は神あるいはイエスを暗示しているとも言えるでしょう。
「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた」(11節)。ヨハネ福音書はこの出来事の中にイエスによってもたらされる救い全体が表されていると考えて、こう結んでいるようです。
(5) ここに伝えられているマリアの姿は、イエスの母である一(いち)女性という以上に、人々の代表としての姿だと言えるかもしれません。救いを待ち望んでいた旧約時代のすべての人を代表して「救いがありません」と言い、救いを受けた新約の民(教会)の代表として「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言っているようにも聞こえます。
とにかくこのようにして、マリアはさりげなく、イエスのなさることに協力しています。
「召し使い」はギリシア語で「ディアコノスdiakonos」です。今のカトリック教会では「助祭」と訳されていますが、聖書では「仕える者、奉仕者」と訳される言葉です。彼らもイエスの言葉に従い、そのなさることに協力しました。マリアとこの召し使いたちの姿にわたしたちの見習うべきものがあると言えるのではないでしょうか。
2007年01月07日
主の公現 (2007/1/7 マタイ2・1-12)
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福音のヒント
(1) 「占星術の学者」について、キリスト教の伝統の中では「3人の博士」や「3人の王」のイメージが強くあります(3人という数は聖書には書かれていません。贈り物の数からいつの間にか3人ということになったようです)。この「占星術の学者」と訳されたことばはギリシア語では「マゴスmagos」です。メディア(今のイラン)の一部族であり、祭司階級でもあった「マギ」に属する人、の意味です。彼らは占星術や魔術にすぐれていたと言われています。この人たちについては2つの見方があることを考慮しておくとよいでしょう。1つは、天文学を究めた当時最高の知識人という見方。もう1つには、ユダヤ人にとっては、怪しげな異教徒で、まことの神を知らない人々という見方です。もちろんどう見るかによってこの箇所全体のイメージが変わってきます。どちらが正しいか、というよりも、2つの見方の両方でそれぞれに味わってみると聖書の読み方が豊かになるのではないでしょうか。
(2) ベツレヘムはエルサレムの南7kmほどのところにある町です。マタイ福音書はイエスがベツレヘムでお生まれになったことを、旧約の預言の成就と見ています。ベツレヘムはダビデ王の出身地であり、「ダビデの子孫である理想的な王=メシア」はベツレヘムで生まれるという伝承がありました。6節で引用されているミカ書もそのひとつです。ヘブライ語原文に基づく新共同訳のミカ5・1はこうなっています。
「エフラタのベツレヘムよ/お前はユダの氏族の中でいと小さき者。
お前の中から、わたしのために/イスラエルを治める者が出る」
ミカは紀元前8世紀の南ユダ王国で活動した預言者です。ミカは当時さびれていたベツレヘムの町(いと小さき者)から救い主が誕生すると預言し、人間の思いを超えた神のすばらしい計画を見ていますが、マタイはこの町の重要性を考えて「いちばん小さいものではない」と変えているようです。
(3) ヘロデは紀元前37~前4年、パレスチナを王として支配しました。ローマ帝国からユダヤの王として認められていたヘロデですが、純粋なユダヤ人ではなくイドマヤ人の血を引いていたのでユダヤ人からは正当な王と認められませんでした。そこで「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」の知らせを聞いたときに自分の地位を脅かす存在と感じて不安になったのです。この箇所の後に、この幼子を抹殺しようとしてベツレヘム周辺の幼児を大量虐殺した話があります(マタイ2・16-17)。
「メシア=キリスト=油注がれた者」という言葉には、このように「王」のイメージがつきまといます。ただ、「イエスが王である」ということの本当の意味は、降誕物語だけでなく、その生涯全体を見つめなければ見えてきません。
(4) 学者たちが幼子を訪問したこの出来事は、イエスによってもたらされた救いが民族の壁を越えてすべての人にもたらされる、ということを示しています。この物語の中に、救いの大きな広がりを感じることができるでしょう。2000年前にユダヤやガリラヤに始まった救いの知らせは、今のわたしたちにも届けられています。どうやってわたしたちのところまでこの知らせが届いたかを考えてみたらよいかもしれません。このわたしはどうやって(だれから)この福音を受け取ったのか、そこからさかのぼっていくと2000年の歴史の中でどのようにこの福音が広がってきたかが見えてきて、そこに神の大きな救いの計画を見いだすことができるのではないでしょうか。
(5) 「拝む」という日本語はほとんど死語かもしれません。ギリシア語の「プロスキュノーproskyno」には本来「~に対してキスする」という意味があります。人間に対しても用いられることがあります(使10・25)が、原則としては神または超越的存在に対する礼拝の意味で用いられることばです。「黄金、乳香、没薬」にそれぞれシンボリックな意味を見ることもできますが、敬意を表す贈り物と考えればよいでしょう。彼らは精一杯の敬意と賛美と喜びをこの幼子に示したのです。
(6) 学者たちは「星の導き」によって救い主に出会いました。また「夢のお告げ」(12節)でヘロデ王の危険な考えを察知しました。人はいろいろな仕方で神を知り、神と出会うことができます。ふだん信仰心など持っていないようにみえる日本人が、正月には突然のように神社仏閣にお参りしたり、初日の出を拝んだりするのは、何かしら超越的なものを感じているからでしょう。それらを「間違った信仰心」ということはできません。自分たちは何かしら大きな力に守られていると感じ、そのことに感謝し、今年一年の幸いを願う、という心はすべての人の中にある共通のものだと言えるでしょう。そういう意味で、キリストを信じるわたしたちはすべての人のつながりを感じることができるでしょう。