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2007年01月14日

年間第2主日 (2007/1/14 ヨハネ2・1-11)

教会暦と聖書の流れ

聖書本文

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 年間第2主日のミサの福音はヨハネ福音書が伝えるイエスの活動の最初の場面です。年間主日の福音は主にマタイ(A年)、マルコ(B年)、ルカ(C年)を用いてイエスの活動の跡を追っていきますが、その最初に当たる第2主日にヨハネ1~2章が組み込まれています。なお、A年にはヨハネ1・29-34、B年にはヨハネ1・35-42が読まれています。

福音のヒント

  (1) ヨハネ1・19~2・11を見ると、かなり詳しく日付を追っていることに気づきます。1・29、35、43に「その翌日」という言葉があり、きょうの箇所に「三日目に」とありますので、全部で6日間の出来事ということになります(2・12以下にはこのような日付を追う表現はありません)。6日間は創世記1章で神が天地万物をお造りになった日数です。ヨハネはこの6日間の出来事を新しい創造とも呼ぶべき神のみわざがここに始まるという思いで伝えようとしているのかもしれません。その頂点がきょうの出来事ということになります。
 宴会の途中でぶどう酒がなくなるというのは大ピンチです。イエスが水をぶどう酒に変えてそのピンチを切り抜けたという話ですが、ヨハネ福音書はこの出来事を、新しい救いの時代の始まりを象徴的に表す出来事として見ているのです。婚礼のイメージは「神と人とが一つに結ばれる救いのイメージ」でもあります。

  (2) イエスの母はもちろんマリアですが、ヨハネ福音書では「イエスの母」と呼ばれるだけです。この母は十字架の場面でも登場します(19・25-27)。3節の「ぶどう酒がなくなりました」は直訳では「(彼らは)ぶどう酒を持っていません」ですが、これは非人称の表現で、単に「ぶどう酒がありません」という意味です。ぶどう酒を救いのシンボルと考えれば「救いがありません」とイエスに訴えているとも言えるでしょう。
 これに対するイエスの言葉、「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです」は、冷たく聞こえる言葉でしょう。「婦人」という言葉は、現代日本ではほとんど使われない言葉ですから、現代的には「女性よ」と訳すべきでしょうか。いずれにせよ、普通は自分の母に向かって言う言葉ではありません。「わたしとどんなかかわりがあるのです」は直訳では「わたしとあなた(の間)に何があるのか?」です。確かに拒絶の言葉のように聞こえます。しかし結局、イエスはこのマリアの叫びに答えて行動することになります。とはいえ、この言葉には、マリアの願いとは関係なく、イエスがこれからすることの主導権を持っていることを強調する意味があるようです。

  (3) さらにここには「わたしの時はまだ来ていません」という言葉が続いています。ヨハネ福音書の中で「わたしの時=イエスの時」とは十字架の時です(ヨハネ12・23、27、13・1、17・1など)。それは受難の時ですが、同時にイエスが父のもとに行く栄光の時でもあります。ヨハネ福音書ではマリアはこの箇所と19章の十字架の場面だけに登場します。
 「イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、『婦人よ、御覧なさい。あなたの子です』と言われた。それから弟子に言われた。『見なさい。あなたの母です。』そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った」(19・26-27)
 「自分の家に引き取った」という箇所は「自分のものとして受け入れた」とも訳せます。ここでマリアに弟子たちの母としての使命が与えられることになります。2章4節のイエスの言葉は、母マリアを十字架の場面に招く言葉だと言うこともできるのでしょう。
 なお、5節でマリアは「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言います。マリアはイエスが何かしてくれるという希望を持ち続けます。これはイエスに対する深い信頼を表す言葉です。

  (4) 「ユダヤ人が清めに用いる石の水がめ」は旧約のシンボルです。1メトレテスは約39リットルですから、100リットル前後入る大きな水がめが6個もあったことになります(ちなみに、今回の写真はカナの町の教会に置かれていた水がめです)。これがぶどう酒に変えられたのは、旧約の時代が終わり、新しい救いの時代が始まったことを表します。
 9節で突然、花婿が登場します。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました」(10節)。後になって出てくる「良いぶどう酒」とは新約時代の救いを表しているのです。だとすればこの花婿の姿は神あるいはイエスを暗示しているとも言えるでしょう。
 「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた」(11節)。ヨハネ福音書はこの出来事の中にイエスによってもたらされる救い全体が表されていると考えて、こう結んでいるようです。

  (5) ここに伝えられているマリアの姿は、イエスの母である一(いち)女性という以上に、人々の代表としての姿だと言えるかもしれません。救いを待ち望んでいた旧約時代のすべての人を代表して「救いがありません」と言い、救いを受けた新約の民(教会)の代表として「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言っているようにも聞こえます。
 とにかくこのようにして、マリアはさりげなく、イエスのなさることに協力しています。
 「召し使い」はギリシア語で「ディアコノスdiakonos」です。今のカトリック教会では「助祭」と訳されていますが、聖書では「仕える者、奉仕者」と訳される言葉です。彼らもイエスの言葉に従い、そのなさることに協力しました。マリアとこの召し使いたちの姿にわたしたちの見習うべきものがあると言えるのではないでしょうか。

投稿者 ct : 2007年01月14日 16:17

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