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2007年01月07日
主の公現 (2007/1/7 マタイ2・1-12)
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教会暦と聖書の流れ |
福音のヒント
(1) 「占星術の学者」について、キリスト教の伝統の中では「3人の博士」や「3人の王」のイメージが強くあります(3人という数は聖書には書かれていません。贈り物の数からいつの間にか3人ということになったようです)。この「占星術の学者」と訳されたことばはギリシア語では「マゴスmagos」です。メディア(今のイラン)の一部族であり、祭司階級でもあった「マギ」に属する人、の意味です。彼らは占星術や魔術にすぐれていたと言われています。この人たちについては2つの見方があることを考慮しておくとよいでしょう。1つは、天文学を究めた当時最高の知識人という見方。もう1つには、ユダヤ人にとっては、怪しげな異教徒で、まことの神を知らない人々という見方です。もちろんどう見るかによってこの箇所全体のイメージが変わってきます。どちらが正しいか、というよりも、2つの見方の両方でそれぞれに味わってみると聖書の読み方が豊かになるのではないでしょうか。
(2) ベツレヘムはエルサレムの南7kmほどのところにある町です。マタイ福音書はイエスがベツレヘムでお生まれになったことを、旧約の預言の成就と見ています。ベツレヘムはダビデ王の出身地であり、「ダビデの子孫である理想的な王=メシア」はベツレヘムで生まれるという伝承がありました。6節で引用されているミカ書もそのひとつです。ヘブライ語原文に基づく新共同訳のミカ5・1はこうなっています。
「エフラタのベツレヘムよ/お前はユダの氏族の中でいと小さき者。
お前の中から、わたしのために/イスラエルを治める者が出る」
ミカは紀元前8世紀の南ユダ王国で活動した預言者です。ミカは当時さびれていたベツレヘムの町(いと小さき者)から救い主が誕生すると預言し、人間の思いを超えた神のすばらしい計画を見ていますが、マタイはこの町の重要性を考えて「いちばん小さいものではない」と変えているようです。
(3) ヘロデは紀元前37~前4年、パレスチナを王として支配しました。ローマ帝国からユダヤの王として認められていたヘロデですが、純粋なユダヤ人ではなくイドマヤ人の血を引いていたのでユダヤ人からは正当な王と認められませんでした。そこで「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」の知らせを聞いたときに自分の地位を脅かす存在と感じて不安になったのです。この箇所の後に、この幼子を抹殺しようとしてベツレヘム周辺の幼児を大量虐殺した話があります(マタイ2・16-17)。
「メシア=キリスト=油注がれた者」という言葉には、このように「王」のイメージがつきまといます。ただ、「イエスが王である」ということの本当の意味は、降誕物語だけでなく、その生涯全体を見つめなければ見えてきません。
(4) 学者たちが幼子を訪問したこの出来事は、イエスによってもたらされた救いが民族の壁を越えてすべての人にもたらされる、ということを示しています。この物語の中に、救いの大きな広がりを感じることができるでしょう。2000年前にユダヤやガリラヤに始まった救いの知らせは、今のわたしたちにも届けられています。どうやってわたしたちのところまでこの知らせが届いたかを考えてみたらよいかもしれません。このわたしはどうやって(だれから)この福音を受け取ったのか、そこからさかのぼっていくと2000年の歴史の中でどのようにこの福音が広がってきたかが見えてきて、そこに神の大きな救いの計画を見いだすことができるのではないでしょうか。
(5) 「拝む」という日本語はほとんど死語かもしれません。ギリシア語の「プロスキュノーproskyno」には本来「~に対してキスする」という意味があります。人間に対しても用いられることがあります(使10・25)が、原則としては神または超越的存在に対する礼拝の意味で用いられることばです。「黄金、乳香、没薬」にそれぞれシンボリックな意味を見ることもできますが、敬意を表す贈り物と考えればよいでしょう。彼らは精一杯の敬意と賛美と喜びをこの幼子に示したのです。
(6) 学者たちは「星の導き」によって救い主に出会いました。また「夢のお告げ」(12節)でヘロデ王の危険な考えを察知しました。人はいろいろな仕方で神を知り、神と出会うことができます。ふだん信仰心など持っていないようにみえる日本人が、正月には突然のように神社仏閣にお参りしたり、初日の出を拝んだりするのは、何かしら超越的なものを感じているからでしょう。それらを「間違った信仰心」ということはできません。自分たちは何かしら大きな力に守られていると感じ、そのことに感謝し、今年一年の幸いを願う、という心はすべての人の中にある共通のものだと言えるでしょう。そういう意味で、キリストを信じるわたしたちはすべての人のつながりを感じることができるでしょう。
投稿者 ct : 2007年01月07日 18:20
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