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2007年01月21日

年間第3主日 (2007/1/21 ルカ1・1-4、4・14-21)

教会暦と聖書の流れ

聖書本文

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 この箇所は、ルカ福音書の序文とイエスの活動開始の場面が組み合わされています。その間には、1~2章でイエスと洗礼者ヨハネの誕生・成長の物語、その後、イエスがヨルダン川で洗礼を受け、荒れ野で誘惑を受けた様子が伝えられています。今年の年間主日のミサでは、これからずっとルカ福音書を通してイエスの活動の様子を見つめていくことになります。なお、荒れ野の誘惑の話は四旬節第1主日に読まれます。

福音のヒント

  (1) 1・1-4はルカ福音書の序文と言えます。「わたしたちの間で実現した事柄」はもちろんイエスの生涯・死・復活のことです。「最初から目撃して御(み)言葉のために働いた人々」は使徒たちを指します。「多くの人々が既に手を着けています」とありますが、少なくともマルコ福音書はすでに書かれていて、ルカはその内容を知っていたと考えられます。「テオフィロ」という名の人物は知られていません。ルカ福音書は特定の人に献呈する形をとっていますが、この名前の意味は「神を愛する人」あるいは「神に愛された人」ですので、わたしたちすべてに向けて書かれている、と受け取ることもできます。

  (2) 「“霊”」はギリシア語で「プネウマpneuma」です。「プネウマ」は必ずしも神の霊=聖霊だけに使われる言葉ではないので、かつての口語訳聖書では「プネウマ」が明らかに「聖霊」を意味すると考えられる箇所は「御霊(みたま)」と訳されていました。その部分を新共同訳聖書は「“霊”」と表記しています。聖霊はこの箇所の少し前から現れています。「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」(3・21-22)。「さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた」(4・1-2)。ヨルダン川での洗礼の時から、イエスの活動のすべては、聖霊に導かれていたことが強調されています。きょうの箇所で引用されるイザヤ書の中にも「主の霊がわたしの上におられる」という言葉があります。

  (3) イエスの活動の場はガリラヤの諸会堂です。イエスの時代、ユダヤ人は安息日ごとに会堂に集まり、礼拝を行なっていました。その中心は聖書(旧約聖書)の朗読でした。巻物は今の本と違って、好きな箇所をさっと開くことはできません。イエスはたまたま開いた箇所をお読みになったことになりますが、この箇所が読まれたのは単なる偶然というよりも、むしろ、聖霊の働きによることと考えるべきでしょう。
 イエスが朗読したのはイザヤ書56~66章までの「第三イザヤ」と呼ばれる部分にあたりますが、この箇所は本来、第三イザヤと呼ばれる預言者自身の召命を語る箇所だったと考えられます。「油を注ぐ」ことはその人に、神からの特別な使命とその使命を果たすための神からの力(=聖霊)が与えられることを目に見える形で表すものでした。ここでは預言者としての使命が与えられることが表されていたのでしょう。しかし一方、「油を注がれる」は「メシア=キリスト」を意味する言葉でもあるので、イエスの時代にはこの箇所が「来(きた)るべきメシア」についての預言と受け取られていたようです。イスラエルの人々は、いつかメシアが来ることを待ち望んでいました。しかし、イエスはこの預言が「今日、実現した」と宣言します。これこそがイエスの福音の決定的な新しさです。

  (4) 「貧しい人」は経済的に、またその他の理由で圧迫されている人のことで、後に出てくる「捕らわれている人」「目の見えない人」「圧迫されている人」すべてを含む言葉です。「福音」は「よい知らせ」ですが、一言で言えば、「神によるこの圧迫からの解放」だと言ったらよいでしょう。ここには「解放」「自由にし」という言葉が出てきますが、どちらも「アフェシスaphesis」というギリシア語です。「アフェシス」は、「ゆるし」という意味でも使われる言葉です(ルカ24・47)。人間を縛っているあらゆるものからの解放、その根っこにある罪からの解放、これこそがイエスの使命であり、福音だと言えるでしょう。なお、新共同訳の旧約ではこの箇所は次のようになっています。
 「主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。主が恵みをお与えになる年/わたしたちの神が報復される日を告知して…」(イザヤ61・1-2)
 ルカの引用は、途中にイザヤ58・6の言葉を挿入するなど、いくつかの点で異なっています。「主が恵みをお与えになる年」は元来、50年ごとに「全住民に解放の宣言」(レビ記25・10)がなされるヨベルの年のことですが、「われわれの神が報復される日」という言葉は省かれています。これはイエスの使命に合わせるためにあえて省かれているのでしょう。

  (5) 21節の「今日」はルカ福音書の中で特別に「救いが今、実現している」ということを強調する言葉のようです。ザアカイの家での言葉「今日、救いがこの家を訪れた」(ルカ19・9)、一緒に十字架にかけられた犯罪人への言葉「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(23・43)のような箇所にも見られます。
 「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」とイエスは宣言されました。それは今、この言葉を耳にするわたしたちにとっても「今日」のことであるはずです。わたしたちはそのような言葉として聖書の言葉を聞いているでしょうか。

投稿者 ct : 2007年01月21日 16:14

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