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2006年12月03日

待降節第1主日 (2006/12/3 ルカ21・25-28、34-36)

教会暦と聖書の流れ

聖書本文

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 イエスがエルサレムの東にあるオリーブ山から、神殿を見ながら弟子たちに語った長い説教の中の言葉です。場面としては、先々週のB年年間第33主日に読まれたマルコ13章と同じです。年間の終わりの「終末」というテーマは待降節の初めに引き継がれています。待降節はラテン語では「アドヴェントゥスAdventus」(英語では「Advent」)で「到来」を意味しますが、この到来には2重の意味があります。 「待降節は二重の特質をもつ。それは、まず、神の子の第一の来臨を追憶する降誕の祭典のための準備期間であり、また同時に、その追憶を通して、終末におけるキリストの第二の来臨の待望へと心を向ける期間でもある。この二つの理由から、待降節は愛と喜びに包まれた待望の時であることが明らかになってくる。」(『典礼暦年に関する一般原則』39)

福音のヒント

   (1) 「太陽と月と星に徴(しるし)が現れる」というような天体の異変は、イザヤ13・10、エゼキエル32・7、ヨエル2・10などにも見られます。これは、人間の罪に対する神の裁きの到来を表す表現です。世の終わりは確かに一面では破滅のメッセージなのです。現代のわたしたちが思い描く世界の終わりも世界全面核戦争であったり、地球環境の悪化による人類の滅亡であったりして、これも破滅そのものであり、ここには何の救いも感じられないかもしれません。しかし、聖書の終わりについてのメッセージは同時に救いの完成のメッセージでもあるのです。なぜなら、その時が神との出会いの時でもあるからです。
 「終末=世界の終わり」と言われてもピンとこないとしたら、「個人の終わり=死」について考えてみると良いでしょう。いつか「その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる」(34節)という面では同じなのです。それは時間と空間の中にある肉体的生命の終わりの時ですが、同時に時間の流れを越えた「永遠」との出会いの時でもあります。そして、そこに向かって、今をどう生きるかがわたしたちに問われるのです。
 この永遠との出会いの中で「神の愛がすべてにおいてすべてとなる」ということがわたしたちキリスト者の希望です。そこには「神の愛に反する一切のものが滅びる」という面があることも否定できません。しかし、聖書の「終わり」についてのメッセージは、人々の恐怖心をあおり立てるためにあるのではありません。むしろ「神の愛に信頼し、その愛を生きるように」と人々を励ますためのメッセージなのです。きょうの箇所もそのように受け取ったらよいでしょう。

  (2) 28節の「解放」と訳された言葉は、ギリシア語の「アポリュトローシスapolytrosis」です。これは本来、「身代金を払って奴隷を解放すること」を意味する言葉です。「あがない」と訳すこともできますが、ここでは、完全な救いの実現を表す言葉として受け取ればよいでしょう。わたしたちにとって、いったい何からの解放でしょうか。逆に言えば、わたしたちは今、何に縛られているのでしょうか
 25-26節から考えれば、それは「この世界の混乱に対する不安」だと言ったらよいかもしれません。この世界の悪の現実、戦争や犯罪や暴力という現実、それらを見れば見るほど悲観的になり、どこにも救いがないと感じるかもしれません。しかし、神はこの現実の中でもわたしたちを救いと解放に導いてくださっているとイエスは約束されるのです。
 あるいは、わたしたちを縛っているものは「放縦(ほうじゅう)や深酒(ふかざけ)や生活の煩(わずら)い」(34節)だとも言えるでしょうか。財産や快適な生活に固執して、本当に大切な生き方を見失っているのもわたしたちの現実の一面でしょう。そこからの「解放」と考えても良いのかもしれません。

  (3) 「いつも目を覚まして祈りなさい」の「目を覚ましている」ということはどういうことでしょうか。マルコ、マタイ、ルカの各福音書ではそれぞれにニュアンスが違うようです。
 マルコ13章では、目に見えるものではなく、目に見えないが確かなもの、すなわち決して滅びることのないイエスの言葉に信頼を置くように、という勧告だと言ったらよいでしょう(B年年間第33主日の「福音のヒント」参照)。
 マタイ24-25章で、「目をさましていなさい」という命令は、最終的に「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25・40)というイエスの宣言につながっていきます。「目を覚ましている」ということは、現実の生活の中で目の前の苦しんでいる人を大切にして生きることなのです(A年待降節第1主日の「福音のヒント」参照)。

  (4) ルカは、目を覚ましていることを祈ることと結びつけます。「目を覚ましていること=祈ること」だと言っても良さそうです。この「祈り」は「心が鈍くならないように」(34節)するためであり、「起ころうとしているこれらすべてのことから逃れ」るためであり、さらに「人の子の前に立つことができるように」(36節)なるためのものです。
 「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くなる」というのはおそらく誰の中にもあることでしょう。目先の快楽や自分の生活の安定、損得勘定にはとても敏感なのがわたしたちの日常だと言えるかもしれません。しかし、それよりももっと大切なことに心を向けさせるのが「祈り」なのです。
「起ころうとしているこれらすべてのこと」、すなわち、現実の悲惨さや絶望的な状況、迫り来る「終わり」を突き抜けて、神に心を向けることが「祈り」です。
 27節にもある「人の子」は栄光のうちに再び来られるキリストのことですが、キリストが愛によってすべてを完成させる時に向けてふさわしく生きるようにさせてくれるのも「祈り」なのです。パウロは「そのときには、顔と顔を合わせて見る」(Ⅰコリント13・12)と言います。このキリストとの決定的な出会いを意識し、「来られるキリスト」に目を向けていることが「祈り」だと言ったらよいのではないでしょうか。

投稿者 ct : 2006年12月03日 17:11

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